最も長い対を成す脚では胴と等しいか、それよりも長いものである。さらに人間の手足を合わせても同等の肢は蜘蛛のほうが四本も多い。
加えて、人間は二足歩行なのだ。つまり、下肢は常に地を踏みしめる。
蹴りを繰り出すことはあっても、塞がれた自由の使い道は限られているのである。
そうであるはずだったのだ。
「なぜだ、なぜなのだ! 空間の主は妾ぞ! なぜ裏切りをする!」
 その言葉はもはや伊三路に向けたものではない。
世界の全てが自らの思い通りにはならないとして嘆き、怒り、そしてカフェインの酩酊に苦しんだ。
 蜘蛛の体躯に不自然を構わず生えた人間の顔に形作られた口は胃液のような吐瀉物を吐き出す。
固形物はなく、水っぽい。強い酸性を感じることはないが、途端に生臭いような、腐ったような、嫌な刺激を与える臭いが立ち込める。
瞬時に砂の粒子状に硬化する吐瀉物が激しい戦闘によって素早い足さばきの行われる床に打ち付けられ、また舞い上がる様子は、煙が立ち上っているのだともしてとれた。
 蜘蛛女は叫ぶ。
本来、狭い部屋の中で壁という物理に干渉されず長い脚を振るうことは優位に働くはずだったのだ。
震える矮小な存在がこの面積では小柄な方が小回りも利くというちっぽけな、それこそ砂粒にも満たない希望に縋り、粋がって調子ぶろうとする見栄と虚勢が愉悦であったはずであった。
なす術など一つもなく、そのたったひとつ見えすいた希望さえもが圧倒的な捕食者の存在に用意されたものであることも知らぬ愚かさをほくそ笑むつもりであった。
それがどうだ。その二本きりしか攻撃に自由の利く肢もない、先が丸くぶよぶよとした指という五つの先分かれを持つだけの人間に弄ばれているのだ。
 蜘蛛女は癇癪のままに叫ぶ。構わず唾を飛ばし、皮膚の割れた唇に血か唾液かもはやわからぬ水分を滲ませていた。
「あの小僧さえおらねば! すぐに殺してやればよかった! おのれ! おのれ! おのれ! 妙な液のせいで!」
喉を詰まらせ、ドッと喉奥を鳴らすと人間の特徴を持つ口は再び透明を吐き出した。
喉を焼き、前歯が度重なる大量の胃酸めいた体液に徐々に溶かされているように思えていた。
その背後でガラン、と音がして、へし折られたのちに辛うじてぶら下がっていた脚が完全にちぎれて落ちたのだと理解をする。
くたびれた白刃だ。輝きを失っていく金属質に蜘蛛女の強張った顔が映り、ちぎれた生物的な特徴の多く残る関節付近はビクビクと痙攣したように跳ねていた。
 一方で、伊三路は血液に値する体液が飛び散ったかと思えば乾いた顔の上で凪いだ表情をしている。
しんと積もる声音は温かくも冷たくもない。
「へえ。本当に祐はおれが想像するよりよっぽどきみを痛めつけたんだ。今や捕食行動ができる気力もないのでしょう? 可哀想に」
「お前の生き血を啜るくらい……それくらいはちょうど残っておるわ」
 虚ろいだ横顔から恨めしげな視線だけが暗がりの中にいる存在を突き刺す。
それを何でもないことのように眉一つ動かさない伊三路は右足をピクリ、動かした。
 走りだすのを皮切りに、なりふり構うこともない刃が幾つもの軌道から一遍に襲い掛かる。
ひとつ、伊三路はその一本を避けて飛び退く。ふたつめもすり足で下がる足捌きをしながらほとんど半身だけを傾けて躱す。
地面から幾ばくも離れずスーッと渡る足の動きによって頭の上下が少ないにも関わらず確実に離れたぶん以上の距離を縮める伊三路に対しひどく怯えた蜘蛛女は、思うように力のでない身体の根から多大な力を捻出するとボコボコと膨れ上がった醜い腕のようなものを腹から突き出し、さらに先を五つに分かれさせた。
 人間の腕だ。五本の指を持つ手である。
沸騰をするように皮膚の薄皮直下を気泡が駆け、腕は安定をしないまま不定形を兼ね備えていたが、確かに大きな人間の腕を模している。
そして壊れかけているとはいえ、まだ一枚の側面板がはずれただけの本棚を掴み、投げつけたのだ。
 まだそんな力があったのか、と思う間もなく、迫りくる本棚の影から伊三路は飛び出る。直後、背後で沈むような音を聞き、耳殻に空気の振動が伝わってくるような気がした。
あまりの音に地面すらもが揺れたと錯覚をしただろう。貼り付けた札から発せられる黄金の淡い光が再び壁や床や、天井を走る。
目的を果たしたつもりになって維持の難しくなった蜘蛛女が模す人間の腕がゆるゆると解けていく。一つのこぶが弾けかけて、ぶすぶすと音を鳴らしていた。
 三秒。
三秒間だけ呼吸を忘れた視界の端で、尚も原型らしきを留める棚に伊三路は一瞬だけ、この場にはそぐわない安堵をした。
言い訳めいたことを考えていたのだ。本棚の倒壊について、戦闘後の処理を考えざるを得なくなるほど大袈裟なことだったのである。
その思考をした結果、まだ経年のままに倒壊しただとか、集団で混乱と騒ぎでも起しただとかで通じると思わず考えたのであった。
しかし、この一瞬で起きた思考の乱れが足を引っ張る。
 あえて呼吸の一つぶんを遅れ、重心の移動を始める頃に合わせてもう一本が襲いかかってきたのだ。
目を見開いた深緑の瞳が迫りくる切っ先に脊髄反応をして瞼をきつく閉じかけたが、意識してそれに抗うと手近のパイプ椅子を引っ掴む。
そして盾のように翳し、前方に投げつけた。
 衝撃を掠めながらパイプ椅子が手から離れる。そこから椅子を手で押し付ける動作と同時に生じる反対側へ働く力に勢いの助けを得るとつんのめっていた身体を後方へ思い切り反らす。
踵からべったりと靴底をつく足がよろけた。
がくん、と身体が落ちる感覚は唐突に脳を揺さぶり、重力に反して浮き上がるようにも錯覚できたのだ。脳内で認識を結ぶ線たちが乱雑に混ざり合う。
バチッと脳内に走る光で思考を再接続させられると、伊三路は投げ出された身体を捻り、地面に背の側面に近い部分をつく。そのまま二本の脚を左足、つぎに右足といった順に大きく振り上げ、重心を移動する。
転がる軌道を逸れ、バールを持っていない左手で地面を跳ねあげるように押し、体勢を整えようとすることと同時に立ち上がったのだ。
 受け身を取ったとするには随分に粗末とした動きであったが飛び上がるように身体を起こした伊三路は、次の攻撃も覚束ない足首でよろめく動きになりながらもすんのところで避けたのだった。
ただ、手首のあたりこそ絞りで生地が詰まっているが、前腕の中ほどで遊びのある袖を刃が掠めとりスパン、と引っ掛かりもなく切れた布地から肌に冷気が触れた。
 深呼吸を一つする間にありったけを詰め込んだような出来事である。
内側からの鼓動が激しく胸を打ち鳴らしていた。
はっ、と息を吐き、思考を逸らしてしまった己の行動を内心のうちで激しく叱責しながら伊三路が肩を揺らす。
蜘蛛女は自身の刃先に突き刺さったままのパイプ椅子を、まるで濡れた手から水滴を振り払うような動作で投げ捨てた。
充血した人間の赤い目と蜘蛛の特徴が強い熟れたような血生臭さをする眼が、たくさんのその色が、視線の束になって伊三路を睨みつける。
当然のこと熱く見つめ合うはずもなく、間合いを取って蜘蛛女は後退った。
 打ちっぱなしの床を僅かに抉りながら下から掬う動作で襲い掛かり、伊三路が飛び退こうとする動きを誘う。
そして自身は後方の脚を曲げて上体を僅かに浮かせると、糸を吐いた。
弾丸のようにいくつも打ち出されたそれは伊三路の足元として推測し得る一点へ一つ、それから、移動の範囲に存在しうるいくつかを無造作に狙って飛んでいく。
暗がりで丸め込まれた糸の塊を明確に見分けることは困難を極めたが、粘液まじりのそれが尾を引いてチラリと輝く様を見極めると身体をありったけに捩じった。
 未だ原型の一部を保つ本棚の外れた板を駆けあがり、上半身を屈めると堆く折り重なったパイプ椅子を幾つか持ち上げる。
しっかり握ったひとつきり以外は適当に放り投げ、時に鞠を蹴り上げるようにして足の甲を器用に操って高い位置へ飛ばした。
大事にしたひとつきりを盾にすると、糸の飛ぶ合間を稲妻の図を描くようにジグザグに陽動をし、閃光のごとく駆ける。
「フン、馬鹿の一つ覚えのように!」
 パイプ椅子の座面と背もたれの間に生じる空白を狙い、刃先の角度を傾ける。
その様が伊三路の目にはギラリとした白い閃光が走ったことのように見えた。思わず指先が弛む。
次の瞬間、掬う動作で掴まれたパイプ椅子は天井に叩きつけられていた。
そして直前で動作を見越し、途中でその手を離すとふんだ蜘蛛女はすべての脚をひとつにの点へ仕向ける。
「……なに?」
 骨に囲われ、引き裂かれた皮膚から内包する血液や臓腑が滴り落ちる様を想像したものの空しく、天井に固定されたパイプ椅子の下部にしがみついたままの伊三路の脚がぶらん、と空だけを掴んでいた刃の僅かに上空で揺れた。
 蜘蛛女を見下ろす伊三路は強気に目を細め、奥歯を半ば噛み締めたまま口角を上げた。
「なんだ。ちょうどいい足場をくれるの。でも、残念。全てが遅かったね」
「やだ、やめろ!」
「おれはね、優しくなんてないから今に媚びたってなにも考えてあげないし、うっかり殺してしまうことだってない。なぜならばうっかりとせずとも最初からそのつもりでいたのだからね」
 動揺で反応の遅れた刃先の節にするりと降りると、天井にパイプ椅子を掬いあげて固定したままの脚へ見せしめをするようにバールを振り上げた。
「同じ言語を持つという意味では、意思疎通ができそうな相手と判断して良心が咎めないわけでもないけれども」
嫌な音が響く。高い位置から降り注ぐ水音が強く打ち付けるのだ。
あまりに近い場所で発せられた強い衝撃はときに濁った音を交えている。
 突き上げる引っ掛かりがなくなったパイプ椅子を取り戻した伊三路は身体を捩じると三角を描くように二度ほど天井を蹴り、体勢を整えると方向転換をして真っ直ぐに蜘蛛女へ向かって飛んだ。
「すべて聞けない相談ださね」
「ひ、人質を殺すぞ!」
 癇癪と錯乱のままにまだ残った脚という脚をばたつかせ、糸を吐く。
つぎに手当たり次第に物を投げつけようとしたが既に一箇所に誘導されていた家具や椅子たちは蜘蛛女からは遠く、下手に腕を伸ばせばいまに叩き落とされると想像して震え上がった。
 この短い距離の間に二つの糸を受け止めたパイプ椅子の座面を引き抜くように手繰った蜘蛛に奪われた伊三路は、空の不安定のままであったが、唐突に諦めを覚えたかのようにしてバールを放り投げた。
まるで降参だ、とでもした腕が頭部を守るために似た動きで顔の前で交差をする。
そして状況を見た蜘蛛女の中で恐怖と興奮がスイッチひとつを切り替えるかの如く一瞬で翻ったのだ。
「取った! ハハッ、今さら獲物を棄てようと的はお前だ、下肢から捥いでやる!」
人の目を見開き、唾液を飛ばしながら叫び、高笑いをする。
蜘蛛の脚が興奮の行き場を失っては自身の身体に生やした人間の頭部に生える髪を器用にも刃や関節に引っ掛けてむしっていた。狂喜に満ちて気をやったようにぐずぐずとした熟れた赤の目のふちが膨れる。
故に交差した腕の向こう側で怖気づく様子など微塵も見せずに落下してくる伊三路に表情には気付かず、ただ歪んだいくつもの目で見つめていたのだ。
 鋏角を使って足を捥いでやろうと、そのかつて余裕に満ちていた顔くらいはきちんと見てやろうと思っていたのだ。
次の瞬間、蜘蛛女のうちで人間の部分をした額には切り出しナイフが深々と刺さっていた。
高笑いの声が止む。焦点を結んだ瞳が上向きからぐるりと戻って伊三路を見つめた。
「こんなもので……妾を殺せるとでも?」
興が冷めたのだ。投げ出され冷や水をかけられたかのように震えて絞り出す声だった。
その動きこそが返答であるとして伊三路が手をこまねくように内側へ導き、握る切り出しナイフの刃をより深くへ埋める。
 蜘蛛の特徴を持つ身体の額から生えた女の顔面で骨は割れていた。
額から鼻へ向かい一筋の血が滑り落ち、唇を赤く染める。
胡乱を持ち合わせた目は次第に怒りに満ち溢れ、対峙する伊三路の乱れた前髪から覗く瞳を見つめ返した。
細められた伊三路の目元は微かに下瞼を動かしたものの、小さく頷く。沈黙ののちの言語による返事は掠れていたが、優しい声だった。
「そうだよ」
 柄を握り込んだ右手が震えている。
伊三路は突き立てた切り出しナイフを握る右手に左手を添えることはなく、前のめりになって体重をかけた。
前のめりに重心を移動したことでさらに突き刺したために、鼻先の距離がグッとちかくなる。
疲れ切って老婆の如くしわの浮かんだ顔の蜘蛛女に、伊三路の持つ春の土のような色の毛先が触れていた。
「勘違いも甚だ――」
 甚だしい。
言葉が最後まで紡がれることはない。
蜘蛛の額の上に屈んでいるようでもあった伊三路の左手に、ちぎれた脚があった。その脚先に備わる刃が引っ掻くように触れた蜘蛛女の身体を切り裂いていたのだ。
 遠くでバールが落下する音がする。
 伊三路が持つ刃に映るものに蜘蛛女が視線だけを恐る恐る動かす。
人間の女を模した顔に線が走り、ぷつ、と玉のように絞り出された体液が浮かんでいた。
唾を飲む間もなく、線を境目に頭部がずるりと左右がずれていく。
カモフラージュに使われた切り出しナイフが引き抜かれることと、結果的に死の原因になった己の切っ先が砂となって崩れるのはほとんど同時のことだった。
蜘蛛女の唇が何かを言おうとして、しかし発声をすることなくはくはくと呼吸を真似ていた。



前頁 目次 次頁