氷上の生活は極めて繊細と思われるが、つまり、極めて簡潔なことだ。
薄いそれであればあるほど怯えて暮らすというだけである。
蜘蛛の持ついくつもの眼と見つめ合っているこの現実もまた、深淵に至る過程に薄らと張る脆弱な氷だ。
舞台に立たされればいずれ自重に逆らえずミシミシとひび割れ、そして落ちる。
重力と無重力の間に吊った身体は糸を絡めて固定されているかのようだ。
膝から崩れ、その感覚を延々のことのように享受する。
落ちる、落ちる、落ちる。
 停滞している。
奈落に落ちる感覚が長らく続いているが、これに身体が慣れないのだ。
距離などない空間で落ち続ける。
 宙吊りに固定をされたまま落下し続けるという矛盾の所以たる感覚がいずれ相反して浮き上がる錯覚に姿を変えようとしていた。
もはやこの脳に焼きついた喜怒哀楽が記憶に依存して投影する情景を思うこともない。
宙吊りの感覚のみの固定と落下――その再生と巻き戻しを繰り返すようにしているが、事象にまつわる事実として実に落下の距離を稼いでいる。そんな感覚だ。
その過程を己の意思に是非を問うこともなく繰り返しているように錯覚する身体は突如として跳ね上がり、その反動で起き上がった。
 真っ暗闇を突き抜けた先に、突如耳鳴りが消えたのだ。
底を見た気がした。
そこには柔らかく透けるカーテンによって日光が遮られる部屋の薄暗がりが広がっていた。
元は美しい絵が描かれていたであろう飾り皿の破片を。氷の上に散らばる星くずのような細かなガラス片を、冷たいフローリングの上にうつ伏せに身体を横たえた状態で見ていたのだ。
閉め切った空気や強い感情が煽る澱の声を、だ。
目が霞むように錯覚する程度には差し込む光の量が落ちているというのに、中心がぼんやりと明るく見える様はまるで内側から輝いているのだと思っていた。水面のようだ、とも。
そして目立つのは細かな粒状になるまで粉々と砕かれたガラス片だ。撒き散らされたそれがきらきらと光っている。
赤や青や、緑。橙といったようなはっきりとした色の積み木が影によってくぐもった様子に塗り替えられて転がっている。
頬を床に押し付け、俯いた様子でそれを見ていた。
 外側から与えられる何かが恐ろしいのではなくて、言いようのない不安によって感情が満たされると身体の中身がそれらに依存する別の何かによってすり替えられるのではないかと錯覚していたのだ。
まるで自己を失ってしまうような、漠然として、解決のしようがない。
そんな負の感情たちの寄せ集めはやがて肥大し、小さな子どもの身体など簡単に呑み込んでしまうものになっていた。
故に、もがく四肢が布地を掻いて逃げ出そうとするのだ。
内側から不規則ながら莫大な力が働き、丁寧に関節のひとつひとつが外された身体の一部が四方八方ばらばらに飛んでいくのではないかと思っていた。
爆発的に侵食し増殖する恐怖が脳を焼く。
ふと冷静に、祐は、喉が渇いたな、と遠くで考えていた。
 ハッ、とした頃には己の意志でどうにもしようがない。
床が見えたのだ。落ちるな、と思う。
僅かに働く理性のそれもすぐに掻き消えて、空恐ろしさに魅入られた脳は情報を正しく認識することをやめた。
 腕が横から伸びてきて、跳ね上がった力の勢いのままに逃げ出そうとした祐の肩に触れた。静止を促している。
「落ちてしまうよ」
「は、」と息を吐く。次いで、うめき声のようなものが祐の体内に響いた。
外側にはうなされるような意味のない母音だけが喉元を掠めて漏れている。
ようやく焦点が鮮明に像を結ぶと祐は伊三路の腕が遮る前方に身体を預けていたことに気がつくも、うまく力が入らなかった。
ただ、だらりと投げ出した腕が朝より軽く感じていることから、時間の経過と意識の浮き沈みがあったことを知るのだ。
「ここはどこ、どこなんだ」
「ちょっと。落ち着いて」
胸を激しく上下させ、息を乱している。
 反対に、目覚めてなおも額に汗を滲ませる姿を見た伊三路は、すぐに祐の中で未だ尾を引くらしいただならぬ険しい気配を察した。
やや伸びた前髪の間から透けて見える目元が何を見据えているかを察することはできないが、見開かれている様は、確かにひどく興奮しているように見えたのだ。
「落ち着いているだろ、やめてくれ。おれにふれるな」
 「いやだ」、「ふれるな」、「はなしてくれ」。「ちがう」。
熱に浮かされたうわ言のように特定の言葉を繰り返しているのだ。
まるでそれ以外を忘れてしまった様子で取り乱している祐を宥めようとする伊三路すらもが、凍りついて強張った表情をしている。
異様な様子であることは火を見るよりも明らかだった。
「祐、落ち着いて。保健室だよ。学校だ」
「違う」
「違くないよ。ほら、植物に、なんだか可愛らしい動物の置きものに、橙や薄桃色の家具。きっときみが家に置くには選ばないものばかりじゃないかな。どう?」
 上半身の行く手を阻むようにして前に伸ばした腕から手首だけを内側に向けて、伊三路は祐の肩を掴んだ。
少なくとも前へ進もうとする力を抑え込み、もう一方の手で祐の下顎を掴むと、薄らと冷たい頬を周囲の景色へ向けさせた。
そして視線を誘導したのちにひとつひとつを確認させたのだ。
顎先をぐい、と持ち上げられた祐はひどく怯えた瞳をしており、掴まれてままならない方角を呆然と見つめたまま未だ荒い息遣いをしている。
支える下顎や喉元を一部掠める指先で、伊三路は何かに恐怖する祐の喉が引き攣り、震えていることを感じ取っていた。
「よく見て。ただの保健室さ。大丈夫だよ、だれもきみに悪意を以ってして触れることはない」
 伊三路が同じことを何度か語り続けてやっと、ゆるゆると波と渦の間を漂っていた冷たい凍星の瞳は光を宿した。
指先が掴む力に強制されていたために鼻先を正面に向けたまま、その目の縁をなぞるようにゆっくりと視線だけを動かして確かに横に居る伊三路の姿を捉えたのだ。
「ほけん、しつ」
「そう、そう。保健室だよ。きみがあまりに勢いよく飛び上がったから、おれは落っこちないように支えたの。掴まれて痛かったのならば、力加減が下手だったのかもしれない。ごめんね」
点と点が繋がるように、ようやっと意思の疎通によって散らばった情報が一つに収束すると伊三路はそっと手を離す。
そして小さく丸まった背中が要らぬ強張りで固まってしまわぬように断りを呟いてから優しく撫でさすった。
 荒い息遣いは、やがてか細く、長い息へと変わり安定した呼吸が微かに空気を震わせていた。
祐は再び枕に頭を預け、青白い顔で身体を横たえている。
ここに居ることを許されも咎められもしない伊三路は何も言われないことをいいことに、椅子に座って様子見ていたのだった。
普段通りであればさっさと授業だの、集会だのへ行けと言われそうなものだと伊三路は自虐めいたことを考えていたが、当の祐といえば脱力した腕で顔を覆っている。それでもやや傾いて沈む顔の角度がまるで光を疎んでいるようだ。
 気遣いのつもりで伊三路が布団をひっぱり、身体にかけてやろうとすると、祐は顔を覆ったまま一瞥も確認せずそれを断った。
もう一方のだらりと脱力した制服の腕と手袋の間から覗いていた手首の肌に布地が当たったために感じ取ったらしかった。
「変な……世話を、させたな」
「ううん。夢見が悪いのは稀にあることさ。気にしないから、きみも気にしないで。本人があれだけ驚いたくらいだ、意識もはっきりしてなかったのでしょ」
「普段はどうでもいいと思っていることだ。忘れてほしい。……悪いが電気をつけてくれるか」
 今にも消えてしまいそうに掠れた細い声だ。
「この部屋、薄暗くて仕方がない」
そう付け足された言葉の意味を勘繰るも掴みあぐねた伊三路は、極めて普段通りを努めて答える。
塩を撒かれたように元気のない祐の様を見ていて気分がよくなかった。正確には調子を乱されるようでもある。
そんな調子の結崎祐という人間を、伊三路は見ていたくないと思ったのだ。
たちまち後ろめたさに似た感情に支配されそうになる。
 言いようもなく胸に蔓延るもやを誤魔化すように席を立つと、流石に大きく動き回る気配に警戒せざるを得ない本能が働いたのか、祐の居るあたりから様子を窺うような、縋るような視線が後を追いかけてくることを伊三路は感じた。
それらに特に何を返してやるということもなく保健室の入り口に立ち、照明のスイッチをパチン、パチンと軽やかに押し込んだのだ。
 薄い日除けのカーテンが揺れる。換気のために伊三路が数センチだけ開け放っていた窓の隙間から風が入り込んでいた。
揺れる調子に合わせて透過する陽を疎らにし、床材に落ちていた昏い水面のような影の色が照明の光で覆われていく。
張り詰めていたが、呼吸の仕方を正しく思い出せば一瞬の出来事のように過ぎ去ることばかりだ。
照明光が降り注ぎ、空間が満たされると、二人は互いの知り得ぬところでやっと肩の力を抜くことができたのである。
「そりゃあ、もう、具合の悪い人が日差しのこうこうと差し込む部屋ではねむれないでしょうよ」



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