「……役目というのは語らねば他者には大層にお高くも聞こえるものだが、随分と大変なんだな」
 あらかたの荷物を置き直し、黒い手袋についた埃を落としながら祐は呟いた。
世間話の体をしていたが、茅間伊三路という男の務めるべくと語ることは奇妙だ。
何にしても既に彼が納得して課せられたことにどうこうというべきことはないのだろうが、齢一六、七歳にして命を賭すことが仮に伝統だの一家相伝だのいう類で、つまり世襲で求められた務めと言い出したら末恐ろしいものである。
もちろん、彼が誤魔化すならばそれで良いと祐は考えていた。少しばかり言ったのちの後悔を覚えていたからだ。
自分も家について聞かれるのは好ましくない。
そう思いながら伊三路を尻目に見た。
「仕方ないよ。どうせ壊してしまったのは紛れもなくおれたちだもの」
「おれたちではなくて、紛うことなく俺だろう」
「うーん、まあ、実行犯はね」
 祐の言葉もけろりと躱してみせるあたり、度々に用いられる複数形は嫌味でも誤魔化しでもない。
ここで更に踏み込むか一瞬惑うが、これほどの好機がいつ訪れるかもわからないのだ。
少なくとも、彼の役目に貢献するための関係でもある。
自分自身に探りを入れられることはこれらの怪異に結びつかないが、茅間伊三路に仲間がいる場合でもいない場合でも、役目と怪異の関係が密接である伊三路へ情勢に対していくつかを聞く権利はある。そして彼が答える義務は必ずしもないだけだ。
祐は喉元まで詰まった迷いがあったものの、疑問を押し通す。
まるで型で抜かれた生地のように、日常生活とは似つかない非日常と繋がる茅間伊三路の存在が浮き彫りになって見えた。
「違う。日野春の件でも言っていた、なぜ茅間が異形や怪異のことに詳しくあって、関わる必要があるかということだ」
 厚い生地で縫製された制服が作業には煩わしくなっていた伊三路が腋のあたりでたまる生地の遊びを摘まみ、肩口のほうへ引っ張り上げている。
徐々に戦闘の疲れが出てきたのか、大方に納得のいく復元をしたと判断すると錆びまみれの脚をした椅子のうち、座面は無事である椅子に腰を掛けた。
「……このあたりは初音連山(はつのねれんざん)として脈々と伸びていく深い山々に囲まれているでしょう。元より自然や未知に対する畏れ、いずれ神性となる気を帯びる土地の多くでは地脈と呼ばれるような特性が強く出る。茅之間町はそれの発展途上に蝕が湧いたことがあって、今も穢れているほどではないけれども一種の不浄の因子を持った群生地なんだ」
ポツリ、と語る。
「発言しておいてなんだが、これはお前が話してもよいと思えることか」
想像したよりも壮大な話のような語りだしに祐は身構える。
本来語りたくないことではかろうか、と確認をとると伊三路は隙間もなくなんでもない顔で答えた。
「べつに構わないよ。これから話すことは土地と人間の話であって、それが今のおれへ間接的に及ぶことはあってもおれ自身の語りたくはないことではないから」
 わざわざ無造作を装ったがらくたの山を見つめている横顔でまつ毛が瞬いた。
長い一枚の紙に記した文字たちを紐解くように、伊三路は語る。
「初めて話したときのような、結界だのなんだのみたいな昔話の真相めいたこと。その時点で元より推定の生息数は多いと言われていたし、蝕という正体を知らぬながら度々に起こる怪異に村民は怯えていただろうね。まあ、その結界も長いこと土地を守ってくれていたのも事実なのだけれども、すこし前になくなっちゃったしさ」
 普段からゆっくりと話す口調が慎重に言葉を選ぼうとすると、余計に時間の流れが遅くなったように感じられた。
昔話を思い出しながら時に付け足しつつ語る口ぶりに近いそれを聞くために、祐もまた、姿勢を僅かに崩しては重心を片足に預けて立っていた。
寄りかかる壁から反響する音が冷たく、しっくりと耳の奥底へ落ちて行くように思えたのだ。
「でもね、やっぱりなにを話したって、結局はおれが特別であるという意味ではないよ。理由の三つのうち、一つはそのような土地には守り手が必要だからさ。誰かがそれになる必要がある。残りは皆が守り手という存在を望むから。そして最後の一つ、おれには結果的に不浄を払いのける手段が与えられ、おれ自身もそれら先に話した思想たちには賛同する部分があるからだ」
 長く息を吐く。
伊三路は横柄にも似て姿勢を崩した恰好で腰を傾け、背もたれに腕を回すと上を向く。重力に従って髪の房が垂れ下がっていた。
遠くを見ている。決してすぐそばを見て語る様子には見えなかったが、同時に照明がついていない校舎でもまるで先が眩しいかのように目を細め、顔の角度を僅かに傾ける。
それは何かを諦める顔にも似ていたために、祐はドキッとして心臓を掴まれた気になった。
冷たい手が触れたかのようだった。黄昏の逆光では暗がりになる伊三路の姿がどこか孤独の輪郭を描いているのだとして祐の目には映るのだ。
「つまり、素質の有無ではなく、環境と条件が揃ってあれば自然とそういう道の可能性にも気付くというわけ。だから、他人が見れば摩訶不思議を多く操っていても、おれの立場は本来は誰ともそう変わらない普通だよ。本当に偶然がそうなっただけなんだ。道を示されたそのときだって、理由はどうあれど最後におれは自分でこれを選んだ」
「家業ということか?」
 かぎょう。呟いた言葉に伊三路は首を捻る。
少し考えた後に、改めて否定の意味で頭を左右に振った。
「うーん、こういった集落ではみな家族のようなものだけれども、祐のいう言葉には正確ではないね。それで、おれは……最初のうちはとてもいやだった。肉の体というものは誰がもってしたって、怪我をすれば痛いものね」
 徐に腕を上げた伊三路は前髪をかき上げる動作で溢れる稲穂のような毛髪を半ば押し上げたが、撫で付ける手のひらが触れたのは頭頂部より僅かに手前の皮膚だった。
額より少し上とした方がわかりやすくもある。
そのあたりを丁寧に確かめるようにして撫で付けていた。
角度を変えて何度も触れる様から先の戦闘の最中でぶつけたのだろうな、と祐は思いつつ、この先がどんよりとした空気になることは察してもどうしても答えを得たい疑問を投げつける。
「……逃げなかったのか」
聞こえに限っては特に重たい意味を持たせず発するつもりが、普段よりも小さな声になる。
静かな校舎の中では十分に声を聞き取ることができたのだ。吐いた唾は呑めぬとして余韻が響くと心細くなる。
踏み込んだ領域が伊三路に嫌なことを思い出させないかという申し訳程度の良心と、祐自身がどうしても聞きたいことの利己的な態度がせめぎ合っているのだ。
胸の内にそれらを秘めて伊三路を窺い見ると、よく知った顔でへらへらと笑うこともなかったがまつ毛を伏せ悲しむ様子も全くなく、ぬるま湯のような表情で顔を正面に向けた。
眉は平行を描いている。目元は取り分けてひとつの表情を選ぶことはなかったが、無表情らしくもなかった。
口調にいやな棘をまとうことはなく、極めて穏やかでいたのである。
「まあ、何人も替えのいる話じゃないからね。おれにも利があったから引き受けたことでもあったしさ」
 思い出すように伊三路は遠くに目を細める。既に今は失われた眩いものを見ることに似た動きだった。
同時に無意識のうちであろうが胸元に指先を彷徨わせて触れていたことから、彼の語る"利"が母親のことであったと祐は察しを得る。
 ずっと答えを待っていた氷の瞳はやはり永久凍土に吹き荒ぶ冷たい風の向こうに深い色を湛えていた。
しかし伊三路の答えを聞き届け、改めてよく噛み砕いて理解をすると、視線を俯かせて話を切り上げる。
「そうか。苦労を、したんだな」
ツキン、とした痛みがこめかみに走る。
「しつこいと思うかもしれないが、いやなことをわざわざ話させたのならばすまない」
「うん、気にしてなんかいないよ。危ないことは確かに多い。でも、今のおれに誇りがないわけでもないからね」
 伊三路はすり減った座面を、これまた錆びに錆びた椅子脚の上で軋ませながら立ち上がる。
無遠慮にずんずんとした大股で歩き出すと、祐の前に――正確にはその壁際の一辺と向かって顔を突き合わせた。
「……"俺は、たぶん、お前のことが嫌いなのだと思う"」
 挑発をするようなギラリとした視線が輪郭をなぞる。
言葉を聞き取り、祐は視線を逃すために俯けていた顔を思わず上げた。促されて、あるいは弾かれたような動きだった。
「きみはそう言ったけれども、確かにいま何を言われたっておれたちの関係はそれでも仕方ないと思うよ。おれの役目自体はきみの人生には直接の関わりがない」
 瞼が閉ざされる。
伊三路はなんでもないように続け、肩をすくめると困ったようにして鼻で掠める笑みをした。
よくある降参を訴える仕草だ。僅かに腋を開く腕の角度で、ゆるくひらいた手のひらを上に向けている。
「おれ自身も隠しごとの多い相手は困ることがありそうだと考えるほうだ。大袈裟にして少し邪険な言いかたをすれば、面倒だと感じることも理解できる。ただ」
言葉が切れる。息継ぎのそれが唇を掠め、わかりやすく、すう、と空気の通る音を鳴らす。
屋上に繋がる鉄扉が、長い時間をかけて水滴ひとつを落とすようなこの空間を見下ろしていた。
「ただ……?」
祐は促して、或いは先を知りたいがためにあまりに意味もなく同じ言葉を写しとる。
そうして反芻した言葉が疑問の体を成さない。
 伊三路が頷く形に似て顎を僅かに引くと、角度が傾く過程でかたい意志を宿す強い瞳が再び覗いた。
「普段の宣言通りおれにはやらなくちゃいけないことがあるんだ。その有利ために、本来は無関係と言いたいであろうきみに協力を願いたいと考えている」
「それは知っている」
「だから、それでも、どうしても心からもう二度と顔も見たくないとなったら、それを本気でおれにぶつけてほしい。どれだけ乱暴な言葉でも、もし極端に言って、多少の暴力でも、あるいは刃物を携えたって構いはしない。おれは人間相手にずるをする力は使えないから安心していいよ」
「は?」
祐から思わず出た乱暴な返答に伊三路は待たなかった。
語気が強く、僅かばかりに早口になっていた。
「そうじゃないと簡単に手放せないんだ。今のきみの体質はそれくらいはおれに必要であるし、おれ個人はきみをともだちとしても求めている」
これも初めて聞いた言葉ではない。しかし列挙された言葉のうち、一部に含む手段に聞き間違いではないかと思った。
あまりに暴力的な強い言葉に対して祐の脳は疑った。処理をしかけて、それは本当に彼にとって無害な人間に向く言葉なのかを危ぶんだのだ。
しかし構うことはなく会話は進んでいく。
まるで置き去りにされて祐は言葉を聞くだけになっている。すでに相槌がなくとも、伊三路は言葉を最後まで祐に聞かせた。
そうでなくては理解することもできないからだ。
少なくとも、最後まで聞けば言いたいことの意味がわかるだろうと伊三路は考えていたのである。
「なりふり構わないきみの感情を聞かせて、ちゃんとおれに教えて欲しいんだ。そこまでしてくれないと、おれには役目なしにしたって諦められないことがひとつある。それはまだちいさく息をしているから、いつかの後悔でしたと最期に言うことは絶対に、いやだ。例え、どこまでもおれのわがままでしかないとしても」
「絶対に」の言葉に感情がこもるばかりに音が詰まる。
伊三路は拳をきつく握りしめていた。
一方で祐といえば、彼の発する言葉に含まれたあまりの物騒と強い意志に月並みの言葉を返すことはとてもできないでいた。
今まで似たような話は聞いたものの、ここまではっきりした言いかたは初めてだったと思う。
「何を言っているんだ、お前……」
「なにをごまかす必要もなく、役目なしにしておれの本心さ」
 読み聞かせの本を閉じるように、静かに膝を撫で、手のひらを重ね合わせた伊三路は視線を下げた。
下瞼のラインに視線を這わせる。
そして両足を地面から浮かせるとぱっと立ち上がり、ボロになった椅子をがらくたの山へいそいそと戻した。
「今日のおしゃべりは終わりにしよう。帰った後の打ち合わせもなんとなくできたし、暦がおれたちの不在にある違和感に気付いたら既に知らせている事情以上はないというのに過剰な心配をさせてしまう」
がらくたの山が今に崩れてしまわぬように慎重に確かめてから手を離す。
そして祐のほうを見ることはなく、姿がスキップをするように底にバネがついたかの如く足取りで階段を降りていった。
 置いてけぼりの祐があまりに物騒なことを語る男の半生をますます訝しむのだ。
どんなに少なく見積もっても今世紀の日本国においてシャーマニズムやアニミズムがなくてとても成立のしない土地などそうそうない。
しかし、現に茅之間町こそがそうであると語ろうとするのが茅間伊三路だというのだから、祐は自身の無知を考慮して『そうそうない』としたのである。
本心ではそんなことがあってたまるか、とは考えていた。
 技術を過信するわけではない。ただ、例えるならば、雨乞いの手段がどれだけ理にかなっていたとしても、狭い地域の小さな儀式が結果的に即効性のある雨雲を作ることはない。
それが知れ、古に近い文化になりつつあるのが現代に於ける知見だ。
祐は絶句して言葉を忘れ、階段のしたを見下ろすばかりだった。
「ねえ! 祐! この空間が成立しているうちにもうすこーしくらいは隠蔽工作をしておきたいから、手伝って!」
 折り返し、さらに階下へ続く階段の吹き抜けた空間をぼうっと見ている。
するとふいに、階段の手摺を跨ぐように首を伸ばした伊三路が顔だけをひょこっと覗かせる。
返事を待って真っ直ぐに祐を見つめていたが、ふいにビクッと肩を震わせた。電気が走ったように大袈裟に身体は跳ねたが、本人はきょとん、と間抜けな丸い目をしていた。
それが何事かと思うと、間もなくして伊三路の鼻からするすると血が垂れてたために祐はぎょっとした。
壁や手摺のそばから離れて反射的に駆け寄ろうとすると、彼はバールを回収した手を突き出して制止をし、もう一方の手で小鼻ごと鼻を摘んだ。
上向きに顔をあげかけて大事ではないと焦りを浮かべることのない表情をわかりやすいようによく見せた。
「ああ、大丈夫。たまにある余韻さね」
くぐもった声音で短く伝えてから咳払いをする。
上向きをしたせいで伝った鼻血が不快なのか、続けて咳払いをするような勢いのある唸りが何度も響く。
戦いで昂ったものだとして語り、器用にポケットからティッシュペーパーを取り出すと片手のなかで引き抜いた。
そして鼻に押し当てながら、今し方に起こそうとしていた行動を思い出すとへら、と笑い祐を手招く。
「はやくう」
さながらホラー映画の演出のようである。それを言いたい気持ちを抑え、祐は後を追い始める。
そして、もはや何も言えまい、と怪訝を完全な困惑に塗り変えられた降参を認めると、再び「早くぅ」と急かす伊三路の声に応えるように一段目の踏面に足を降ろした。
 



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