昇降口のホールで確認した道順と、一部を書き取ったメモを確認しながら進む。
極めて簡素な箱のかたちそのままのような校舎には教室の内容を示す表示板がなければ、同じ部屋が延々と続いているのだと錯覚して見える。
一々に気にしたことのないそれらの中に存在するらしい用務員室とはいったいどこであるのだと目を凝らすと、すぐに隅のほうで古い扉を見るけることができた。
どちらからともなく互いに顔を見合わせ、のちに祐がドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。
力の方向に抵抗はなく、簡単に開け放たれるそこが間違いなく用務員室であることを確認すると一足先に入室したのは伊三路であった。
「お邪魔しまあす」
 律儀にも唇で小さくささやく後ろ姿に続いて足を進めた祐が室内を見渡す。
室内はかなりの頻度で使われているだけあってよく整理されていた。
服が汚れる可能性のある仕事を含むためか、出入り口のすぐそばにある棚には消臭ビーズを入れたポットが置かれていた。
他には主に校庭を整備するための小道具が目立って置かれている。
その他の大きな機械や砂地である地面とよく触れ合う道具は外の倉庫にもおいているのだろう、と祐は想像をした。
踏み入ってなによりも驚いたのは想像以上の清潔が保たれていたことである。
いかにも倉庫であるような場所の殺風景を祐は想像していたために、周囲をよく見渡していたのだ。
 倉庫というよりはかつての宿直室を改造したような部屋は衝立と手作りで後付けした様子が見てとれる小上がりが存在する。生活の痕跡が強く存在する部屋だった。
流石にガスは現在通っていない様子であるが、簡単な水道設備は存在している。
湯沸かし器のそばにインスタント飲料の粉末スティックと個包装された割り箸が無造作に置かれ、水道の脇には水切り用の食器カゴが置かれていた。
そして中には無難な白い小皿とカップ麺の容器が伏せられてに収まっていたのだ。
わざわざ職員室の設備を頼らずとも食事に困らず、昼休憩であれば小上がりの畳で体を横たえて休むこともできるようだ。
古い施設の利用法も考えようであるな、と思いつつ周囲を見渡す。
もし、この場所に目的のものがなければ、職員室だろうか。と、考えを張り巡らせていたのである。
 電気設備など校内にまつわる重要な系統を管理する場所にもそういった危機下で役立つようなものたちは備え付けられていると考えたが、その根拠が大きく存在すればするほど、そのような場所に一般生徒が簡単に入れるものではないと理解するのだ。
あてが外れることを想像し次を考える祐をよそに、入室時の控えめな態度はどこへやらとした伊三路が無遠慮に段ボールや木箱、工具箱を片っ端からあけていた。
背後からその様子を覗き込むと、箱の中身はガラクタめいたものが多くを占めている。
小型の草刈機のように剥き出しに刃がついているようなものは当然こんなところへ置いておくわけもなく、汎用性の広い簡単な工具とそれらと共に使用する部品が主である様子だ。
 一歩ごとを確かめるようにゆっくりとした足取りで広くはない部屋を観察して歩き、衝立の影を覗く。
てっきり掃除用具入れでも備える程度の空間と思い込んでいたが、そこにあったロッカーは思いのほか幅をとっていた。
方々の壁や配置に干渉しない幅をきっちりと算出して配置したかのように赤い消火器が居心地良さそうに収まっているのだ。
ロッカーの下部で凹んだような空間に収まる消化器と消化設備の一部をしまう扉を下瞼に沿う視線で眺める。
正面にあるのは、自身の股下程度から胸の高さを超え、ちょうど頭上より僅かに上部を掠めるほどの位置で半分は壁に備えついたようなロッカーだ。
確信した祐がロッカーを開けると、ひとまとめにされたロープや大ぶりのニッパー、バールなど災害時に使用するようなものの一部が収められていた。
 ロッカー扉の内側にはどれがどこに収納されているべきかがきちんと明記されており、一部に図を用いた説明とチェックリストの項目までが設けられている。
その日付がごく最近にも存在して判を押されていたり、一部の道具が劣化のために交換することや発注中であったりすることが管理上で記入されている。
「茅間、見つけた。刃物ほど鋭くないが、相手は大きい。今回に限っては彫刻刀の類よりも役に立つだろう」
「これが例の。なんだか思っていたものとは異なるけれども、これはこれで便利そうだ。とても」
 ロッカーの中で壁かけのようにして提げられたバールをフックから外し、手に取ると祐はずっしりとした重さを手のひらに感じた。
ちょうど先端に沿うように持って肘までの長さほどだ。金属製の棒状は両端が釘抜きとなっており、先細りした形状が極めて幅の狭い二又に分かれていた。もう一方は緩やかに手招きをする仕草に似た曲線を描く。
彫刻用途に用いるちっぽけな切り出しナイフを封じられてしまえば丸腰である伊三路に持たせるため手に入れたバールをすぐに譲り渡した。
「ただ、返却時に少々気を遣う必要がある。例えば曲がるほどめちゃくちゃには扱うなよ」
先端をじいっと見つめたのちに両手で握り直し、まるで野球バットを振るかの如く素振りでバールの感触を確かめる伊三路は軽やかに返事をした。指を滑らかに立て、丁寧に握りなおす。
まるで波打つように一本ずつ棒状に巻きついていく指先であるが、何度も確かめるように行うそれは最も心地良い握り場所を探して僅かに上下を模索していたのだ。
「当然! 借りたものはきちんと返すさ。それにしても、いいねえ。これはどこかで買えるもの?」
「このあたりは部屋の並びとして滅多に訪れないだろう。そこそこ厳重に管理されているらしいが、本当に持ち出して構わないんだな」
最も課題となる点を指摘したのちに、目を輝かせる伊三路が購入できるのかということの返事を求めて振り返る。
「……買えたところでどう隠して持ち歩くつもりだ? 奇妙が過ぎては持ち歩く様が見つかった際に言い逃れが苦しくなる。十中八九は空き巣かなにか悪いことを企んでいると思われるぞ」
「そっかあ、残念。返却、返却。返却、は、うーん、か、考えておくよ。暦の力を早々に頼ることになったりしてね」
チェックリストを指差し、それを覗き込む伊三路が困った顔で笑う。
普段は流暢に語りをする言葉たちが詰まっている様子が声にありありと浮かんでいるのだ。
「その表情ですべてなあなあに解決できることならば誰だってその顔をする」
冷ややかな目で祐はそう告げるものの、両手で大事に握り込んだバールを手放す気配は全くと言っていいほど感じられない。
根比べのように見つめあって、祐はため息をつく。
「ここでくたばっては杞憂どころか全くの無意味だ。俺も少し考えておく。任せきりは気が良くないし、かといって他に代わりにできることもない」
「はは。ごめん、頼りにさせてもらいそう」
 苦手な分野に弱って苦笑するばかりの伊三路とすれ違って室内の中心に戻ると、工具箱を漁る。
きょとん、と目を丸くしている伊三路の視線を背に受けながら、祐は工具箱の中に収められたハンマー類を並べ始めた。
並べた中で一番大ぶりであるゴム槌と、次に釘抜き付きの金属製であるいかにもな金槌だ。金属製のものはより小ぶりなものを含めると二種類存在し、一番小さいものならば制服のポケットに忍ばせても立ち姿ままならば気にならない。
触れる先から極一部、金属光沢のつめたい無表情を知る。それでも袖口から忍ばせれば手の内にすっかり収まるサイズだった。
改めて、最悪の場合でも屋上脇の倉庫室に置き去りにしても隠しやすいだろうと考えたのだ。
それから、伊三路に手渡したバールを用務員室に戻せない場合はどこに紛れさせればそれらしく紛失したことを装えるのかということをいくつか想像した。
最後に、自身の必要とするものが精々のところ、板にしがみついた釘を浮かせる程度として必要としていることを再確認するともっとも小さい金属製の金槌を選び、祐は振り返った。澄まし顔でポケットに滑り込ませる。
別にそれを見られて困るわけではないがなんだか万引きをするみたいだと思うと、祐は誰に許しを乞うわけでもないというのに嫌悪のあまり吐き気を催すところだった。
 なんとかやり過ごして視線を戻すと、小上がりの机の上で背を丸めている伊三路は肘から先の手先をすい、と動している。
そしてハッ、と息の詰まる間もなく、シャキンと鋭い鋏が紙の繊維を断つ音がした。
「何をしている」
 空気が震える。祐の放った言葉に返事はない。
真剣に細かな作業をしているのか、息を止めているのか、呼吸によって膨らむ肺が身体を揺らすことも感じることができない様子で何かをしているのだ。
更に祐が後ろからそうっと近づくと、伊三路は薄い紙を四つの紙片としてなるように切り取っていた。
それには文字とも絵とも判断できる文様がサインペンで記されており、四つの紙片を正しく組み合わせるとそれ自体が紙片を跨いで描かれる一つの図形であった。視線を僅かにずらせば使用したと思わしき何の変哲もないサインペンが転がっている。
「それは?」
「陽の光。蝕が言ってるのを聞いたことがない? きみがいう、おれのもつ不可思議の力だ」
 鋏をちゃぶ台を思わせる低い丸テーブルへそっと置く。金属の重量が沈んで、それきり音は途切れた。
風を引き込む音が獣の威嚇行動を示すように『おおう』とぼんやりとした声で鳴く。校舎に響く不穏の具現である。
途切れるとたちまちそれが間を満たして浮き彫りになる未知があった。
言葉を飲み込む。その表現よろしく空っぽに酸素をまるで質量があるもののように呑み込んだのだ。
「少し話したこともあるよね。これの根源は前にきみが見聞きしたものとおんなじなのだけどもね、おれはこれの繊細な扱いが結構に下手くそなんだ」
「一体何の話だ。長くなるなら、先に結論か本筋を宣言してくれるか」
「すぐ終わるよ。……言葉というものはとても強い。これはおれに限った話じゃあなくて、誰にとってもそうだ。具現化に個人差があるだけでね。だからこれを逆手にとっておれは言葉の力で陽の光を取り出そうとするおれの意志をそれ以外に逸れないように縛るんだ」
 四枚の紙片を重ねて束ねると角を揃え、祐にその一枚目を触れさせてよく見せてやった。
促されるまま祐はそれをじっと見つめ、それらが次に何を示すのかを続ける言葉を待っていたのだ。
伊三路は膝に手をついた恰好からゆっくりと立ち上がるとあぐらをかいた足の間にも大事に匿っていたバールを抱え直す。
「本来は陰陽の類に似て用途ももっと多岐に渡る。それで言葉も長ったらしいものなのだけれども、これはいくつかの種類と段階に分けて出力する。これを"略式蝕封型"として、かつての"おれたち"は形式めいた対抗術にしたんだ。受け継がれたそういうものを参考にしているよ」
わざとらしく遠回りのことを語ってから、唇を舐めて湿らせる。
それからすぐに伊三路は上手い言い回しを思いついたように指を鳴らし、声を明るくした。
「つまり、本来であれば人並みにしか起こせない力の制限を外し、加速させて外側へ強く強くしたものを放出する。そこから足が出て例外的にもすこしばかりのずるもできるね。基本的にずるをするための力だ」
「また珍奇なことを。いまだにお前の語る怪異や迷信、不可解のどこまでがどんな性質のものなのか全く理解できない」
「信じたいものを信じたいように信じるのが人間じゃない。でも、そういったものが存在するのかしないのかと問われたら、在るというのが答えである。それだけだよ。人間がその概念を与えたのさ」
 手元に預けられた紙片たちは神札にも似た形をしているが、それを名乗るには烏滸がましく、精々のところ模して描いた幼稚園児の落書きのようだった。
少なくとも日常において意味を紡ぐために用いられる母国語のうち、ひらがなにもカタカナにも、もちろん漢字にも心当たりがない。
「正しさや信仰に関わらず、ね」
目には見えないものを語る伊三路が付け足した未知の存在について感想のひとつもないまま祐は「そうか」と返す。
会話をするための知識がないのだ。故にそれ以上も、以下もない。
「そしてこれは型のうちでも"ずる"の要素が強い。なんたって捕縛を目的とした種類だからね」
「はあ」
「壁に入るかもしれないと聞いたから、おまじない程度ではあるけれども例のくも女に会ったら部屋の四隅に貼ろうと思ったのさ」
 曖昧な相槌を目尻に映し、伊三路は壁に書類を貼り付けていた画鋲を一つ引き抜いた。
バールは足元に一度は置こうとしたものの得物を手にする安心感を捨てることに不安を覚えたのか、一瞬のほどだけ手を彷徨わせたが膝のあたりで、つまり足で挟んでおくことにしたらしかった。
そして紙に記された図案から知りうる知識に該当するものがないかを思考の海から引っ張り出そうとする祐の手から、紙片をするりと奪う。
「この力は、言葉にせずとも行動に対してほんのちょっぴりの手助けに使うくらいならば目を瞑るけれども、名を必要とするほどのものはおいそれとは使えない。再装填に時間がかかるしね」
 穏やかに語ると、身体の外側を描く線が膨らむほど酸素を吸ってから一瞬の緊張に肩を怒らせ伊三路は息を長く吐く。
「大丈夫さ。今日のきみをきっと無事に帰すよ」
脱力した手のひらを天井へ向け、紙片を右手の人差し指と中指で挟む。
そして次は何をするつもりだと声をかけようとした祐を視線で制し、左手の指先で摘んだ画鋲の鋭い先を右手の親指へと深く突き刺すのだ。
容赦のない動きであったが、プツリと肌を突き破って血管を傷つける感覚に対し僅かに眉が反応したことを祐は見逃さなかった。
徐に起こした行動であるはずが、言葉を発する間もないまま、指先に玉のような暗褐色が浮かんでくるのをただ見ていたのである。
血液が皮膚の上に浮かび、内臓がひっくり返りそうになるほど悍ましい内側の赤が反射する光に、祐は思わず嘔吐きそうになった。
 熟れた果実、血肉を内包する薄い膜。鉄から錆だけを浮かせた上澄みのような臭いの末に僅かに甘ったるく腐敗した刺激を帯びる。
錯覚だ。
蜘蛛女の眼を思い出したのだ。
正しく気を目の前に戻せばこの少量で感じる血液の臭気は存在しないし、腐ってぐずぐずになった肉でもない。
ただ、その血液だけが似た色をしているようには思えるだけだった。
人間に通っているものであるものの正しい状態であるため、それが至極当然である。
怪我の一つもしていないはずの祐こそが、伊三路自身が故意につけた傷から得る痛み以上の苦痛を顔に浮かべているのだ。
嫌な気配がしているように思えていた。
外側に出る一つの出口に押し寄せて丸く搾り出された血液を、伊三路は今し方に切り出して作った紙片の裏に躙り、拭う。
「だからっていう節約じゃあないけれども、力の及ぶ範囲を限定したいなあっていうめじるしさ」
「かんせーい」と伊三路は達成感を思わせる笑みを浮かべていたが、凍りつきそうな祐の表情を見てぎょっとして問い質した。
 しつこい言葉の攻防に祐は半ば茫然自失でいたところから帰って答える。
答えたところで半ば無意識のような後悔が襲って、弱味めいた言葉を押し戻したくなった。無駄な言葉が出る。
嫌な気分になっていたそれが、無意味に己を示す言葉の浪費を促されているのか、それともフラッシュバックの中で暗闇の淵をなぞる異形の気配に由来するのか判断がつかない。
「……血の色が、蜘蛛の眼に似て」
「あっ、怖かった?」
祐の言葉に素早く反応すると、伊三路は両手をさっと後ろ手に隠す。
その動きで足が一歩分だけ後退り、膝に挟んでいたバールが滑り落ちて床を鳴らした。
「いや、そういうつもりではないが、ああ。まあ、動揺はしたのかもしれない」
歯切れの悪い言葉が間を繋ごうとするも空回ってバラバラのまま、その場に漂っていた。
なにと口を挟むわけでもないが、まるで目の前の人間が人間ではないかのように見える。
 随分と慣れているのである。
事実としても慣れているのであろうが、普段から湛える穏やかな笑みを継続して浮かべる様に違和感を覚えるのだ。
「脚の多い生物は、見ていて妙な感覚に襲われるしな」
誤魔化しの言葉を真正面から見つめられることを嫌がった祐がバールを拾うために身体を屈める。
「あ、ああ、なるほどね。祐って、都会というところから来たのでしょ。学校で聞いたよ。都会というところはどこにあるの? 賑やか? 本当に虫はいないの?」
「……実家の所在地は確かにそう定義されるが、ひとつ前に住んでいたのはいわゆる地方中枢都市だ。それから、都会というのは地名じゃない」
冷たいであろう棒状のそれを持ち上げ、再度手渡すと、話題を逸らす目的で語ったことに興味を示す言葉が返ってくる。
水増しをして思想の違和を無味に近付けるためのものだ。故に意味を強く持たない誤魔化しの数々であったが、予想外の食いつきに対しておざなりをするわけにもいかなくなった祐は広がる話題に曖昧な相槌に似た返事をする。
 目を逸らそうとするたび、やはり余計なことが口をつく。
実家よりも別の暮らしが長いもので、もはや同義でも生家とするよそよそしさのほうが心地よい。
実家もその次の家も、今の部屋も。
そんなこと他人に話す必要などないことであるのに。
 取り繕って他がほころぶそれらから伊三路が自身の知らない話題を目敏く見つけ、楽しげに次の質問をするのだ。
祐は直に辟易とする感情を露にしたが、なにも変なことではない。強いて語るなれば事が起きているわりに呑気なだけだ。
注意を怠らずに移動している間のことであれば、所詮は手持ち無沙汰でもある。
口をきくことに脱線してもおかしいことではない。
そう言い聞かせていた。
この瞬間、言葉が途切れた際に続く静寂のほうが薄暗いものに思えていたのだ。
その場つなぎの言葉で引き留める。足を地に根付かせ、影を縛るように言葉を吐くばかりだ。
大きく旋回して尾を引く言葉の姿を眺める己が離れていく置き去りを錯覚している。
相反した拒絶が同居する脳が浮腫んだようにぼうっとしていた。
「きみ自身のことをきみの口から聞くことは当然であるはずなのに、なんだか新鮮で興味深いよ。話してくれてとても嬉しい」
そう笑いかけられる最中にも、どこか冷めた血液の循環を体内に感じながら祐は伊三路の指先から視線を外せないでいたのだった。



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