「よ、よ、よ。よ、う、む、用務員、室。あった、あった!」
 ひとつきりの音が、口笛として唇を掠めた空気のように垂れ流しにされていた。
辞書の巻末にある索引をなぞることと、歌うことの中間めいた言葉が絶えず紡がれている。
時に詰まった音として発せられるものも、おかしなことなどひとつもなく耳に触れて通り過ぎる。伸びやかな透明だ。
ささやき声に等しい声量と末尾で乾く息遣いは、彼が時おり機嫌よく校歌を口ずさむ際のそれと近い音に感ぜられていた。
 皮膚のもつ僅かな湿度と年輪のように刻まれた指紋。そして盤面のプラスチックと指先の間に生じる摩擦。
それらによる引っ掛かり故に、つつつ、とぎこちない滑りで見取り図の白をなぞっていた指先が歓喜をする。
機嫌の良い指先の所作は弾くさまで曲線を描き、目的地を示す図形を爪で鳴らす。
叩かれたプラスチックの乾いた音が返事をするように鳴り響き、伊三路は一層のこと目尻をさげてみせた。
一階を示す図形の中で、自身の予想よりも早くその文字を見つけたのだ。
「うん、うん。ここからなぞれば職員室へ行くよりも近いねえ」
 満足げに頷きそう笑った伊三路が先を歩くのだとさっさと一歩を先に出したために、祐は大人しくペンライトを手渡す。
「用務員という役職が何をするひとなのかおれはいまいちよくわからないけれども、今日の場合は助かるねえ」
「学業には直接関わらない立場だが、校舎の世話をするようなものだ。教材置き場と化している教室の管理は該当教科担当の仕事であるし、必然的に割合を占める校庭などの整備に都合がいい位置どりなのだろう」
「なるほど」
 体育館へ通ずる廊下の流れに乗り、ライトの光で反射する糸を大股で跨ぐ伊三路は五分ぶりほどにして思い出したように口を開く。
半身を捩り、顔は祐を振り返るのだ。
「くもの姿をしているということは、対峙する最中でも糸を吐き出すものなのかな」
「まず、脚の先が刃物のように鋭利になっていた。最も理解をしやすく、明らかに危険なのは間違いなくそれだな。蜘蛛自体の生態から推測する程度でも、糸は見ていないがまず触れないほうが良い」
 蜘蛛女の容姿を思い出しながら祐は呟く。
元より現代の生活における価値観で語って稀に見る、というものが最も正しいような出立ちの少女であった。
豪華絢爛な着物をまとい、惜しげもなくいくつもの花を飾っている。美しい細工物のビーズを編み込んだ髪飾りから垂れ下がる絹の布地が揺れると時間の流れが本来よりもずっと遅いものに感じられるのだ。
いかにも蝶よ花よと育てられすぎて出来上がった傲慢な子どもの末である。
残虐を隠すこともなく振る舞っていた。
 極め付けに、色のすっかり抜けた髪であるというのに重苦しく不吉を纏った目鼻立ちと、特徴的な瞳が爛々とする。
値踏みする視線がねばついて輪郭をなぞる様を想像すると、背筋をつい、と触れられたかのように怖気が伝播するのだ。
一般論で語る美しさを恣にした末のそれらが恐ろしいほど冷たく、生物としての定義を逆行していくようにみえる。
 既に人間離れした容姿を見ていることから、人間を依り代に変貌した姿ではなく蜘蛛が元々の姿なのだろう。
下敷きは蜘蛛で、その上に見よう見真似で形成した人間型の擬似餌を乗せていると考えると妙にちょうどいい納得ができる。
咽せるほどの甘いような、腐ったかのような煙たい臭いすらもが鼻腔の粘膜に平然と残っていた気がしてくるのだ。
 記憶を改めた全身に波が立つようにゾッと総毛立つ。
中途半端に思い出して要らぬ怖気を再生してしまった。祐はそう思わざるを得なかった。
古びて一部の映像や音が抜け落ちた録画映像を前にすることに似て、先を想像と曖昧な記憶で埋めようとする無意識に歯止めをかけるための本能が咳払いをする。
 対して、あるいは誤魔化すように伊三路のほうへ視線を向けると祐の隣で予想外の問題点を見出し、首を捻っていた。
「どうして? 糸はべたべたするからいけないの?」
そう口にする姿を見せたかと思うと眉根を強く寄せ、僅かに唇を突き出して思い詰めるという言葉を全身で表した。そして改めた姿格好で、丁寧に疑問をいかにも疑問らしく尋ねる。
それこそ、いかにも糸などただの糸に過ぎないではないか、と語りたがっていることがありありと窺えた。
 少なくとも、対峙する敵は己らのよく知る蜘蛛よりも遥かに大きいことを彼はまだ知らないのである。
持ち合わせる情報と、日常に親しく存在する蜘蛛の様々を並べ、そしてひとつずつを見比べた。
「相手がどれくらいだと思っている? 俺をゆうに越えるくらいだ。辺り一帯の糸は確かに細く見つけにくいが、よく知るはずの蜘蛛と比べればどうかということを少しは思い浮かばないか」
伊三路は祐の胸あたりの高さから頭上に視線を動かし、しまいに首を伸ばして仰ぐ。
天井をなぞり、祐へ確かめるように戻った視線がかち合った。
「まず、通常の蜘蛛の大きさでも糸の強度は同じ太さである条件でも鋼鉄の数倍あるそうだ。同じく伸縮性に富むナイロンとも比較して叩き出す数字もある。つまり、詳細を割愛するが、仮定に過ぎない想定上でも蜘蛛の大きさで考えられる糸の太さでは大抵の衝撃を防ぐことができるだろう」
「ないろん」
半数する言葉の舌足らずに頭を抱えそうになるが、確かに詳細を語ったところで『なるほど』と簡単に頷く説明でもない。
割愛する意図よりも好奇心が勝つらしい伊三路に祐は訂正をする。
「化学性の合成繊維だ。綿よりずっと伸びやかで頑丈と言われる。一部の運動服や鞄に……いや、いい。非常にしなやかで強い。それでいいだろう?」
「う、うーん?」
 思考を回していることは表情から窺えるものの、連動して傾く首が可動域を往来している。
キコキコと油の切れた機械のように鳴らんばかりの様から感覚的な理解を得ないようだった。
それらは結局のところ、日常で手にする純の素材ではないし、己ですら雑学的に知っている繊維たちの知識だ。触れて明確な学術価値のある知識で納得できるわけでもない。
とりわけ現代的な知識や素材に慣れ親しめば先の説明でも感覚の縁をなぞることもできるが、『そう』と思いつく根拠の少ない人間であることも手伝っていると気付き、目の前の伊三路に祐は謝罪をした。
「いい、悪かった。文字上の比較は結局わかりにくいうえに、素材がそれでも織りかたで強度はまた変わる。今の会話は全て忘れていい」
「ええ……わかった」
「言いたかったことは、お前が全力で飛び込んでも布が撓む程度にすらならないと仮定して言い過ぎではない柔軟性と丈夫があるということだ。抜け出そうにも簡単には破ることができない可能性が極めて高い」
 言葉をよく聞く伊三路は蜘蛛の糸の上で得物の切り出しナイフを振り回す自身を想像したが、仮に絡まった先の素材が強靭であり、かつその糸がべたついているという前提のことを思い出す。
「それに消化液を注入して"中身"を啜る食性もある。よほど近接しなければ脅威としての危険度は下がるが、お前の武器は長さの不利がある。糸に捕まったならば、言わずともわかるだろう」
付け足された言葉によって伊三路のなかで繰り広げられていた想像たちの物語に続きが描かれる。
 ぬかるむそこで足掻いているうちに祐よりもずっと大きい背丈の蜘蛛が迫り、己を覆うほどの影に怯える間もなく身体に消化液を注入されてはちゅうちゅうと啜られる様だ。
文字通り液状化をして啜られた"中身"と、ぺそりと残った生物の皮に浮かぶしわを想像すると、苦いものを舐めた時のように舌が痺れた様子で答える。
げっそりと顔色を悪くしてみせるが、全てが事実であればその想像を優に超えて恐ろしいものであることは目に見えていた。
「おまけにべたべたするということ。それは……確かに危ないね」
 ごくり、と固唾を飲み、充分に間を空けた後に結論めいた言葉が「危ないね」の一言に集約されていたことに祐は一瞬その姿を疑う。
先程の顔色はなんだったのだと今にも言ってやりたくなった。
しかし思いとどまる。感性が大きく異なる言動は日常茶飯事なのだ。
本来は自身が何の責任を負う必要もないし、何があっても今のところ当の伊三路は何食わぬ顔で戻ってくることを祐も知っていた。
故に無意味に多くの言葉を重ねることもすぐに辞めたのである。
「……そういうことだ」
やはりどこか噛み合わない想像をしているように感ぜられる伊三路を前に、危険意識さえきちんと植え付けておけばその程度の認識でも構わぬだろうと祐は首肯し、既に伊三路に渡したために彼によって操られるペンライトの光を目で追ことを再開するのだ。
「ひええ。やっぱり、おれの皮がぺっそりと横たわっているところを想像すると生きた心地がしないねえ。しょ、消化液……」
含みのある言いようを受け取り、やや背後で未だ想像上の惨劇にしなびた声を上げる伊三路が強張った顔で両の頬を手で包んでいたが、もはや祐はそれを気にかけることはしなかった。



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