掠れていたボールペンの赤インクがついに描画をやめ、ボールの軌跡だけが安価なノートの紙質を掻く。
再生紙の繊維質が浮かぶ罫線敷きに凹凸だけが刻まれるのだ。光の加減でそれが際立つ紙面に引っ掻き傷のような線だけが丸を描く。
描き続けている。仮に色が消えても、記された解の正誤が理解できればいい。
しかし半ばで途切れたインクの線に煩わしさを覚えた瞬間――つまり、疲労に撓んだ糸のたるみに寄った重みでぷっつりと落ちると、祐は明確な意味を表す線の集合体たちが渦巻く思考の海から急速に引き上げられたように顔を上げた。
 頬に触れたぬるい室温に、は、とすると、なにの変哲も面白みもない部屋が広がっている。
ひんやりとした机の天板、広げられた教材。インクの乗ったノート。辞書や閉じたノートパソコン、置き時計。
俯きがちな姿勢を長らくつづけていたためか、首の後ろにのっそりとした重苦しい窮屈を覚えながら前髪をかき上げた。
そのまま椅子の背もたれに身体を預ける。
 カーテンを開いた窓から差し込む春らしい陽気が、白と黒を見続けた目にやわらかく間伸びした光をもたらしている。
疲労した眼球はかわき、春陽がもたらす暖かさを微睡みと錯覚するのだ。はりつく感覚と眠気はよく似ている。重苦しくも感じられ、腕を庇にして暗がりをつくり目を慣らす。
それからペンを持つ左手の側面にボールペンのインクが掠れた汚れがこびりついているのを見たきりだ。
 しばし放心に似た状態が続いたのちに両手の指を組むと腕を天井へ向かってググッと伸ばした。首の根本を指圧し、ほぐしてから首を回す。
温まる身体にようやっと滔々と血液が巡る感覚を思い出しながら口から長く息を吐き、置き時計に目をやる。
視界にはいった時刻は正午をとうに過ぎて一三時に近い数字を示していることに気づくと、余計におり重なって疲労と空腹の波が襲ってくるようだった。
 昼食をとり忘れている。
休日の一食を抜いたところで何が起こるわけでも困るわけでもないが、冷蔵庫に残るあり合わせが何かを作ることのできるほどでもないことを思い出す。
「……億劫だな」
 カサついた声が独りごちる。
正しい時間の流れをすっ飛ばして自覚した時の経過とその厚みに、今度は明確にため息をついた祐はさっさと勉強道具を机の端に追いやると椅子を揺らして席を立った。
洗面台で蛇口を捻り、手を洗う。
ざざ、と流るる透明に無防備なてのひらを差し出し、その冷たさに両手を擦り合わせた。
 普段は手袋をしているせいか青白いほどではないが制服から露出する一部の肌よりは不健康な素肌の手に、黒い痣が這っている。
それは今にゆうるりと悠然におよぐ姿そのものとしてかたちを変え、色素の沈着とは到底思えない色が蛇の舌のように先を尖らせた。
チロチロと舐める火はきえることなく皮膚の直下に焼きついている。
しかし痛みがないことこそが最も恐ろしいことのように、不可解のなにかが住みついているのだ。
対の右手には火傷跡の突っ張った皮膚が未だに指先の可動域を僅かに狭める。
 これらが伊三路が対峙する蝕という生き物に接触した際に燃えるようにじくじくと痛むことから、これらの正体や原因に薄々ながらいやな気を覚えている祐であるが、これがなにをしても消えることのない状態であることには知り得て随分と経つものである。
もはや火傷あととそれを取り巻く不可解には特に気にしてやる義理もないまま、手の側面で擦れたペンのインクを丁寧に落とし、水を止める。
紙製のハンドタオルで手を拭うと折りたたんだそれをゴミ箱に放り込む。
濡れたラフ紙の色が広がっている。
蛇口から、水滴が落ちる。
 水紋が静寂に帰すと、すっかり冷えた指先が過熱していた脳を際立たせていた。
それ以外にやるべきことなどないというのにひどく疲れたと訴える身体が、足が、棒のように役立たずとして立ち尽くしている。
鏡には暗い目もとの男が映り込んでいた
 



目次 次頁