このクラスの中で己に割り振られた備品の机を前にいくつかの私物を取り出そうとして祐は周囲を見回した。
しかし机や椅子、ロッカーなどは精巧に存在している半面で教科書やペンケース、その他の鞄に入っているようなものは一切持ち越せないでいたのである。
つまり、面積が大きく、この教室を教室たらしめるために手っ取り早いものばかりが模型を並べるかの如く再現されていた。
空っぽの机、開かないロッカー、鍵のない窓。その窓枠にガラスの透明は確認できたが、温度はない。
手袋を外し、指の背でその透明を軽く叩いたところでそれがガラスと思えなければ、破壊することも気が遠くなることのように思えた。
手当たり次第全ての取手や引き手に指をかけ、その他の扉がつくものすべてが開いたとしてもその中は空の静寂を貫いているのだ。
 真似事の空間に配置をするために人間の側を凝視する眼は、結局のところ人ならざるが故に見落としをしている。
黒板の手元にある一本を除いて本来備え付けのチョークケースに入っているものたちは一本たりとしてその姿を確認することはできず、それどころかチョークケースのなかには原料である炭酸カルシウム質の粉が落ちていることもなかった。
がらんどうである様子は穴の中を眺めている気分だ。やはりハリボテの校舎が人間を騙すためだけの精巧を極めているのである。
放り込んだ空間が少しずつ、そうでありながら確実に、精巧をしていくのはその眼がいかにして何を見ているか、ということなのだ。
張り巡らされている糸に足をかけてしまう確率は滞在時間が長くなればなるほど跳ね上がるように思うが、もし、この空間に時間をかけるほど精巧を増して境界を薄めるのならば、閉じ込められた側にも手にする手段は増える。
縄張りという名目において主に有利が働いて知り尽くされた空間と、まだ推測の上に薄く降り積もった程度の根拠を天秤にかける。
安堵か堅実のどちらかひとつを選びたがるたびに、振れ幅によって傾く錘乗せの薄い皿を吊る金の糸をじっくりと眺めるが如くとなって固唾を呑んだ。
 手段がために浪費をすれば相手がどのようにして攻め立ててくるのかを憂いをしることとなり、人間ゆえに、人間の思考が及ばぬ意表を突かれるだろう。
時間を優先し逸る思考で歩み、模索に振るう四肢において注意が疎かになれば、自らの愚行でこの遊戯の最もつまらない結末として用意されたひとつに自ら飛び込んでいくことになる。
回避を突き詰めるほどこの四半刻――つまりせいぜい三◯分程度あたえられた猶予にすべてがかかっているといっても過言でない。
どちらも必要なことであるが、手にする順を誤ってはならないのだ。
そのためにするべきこと、いかにして相手のてのひらの上で踊るかと見せかけるために、なにより行動を縛る不自由を追い払う術を得るために、祐は最も日常にありふれたと考えられるものから得る手段を掴むことにした。
 祐はブレザーやスラックスのポケットをひっくり返し、身につけていたがために持ち込むことのできたいくつかを確認する。
広いとは言えない机に並べたものを左から右へ視線の動きだけで眺め、端までいくと折り返して始点までをなぞった。
変哲もない格好の携帯電話、硬貨を数枚ずつ収納する程度の小さなコインケース、先に購入した缶コーヒー。そして生徒手帳、その表紙に挟んでいたボールペン一本。
 極めつけに胸ポケットから転がり出たものが先日の伊三路に手渡された紙の塊だ。
胸ポケットに直に入れたことと素材の薄紙が手伝い、ぱっと見る限りでよれた格好のそれは割り箸の包み紙を適当に縛ったようにも見えるが、曰く、本来は歴としたまじないを施し折り込んだ結び飾りである。
『きみに危険があればすぐに千切って』
 水面に映った木々の揺らぎだ。そんな調子で喉を絞られた伊三路の言葉を思い出す。
しかし、しばし逡巡を得て祐はそれをすぐには手に掛けずにしまい込んだ。
 次に携帯の電源を押し込む。
すぐに明るい画面を映し出すはずのそれは暗いまま怪訝な顔をした自身を映し、視線が跳ね返ってこちらをみていた。
多少の可能性は予想をしていたが冷静と装うには少々崩れた表情のまま、携帯の電源ボタンを親指で何度も押し込む。すると三、四度のうちで一回ほどはきちんとした作動を確認することができた。
薄暗いままの画面についぞ彩度を見出して反射を見入るようになったころ、ぱっ、と目の奥を刺す電子の光が点灯されたのである。
もし、この後に及んで最中の異常を磁場の狂いだとか、自律神経にとって都合の悪いものだとかとするにしても、とりあえず携帯の電源はつくのか。
確認をしながらそう考えていた祐は光に目を細めながらも、同時に素直な感想として驚きを覚えていた。
 通話機能が使えないであろうことは火を見るよりも明らかであったが、幸いそれだけではないのが最近の携帯電話である。
その他の機能が役に立つ。
同じく不可視をする者たちにカメラ機能には期待はできないが、光源やその場しのぎの目眩しとしてライト機能には十分な期待ができる。
なによりライトがつくだのつかないだのがこの空間になにか作用をする理由で使えなくなるとは、これが演劇だとしてもありがちだとは思えなかったのだ。
 筋書きが用意されてよく出来た物語ではないが、空間に対して多少の干渉が可能なものをいくつか考えたとする。
人間をよく知る賢い者であるならば、電機製品の稼働はまず潰すであろうことは大変に簡単なこととして推測できることだ。
真っ先に断絶させるといって過言でない。
なによりも、人間が考えたって暗闇が必須でなければ照明器具および懐中電灯、ライトの全てを使用不可にはしない。
電機関係の小型化の進む中で光を断つことはもはや不可能である。誰が何を持っているか、意外なところで光源になりうる程度までを制限しようとすれば、ただ途方もなく膨大な手間になるだけだ。
 ぼうっとした思考がいくつか往来をする。
しかし、祐は待機電源に切り替えようとしてすぐに気付く。この画面は――極めて細身な自体で画面上部を占拠する時計の機能は、一分経つでたびに時刻を進めているものだ。
情報に応じて文字が切り替わるのを見ている。
秒針を用いたデザインではないデジタルの数字が、一定の周期を以てして表示するものの意味を変えていく。
それだというのに、携帯電話に表示されている文字の羅列がまるで意味を成していないのである。
日常を漫然として生きる際にはなかなかに見るものではない常用外の漢字や意図が不明の記号が規則性を感じさせない様相で立ち並んでいるのだ。
 ミミズがあちこちに折れ曲がって表しているように見えてくるほど日常生活にはない難解をして、一見では前後に繋がりのないそれが切り替わる。
それが一分の経過を表していた。尤もこの場所の磁場が狂いに狂っているわけではなく一分を構成する刻みが六○秒であれば、ということを取ってつけたように言い聞かせる。
つまり本来の役割を果たしているとは決して語ることは出来ないが、それでも電機製品の類は動きをしている、ということである。
連想しては順番待ちのように手を挙げる疑問たちに取り囲まれるかの気分になると、祐は携帯電話を制服のポケットに突っ込んだ。
 犬歯を噛み締めて固まったままの表情は唇を薄く開いている。
明確に動揺しているということを別の感情や表情で上書きし取り繕うことを忘れていたのだ。ただ呆然としている。
携帯の充電すらかろうじて残量のアイコンで判別するしかない。
七分目までをあかるい緑色で塗りつぶすアイコンが示す残量ですら、この空間においてどれくらいの連続的な動作が保証されるかということは不明であるのだ。
そう思うと、蜘蛛が張り巡らせたと思われる糸を見出すためにライト機能を常時使用することを今すぐ決断する必要はない。
 兎にも角にもこの時間でやらねばらぬことの一つは、照明の機能を果たす代替品を探すことである。
「そして時間もない」
ブレザーの胸元をなぞり、手荷物をしまいながら、思い直す。
今こそこれを千切れば良いのではないか?
その考えは合理の正しさを持っていたものの、額の裏側で再生されるように妙に狭く空間で歪んだ像が次に語ることは保健室でのやりとりに似た棘だった。
吐けぬ唾の末路における引け目ではないが、いまこの瞬間において自身の中で助けを求めることに気が引けている事実を、今回の囮めいた作戦において事象が何者かに観測されているのならばなるべく引き付けて回避を試みるべきであるという別の合理性で上書きをしていた。
 透明のカードは表裏を返すまで何が描かれているかということがわからないのだ。
ならば、茅間伊三路の語る敵の侵攻を観測している者を本当に存在するならば、確かめるために札を返すことのできる回数は多いほうがいいに決まっている。
決め込んだ正しさに都合よく優先順位を上書きしつつも、この場において生死を分けるその線を引くタイミングの明確をあらためて己へ課すと祐は机に並べた残りの数々をもポケットにしまいこんでいく。
最後に、ポケットへ入れて持ち運ぶには少々に質量のある缶コーヒーを見つめた。
折りたんで小さくすることもできなければ、ただしまうだけでも備え付けられた袋状が膨らむほど嵩張る円柱型だ。
黒に近い焦茶色のパッケージに塗装された缶の輪郭を一瞥する。
そして、この事態であれば仕方あるまい、と意思なき相手に対して意味のない言い訳をすると浮き彫りの影がありありと語る寂寥を置き去りにして机を離れた。
 教室のドアを出る直前、思い出したように振り返る。
最も窓際に追いやられた席には缶コーヒーがポツリと取り残され、目を焼くような落日の色で塗りつぶされた窓からの光で塗りつぶされた側面を光らせていた。
その反射に目を細め、祐は引き戸にかけた手を引っ込めたのだ。
うつむく頬には同じく窓から入り込む黄金色の光が差している。

 とにかく薄暗い廊下で物を語ろうにしても、一見に蜘蛛の糸もなにもない。
窓から入る日は明るくとも、糸は光らない。視線の入り込む角度を変えて観察しようものならば不可能ではないが、無数の糸のそれぞれに軽微ながらの手間が積もる。
もどかしさから感情をわずかに変換させたものが怒りとして身に蓄積する。ふつふつとごく小さな水泡が浮かぶ様のように苛立っていたのだ。
 先に考えた通り、三回までは見逃される罠に怯えれば、蜘蛛女の姿をした蝕が校舎をうろつくまでの猶予をあっという間に迎えるだろう。
そして時間を優先して恐れ知らずと一歩を踏み出せば、罠ともして猶予と設けられた三回という慈悲もむなしく三振を一瞬で踏み抜く。
祐は無意識で額に手をやり、前髪をわずかに持ち上げて考えた。
思うようにいかないもどかしさに燻っているところで、チラつく伸びてきた前髪が唐突にも無性に邪魔なものと思えてきたのだ。
 蜘蛛女がいまこの瞬間に校内を闊歩しても、していなくても、糸に引っ掛かれば意味がない。
これは安堵と堅実のどちらでもなく、どちらを抱え取っても解消できなくてはすべてが無駄になる絶対の条件だ。
遊びと称するこれが鬼ごっことして成立するための根幹であるシステムと言っていい。
ならばやはり、糸を照らし見る代替品を確保しなければ話にもならないのである。
 それから祐は最も安直にひとつを浮かべた。語るなかで誰しもが最も思い浮かびやすい選択肢であり、それら備品を用意する義務がある分かりやすい部屋だ。
職員室である。
職員室にでも行けば、少なくとも懐中電灯のひとつやふたつあるはずだ。
この建物に電気は通っていない様子であるが携帯が使えるという時点で、充電式であったり、電池として取り付け電源を得るものは動くはずだと考えられた。
問題は職員室の中で存在するものたちがどれだけ精巧な再現をされているかということである。そこに電池が持ち込まれているのか。
 顔を上げると奥の廊下は教室を出たばかりの頃より温かみが増している。
あれだこれだと指摘できるほどの変化ではないが、まるで呼吸をするように精巧が増して平時に備わる親近感へすり寄ってきたのだ。
 ポケットから半分出した携帯の充電残量を確認する。
静かに階段を降りる足音が鳴っていた。
 階段へ続くために折れ曲がった通路から左手に握る携帯のカメラ機能を使って確認する。そして正面は視線の動きだけで確認しうる全てを捉える。窓から差し込む光の角度を想定し、三つの高さを定めて蜘蛛の糸を探すのだ。
細く息を吐き、ほとんど後ろ手に構えたような携帯の画面へ視線をやった。
針の筵の上を歩かされるような緊張のせいか廊下がやけに長く感じる。
そしてその奥は生活を漂わせて近しいものへなりつつあったがまだ暗いものと思えていた。
 聳える壁の如く持続する厚い緊張が圧としてのしかかっている自覚をしながら、その画面上に映る中だけでも情報を多く得るために角度を内側へわずかに傾ける。
 やはりなにものでもなく、ただ他人のいないだけの廊下が映っている――そう思いかけた瞬間だ。
引きちぎった雑音のように携帯が暗くなり、その次には画面いっぱいに、いまに流動し溶け合う真っ最中の何かが映っていた。
本能が吐き気を催すほど生々しい肉の色をし、どろどろとした波間を揺蕩って蠢く何かが持つ眼球の形がこちらを見ていたのだ。無機質な黄金にも似ている。
音などどこからも出ていないというのに、頭蓋の内側からぬめる水音が這うようであった。
 汗が吹き出す。
実際には吐き気を催すより先に、本能の全てが拒絶を知った様で携帯を投げ出す。
それが目を離すよりも早く行うことのできる唯一の自衛であったのだ。
 投げつけるという言葉にふさわしく叩きつけられたのちに跳ね返った携帯は、祐に恨めしく画面を向けたまま腰の高さに近い位置で固定される。
そこには既に何かの姿はなく、生え揃った短い毛並みに幾つもの眼が並んでいる蜘蛛の姿が写っていた。
眼の周辺だけが携帯の画面いっぱいに映し出されていたのである。
その画面越しであるというのにも関わらず、並ぶ眼にはすべて祐の憔悴と焦燥の入り混じった表情がそれぞれわずかに角度を変えて映り込んでいた。
まるで熟れすぎた赤の果実が腫れぼったく膨らみ、今に落ちんとグズグズしている様だ。
透き通る薄皮にはもはや膿と見紛う果肉と、そこに埋もれた種子が透けていることを思わせる。悍ましく、なにより画面越しとは思えないほど明瞭な眼力だった。
しかし、鋭く尖らざるを得なかった本能が蜘蛛に対し抱いた感想は「なんだ、驚かしか」という程度であった。
その直前に映した肉片と黄金の眼が、確実にそれとは異なっていたと理解したのだ。最初のものは、蜘蛛女のそれではない。
先に一瞬だけ映し出した肉片は一体なんだったのだ?
蜘蛛が放つものよりももっと単純に、明確に、全身が怖気立つあの圧は一体、なんだというのだ。
 足の先から伝播した恐怖に身体が震え上がる。
それよりも先のことを一切として考えることはできないでいたが、少なくともそこで固定された携帯電話が何を意味しているのか気付いた祐は既に言葉を発していた。
まだ他にも糸が張ってあるかもしれないということを忘れかけて指先を伸ばしかける。
「しまっ――」
しまった。そう思ったのだ。
誰に言い訳をするまでもなく反射で口をついた言葉で自らの喉が震え、そのことにハッとすると言葉は途中で詰まり、言葉尻はブツリと切り上げられた。
指先を引っ込める。
触れることが叶わなかった携帯は祐の横を通り過ぎ、まるで意志を持ちひとりでに動いているのかと錯覚させるほど勢いよく上階へ引っ張られていった。
 遠くでバタン、という木の崩れるかのごとく音がする。
まるで校舎全体を揺るがす勢いで木材の崩れるかのような音だった。
誰が聞いても理解することができる。扉をしめる音だ。
少し遅れて蜘蛛女の高笑いが響き渡り、祐は足がすくんだ思いをする。
 血のめぐる先である指の一本ごとや以前別の触から受けた傷の痕が異様な熱を持つ頃になると、祐は焦る気持ちよりも口論じみたものの後に結局のところ伊三路を頼ることを複雑思っていた。苛立ちに集約される感情に行き場がないまま自覚なき歯軋りをしていたのだ。
この事態はどう見ても戦う手段なくして外に出ることはできない。
細い息を吐き切ったのちに、胸ポケットから取り出した極めて薄い和紙でできたような飾りを力任せに破く。
皮肉にもその際に放たれた強い光が僅かの間を照らし続け、祐はその光を頼りに糸を避けながら廊下を足早に進んだ。



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