「それで、きみのところへ水を持っていったら、あろうことかきみは器用なことにも立ったまま眠っていたの。よほど疲れていると思ったから連れてきたのさね」
 いくつかの沈黙を固く束ねた波をこえて、静けさを取り戻すとどちらからともなく語り出す。
話を聞くために再び祐は上半身を起こしていた。
伊三路は手振りを交えて状況を語り、最後に枕元に置いていた封の切られていないペットボトルの水を指差す。
それから丸椅子に座り直したのである。
起き上がる際に跳ね除け、また、気遣いで掛けられようとしたのを断った布団を手繰り、会話と会話の隙間を埋めるようにしてそれらを整える祐は憔悴した様子で呟く。
視線は下がったままで、伸びた前髪が目の表情を遮っている。
会話を拒むような態度でありながらもその声色は詰め寄るように緊迫しており、伊三路はその勢いに押されて一瞬だけ背を反らしていた。
「俺は本当に……ずっとここにいたのか? 身体はこの場所に?」
 整えるために触れていた掛け布団をいつしか祐は握りしめている。絞り出す声色だ。
そのなだらかに朽ちかけて垂れる背の姿勢を伊三路はじっと見ていた。そして反らした背の骨一本に繋がって、顎を上向きに持ち上げていたような体勢でいたまま眉を顰め、目頭にしわを寄せた。
「いかにもね。紛れもなく、そうだ。ひどくうなされていたから嫌な夢でも見ていたのかと思っていたのだけれども、そういうわけでもないということかな」
眉間に皺を寄せ、言葉にならない音を口元に含んでは寝返りも打てずうなされている様を思い出していたのだ。
これがもし、ただの悪夢を見ていたわけでもないというならば話が違うとでも訴える意味も込めた伊三路が、うってかわって祐の肩を押し戻して寝かせると、掛け布団を奪い、今度はぐいぐいと肩まで伸ばしてかけてやった。
 すぐに押し返そうとする祐を視線で制して語る。
中綿の潰れた扱いにくそうな布団をぎゅうぎゅうと押す伊三路の手が沈んでいくあたりで祐は抵抗をやめ、身体を横たえておくことにしたのである。
そうでもしなければ、話はいつまでも進まないと考えるほかなかったのだ。
「おれはきみの体調がよくはなさそうな様子を瘴気の揺り戻しかと思っていたけれども、もっと深刻だったのかもしれないって意味だよ」
 強く睨みつけるような視線を向けられると、その焦点が直接的に己へ向けられているわけではないと理解しながらも居心地が悪くなる。
丸椅子の上に居住まいを正す伊三路に観念した祐は枕に乗せた頭のまま横向きに体勢を変えた。仰向けのままでいることに加え、その視線に串刺しにされていたら無意識に喉を締め上げて呼吸がままならなくなるのではないかと思ったのだ。
 この男の殺意に似た感情や異形の生物の瘴気と呼ばれる悪影響は、日常を与えられるままに享受して生きる漫然をした人間には簡単には耐え難いものだと感じる。
本能的に生命の危機に瀕した恐怖をするというよりは、大自然を前にして圧倒されるように高く聳えるプレッシャーを浴び続けることに似ていた。
これが善性に傾くならば、それの感情を畏怖というものに変質させるのだろうと考えていたのである。
「ゆめ……確かに。夢を、見ていた。だが、現実に感じるものがあっただけと言われれば納得する程度のものだ。混同した妄想と呼べば十分に片付く」
 負の感情を強くして逃れるように目を細めた祐は、吐き捨てるように一息で話すのだった。
まるで誰に当てたものでもない、拳を強く握りしめた先のものだ。諦めにも、苛立ちにも思える表情が疲れた顔色にぶら下がっている。
伊三路は黙ったままそれを聞いて、そして唾を飲みこむための時間をたっぷり開けてから「そっか」と返すばかりだった。
「瘴気の影響よりも圧に感じることが最近のきみにあったんだね、わかった」
そして言うべくか僅かに逡巡してから、少々の苦い顔をしたままで一言の気遣いを付け足す。
「大変だったでしょう。やっぱり、もう少しだけでも寝ていたら。目を瞑ってさ」
小さく首を振る横顔がまだ疲れているように見えて、伊三路は祐のことが不憫に思えていたのだ。
「そうは言ってもまだ帰れるようには思えないし、無事に帰りたいでしょ? 退屈ならばおれが勝手に話をしているからさ」
その言葉に対してどのような行動を起こすかの判断は委ね、それ以上に踏み込んだ言葉は口にしなかった。
ただ、言葉と同じくして行き場を無くした視線を下ろしたまま、伊三路は手帳を取り出して意味のない言葉を書き留める。
特別何かの情報を取り出して記すためではなく、間違いなく場の空気を何かでやり過ごすためだけだ。
「それにしても、夢、ね」強いて会話の中で出てきた言葉を書き留めたならば、"夢"という文字を縦に流れた字体で記したことだけである。
「夢を見ているときというものは意識が境界の曖昧なところにある、なあんてことは古来からの定説だってね。長い時間を観測した書物をひとたび開けばすぐに知ることのできるくらい有名な話だ」
ボールペンをすいすいと動かし、罫線の間に文字を埋めていくのだ。
「確かに判断はしがたいかもしれない。おれの感覚も察知に向いていないようだしね。でも今のこの町の状況においてね、常識などというものはないのさ。普通は定義としての意味を成さない。きみの思うことは妄想だと笑われることじゃないよ」
「茅間の語り口を模するならば『既に縁は結ばれているから』とでも? 多感だの願望だのの妄想やその副産物としてのほうが圧倒的に簡単に片付けられるし、現実(ここ)の常識では『普通はそう』だ。笑いたければ笑え」
そうは語りながらも、意識の水準について聞いたことをも思い出していた。
 事実、伊三路の語るそれらが『多感だの願望だのの妄想やその副産物』ではない言葉に含むことがあることを祐は既に経験している。
それがなければ今この場所に茅間伊三路という人間が居て、こうして会話をする間柄ではないのだ。
しかしながら、心のどこかではこんなもの全てが逃避願望や、思春期と揶揄される生き恥ではないかと思うことがあるだけに認めたくなどなかったのである。
フィクションみたいなことあり得るわけがないのだ。
とうとう気をおかしくしたのではないか、と疑うことがやはりどこかに強く根を張っている。
「これはあくまでおれの仮説だからね。確かではないし、混乱させたくないからあんまりこの状況で言いたくはないのだけれども。意識水準の低下によって蝕の領分に引き込まれやすくなること、そして人々が語る夢に見た世界の情景。その狭間、さまざまな言語で語られる理想郷の概念――たくさんの名前がついているこれらを、おれは同じが極めて近しいものだと思っているんだ」
「まあ、大方のところ、目覚めているときと確実に眠っているとき以外の自覚し得ない全てを曖昧といえば、それはなんでもかんでも夢であるともいうことになるけれども」と、肩を竦め、自嘲するように鼻で笑った。
 人智の及ばぬ全てを空想で埋めようとして、それが蝕の食いものにされ姿かたちを得たと考えれば受け入れやすい。そう伊三路は断った上で話を続けている。
「いま語るところの境界っていうのは主に夢と現の間のことさ。先の通り、古来より眠っている間は魂が別の世界に飛んでいって、そこで見聞きする情景が夢だと考えられた。もし夢と現の境界、その先が表裏一体に模倣をし得て存在するあちら側だとしたら? 裏側、もしくは鏡写し、あるいは反転。そこにある場所ではこの世界に存在する全てのものの力が反対へ働いているとして……それこそが蝕が隔離され現在を生きる世界ならば?」
 祐の怪訝を見て、伊三路はどこか遠くを見ては挑発をするように投げやりの笑みをして続ける。
「へんなはなしだよね。後に現実へ戻れても磁場が狂って見た極彩色の夢だとか、その戯言だとかと語った人もいる。しかし、さすれば、触が生き物と接触するいくつかの手段の一つが意識水準の低下であるのも説明がつくんだ。本来共感や共鳴を有することのできる生き物同士がその曖昧で邂逅を果たすことや、記憶の一部を食んで模倣をした産物から学び、それらを手がかりにさまざまに道の手段を開くことが一言におかしなことではない。ということはね」
「全てを疑って生きるわけではない。逆もまた、然りにな」
「つまり?」
「茅間の語る言葉を事実と思うには十分に共感できる気もするし、しかし証明するには物理的な根拠には欠くともすると納得はできないとも思うということだ。俺にはそんな、目に見えぬ夢幻のようなことはわからない」
 鼻から大きく息を吐き、頭を振る。
考えるほど頭痛がするのだ。続けて考えたくとも、思考に靄がかかる。
そして続ける祐は痙攣するように下瞼を持ち上げ、次に指先で目頭を抑えるばかりだった。
「現代における科学の知るところで語れば、夢の定義を記憶の整理とする説もある。確かに互いの信じる根拠、その其々で説明はつくだろうが全てが触の干渉とは限らない」
「そういう意味での、先の言葉ね。うん、だから仮説の域を出ないって言ったでしょ。知らないことを知りたくはない? それとも、記憶の整理をして思い出したくない事柄があるの? だから眠りたくないの、きみは」
 祐の目が大きく見開かれていた。
目の奥で眼精疲労に似た痛みがずくん、と走る。
碧の滲んだ瞳がひどく激昂に染まり、光の屈折によると極めて強い反射で萌ゆる若い芽の色に近似しているのだ。
布団を握りしめていた黒手袋と、纏う制服の新緑が振り上げられていた。
「空白ともいえるそれをやりすごしているの」
 シャツの襟を引っ張り上げられた伊三路は表情を変えないままでいた。
丸椅子の座面から僅かに腰をあげ、掴まれた胸ぐらの勢いに突っ張る服の生地が己の喉を締め上げて呼吸を妨げないよう半分だけ立ち上がっていたのだ。
引き寄せるような動きで顔を突き合わせる中、伊三路の瞳に映った祐はかつてない怒りを明確に表していた。
鋭い眼光が氷柱の冷たさを極限まで高めては、何度も深く突き刺さん勢いで身体をずたずたに貫く。そんな想像が思わず伊三路の示す身体の反応に僅かな動揺をもたらすほどだった。
「……図に乗るな。これは利害の一致であり、詮索と疑念を持てばいとも容易な積み木崩しの関係だ。理解できないとは言わせない」
怒りに震えた声だ。一方的に言い放つと、投げつけるように伊三路の襟元を開放する。
「ひどい自己陶酔にでも見えるんだろう。ああ、俺ですら被害妄想であるならばまま飽きてきたと思ってはいる。だがな、"そうではない"記憶は簡単には許せないし、お前みたいなやつが向ける中途半端な同情が最も煩わしいんだよ」
「その目が!」と、強い言葉をぶつけられても無言でいるだけの伊三路の睨みつけて吐き捨てると祐はベッドを降り、上履きへ足を通した。
「仮に、外側から見た己をどれだけ馬鹿らしいと感じて呆れたとしても、所詮主観と客観は互いに成り代わり得ることはない。故に別つ思考上にある自他の救いもまた、互いに理解不能であることは間違いではない」
そのまま一瞥くれることもなく丁寧に折り畳んだ布団をベッド上の足元に値するあたりへ置き、保健室のベッドをいくつかの区画に隔てているカーテンを引いた。
 背を向けたまま、一度足を止める。
「詮索は邪な知識欲だ。より直球には支配欲に近い。心底不快だ。その欲が抗えぬものとして備わるならば、せめてもっと上手くやればいい。信用商売なんだろ」
「祐」
伊三路もまた、ベッドの前に立ち尽くしたままでいる。背を向けたままだ。
その様を視線だけで窺い、祐は首の後ろに這うじっとりとした汗の筋を自覚していた。
「結びの紙は持っているね」
 ただ何もない空間で満たされている。
校舎内が妙に静かであることを理解して、現在は今朝に存在を聞いた全校集会の最中なのだろうと思えた。
鳥の声がしている。付近を一本線で突き抜ける通りに自動車の走行音が遅れて耳に入ってくる。
茅間伊三路の声は緑を渡る凪だ。豊かな自然に溶け込んでいるかのようだった。
「ああ」
空白めいた間を置いて返事をする。
「おれはこうして無礼もする。時に……それはおれが行うおれのための自分勝手で、はたまた率直におれに与えられた役割を果たすための事柄でもある」
 背後の気配が小さくなっていくように思えた。萎びていると語れば単純に生命が衰えた様にも思えるが、水分や栄養を欠いては頭花を支えられず首を垂れている様だ。
「ううん。事実としてもいましがた、おれには個人的にきみのなかに確かめたいことがあって、わざとらしい嫌な言い方もした。これはある種の悪意とも言える。一部の言葉をうそにしてしまってごめんなさい」
謝罪に区切りをつけ、続ける。
「同時に意識水準の低下による危険や既に取り付けられた蝕との縁を避けられないものならば、別の方面から与えられて持つきみの負荷を和らげる必要が、場合によってはあるとも考えている」
「そのことに意味も必要もない。お前のことを手放し信用しているわけではないからだ」
「おれには思うことがあったのだけれども……そのようだね。思い上がりで、あまりに土足だった。先のようになって当然だ。これもごめんなさい」
すぐに続いた声が追い付いて祐の耳に触れる。
「ただ、何度もやっても、おれはきみの敵になりたいわけじゃない。いつだって、そうだよ」
 半身で振り返ると、伊三路は祐のほうを真っ直ぐ見ていた。
正確にはカーテンを一枚隔てていたが、向こう側の人間が何をしているのかということが手に取るように理解できたのである。
そして左手を内側に向けて己の胸ポケットを指すと、次に祐のブレザーを意識するようにして視線を誘導するのだ。
ぼんやりと影を写し取るカーテンの中で手の動きは判断がし難いはずであるが、カーテンが薄く透過する肌や、細かな影が直感的にそれを理解している。祐は先日受け取った飾りの存在を確かに思い出しながら、視線を僅かに胸元へ向けた。
「きみに危険があればすぐに千切って。粗相はあってもおれたちの関係はまだ利害の一致であって、解消はされていないでしょう? ならば互いに利用をし合わないと勿体ないというのも考えかただよ」
「今回はお前の口が悪い。だが、手を挙げたのは俺だ」
長い息が溜息として間を繋ぐ。
この会話の居心地が悪い祐は早く場を去りたいとばかり考えていた。
「それについてはすまなかった。八つ当たりが全くなかったと語れば嘘になると、その自覚はある」
カーテンを隔てた先で伝える。
「……悪かった。ただ、今は一人にしてくれ」返事を待たずとして祐は保健室を去るための歩を踏みだした。
 仮に、伊三路の放つ言葉の幾つかが攻撃的な挑発であれど、純粋な邪だけではないのだろうということは祐にも理解できていたのだ。
何を探ろうとしているにもこの瞬間は間が悪かった。
祐は感情の乱れに対し自己嫌悪に似た激しい苛立ちを知りつつも、何かに当たり散らすこともできずに大股で廊下を進んでいく。
動揺を見せたことや、八つ当たりをも含むような態度を己のことながらに嫌悪する。
利用価値の対象に弱みを見せてどうするのだ。仮に価値の付き合いだとしても、厚意をもって接してくる相手に対して適切なものではない。
そして踊らされる自分が最も愚かに思える。立ち回りが良くないのだ。
例え何を蹴落としても無駄にしても、正しく、そして賢く生きなくてはならないのだ。
感情という機能がまるで欠陥のように思えて仕方ないのである。
 加速する思考に相反して脳裏にはやけに高く、また煩わしく抑揚をする女の声と、受けた光の多くをそのまま返すようなぞっとするほど生々しい巨大蜘蛛の眼の並びが掠めているのだ。
そして遥か遠くに電話の呼び出し音に似た幻聴がするばかりだった。
まだ目覚めていないとすら思いたがっているのだろうか?
ゾッとして身体を震わせると逃げるように保健室から遠ざかる足を速めていた。



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