ヒステリックをする女の声が脳を占めて、冷たくなった指先が痺れている。
往来する思考に電流が走り、不快感を誤魔化すために頭を振った。
繰り返すうちに呼吸は危うくなる。二度、息を吸って、吐き出し方をやっと思い出す。呼吸は対になったはずのものだ。
身体は手足を縮こまらせて頭を抱え込んでいた。
肩に力が入っている自覚が微かに存在している。
時おり聞く騒音や甲高い悲鳴から遠く逃げるように耳を塞いでいたのだ。
そして、長いことそうしていたのちに静寂は訪れた。
 祐が強く耳を覆っていた手を恐る恐る離すこととほぼ同時に、バールを担ぐようにして先端付近を肩に引っ掛けた伊三路がひょっこりと倉庫室から顔を出した。
「終わったよお」
 目が合うと、先ほどまで悲痛な叫びや暴れるような騒音を立てていた部屋から出てきたとは思えない様子の伊三路が砂だらけの顔で飄々と笑みを浮かべる。
同時に放たれた言葉は、まるで待ち合わせ場所に遅れて来て悪びれない人間の一言めを想像するが如く簡潔であり、そしていっそのこと清々しいくらいにあっけらかんとしていた。
持ち合わせていたはずの険しい表情はどこへやら、普段からの日常生活で見られるものと大差なく締まりのない顔をしている。強いて語れば、戦闘や身体の運動機能の酷使によって血の巡りが早くなったせいか、未だ尾を引く興奮を湛えた目はほのかに充血しているくらいだ。
薄らと目頭に刻まれたしわは肉体疲労でくたびれた様子であるとも思えたが微睡むことはなく、眼光炯々としていることに変わりがなかった。
惑うこともないまっすぐに伸びた光の筋が導かれるかとすら思える。
 伊三路本人は疲れを疲れであることは認めながらも差し障りがないとして、余裕のある表情をしたままぺたぺたと歩きだし、祐に近寄るのだった。
短い道中の呑気なことにも一方の手は蜘蛛女の体液で濡れそぼったのちに砂のように揮発した結果、バリバリと音がしそうなほど固まった前髪を寄り目がちになって額から剥がしていた。
それから上向きの視線が降りてきて、祐のことを不思議そうに見つめる。
「祐、おれの手を見て。きたない?」
 祐が一度視線を下げ、再び怪訝な顔で伺い見ると、伊三路は静かにバールを床に置いて両の手を差し出した。
意図を掴みあぐねる。返す言葉に惑い、黙っていると、彼は向けた手のひらを傾けたり、手のひらと甲を交互にひっくり返してよく見せつけた。追従する視線をひらひらと躱していようにも見えたために、祐は目頭にしわを寄せる。
そこに苛立ちが生じたのではなく、単純に判断をするための視覚による材料をより取り入れようとした結果であった。
「……砂だらけだな」
 あまりに訝しみを包み隠さず、そして窺う顔の角度のまま、上目で伊三路を見遣ると二回の頷きが返ってきた。
どうにも彼自身も同感であるらしく表情はすっきりとしている。いよいよ聞かれた意味が理解できない祐は自ら聞き返した。
「それ以外の意味があるのか。何を言ってほしいんだ」
 言葉の意味を掴みあぐねたのは今度は伊三路のほうだ。
「ん~?」と間延びした声をあげている様を見ると、文字通りの意味だけを求めており、穿った返答は期待していないようだった。
一挙一動に説明が不要なほどの仲ではないが、祐はより親身な解釈で理解をした。何より、まさにその声色が全てを物語っている。
祐の返答に対してさらに打ち返す球を用意など最初からしていなかったのだ。
 一気に力が抜けたように思うと、祐は自身を戒めるために制服の襟や、袖口や裾を正した。
白いシャツがぴっしりと揃ってしわの少ない状態になっていく様を見つめながら、伊三路はもとより求めていた会話を正しい方向へ仕切り直して続けた。
「いんや。部屋の中できみのものと思われる携帯電話を拾ったのだけれども、汚い手で触ったら壊れちゃいそうだもの。そうでなくともよく使うものであるし、確認をしないで勝手に、おまけに汚い手で触ってしまったら嫌な気分になられて当然だ」
「ああ……」
そういうこと、と続きそうに消え失せる語尾で、祐はようやく携帯の存在を思い出していた。
そして次に、確かに、精密機械を触って欲しい手の状態ではないと伊三路の手のひらを改めて見つめたのである。
「水洗いができないものらしいしね。承知した。急ぎで入用ではないならば後で渡すよ」
 肩を竦め、体中の砂を両手で払う。そして祐に預けていたブレザーの上着を広げると、肩をまるめながら腕を通した。
それからブレザーの余裕ある襟ぐりを指でつまみ、寛げた空間を作ると内胸のポケットに切り出しナイフをしっかりと収めた。
最後にネクタイを受け取る。ネクタイは祐によって丁寧に巻き取るように小さくまとめられていた。
ベロベロにぶら下がって渡したものがずいぶん小さくなったものだ、と、その気遣いをありがたく受け取りながらも指先で探る動きをして辿り着いた上着のポケットに突っ込む。
次のことを考えながら突っ込んだ手が想像より乱雑になっていたことにすぐに気付くと、伊三路はほとんど反射でポケットを覗き直す。
ふたのように垂れ下がるポケットの折り返しを広げ、ぱっくりと開いた袋状に設けられた生地と中身を目視するのだ。
一連の動作に納得をする。
 本人はいたって真面目であることは祐にもありありと通じたものの、途端に茶番めいてきた光景に促す言葉をかけたのも祐からだった。
「生徒たちはどうする。それとも、失踪者は中に居なかったのか?」
「居たよ。でも全員を運び出すのはなかなかに手間だ。祐とおれの二人でやるにはね」
「少なくとも三人はいたと」
 含みのある言い方に対してわざわざ確認をすると、伊三路は小上がり程度にしかない階段を跳ねるように駆け降りていった。
そして先に板を外すために集まる踊り場では邪魔であるとした荷物たちを取り戻してくると、塩梅よく配置しなおしていく。
なるべく無造作であるが、中に生徒がいることを白々しくも発覚させた際には再び大掛かりな移動にはならないようにしているのだ。
膝から身体を曲げ、特別おもくはない荷物をしっかりと抱え込む。それらをまた小上がり程度に設けられた階段を跨いで運んでくる。
一本線が入ったように伸びた背筋のまま膝を曲げて荷物をどっかりと置き、再び立ち上がって答えた。
「そういうことになるね」
 ちら、と祐を尻目に見る様は澄まし顔である。早く手伝え、とさえ今にも言いたげであった。
「……きみが気になる話を続けよう。前にも縄張りについて話した仮説や、手帳もこととも重複するだろうとおれは思うのだけれども」
そこまで話してから一度は口を閉ざし、再確認のつもりで聞いてほしいのだと断ってから伊三路は続けた。
最中、さっさと荷物を戻そうとする手を止め、状況を交えて説明をしようとする伊三路と共に倉庫室に入った祐は意識のない生徒のすがた以上にその部屋の有様に絶句したが、かけられた声に振り返った。
「縄張りを支配していた主が居なくなれば宙ぶらりんの"中身"は因果に寄って再分配される。より影響を受けている方にね。彼らは定義として当てはめると、幸いにもまだ手のついてないものたちばかりだ」
 伊三路が持つペンライトの光が控えめに向けられた先には、かつて吊るされていた『保存食』である失踪者の男子生徒たちが丁寧に並べられていた。
光を当てられると顔色の悪い頬が紙のように白く照らされ、唇の色が褪めている。うっかり呼吸の有無や脈拍を確かめそうになることは十分に理解ができる。
押し黙った祐の肩越しに緊張を見た伊三路はなんでもないように答える。「大丈夫、全員とも生きているよ」
暗がりで照らし出す光で浮き彫りになる肌の凹凸や男性が選びやすい無彩色に近い色の服装が手伝って、彼らはいかにも不健康を思わせる様相にも見えたが、一部の男子生徒はいかにも運動部らしい外見をしている。
瞼を閉じていても精悍な顔つきをしており浅い日焼けのせいか比較的に顔色がよく見える者や、もとより白い顔をしていると思われる文学に親しみを見出しそうな者、特筆する外見の特徴はないがどこか物静かそうな者。身体的特徴や所属をする場が異なれど、どことなくまとう雰囲気が似た系統で集められたとは察しのつきそうな面々だ。
自他ともに薄々の自覚をしうる"撒き餌体質"となった今となっては自分がそのグループに当てはめられたかはさておき、なるほど祐は頷き部屋に積もった砂を避けて出入り口に戻る。
 三角錐の様相を真似て大きく積もる箇所は避けたが、ざりり、と上履きの底が砂を当て擦り、足の裏が冷たくなった。
つい、一時間か二時間前には鬼ごっこと宣い一方的な駆け引きを求めた蜘蛛が形もなくして死んでいる。
正確には亡骸ですらないものであるがこれらの姿があまりに身近な生きものに近かったせいか、砂を払い退けた先に依代らしき蜘蛛の原型が息絶えているのだろうかということを漫然と考えていた。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、死するものの行く先が想像の域を出ない範疇で渦巻いている。
 暗い感情の行き先が先とは方向性を違えて胸を占める。
直に蝕まれた漠然の許容が過ぎたか、防衛本能か、肉体の疲労が色濃く顔を出し始めるのだった。
生命の危険がなくなったからか眠気と空腹という本能の欲求を少しずつ思い出していたのだ。
早く帰りたい、と靴底を引き摺りかけてから、足元の砂の存在を思い出した祐は自身の腿を拳で叩いて身体が微睡みに沈むことを責め立てて歩をすすめていく。
「大体はそういうことだから、おれが先に戻る。そして白々しく屋上へ行ってはいたずらをしようとした。極めつけにうまいこと扉をみつけてしまった第一発見者にでもなることにするよ」
「待て、扉を壊したのは俺だろう」
 言葉にこそしなかったが、祐のその目は語る。
なぜ茅間が叱られる必要があるのだ?
眉根を寄せる祐の顔を真剣に眺めていた伊三路ではあるが、勝手な取り決めに悪びれる様子は全くない。
次の瞬間だけ、言葉を選ぶかのように僅かに言い淀んだのちにしっかりと告げる。
顎の下でつんとした輪郭を撫でる、幼い顔立ちに似合わず節くれだってもいる指先が緊張を逃そうとしていたのだった。
「きみの卒業後の進路は何かしら進学をするつもりでしょう? だからやめておいたほうがいいとおれは思うのだけれども」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だよ。言いかたは悪いかもしれない。でも、本当におれの先々は学校に行こうが行くまいが大して変わらないんだ」
 言い返そうとする祐に伊三路は素早く続ける。
「解決済みに言っても大きく変わる今後はないとして黙っていたけれども、実はきみの活躍も手伝って今日のおれは随分と楽をさせてもらったんだ。だから、少しばかり怒られるところはおれが引き受けようというわけさ」
指を振り立て、蜘蛛女がいかに様子がおかしかったのかを語っていたが、指を折りたたんで楽をしたことの数をかぞえ始めたあたりで再び祐のほうへ視線をやった。
「それに今日のきみの様子からも怒られるようなことをしでかすなんて、他の人間から見れば不審に映るでしょう。詮索をされるよ。怒られるだけよりも深刻だと思われるかもしれない。だからこそ、この部分の整合性を立たせてやるのはおれが御礼として行うに適切じゃない?」
「馬鹿げた貸し借りのようなこと」
 なぜ自分のしたことに責任も取らず、挙句他人に押し付けるだなんてことが許されるのだ。
譲れない不服を申し立てようとして言葉を用意するも、伊三路が立てた人差し指が唇のそばであてがわれて制された。
話すなという手振りで引っ込んだ祐の呼吸と、その振りに合わせて放った伊三路の「しっ」という歯の隙間で絞られたかのような息遣いが重なる。
「大丈夫! おれだって怒られるのが好きだという趣味は誓ってないから今日一番に頭をつかってごまかしをするつもりだし、本来の前提で感謝をしていなかったのならばこんな提案もしない。当然のこときみを差し出す。きみが良い意味で捉えようとしても今回は評価に買い被りがすぎるよ。言っている意味がわかるよね」
確認を取ったうえで少々わざとらしく続ける。演技かかって見えたそれが言うのだ。「これは慈善行為じゃあないから、つまり貸しでもない」
低い位置で僅かに腕を広げ、まるで演劇において続くセリフを求めるように祐に答えを求めた。
「そうでしょう?」
答えは無言だとしても、返答がなければ肯定だ。
有無を言わさぬまま、もはや答えすら待たず、伊三路は扉のあったほうを見遣る。そのまま視線は下って、床に倒れてそれきりの元は扉の板であった木目の肌を眺めた。
黙り、記憶上で部屋の中を再生して男子生徒たちの顔色をよく思い出していたのだ。水分が抜けすぎてなければいいけれど、と不安を巡らせていたのである。
一方で祐は不服を浮かべたままでいたが、同時に考えをいくつか浮かべていた。
「彼らだって一刻も早くしかるべき処置のできるところで身体を診てもらうべきだしね。さっさと支度をしよう」
 ガタガタと音を立てながら廃材に近いような椅子や、道具の入った箱を無造作を装って並べていくことを再開する。
どちらから話をすることもなく作業めいたことは手早く行われていた。
「……行動と責任は常に表裏一体だ。それが何であれ果たす必要はある。そうするべきだと俺は考えている。お前がそれをするならば用務員室のほうの誤魔化しは俺がやる。用務員室に戻る時間も惜しければ、他に生じうる問題の可能性が用務員の責任になるのも避けたいことのはずだろう」
椅子に浮いた錆が制服に擦れていないかを気にして生地を手で払ってから、祐は静かに語りだした。
かたい意志を伝えてきた伊三路に負けず劣らずとしてじろり、と視線で輪郭を撫ぜる。
 一方で唐突に鋭いその視線を向けられた丸い瞳は、突拍子のないことに対し驚いて大きな声をあげた。
「えっ? なんで? 本当におれのはなしを聞いてくれていた?」
「聞いたから言っている。後始末をしないで帰れるわけがないんだ、ならば分担をして早く終わらせればいい。それともなんだ、下手を打つだろうと想定してして辞めさせたいか」
 話の途中で組んでいた腕を半分ほどき、ならばこちらにも考えがある、というように前腕を揺り動かす。
言葉の調子に合わせて緩やかに振られる腕はまるで学術的な根拠のあることを語るが如くをし、ゆったりとしたそれらと低い声が小さな空間に響いていた。
伊三路はいかに具体的に実行するか、そしてそれに伴うリスクと回避の考えを聞きながら頷く。まるで講義を受ける生徒のように考える素振りも見せ、時に首を捻った。
返す言葉を考えて唇を窄めたあたりで、祐は締めて誘導するように決定的に言って聞かせたのだ。
「これならば少なくとも、全くおかしいという行動範囲にはならないだろう。あくまで確認程度の要素が多く、仮にひとつ杞憂に終われば連動して無視することのできる過程も多い。違うか?」
 さて、と次の言葉で返答を求められた伊三路は右手で頭を乱雑にかき混ぜては、そのまま頭部を抱えるような動作をした。
「ううん、んわア」と悩んで唸る。もやを振り払いたがって頭を振り、額を人差し指で二回だけ叩いた。
そして最後に何もうまい反論をすることができないと悟り、唇の両端を指先で摘む。
唇がぎゅっと寄せられる様は滑稽が浮かぶが、本人は至って真剣にムム、と眉間にしわを寄せているのだから妙な空気が漂っていた。
いつまで経っても返らずの答えが何を言い出すか、祐もはかりかねる。
静電気に似た緊張がわずかにピリついて走った。
伊三路が明確な言葉をもってして口を開くまでが長い時間のように感じられている。
「……うん。いやあ、ごめん。正直に言うととても、うん、助かるよ」
「最初からそうだと言っている。今日は妙なところで無駄な気遣いをさせたしな。お前の言葉でいう御礼と思えばいい」
 ついぞ諦めた伊三路は長く息を吐くと悩んでいた姿はどこへやら、振り絞り努めておどけると口端だけいたずらに笑った。
この会話がこれ以上に譲り合わない様をしても、時間の浪費でしかないことは明確ではない。
それを自覚していた二人は、そのどちらもが、次に返しのし難しいことが来たら自らが折れるべきだと考えていたのだ。
常に危険が及ぶ状況ではなくなったなかで"次"に当てはまる順番を伊三路が引いたというだけのことに特定の思考をして固執する理由も必要がない。
「今日はよく聞くね。適材適所ってやつをさ」
そして、怒られることを避けるのはけっこう得意かもしれないよ。と、伊三路が語ったあたりでわざとらしく愛想がいい振る舞いをしてから、媚びた目を祐に寄越した。光を取り込んでうるうるとする瞳に、遠方の稜線を描くような短い三角眉がいっそ凹みを表すほど下がっている。
 自分の思う切りぬけかたの極意をありありと主張しているのだ。
そう言われてみれば、この男の編入時は初見のその容姿や世間知らずの程度で面倒見のある人間たちの庇護欲を煽ったのである。
祐はそれを意図してかせざるか、とにかくあくどいことを言い出す伊三路に呆れたが、普段から計算をした振る舞いをしているのではないことはよくわかる軽口だ。
「目元を強調する角度はやめてくれ。もとより目力のある人間にやられると穴があきそうだ」
「媚びるつもりも媚びているつもりもないけれども、低くて怖い声で怒られたら悲しいもの。あまり顔が変わらないきみが怒られるよりも説教が短く終わる自信がちょっぴりくらいはある」
信用を切り売りする関係を誰とでもしているわけではないが、茅間伊三路という人間の人好きする様は確かに一回くらいの失態では大目に見てもらえる可能性がないわけでもない。すると、確かに、と納得せざるを得ないのだ。
反対に、用務員室で自らがやると宣言したことはやはり自分のほうが向いていると感じたあたりで、この答えがない割には難航するとすれば先には時間の浪費しかない問答がどうでもよくなってきて「そういうことになるな」と返す。
「正しておくが、適材適所を語るのはお前だけだ」とも付け足されて続く。
投げやりになりかけた言葉がその色を濃くするほど、返ってくる伊三路の声は実に楽しげであった。



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