まだ乾いていたころの冬よりも湿度を孕んだ引き戸は普段が痩せすぎているせいか、むしろ調子良く、いかにも簡単に開いた。
室内の大部分を占めて連なっているねずみ色の簡素な事務机たちは一見して区別がつかない様子で黙り込んでいた。
あまりの精巧さに驚いて半歩足が下がったが、入り口で値踏みをするように視線を巡らせる。
そして壁際のホワイトボードや掲示板を見渡し、蜘蛛の糸に極めて注意をしながら祐はそれらの張り紙に近づいた。
 部活動の試合や一部の校外活動などで留守にする予定らしい教師たちのスケジュール調整や校庭の使用権におけるローテーション組み、ほか学校行事や重要連絡が雑多に貼り付けられている。そして脇に消火ベルを目印にした消火栓の格納庫だ。
防災訓練・緊急時の心得、と書かかれたプリントが貼り付けられた壁際の足元に屈む。
 壁と一体化している扉を視線で下る。
心得とは緊急時の混乱でも確認できるよう作られた短い文言たちだ。
一切の無駄を削ぎ、細かな記述はない。
どちらかといえばスローガンに近い箇条書きのいくつかが横向きのA4サイズ用紙にゆったりと構えているのだった。
眉を顰め、視線をさらに下るが目的のものはない。
マグネットだけが残っている格納扉を見る限り、存在はしているのだ。
祐は首を捻り、低い姿勢のままでよく周囲を見渡した。
歩いて来た方角より奥を見て目を細める。
それから床に手を着き、這いつくばるように頭を下げると、机の向こう側に、つまり一本先の通路にプリントが落ちていた。
何も印刷されていない裏面を天井に向けられていたプリントをそうっとした足取りで拾いにいくと、それはまさに祐が探していたものだった。
本来は心得と共に消火栓の格納扉にマグネットで貼り付けられているはずであるものが落ちていたのだ。
祐は防災時の誘導班に割り当てられている教師の名前を確認した後に立ち上がる。そして踵を浮かせて最上の席を探した。
 学年順に三年生の担当教師が最も出入口に近い場所に配置されているのは、進路関係で生徒が訪れる頻度が高いためである。
そして最も荒れている机が最上のものであるならば、そこからこの配置をかなり正確に察することができるはずだ。
そうすれば多少の消去法を含めて、リストにおける誘導班に任命された教師の机がわかる。
名前だけはよく知る面々であるが、皆が揃って冷たいねずみ色の机を使っているのだから誰のものかはわかりくいのだ。
今回、並びを確かめて一致させる手掛かりに含まれた最上の怠惰に対して不本意にも感謝しながら祐はプリント上のリストをなぞった。
 緊急時の誘導班に任命されている教師の中で最も心配性か、真面目そうな教師に目星をつけた祐は遠慮なくその机の周辺を漁りだす。
まずキャビネットを開き、分厚い書類用のバインダーばかりが並んでいることを確認すると眉を顰めた。
次に机の脇に引っ掛けられたトートバッグを見た。通勤用の鞄ではないことを確認してから多少遠慮がちにその中を覗きこむ。
案の定、膨らんだトートバッグの中身は校内で使用する一部の荷物を持ち運ぶ際に使用しているもののようで、雑多に放り込まれたものたちは主にプリントを束ねたものや辞典、そして一部電子機器、電池類だ。
そこから単四電池を数本頂戴するものの、目当てである懐中電灯は見当たらない。
 机やロッカーがあまり広くないことからもペンライトに近い大きさの可能性もあると仮定して祐はキャビネットの中段よりも上にある薄い棚をも片っ端に開いた。そして丁寧にケース入りで仕切られた文房具たちを視線で二往復し、次に適度な太さのペンは全て手にとって確認をする。
しかし、いずれもが照明の代わりになる機能を持ち合わせてはいない。
出発点から最も距離が近く、可能性も高い場所にきたつもりが最も期待できる人選のアテが外れたのだ。
当たり前である。絶対の事柄はない。
だが、この距離の移動ですらこの調子であるならば、せめてこの部屋で他に何か役立ちそうなものはないのか。
そう思案しながら周囲を見渡す。
すると椅子の収められた足元に折り畳むことのできる小型の収納棚が寄せられていることに祐は気づく。
 大した対荷重もなさそうな脚がぴんと張った棚の上には柔らかい素材でできたルームシューズが置かれ、その下には細長い小箱がある。
目を凝らすと箱の側面には『防災関連』という赤文字のラベルが貼り付けられていた。
迷うことなく膝をつき、上半身を伸ばして小箱を掴み寄せるとふたをさっさと取り去る。
使用頻度の少なさからか整理を後回しにされた箱の中には雑多に防災グッズの数々が収められていた。
呼子笛やペンライト、プラスチックケースの中に納まる塗料を含んだボールなど、災害から不審者の押し入りまで多岐に対応するための自衛用品が用意されていたのだ。
祐はその中からペンライトを手にとり、胴を捻る。そしてペン筒を分解すると先ほどトートバッグからも拝借した単四電池をその空洞へ滑り込ませるのだった。
電子辞書用の小さな電池であろうが、常備されているものがペンライトである場合を考慮して確保していてよかった。
率直にもまずひとつ果たしたそれに安堵を覚え、動作確認のためにスイッチへ手を伸ばそうとしたその時だった。
 微かに耳で拾った音が、身体の動きを止めた。
スイッチの上に指先を添えたまま、祐は机の下から音を立てず抜け出す。
息を潜めていれば、聞こえるものは上機嫌な声だった。
「愉悦で気が急くという感覚は悪くない。長らく忘れた感覚であるが、これほど退屈な生活の中ではひとしおに甘美に思える」
鞠をつく歌声だ。
 祐は息を呑む自身の喉が上下する感覚をいやに自覚しながら室内を這い、声から遠ざかろうとする。
差し出して床についた手に向かって体重を移動させようとしている最中、廊下から聞こえる上機嫌な言葉たちがぷっつりと途切れた。
その出来事が相手に自分がこの部屋に隠れていることが察せられたと理解することに時間はかからない。
半分立ち上がる形で足を踏み切った祐が後方のドアから職員室を飛び出すことと、前方側に位置する木板のドアが吹き飛ぶことはほとんど間を同じくしたのだ。
背後で出入り口の最寄りに位置した机の上で本が崩れるのを尻目に見て走り出す。
 耳を裂く騒音の後に校舎を震わせた蜘蛛の姿としての一面も持つ少女の声は既に独り言の域を越え、明確に祐に向かって語りかけるものであった。
「……もとより混沌の性を持ち合わせる邪と定義するならばズルもしないとは限らぬよな。其方も意思疎通ができぬと考えているのなら、もとより約束を果たすほうがおかしな話と思わぬか」
直後に鞠が弾ける。
乾いた破裂音が、筒のような空洞に伸び、張り巡らされる構造をする校舎にのびのびと響き渡る。
長く余韻の尾を引かせたのだ。
「それとも都合の良いところだけで理由を拾い喚くか。信じられずともたった二、三分など誤差の話よ。まあ、其方のちんけな時計とやらではずるも正しさも証明できまいて。たったの二分ではないか」
嫌な気配が輪郭をなぞった。唇の端が不気味なほどつり上がっている。
その様を目で見たわけではないというのに、知らない表情をまるで見てきたもののように鮮明に、なにより不気味であると肌で感じたのだ。
恍惚と苛立ちが入り混じり細かに泡だったような感情を豊かな興奮に昇華した蜘蛛女は己の身を抱きしめ、脇腹を突き破って蜘蛛の脚を生やした。
そして興奮に紅潮した頬と同じくふくよかな線を描き、あたたかみのある血の気をした指先が、破れた鞠だったものからほつれる糸を纏っている。
ひとつの愛着も持ちえぬままそれを振り払うように投げ捨てると、人間の身に擬態していたものはもはや上半身のみにとどまり、下半身の蜘蛛は廊下の幅に半ば身を縮めながら祐を追いかけ始める。
「ああ、待てぬ! さっさと逃げて妾を楽しませろ! 喚け! いますぐ妾の愉悦の限りをその身でを示せば残りの時間をもうちと待てることでもあろうて。退屈! 退屈、退屈退屈!」
 飛び出す際に引っ掴んだペンライトをやっとのことでポケットに突っ込む。
走り出した勢いで身を振り回され、上半身を大きく乱す。転倒を恐れて突き出した腕の先――指先が床を掠めたが、恐れず床を押し返して体幹のバランスをとる。ほとんど転がるかたちで角を曲がり、回り道をする。
 廊下の両端と、一部の階ではその中間である三箇所に階段が設けられているのだ。
部室棟に通ずる簡素な渡り廊下を含めればその周回を複雑に仕立てることもできるだろう。
問題は体力がそれまで保てるかどうかである。
 歯切れの悪いハサミの歯が嫌な音を立てて擦れ合うことによく似た金属音が廊下に響く。そしてその鎌のような鋭い切っ先がまるで点の大きさに集約された圧で廊下を駆けることによる重苦しい質量の騒がしさが同時に存在していた。
背中に滲み、滴りかけた汗を冷たいものであると感じながら祐は駆けていく。
この時に何かを思考することができているとすれば、それはなるべく正確に思い出そうとする校内の配置図であることただひとつに違いなかった。
駆ける際に生じる音の圧を聴毛で感じ取る蜘蛛女の存在が背に迫っていることなど、振り返らずともまざまざと感じることができるのだ。
鎌のふ節が床や壁を自由に這い材質を引っ掻く音が徐々に近づいている。
直線の廊下を走り切り、角を往く。上履きの側面がキュッと鳴れば、摩擦の熱で靴底を焼く想像が浮かぶほどの勢いだ。
 よく通い慣れた階段を祐は一段飛ばしで半ば飛び降りるように駆け降りていく。
踏面を一段、時に二段と股にかけてまさにびゅんびゅんと飛んでいくのだ。
転がるが如く駆け降りる角度に加速し、重力が狂った感覚のなかで定まらぬ身体が行き場を危ぶまれている。
内臓は底からぶわりと持ち上がり、脳はふわふわと水面を漂うかのような浮遊感に襲われていたのだ。
乱れた呼吸のせいで肺や喉が締め上げられる苦しささえ覚えていた。
引き攣った気管の苦しみからわずかな吐き気を催していたものが徐々に蝕み、無視することができないほどその感覚が大きくなっても祐が足を止めることはなかった。
運動が特筆して得意ではない祐にとって身体にかかる負荷は大きく重いものである。今にも押し潰されては膝から崩れ落ちそうだった。
 昇降口までは降りず、大きな窓ガラスが連なる渡り廊下を駆け抜ける。
そして大部屋区画の連なる部活棟を経由し、物置きと化した空き教室に転がり込むのだ。
引き戸式のドアを急いで、それでも静かにぴったりと閉じると、掃除用具をしまうロッカーに隠れる位置から身体を半身にして様子を伺う。
それから数分も経たぬうちに、ドアに備え付いた丸窓越しの廊下に影がスーッと通り過ぎる。
蜘蛛の特徴が強い姿は人間の目を以ってしても視力が弱いのか、祐の気配を間近に感ずることなく過ぎる姿を目で追うと、蜘蛛女の顔からは異常に発達した牙のような鋏角と触肢が生えており、もはや先ほどまでの人間の外見からは遠くかけ離れているようであった。
ほとんど蜘蛛そのものである姿になり、廊下の奥へ向かって獲物を探している様子であったのだ。
 足音が途切れるならば怪しむことには変わりはない。
この状況を打破したとは決して言えない様子に対し、祐は張り詰めた緊張を継続して教室内を見渡す。
伏せた椅子を机に組み上げたものが室内の半分近くを占めていたが、使用済みのプリントや授業の資料、古い参考書などが雑にまとめあげられて荷造り紐でくくられているものがいくつもあった。段ボールに雑多につめた小物や壊れた備品を見つめ、その中に持ち手のかけた鋏があることに気付く。
 ざっ鉄の廃棄ごみからそれを取り出し、手に持って動作させることは不便極まりなくぎこちないが鋏としての機能が失われているわけではないことを確認する。
まるで先の蜘蛛が鎌の脚を擦り合わせる音に似て錆びた音を鳴らしていることに一瞬だけ眉を潜めるが、まとめられた荷物に宛てがうと遠慮なく荷造り紐を切った。
 最初に荷造り紐から解放された資源ごみたちをわざと歪に積み上げる。それから掃除用具をしまうロッカーから柄の先が丁字の形状に似た姿の箒と、プラスチック製のバケツを取り出したのだ。
手に持つ箒の長さを目視し、自身の腕の長さと比較することで確認をする。次にプラスチック製のバケツを小脇に抱え、なるべく音を立てず取手を取り外した後にバケツの位置を定め、転がらぬよう気を遣って横たえた。
ドアにピッタリと寄せた角の位置へ箒を立てかけた際をシミュレーションしていく。
もし失敗をしたとしても、物音を立てることができればいい。できることならばなるべく簡単なものではなく、人間の行動に対して不注意の結果であることを演出できれば尚よいのだ。
箒の柄とブラシの部分が丁字に交わる首の位置に荷造り紐を括り付けると、ブラシの角度を整えて祐は鋏を片手に教室をそうっと出る。
閉じたドアの隙間から引っ張り出した荷造り紐をたぐり、ドアに遮られ、角によって緩やかに固定されることを確認する。
 鼻から息をはく。
落ち着きを得つつある心臓の鼓動は平時に近い様相でとくとくと静かに胸を打っていたが、正常な脈拍が今は大きく響いているように思えていた。
逃げることや恐怖することとは異なった緊張が周囲に薄くまとわりついていたのだ。
壁に沿いに荷造り紐を這わせ、曲がり角まで引っ張る。
すぐそばの教室に身体を滑り込ませ、手だけを廊下に残してぎこちない動作の鋏を握った。
そして意を決すると、シャキン、と音を立てて荷造り紐を切り落とす。
すかさず切れ端を摘み上げ、改めて壁に這わせると一見にして目立たぬようにし、何食わぬ顔で教室のドアを閉めたのだ。
 直後、箒の先端――幅広のブラシに弾かれたバケツが積み上げた資源ごみである本や紙類を薙ぎ倒すバタバタと騒がしい音が響く。
間を開けずして追いかける蜘蛛女が床を抉るかの如く駆ける嵐の勢いが過ぎていった。
無遠慮に床を抉る足先が大きな音を立てたのだ。
ドアの窓からその影を確認した祐はペンライトを片手にし、蜘蛛女を撒き部室棟を抜け出すための足を再開したのである。
 校舎に戻ってきた祐は改めて職員室で教室の配置図を確認し、今現在で己の持ち物を確認していた。
職員たちの机を一瞥したものの、あくまで他人の明らかな私物を必要以上に拝借するのも良いことではない。
電池や本来校内備品であるペンライトを少々くすねることは責められることがあれどまだ言いわけが効くだろうと考えているものの、ぶら下がった程度に残る僅かな良心が行動を咎めて物色を断念したのである。
並べた手荷物を眺めつつ、特にこの空間に引き込まれる直前に手にしていた缶コーヒーを見つめ続けていた祐であるが、徐に手袋を外して額の汗を拭う。
そして顔を覆っていた手を退けると決心したように息を吐くのだった。
氷の瞳をする奥底でゆらりと色が揺れる。
助けは求めた。そして自身の心身を顧みても、あまり余裕はない。



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