伊三路の足がうっすらと埃を積もらせた床を踏みしめて中に入ると、すぐに何か硬いものを蹴った感触がした。
打ちっぱなしのような床に手を伸ばしてそれを拾う。当然として流れる動作であったが、姿勢が低くなると途端にかび臭いような燻るにおいが鼻を掠めて思わず顔を顰めたのである。
 破壊した扉から廊下の明るさが伸びて薄ぼんやりとした光が拡散する部屋は全く暗いわけではない。
まだ暗がりに慣れない目を細めて確認しようとしたものの、拾いあげた物の形がよく理解できなかったのだ。
手に収まる形をなぞるように指先で触れて確認する。
結局は起伏の少ないそれに首を捻り、最後に表面を撫でるように塵芥を払ってからペンライトでよく照らせば、それは携帯電話だった。 
当然のこと自身の持ち物ではないが伊三路も何度か見たことのあるもので、フレーム作りの四角い枠に真っ暗な液晶がはまっている。
そして角度を僅かに外側へ向けて反射する液晶を眺めながら、祐が以前の機会で手にしていたものと同じであるということにすぐに気づく。
電源らしき凹凸を手探りで見つけて深く押し込むとパッと液晶は明るくなり、単純に理解することはできない文字たちが並んでいた。どれもが常用では滅多に見ない漢字で構成され、意味を成さないままめちゃくちゃに羅列している。
「これは、もしや祐の」
 呟き、独り言の声量を潜めねばならないことを思い出してすぐに口を結ぶ。
想定外のところで電子機器もあまり役に立ちそうにないことを知ると、次に迷うことなく尻ポケットにそれを差し込んだ。
踏んで壊しでもしたらきっと困るだろうと思ったのだ。
 煤のように壁に這いこびりついた黴の黒ずみを見ながら、さて、と立ち上がった伊三路が次に見たものは逆さまに吊るされ、暗がりでもわかるほどに具合の悪さを張り付ける意識のない男子生徒たちだった。
状況からしても常に吊し上げられていたわけでもないようだ、と感じながらいよいよ捕食される目前であったであろう彼らを順番に見上げていた。
 胸をゆるやかに上下させる呼吸の調子で、健全な体躯の男子高校生を吊るしているのだとはとても思えない細い糸が揺れる。
それがペンライトの光で時おり反射していることをよく確認して、まだ息があることを知った伊三路は安堵した。
制服や私服であったり、部屋着であろうスウェット姿であったりとその様相はさまざまであったが、どれも失踪した生徒だろうと伊三路には思えた。
仮に、別の理由で連れてこられても確認のしようはないうえに、もっと古い犠牲者であれば失礼ながらに新鮮すぎると直感で思ったのだ。
自分から見れば髪を逆立たせて揺れているそれらの、脱水による諸症状に由来してもまだ乾き始めたばかりの唇を見て、伊三路は思わず、極めて無意識に自身の唇を湿らせる。
「まるで人形劇をする箱の中身みたい。でも、やりかたはおれの感性とはあまり合致しないかなあ」
 身体を震わせ、つま先立ちで立つ演技をしてみせた。それからサワガニのような足取りで壁に背を預け沿って歩く伊三路は、確かめるように這わせる手のひらの下で手書きの札を張り付けた。
脳と身体を、そして視覚情報を処理する許容量を自らの言霊で縛り、制御するために血液の情報を垂らして作ったものだ。
それをすっかりと撫でつけて貼ると、自らの胴で死角を作りながら爪を使って隅々まで札の端を壁に密着させた。
 前方に広がる部屋の様子を窺うと、どうしたものか上手く張れなかったのであろう蜘蛛の巣の網目が形成を曖昧にして部屋の隅から隅を跨ぐように糸を伸ばしている。
その巣の上に主が居ないことを睨みつけん勢いで十分に確認した伊三路は次に部屋の中に何があるかを確認する。
 壁際の一部には埃をかぶった本棚や折り畳みのパイプ椅子が雑多に並べられており、荷物は想像よりずっと少ない。
狭いが物がないせいでそこはかとなく実際よりは広く感じる部屋だ。前後左右、どこを見渡しても蜘蛛女は居らず伊三路は密やかに息をついた。
 祐の話を聞く限りにおいては、それらの物陰に身体の全てをすっぽりと隠してしまえるのだとは思えない。
半分は壁に身を隠している場合もあるために一概には語ることができないが、基本的に意識を持っている状態で息をしているものは全てが罠だと考えている。道具や家具を用いた罠らしいものは物の少なさや配置からも割合を占めて考慮することではないと思えた。
なにより、相手は既に手負いに近い状態であるとも語っていたため、壁の中から様子を窺っていると考えるのが妥当である。
 次の角へ移る前に、先立って札を貼り、室内を半周をしたあたりで静寂を保っている気配は続いていた。
再び天井近くを見やり、糸でぐるぐる巻きにされた生徒たちを眺める。白くなっていく顔たちだ。
そして早く下ろしてやらねばならないとは思いつつ、戦闘に巻き込まれては困るためにもう少しこのまま頑張ってくれ、ともぼんやりと考えていたのだ。
「……それにしても女子供がとはよく聞くけれども、男子生徒ばかりとは。どちらにせよとも吊るされてしまって可哀想に」
「何故ならばそれは食いものであって、対等ではないからな。人間だって、首を刎ねた動物を血抜きだと言ってぶら下げたり、塩に漬けたものを寒ざらしにした干物として食うではないか」
 唐突に湿った声がする。まるで独りごとに返事が来たかのように驚いて振り返ると、暗がりに蠢くものを伊三路の目は捉えた。
木箱の影からずるりと首を伸ばしているのだ。頭に生花を飾り、長い髪が乱れては細く散らばっている。
柔らかく、幼い少女の頬から鋏角が突き出るように生え、人間の特徴を持った眼は結膜の一部が溶けかかって肌を伝っていた。
硬く短い蜘蛛の被毛が疎らに生える肌はくすんでおり、その容貌の繊細な様子を把握することは出来ない。
ただ、おいおいと大袈裟に泣くようにも、クスクスと卑しい笑みを零すようにも聞こえる囁きが四方八方から響く。
まるで示し合わせたかのように鳴りだす合唱が少しずつ中心へ向かって、一つの言葉になっていくのだ。
目を吊り上げた伊三路が腰を低くし、バールを構える。
素早く視線だけで部屋中に注意の目を巡らせた。
 次第に部屋に残されたままの少ない荷物たちがガタガタと鳴りだす。
本棚からは卒業記念誌と書かれた冊子が飛び出し、パイプ椅子はとにかくこすれ合うように騒ぎ立て、冷たい金属の脚をぶつけ合うのだ。
飛び交う荷物に触れぬよう身体を半身に、時に飛び上がって避けようとしている伊三路の足元がつぷり、と僅かに膨らんだ。
足の裏に繊細ながら隆起をする感覚を知ったように思ったのだ。
 瞬間、草刈り鎌のような刃先が打ちっぱなしの床から突き出た。刃先の鋭い部分からぞうっと曲がった軌道で空を掻く。
そのままこそげとるように力強く、そうでありながら小回りの利いた角度で回り込んでは伊三路の首元へ狙いを定めていたのだ。
殆ど同時に伊三路は前方へ飛び出し、前へ傾いた身体からより頭部を突き出すように下を向き身体を丸めた。
視界は下へ下へと向かうが、臆せず腕を伸ばす。目測を誤り地面にぶつからぬように僅かに丸めた指先が地を求めて探っている。
身体がぶわっと浮き上がる感覚に思わず、そして意味もなく足を蹴りだして空を足掻く。
空を進む速度の頂点を過ぎて失速を始める瞬間、その滞空が最も長く感じられた後に身体を支える糸を切ったかのようにして時間は流れ出す。
息を呑む間の一瞬のことだった。雪崩れ込むように身体は落ち、風は前髪をかすった。
詰まっていた息が一気に押し出されて漏れだす。圧迫をされることに似て明確な痛みではなく、重さによるものに似た負荷が上下から伊三路の肉体を潰そうとしているように思える衝撃が走った。
前に転がって身体の一部を地につけ、衝撃を流して受け身を取ると、いかにも壁に手を着いて残りの勢いを殺す動作然として勢いよく札を張り付けた。
バン、という強い音が響く。
「ほう。簡単に死なれてもつまらぬが……今の、不自然なほど見切っていたな?」
「きみの身体は大きいって聞いていたんだ。大きいものが動こうとするときは、そのぶんだけの前振りがあるということさ」
 やつれた頬に、眼窩は落ち窪んでいる。木箱から覗くいかにも生命の巡っていない少女の頭部は、伊三路が先に見つけた際よりも急速に朽ちていた。
まるで役目が終わったためにすっかり供給が止められたかのようだ。弛緩した舌がぼうっと空いた口腔から伸びている。
「それともこれこと? わかりやすいくらいだよ。とかげの尾っぽ切りを先回ってしたみたいなくらい。いかにもわかりやすい罠だ」
極つまらぬことのようにして伊三路は足元を一度見たきり視線を戻して続けた。
吊し上げられた男子生徒の数を黙ったままの内心で数えたのだ。
「それでも少なくとも、これだけは騙せたんだ。先の黒髪(たすく)によほどひどいことをされたの? まるで、見た目も維持が難しいくらいに?」
言葉と共に天井付近を視線がなぞる。『これだけ』の数を示す口ぶりが、ぶら下がる姿を改めて数え始める。
会話の間にも乾き、色あせて砂の塊になっていくそれを伊三路が上履きで踏み潰すとざあっと崩れ、はじけた灰のように溶けた。
 伊三路の語るそれらは蜘蛛女にとっては酷く屈辱として響く。
取るに足らぬはずの矮小に気を取られ、無様を晒しているという事実を何度も改めて突きつけられては首の薄皮をなぞる刃物を往来する手つきを宛がわれていると思えたのだ。
踊らせるつもりが自身が踊らされていたという事実は大したこともなく初めからその筋書きであった、と上からの圧力で押し込まれたと感じたのである。
相対的に己の価値が低くなると考えたのだ。そして恐れた。
 蜘蛛の姿がわなわなと震え、幾つも並んだ眼よりも上――人間で例える額のあたりから短い毛をかき分け、先の少女の顔と同じものを形成した。
酩酊した足取りと同じく覚束ないそれが不定形のすがたかたちを見繕ってはこぶのように膨らんで破裂する。
蜘蛛の眼では見えぬ視界を求めて形作ったそれは目を開き、喉を作り、声帯を通すとまさに吼えるといって相応しくいかにも悔しそうに叫んだ。
「ひとりが増えたところで変わらぬ。よい、お前には先の小僧よりも惨たらしく、当然に食らう価値もなく! こまく刻んで刻んで、刻んでッ! 最も無意味な死をくれてやるわアッ!」
ヒステリックに叫ぶ声と共に、ぐわっ、と肉食動物が跳びかかってくるような勢いで振り上げられた脚先を伊三路は引き付けて避ける。
 狭い部屋で瞬発力に任せた走り方をすると、あっという間に壁は迫り、激突する勢いで突っ込むのだ。
すぐそばまで巨体な蜘蛛の脚を引き付けたせいで今度はまともな受け身も取ることが出来ず、本棚に激しくぶつかった。
板が割れて崩れる音と共に、辛うじて本棚に並べられて残っていた記念誌が一つ残らずバサバサと降り注ぐ。
埃を舞い上げる様に、下品な笑みを浮かべると蜘蛛女は大層喜んで声高々に語りした。
人間の腕に値して上腕――今は蜘蛛の姿でそのつま先に刃物を備える先端を擦り合わせて頬の肉を持ち上げたのだ。
思わず背骨が浮くほど甲高く、同時にすり切れるほど軋んだ金属音が上がる。鼓膜から伝わった不気味な音に嫌悪の震えが伊三路の体中に伝播した。
「強がらずともいい。今に足を舐め、ひれ伏し媚びれば許すことを考えてやってもいい。減らず口の舌と喉はうっかり捌いてしまうやもしれぬがな、優れて磨き上げられた刃を舐めるとはそういうことであろう?」
差し込む明りに己の脚先に備わる刃物を翳し、その光沢に映る己をうっとりと眺めてから崩れた本棚を尻目にする。
本棚の割れた板や散らばった冊子の山から人間の腕が一本飛び出す。埃くさい空気を遠ざける咳払いがこもって響いていた。
「……なるほど。ある意味において万物に意思が宿ることを体現するとも言えるような生き物がそれならば、その刃は案外にも優れてはいないのかもしれない」
 身体の上にぶちまけられた本に折り目がつかぬように丁寧に閉じ、傍に重ねる。
半分しりもちをついたような格好のまま物を退けると、擦れた生地の埃を払い、壁に手を着きながら伊三路は立ち上がった。
「人間も、あけすけにものをいうと価値が下がるという意味のことわざや例えを作るくらいだもの」
 薄暗闇でも鋭い眼光が見て取れる視線に貫かれた蜘蛛女は一瞬だけ、たじろぐ。
そしてすぐに牙を剥いたのだ。
「図にィ、乗るなあァ!」
 時を同じくして、伊三路の右手から囁き声に似た風が吹いたように感じられた。
もみあげのあたりから垂れた横髪のひと房が揺れ、壁には波紋のように淡い光が走る。
 一瞬のことだった。切れかかった電球が目を閉じる間もなくコンマ秒で一度消え、再び点灯するような、そんな光が確かに部屋の四方から天井へ、そして床を駆け巡って共鳴をした。
もはや目視の出来ないそれに激高した蜘蛛女は気付くこともなく、矮小と見下す相手である伊三路の喉から腹から、地面までとを力任せに切り裂こうとしたのである。
重い金属同士を打つことに似た音が響く。
壁をものともしない特性から振り上げたそれが一部壁にめり込もうとも支障はないとして力任せをしていた脚先が、コンクリートを削り、勢いを殺されると床にぶつかる前に引っかかりを得て動きを止めた。末尾で引っ掛かりを得て何度も途切れる音が鼓膜を雑に掻く音は、最後は摩擦によって打ち止められたのである。
人間の手足でどうこうした程度ではびくともしない強固な壁が、まるで湿った後に乾きかけの土を鋭いもので削ったかのように抉られていた。
深く切りつける鋭さと共にその衝撃と無傷の壁の境が、まるで柔らかな素材を錯覚するかの如く、めくれ、こまかな皺の形状を作っていたのだ。
「ハ?」
間の抜けた声が転がる。
自身のつま先を眺めるように、壁の干渉を受けて傷ついた刃を見たのだ。
 状況を理解しない蜘蛛女が愕然としているすぐ傍で伊三路はバールを振り被っている。
迫る脅威に気付く余裕もない彼女が見つめた先のように、先端は鋭く磨き上げられた刃物の脚を持っている。
しかし、その姿はあくまで蜘蛛の身体の特性を多く持っただけの、地続きのまま性質が異なる肌であった。
 身体を覆う短い針のような被毛を逆撫でて辿り、硬化する身体の境目――その節くれだった関節に伊三路はバールを強く打ち付ける。
ものを打った感触と、抗って存在しようとする物理の力を前腕の半ばまでしっかりと感じる。振るう方向に逆らう強い抵抗が骨のそばを駆ける重さのように感じられたのだ。
一瞬だけ指先を緩めかけるが、改めて意識し握り直す。
汗ばむ手のなかと痺れに似た衝撃で総毛立つ気配がゾッとして心臓に向かってくるかのように錯覚する。
うぶ毛の先まで震える邪悪な気配を知りながら奥歯を噛み締めた伊三路は、その腕を振りきった。
 すると悲鳴を上げる間もなくブチッと嫌な音がし、組織の存在が曖昧な断面から青みがかった透明の体液が噴き出したのだ。
激しく地を鳴らし、飛沫は濃い染みを作った。
体液はすぐに乾き、打ちっぱなしの床の上でこびりついた砂のように変質していく。
 「ギィヤアア」と耳を劈く悲鳴が、ひしゃげ、時にひっくり返った音を立てながら長く、大きく響いた。
伸びやかな声も、鈴のように嫋やかな音もなく、耳にする者までもが掠める濁ったそれに思わず自身の喉元に触れそうになる。
尾を引く痛々しさに思わず苦虫というものが読んで字の如くであるならば一体どんな味がするのだと想像する。
聞こえだけとってもそのような想像で顔が中心に向かって引き攣る悲惨だった。
「妾の腕が、腕がぁ」
 怒りなのか、悲しみなのか、はたまた憎しみに帰結するか。痛みが全てを凌駕していくのか。
震える喉とひどく恐怖する感情だけがありありと強く響き、地を揺らす。
この蜘蛛女の声が語る通り、腕――正確に語って脚の一本はぐしゃりと不自然に潰れ、ひしゃげ折れた脚は多量の体液をまき散らしていた。
されども、腕は完全に折れてはおらず、錯乱した彼女が後退ったことで壁に激突する度に辛うじて繋がり、垂れ下がっていたそれがぶらん、と揺れるのだ。
「何をしてくれる、無礼者! ただでは済まさぬぞ、壁が妾をぶったのだ! そして、お、お、お前ェ! お前が腕を、折った!」
 蜘蛛女が酷く動揺し地団駄を踏む様を尻目に伊三路は顔に飛び散った体液を拭う。
泥の乾いたように細かい粒子を引き連れてざらりと肌の上を舐る体液であったものをすり落とした。
そして軽い力で操っていたバールの先を手のひらで包み込むように触れる。
浮いた棒がごく軽い力で手を打つことでまた、パシッと乾いた破裂に似た音がした。三度と手から離れると、まるでその様は嗜虐に満ちた動作に見える。
いくつか響く音が、蜘蛛女にとっては死神が鎖鎌を引きずるそれに等しく思えたのだ。
 途端に恐ろしくなった女は蜘蛛の足で器用に取った椅子を投げつけた。
それをひらりと避けたのち、騒がしい音を立てて床にぶつかるパイプ椅子が鼓膜を激しく叩く。
幾つかを投げるたび、パイプ椅子たちは折り重なって倒れ、音を立て、一辺の壁際にばかり物が堆積した。
 ほとんど間を開けずに脚の先の刃物が飛んできたが、伊三路はわかりきったようにバールを操っていなす。
まさに癇癪を起こす子供を、慣れた大人が受け流す様そのものである。
手当たり次第の物が偏った場所に集められ――正確には伊三路の立ち位置に寄って調整され、この部屋の広さは当初とはまた異なった角度をしては見違えた光景を見せていた。
自身を守るために周囲に投げつける椅子や簡単な収納家具がなくなると、その様にいよいよ恐れるのが蜘蛛女のほうとなり、静かに語り出す目の前の男に対して総毛立たせながら身構えたのだ。
「なにって? なんだかんだと言ったって最後にきみはおれを殺そうとするし、視えないものを語ってきみは納得をしない。それに、知ったところで勝てない」
 普段と変わらず空気に丸みを帯びた調子の言葉を発するものの、恐ろしく冷えた目がまるで蛍火のように炯々として視線を向ける。
青々と茂るなかに強い日の光がさしてはその梢のふちを金色と見紛うことと同義の反射をするのだ。
瞳孔が濃い色をしてぼうっと大きくなっている。木の深いうろが広がるようだった。
「どうかな。この考えは」その末に同意を求める声は『語ろうが語るまいが、ないものとなるそれに果たして語る意味があるのか?』とでも投げかける口ぶりであった。
ただしその言葉の末尾は蜘蛛女からの返答に疑問符を含んだところで、当の伊三路に会話を続ける意思を持っているとは到底考えられないものであったのである。
「……驕り高ぶったこと、後に後悔しても知らぬぞ」
 虚勢で語った言葉だ。正確には蜘蛛女の傲慢な性(さが)が口をついて出る。
舐められてはおしまいだと考え、結果としても、少なくとも己が抱える恐怖の鱗片は見せつけずに済んだのだ。
そう思い込んでいる女は蜘蛛の身体から突き出て生えた顔の中で興奮に小鼻を膨らませる。
鼻を鳴らし凄む角度に対して伊三路はよく頷き、降ろした手元から垂らしていたバールを胸の前で構えた。
「ああ、恨みっこなしさね。したらば、さあ」
 伊三路の瞳の中で広がるうろが蜘蛛女には妙に引き込まれて感じられている。
いつに間にか場の主導権をを奪われ、風など吹いていないというのに風が止まったということをこの場が錯覚をした。
黴で黒ずんだ部屋とは思えない清涼だ。どこからかざわめく木々の声が聞こえる。
涼やかな影が伸び、音もなく伸びる枝葉を想像するのだ。
その光景を目にしたことのない蜘蛛女にでさえ、今まで見聞きしていたものや、人間の住まう側に出て知ったものの例えから記憶めいて引きずり出される概念の光景があった。
 決して逃れることのできない蜘蛛の巣から掛かった獲物が、巣を構成する糸を全く傷つけることさえなくすり抜けていくのだ。
未だ巣に這い、溶かした獲物の体液を啜り生きるだけの惨めさだ。
美しい翅を翻しながら逃れていく様よりも、誰よりそれが不可能と知っているものからすり抜けていくものへの漠然とした恐怖。
そして途端に当然のように思っていた己を構成する数々への細胞への疑念。
矮小と思い込んでいた人間の行動に対し、己の知るこの世の理から外れているとしか思えない所業と感じた瞬間に生じるものだ。
 疑った理を改めて垣間見る。己にたどる血の巡りすらもに吐き気を催す気持ちの悪さに思えた。
恐ろしさが血潮に溶け込んでいる。蜘蛛は初めて恐ろしいという感情の本質に触れたのである。
より明確で、最も深く、生命を直に脅かされるという本能がなにより拒絶する死への恐怖だ。
これらの想像が目の前に広がる光景の衝撃によっていかに肥大化したものと理解をしていても、はっきりとした命の危機に瀕した蜘蛛女にとって伊三路の存在はそれほどに十分異質であった。
 感情の根底にある仕組みに納得し得ないものの、ありありと存在する目の前の男が空恐ろしい。
見つめ続ければ触れることなどなくとも眼が破裂してしまいそうだ。と、不信な感情に支配された女は今更に先の言葉を後悔している。
「袋小路にされたのはどちらだと思う?」
 伊三路の瞳には動揺を隠せなくなった蜘蛛女の姿が映っていた。
息を呑むほどの圧は蜘蛛女の激高という火に油を注ぐだけのように見えたが、それは紛れもなく、彼自身が向けられた敵意を等しく返したものに過ぎない。



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