満たされることの憂鬱は常となり、地を這うような感情が長く続いている。
しかし、表面上は満たされているといって過言ではないのだ。現に保障された最低限の生活に不便はない。
仮にそれが自分のためにむけられたものではなく世間体を保つためのものだとしても、それすら得ることのできない人間がどこかにはいるのが事実だ。
全くもって馬鹿馬鹿しいものである。見ず知らずの、貧困という恵まれない存在をうっすらと知っているだけで、個を示さず己は幸福であると言い聞かせているのだ。
 キーケースと財布、携帯電話を羽織ったスプリングコートのポケットに突っ込み、通学用ではない私用のために用意したローファーに足を通す。
生活の必要最低限と十分な学習のための環境に困らないものたちで構成された温かみのない部屋を一度だけ振り返り、玄関ボードに置いた合成皮革の手袋を二組ぶん掴むと重い玄関のドアを開けた。
 吹き込む穏やかな風に前髪を揺られ、一歩を踏み出すと部屋の中で想像したよりもずっと暖かい気温に包まれる。
どこからか運ばれてきた若い葉のわずかに青くさいようなにおいが鼻腔に触れ、新学期が始まった四月中旬までと比べて木の芽もずっと膨らんでいることが感じられた。数日としないうちに初夏としたほうがよほど適切な日々がやってくる。
 認識の限り日増しに濃くなる緑の季節を事実だけ無感情に受け止め、鍵穴から鍵を引き抜く。
最後にドアノブを引き、鍵かかかっていることを確認するとアパートの狭い廊下を歩む。
素手を覆って隠すように手袋を身につけ、手首側の生地を引っ張ると手のかたちによく這わせて拳を握り合わせた。
 各階が三部屋ずつしかないこぢんまりとしたアパートは経年劣化が否めないものの、丁寧に掃除がされ、つい先日に交換されたばかりの消火器が傷も汚れもないピカピカの塗装でめいめいから与えられる光の色を反射をしていた。
それとは反対に清掃がなされてもどこか寂れたコンクリートの通路を他の住人である誰とすれ違うこともなく、簡素な階段をおりていく。
自転車置き場や小さな物置のある砂利敷きの駐車場を抜ける。小石の隙間からか細い雑草が次々と芽を出し、しまいには舗装のひび割れすら打ち破って緑は広がっていく。もはや春の名物の一つに数えられてしまいそうな光景が広がっていた。
 その隅でアパートを経営する大家の家族が雑草抜きに勤しんでいた。いかにも農業をするかのような日除け布がついたツバ広の帽子すがたに丈のあるガーデングローブを見につけ、髪を一つにまとめた中肉中背の婦人がハンカチで化粧のうえにうっすらと滲む汗を拭いながら振り返った。
「あら? お出かけかしら。気をつけてねえ」
無視をするわけにもいかず、足を止めたうえでポケットから手を出し会釈をする。
すると「ウフフ」と絵に描いたような声音で微笑ましいと言わんばかりの満足をした婦人はだまって祐の後ろを見送った。
 アパートの門を兼ねる植え込み花壇の前では花々の甘い香りに誘われた散歩中と思われる犬がそこらじゅうに興味をそそられては鼻を鳴らしながらリードを引っ張っていた。リードの先である持ち手の膨らみを手首に通した飼い主は蛇行して歩く愛犬にお構いなしと携帯の画面を見つめている。
進行方向に対して邪魔だと思いつつも祐は声をあげることもなく、進路を大きく膨らみ犬と飼い主を避けていく。
眠たくなるほどに、退屈になるほどに平々凡々の休日だ、と、祐は漫然とした感想を抱くばかりだった。
 活気付いている商店街を除けば寂れた一面もある道中であるが、休日とだけあって時たまに外食の話をする子供連れやぼうっと歩く青年、散歩や買い物へ向かう老夫婦、犬を連れた主婦など各々の生活を営む面々とすれ違う。
細い道から大きい通りに出ると自動車の往来がとくに目に入るようになり、より多くの人間が己らの目的地へ向かう姿があった。
例に漏れることなく、祐もまた同じように己の目的地へ進むために大通りを道なりに往く。
そして丁字路を経てふと無意識に避けていた三丁目の”例の十字路”に差し掛かるのだ。
 知覚し得ぬ未知との邂逅後、最初こそいやな気がしていたものの度重なる非現実を体感した今となっては大して気にすることもなくなっていた。
改めて慣れることの危険性を認識するべきであるとは感ずるものの、ぽつぽつと綿雲の浮かぶ空は本日も水をたっぷりと含んだ絵筆で薄く伸ばしたような青が広がっており、平和そのものである。今のところ警戒をするべきである目立った出来事や噂も聞かない。
日常に渇きを知ることに薄々の覚えがありながらも、平穏というもののありがたみがわからないわけではないのだ。
ゆえに、たったそれだけでひどく穏やかな一日を過ごせるのではないかと錯覚して気持ちに清涼さが芽生える。
我ながらに警戒心が薄れていると感じると同時にその半分は自衛のしようもないことがある、と、理解してきたともいえるのだと祐は考えていた。
 つまり、結局のところ、大きな通りから町の方々へ向かうのはこの主線道路を行くのが最も早道であり、突き詰めれば蝕を前に怯えて行動を控えようと相手にとって、場所や時やタイミングなどというものは全くもって関係のない道理であることに変わりはないのである。
できることがあるとすれば、精々のところそれらの暗がりを直視しないことだ。
止まりかけてのろくなっていた足を意識的に動かして先の十字路に入る。
道路を挟み、横断歩道の向こう側に女子生徒が逆さ吊りにされていた電柱の中腹辺りに自然と目が入るが、すぐに目を逸らす。
 知覚こそがもっともそれを認識する行為である。
意思とは裏腹に植え付けられた恐怖を思い出すと、からに近いと鳴いていた胃から液だけがせりあがって酸っぱいものを唾液混じりに感じそうだ。それすらもが錯覚と現実の境を曖昧にしている。
 視線を自身の目の高さに戻すと電柱の下には見慣れた姿が映った。
それは深い緑色のブレザーに明るい髪の、まさに春の日が最もたかい時分の陽気を常にまとったような男の後ろ姿だ。それを認めると祐は左足で後退る。
休日まで相手をさせられるのはごめんだ。
そう考えながら迂回するべく傍のブロック塀に身を隠そうとしたその時に、聞き慣れた声が高らかに祐の名を呼んだ。
「結崎くん?」
 予想外の方向から飛んできた声音に肩を跳ねさせた祐が勢いよく振り返ると、同じく驚き肩を吊りあげたように縮こまらせた暦と顔を突き合わせる。
見慣れた制服姿とは異なり、シンプルなTシャツに薄い色のジーンズ姿だ。たまに聞く有名なアウトドアメーカーのロゴが大々的にデザインとしてあしらわれたカーキ色のマウンテンパーカーを羽織っている。履き物のスニーカーは普段使いに場面を選ばない極めてシンプルな白色ラインの引かれた黒いものである。手首からは小さなビニール袋がぶら下がっていた。
制服ではない。
唐突な暦の登場に驚きながらも、彼の出で立ちから伊三路と共に行動そうしているのか、それとも偶然に出会っただけなのかという経緯を想像した。
そんな偶然があってたまるかとも脳裏をかすめはしたものの、少なくとも彼との一言、二言が茅間伊三路という存在に直結するわけではないと中間の答えをすぐに選び取る。
 短い逡巡の間に、対して暦は自らが声をかけた側であるにもかかわらず「ピャ!」と、小鳥が鳴く声に近い悲鳴をあげては後方へ飛び跳ねた。
今に転がっていきそうな暦の腕を掴んだ祐は己のそばに引っ張って立たせてやる。その悲鳴をすこし離れた場所で屈みこむ伊三路に知られぬようブロック塀の影へ暦を引きつれた。
「……悪い、驚かせたか」
 両の足がしっかりと地についていることを確認し、ぱっと腕を解放する。
暦は笑う膝を手のひらで支え、今に全速力で走ってきたかのように息継ぎに必死になって背を丸めていた。
「や、や、大丈夫! 大丈夫、君がそんなに驚くと思わなくて。ああ、わは、びっくりしたあ」
そして驚きに跳ね、太鼓の音の如く体内へ打ち鳴らす心拍を宥めるように胸をおさえてから前屈みをつづけ、息を整えた。かと思うと今度はワハワハと堰を切ったように笑い出すのだ。
同じく驚きをしていたまま、毛を逆立てた猫のように目を丸くしつつ警戒をする祐を親しみの目で暦は見つめる。
「ふふ、結崎くん、やっぱり結崎くんだ。伊三路くんがこのあたりが結崎くんの通学路だからもしかしたらばったり会うかもね、なあんて話してたんだけどさ、まさか本当に会えるなんて! すごいご縁だなあ。あの、この前も色々あったんでしょ。それから調子、どう?」
 笑いに滲んだ涙を拭いつつ、後半は踏み込んでよい話題であるか悩みつつ言葉尻を不安そうに揺らした。
「工作への協力は感謝するが、極めて個人的であると判断することは説明する理由も義理もない」
「う、うーん? そっかあ。僕にできることがあれば、とは思ってるけど、過剰なのもよくないのかな。でもよかった。前は本当によくなさそうだったから、安心したよ」
「日野春が人の好い人間なのは理解している。ただ、それをありがたいと判断するのはお前ではないだけだ。俺は受け取りたくない」
 先の返答を返答として意味を掴みあぐねていた暦であったが、二つ目の言葉を聞いて察しを得る。
突き放しているのではなく、あくまで放っておいてほしいのだ。
極めて不必要であるとしながら、それはあくまで相手の態度が悪いわけではないと言っているのである。
なるほど彼はまるで彼を理解しているように見せる茅間伊三路という人間の言う通り、ある意味では"優しいこ"なのかもしれない、と、暦はぼんやりと思いながらも、自らの本心から祐が欲しがりはしないであろう言葉を返す。
「でも、結崎くんにだけよそよそしいほうが逆に目立ちそうだけど……?」
 手首に提げたビニール袋をカサつかせながら暦は祐の横に立つ。
慎重に頭の半個ぶんの身長差を見上げ、普段通りの下がり眉でへらりと笑ってみせるのだ。すると呼応して祐の眉間にみるみると深い皺が刻まれた。
 伊三路に似た強引なほどの間合いの片鱗を見せられた祐は段々と諦めを覚え、とうとう暦の口からその名前が出てはため息をこぼすほかなかった。
町は極端に狭いわけではない。市町村合併の影響で本来の土地よりも幾分か広くなっているとはいえども、学生にとっても賑やかな場所となれば幾つかに限られる。
その考えゆえに、あってたまるかという偶然があり得るとしてもおかしくないと思っていたが、仮にその偶然があっても、祐とかちあうよりもはやく暦は伊三路と出会った。それだけの話が無慈悲にも名を挙げる一言で証明されてしまったのだ。
昼食のことを思考の彼方へ追いやり、空腹のピークが萎んで曲線をくだっていく。
「それで、よかったらこのあと――」
「ああ、休日まで付き合う気はない。茅間には俺と会ったことは言うなよ」
「あ、え、えと、ごめん。それはちょっと、もう無理そう。うう、ホントごめん」
 呻きや唸り声を交えてどもる口調とともに暦の視線は祐の肩を透かしてより奥まった場所へと向けられた。
だからこそ早く会話を切り上げるべきだった。
そう思う間もなく、向こう側の横断歩道の信号が切り替わって青になる。
 特徴的な鳥の鳴き声を模した青信号の合図は雨ざらしによる環境で劣化したスピーカーから半音下がった奇妙な音で響く。
暦の声や視線が背後を見つめる様を見れば振り返らずとも理解できる。祐がわざわざ探りをいれずとも背後の人物が誰かを言い当てるのは至極簡単なことであった。
茅間伊三路である。
手首にビニール袋を掛けた指先が祐に対して目を逸らすなとでもいうかのように背後を示す。
肩を強張らせ、呆れたように、もしくはすっかり諦めたように瞼を閉じる。そしてゆっくりと目を開いてからその方向を確認すると、呼ばれてもいないというのに呼びつけられた犬のような顔をした想像通りの人間がいた。
もし、彼に長く柔らかい被毛を持つ尾があるのならば、それを千切れんばかりの勢いで振っていただろう。
こんなにも目を輝かせ、いまに飛びついてきそうないきものをどうして自分と同じ人間と思えるだろうか。と、祐は言いたくなる。人懐こすぎるのだ。
 彼にもうっそうと冷たい猜疑心や血生臭く恐ろしい一面があることを知っているというのに、いまこの瞬間、目の前の茅間伊三路は愚かしいほどに人懐こく、底抜けに元気である姿そのもの以外になにもないかのような顔をしていた。
誰にとっての幸か不幸だったのか、今しがたに青に変わって進行可能になった側ではない信号の先に伊三路はいたのである。己が道を阻む横断歩道は警戒色で"とまれ"を意味しており、前のめりになって『まて』を指示されたような伊三路は待っていた。
同じくして身につけて手にしたビニール袋へ、足元に落ちていたごみを拾って入れる。よく見れば手には軍手をしていた。
「あれは一体なにをしている様子なんだ」
 横断歩道の向こう側を目を細めて見つめまま、祐は目尻へ瞳をやって暦に問いかけた。
そして同じく伊三路を見つめていた暦は愛想笑いにしては苦々しくてたまらないぎこちなさで笑い返す。
「ごみひろいだって」
「……あいつが犬だとはいわないが、動物に例えたらそのようなものだろう」
「拾い食いって言いたいんでしょ? ちょっとわかるよ。まさか食べてないし、慈善活動なんだけどね。なんか既視感というか」
遠くを見るような、祐の視線が下がっていくことに気付いた暦は慌てて否定をする。
手のひらを突き出しては否定の意をありありと示して左右に振るのだ。その度に祐が訝しんだビニール袋がガサガサと揺れる。
「僕もさっき会っただけで、これはちょっとしたののみものとポケット菓子だよ。コンビニで用事あったついでに!」
ついぞ買ったものをわざわざ見せつけてくる暦の勢いに押し負けそうになっていると、今度は後ろから「おうい」と呼びかける声がする。
 完全に家を出る時間を誤ったし、例え無害そうな日野春暦であるとしても見かければ避けるが吉だ。と、祐は己に強く言い聞かせる。
基本的に人畜無害であり、誰にでも親切であろうとする暦を無碍にするのは気が引けるようにも思うが、彼には彼で弥彦伸司というやたらと突っかかってくる厄介もあるのだ。そして茅間伊三路がくっついていれば、何を説明する必要もなかった。面倒ごとだった場合は憂鬱に巻き込まれることの分岐が確定したようなものだ。
 かくして学びを得たところで今日という日が分岐した可能性を見逃がしてくれるわけでもなく、祐は覚悟を決めて両脇から聞こえる声に向き合うことにしたのである。
歩行者信号がぱっと青に変わり、走り出したい衝動を抑えた伊三路が大きく手を振りながら軽い足取りで向かってくるといよいよ次の言葉に祐は身を固くした。
「やあ、やあ。こんにちは、祐! 偶然だね。きぶんてんかん? お散歩かな。いいね、今日みたいな日は」
「たったいま平日のような気分になったところだがな」
「そうなんだ? 気が早いんでないの? 月曜日に購買にならぶやつが楽しみになっちゃったの」
全く頭の痛くなるような会話にチクリとした嫌味を返したつもりが、あまりに楽しげにじゃれついてくる姿を見ると申し訳なくなる。
身体を揺らしながら笑顔を向ける姿は息をつく間もなく続けるのだ。
「おれはねえ、ごみひろい!」
 祐の怪しむような視線を跳ね返す勢いで説明をする。先ほども同じ説明をさせられた甲斐があるらしい伊三路は暦の顔をしっかりと見つめてから得意げに祐へ話して聞かせようとしたのだ。
手振りまで付け、最後に軍手を脱ぐと汚れた面を内側に折り込んでひとまとめにし、制服の尻ポケットに突っ込む。
乱雑なしまいかたで飛び出た指先の部分が枝分かれのした"ふさ"のようになってまるで尻尾のように揺れる。
「ここ立て続けに起こった"あれら"を怪異だとおもしろがる内外の人間が野次馬きぶんであそびに来て、ごみをすてていく。だから美化活動をしていたんだ」
 渡らぬまま横断歩道の前に集まっているわけにもいかず、他の歩行者や車の邪魔にならないように小道に逸れることを促してから伊三路はいっそう声を潜めた。
軍手のおかげで指先の一本よごれない人差しゆびが力の弛んだ様子で唇の前にかかげられる。
「表向きは怪談話に引き寄せられた生徒がいたずらに校内へ侵入しては混乱が伝播した集団心理。と、いうのが蜘蛛女の顛末でしょ。そのまえは"たんどくのぶっそんじこ"でひしゃげてたものたちをやっつけた自動車を追跡中。女子生徒の逆さ吊りは生徒たちの心のきずを癒すことを優先に極秘進行と推測される。毎回のことそんな感じだと便利だけどね。そうじゃない事例はきちんと後始末まで面倒を見なくてはいけいない。場の状況も、残滓の有無も」
 尻目で周囲を窺う目元がギュッと細くなると、祐は隣に立つ暦が緊張で唾を飲むのを空気越しに肌で感じた。
伊三路といえば目元だけは警戒を寄せていたが、あっけらかんとしておどけると嫌味一つなく暦の緊張や不安や、後ろめたさを吹き飛ばした。
「きみたちにもやりなさいというはなしじゃあないよ。ここらへんはみんながきれい好きだから、おれはいつも散歩をしているようなものなんだ。それにすべて元々はきみたちが知るはずもないようにしているのだから、知っているほうがおれは怖い……と、いうのが今の状況なのだけれどもさ」
今に『どう思う?』と聞き返してきそうな言葉である。
 祐はその言葉にごく納得をして先に進む。その言葉は嘘ではないことを感じるが、それが真な事実であるならば今日という今日は厄介ごとではないはずなのだ。
そしていくら茅間伊三路であれども、用のない人間を引き留めはしないということは学校で関わらざるを得ない登校日によく見かけていることである。
社交辞令や挨拶に留まるような気にも記憶にも留まらない言葉をいくつか交わす。
それは向こうから投げかけられたことにも含まれたし、自ら問いただすこともあった。
然して急を要すことはなかったし、だからといって強引すぎるほど突き放す理由にもならないが故に言葉の浪費がしばし行き交ったのだ。
三人という空間で発言する頃合いを見計らう暦がそわそわと風に揺られる綿毛のように肩をもぞつかせている。
ここではっきりとした物言いをする二人に食らいついていく勇気が出せないままに、伊三路は暦や祐に次の登校日までの別れを語り始める。
 誰から話し出すことなくばらけた始めた三人に振り返ったのは、誰よりも早くお開きの流れに言葉を持ち込んだはずの伊三路だった。
「あ、そうだ。祐、道中で商店街の八百屋がこれから売り出しをするって言っていたから、かいものならば今すぐ行くかすこし時間をずらしたほうがいいかもしれないよ」
「……そちらに行くつもりはないが、善意は受け取る」
買い物とはひとことも発することなかった祐は、唐突な助言をただの親切か深読みの意であるのかと訝しみを覚えて眉を顰める。
 そのとき、会話にうまく入り込めなかった暦は今しかない、と反射的に考えたのだ。
こぶしを強く握り込んで、大きく息を吸う。
「あ、あのさ!」
二人ぶんの目が暦に移った。
声を出したはいいものの、そのわかっていたはずの注目に肩を大げさなほど強張らせ、ビクつかせたのである。
しかし、先にゆく言葉は彼自身が想像したよりも、そして伊三路や祐が想像したよりもとしても毅然としていたのだ。
「僕は知り合いの家へいく途中だったんだけど、せっかく会ったんだし、この後よかったら、一緒にこない?」
 芯が通った声が伊三路と祐の間をすうっと通り過ぎる。
最後にダメ押しとばかりに付け足しをする声は意図に反してやや勢いを衰えさせ、差し引きで俯瞰すると彼の様子は結局のところ、伊三路の目にも祐の目にも極めて普段と変わらないとして妥当に写った。
「都合もあるだろうけど、なにより、い、いやじゃなかったら……だけど」
「うん、知り合いの家に? 暦の言葉のかぎりではおれや祐も共通して知っている人だとは思えないのだけれども、どうして? おれは嬉しくとも、相手が気まずいんでない」
祐も覚えた疑問をより先回った伊三路が首を捻り問いかける。顔を中心に寄せて訝しむ不快があるとするよりは単純な疑問が会話の球を打ち返すがごとく、すとん、と、返った様子だ。
うまく説明をしようとする暦がもどかしさを形容しようとすることに連動して危なっかしく空を滑る手振りをする。
どこから言うべきか、用意をしていたはずの言葉が指先を抜けて次々に予定が狂う。
暦は意味もなく緊張をしがちな己を恨みつつ、自身が好むボードゲームで次の手を想像していく際の自身を思い出しながらこの状態から先々の言葉とその返答を組み直し話を進める。
「知り合いが旧家の周辺を観光財源に提供するらしくてさ、お掃除するんだって。だから人手があるとたすかるし、結構に古いところだから宝探しにおいでって言われてて。好きなもの持って帰っていいし友達を呼んでもいいってまで言ってくれているんだけど、伸司くんはバイトだからいまのところ僕ひとりなんだよね」
「へえ! なるほど楽しそうだ。どのような感じなんだろう」
「僕も詳しくないんだけど、数年前に少し整理したときの助っ人は書物をいくつか欲しがったらしいよ。家系の根幹が含まれていたからさすがに貸し出しってかたちで預けたらしいけど、届出証も揃っていれば刀でも弓でも甲冑でもお土産にしていいってくらい気前のいいひとだね。たぶんだけど、嘘はいってない」
 顎を撫でさすり思考をしていた伊三路であるが、暦の説明の具体的な部分に興味がわいてくるとピカリと目を光らせた。
まるで金属の曲面にすべり落ちて溜まった反射のように、めざとく企みめいたひらめきをしたのだ。
反して祐は、金持ちの道楽のような言葉と寛容さに呆れにも近い関心を覚えつつも伊三路のことを盗み見る。そしてすぐに碌でもないことになりそうな気配を知るのだ。
「ふうん。おれの知りたいことに有利なものもあるかもしれないね。おれは蝕に関する記録やその他に関連するものがあれば儲けものだなって思うけれども……祐、きみはどう考える?」
「暗にいわずとも事を知りたければついて来いと言えばどうだ、茅間? 時間を無駄にするつもりはないが、お前のせいでこちらは情報不足だ。必要があれば同行も仕方あるまい。好きに決断をすればいい」
 手をこまねく祐の態度が揺らがない様子であることに伊三路は唇を尖らせる。しかし、何をしようと然して変わらぬ着地点を理解すると降参だとでもいうように両手をあげ、肩の力を抜く。
炯々とした目に、幼さの残る顔に似合わぬ口はしだけの笑みをした。
そして確かは口にせずとも、研ぎ澄ました刃をわずかに翻してその反射をちらつかせるがごとく鋭さの言葉の切り口で告げる。
「うーん、遠回しなのは性に合わないや。確実にそういった書物や記録があるとは言いきれないけれど、そこまでふるいのならばまずひとつ行く価値はあるんじゃないかな。これに納得できるならば、そうだね。きみに来てほしい」
 ぬるい皮膚に鋭い刃物を押し当てられる気分だ。伊三路の言葉をぎらりとした刃物の切り口に例えるならば、確信を吐きださせるために次を押し当てられていた。
それが間違いではない感覚と知る。
「……言い直せという意味ではない」と、祐はいいかけて飲み込んだ。
 ただでさえ伊三路に気安く言葉を発せば倍になって返ってくると感じているのだ。いよいよ異形を屠る仕事人の目をしているときには精査の通る前である言葉など、到底ならべようとは思えなかった。
なによりその問答に時間を費やすことを善しとすれば、呼ばれた場所へ行くにしても行かぬとしても、辿り着く前のやりとりのうちにとっぷりと日が暮れてしまいそうなのである。
 こうして言い負かされて口を閉ざした祐であったが、伊三路はうまく察しを得て空の竹を叩くように気持ちよく笑っていた。
「今日はもう言ってしまったもの。ごめんって。次からのなし崩しでは、答えありきにきみのことも組み込んでおくよ」
「不本意だが、経過はともあれ最終的な結果の目的地は同じだ。異論はない」
 気の緩んだ様子でありながら延々と言葉を編み込むかの如くポンポンと小気味よく発せられる伊三路と、やや苛立っている祐の会話を締めて暦は手を叩いた。
それから、無意識のうちに舵取りの主導権までひとりたどり着き高々に声を上げたのである。
「ありがとう! それじゃ、決まりだね」
長らく停滞していた足がやっとひとつ定まった進行方向に揃う。




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