頭を振る。長い息を吐いた。
次にゆっくりと深呼吸をし、教室のドアに手を掛ける。
最初に駆け込んだ際よりは静かに、しかし経年による建て付けの悪さから喚く音をわずかに立て入室すると、教室は雑談をする声で満ち溢れていた。
何事もなかったかのように席に着き授業を受ける準備をしている祐を、好奇や物珍しげで見る目がひとつふたつと存在していたが、互いが互いを気にすることなく過ぎていく。
伊三路だけが身体ごと振り返って斜め後ろの席の祐を一分ほど見つめていた。
やがて授業が本鈴が校舎に鳴り響き、授業が始まると五分も経たずとして誰しもが授業内容に意識を向ける。
騒がしく過ぎたホームルームでの出来事への興味は既に揮発して無くなっていたのだ。
誰しもが、そして祐自身もが遅刻しかけたことを『本当に遅刻をしかけただけ』だと思い込んで今日を生きている。
ふと振り返る伊三路すらも、シャープペンで点を三つ打てばその表情を表せてしまいそうな間抜けな表情をしていた。
「顔色が悪いね。油断するともうすっかり暑い季節だからね、朝ごはんは食べたほうがいいよ」
 普段は移動や休みの時間として設けられた休憩時でもあまり席を空けない祐が廊下の窓際で涼んでいると、いつの間にか伊三路が窓一枚分の距離を開けて同じく窓際へ寄り掛かった。
背を丸め、窓の枠に半ば腰をかけるように尻を乗せる。
祐はその姿を認め、すぐに視線を伊三路が来る前に向けていた足元のあたりへ逸らす。
追い払う気力には足りず、覇気のない亡霊のような返事をするのだった。
「……ああ」
「きみさ、つけものは食べられる? 今度、おれが作った梅ぼしをあげるよ。作ったのは確かにすこし前だけれども、この前に初めて開けたものだから化石みたいなものでもないし、怖くないよ」
「はあ」
 空気の抜けるばかりである返事がただのため息であるのか、返事であるのか判断がし難しい。
そう感じた伊三路は肩を竦め、そして唇を尖らせてはわざとらしくおどけてみせた。
「知っているかな、この作り方だとずーっと後からでもおいしく食べられるんだよ。それに梅ぼしひとつで白いお米をたくさん、たーくさん食べられるのさ! しょっぱいから好みはわかれてしまうかもしれないけれどもね。きっとごはんが楽しみになるよ」
 梅干しの酸味を思い浮かべて思わず口を窄めかけた伊三路は、まるで見え透いた空想に過ぎないことを雄弁に語るが如くに身体の端々でその言葉や感情を表現した。
口の中に唾が溜まる。深く、丸みのある豊かな紫蘇の香が鼻の奥で感ぜられるかのようだった。
そして息を吸い込むために黙る瞬間、祐を伺う。
 どこかぼうっとしたまま、視線の先に意味を定めない目の前の姿に眉を困らせているのだ。
普段からわかりやすくおどけた意思表示の全てに言葉を返す祐ではないが、輪をかけて様子がおかしいと伊三路には感じられたのである。
 気が抜けている。遠くを見すぎて、現在地の靄に気づけていない。
きっと祐にはその靄さえもが靄として認識できる余裕すらないのだ。
その様子たちを想像し、不憫に思った伊三路は悠々とした奥行きを語るたびに手振りをしていた腕をまるごとを後ろ手に匿う。背後に回しては己の動きを封じることの現れそのもののように指同士を絡ませる。
あくまでこれは意思や感情を示すためであるが、受け手から見た際に煩わしいどころか、認識も薄いならばこれらは意味のないことだ。
会話として返事があれば嬉しいと思って語る事柄ではあるが、祐の様子の深刻を前に伊三路はさっさと口を閉じる選択をしたのである。
 簡潔に本題に入るべきであると伊三路は考えていたが、そばで萎びている祐が本来の日常では手負いの獣のような警戒心を持っていることを思い出してからはもう少しばかり時間を世間話に費やすことにしたのだ。故に言葉はそのままに、柔らかな語調で続けた。
紛れもなく本心から伊三路がはなしたい日常の会話である。ついでに本題に入るための前置きに近い内容であるとして二つ目の役割を与えられただけであり、心からの気遣いと提案だ。そしてなによりの心配だった。
「おれのつけものはきっとこの町で二番目においしいよ。そうだなあ、つけものやさんになろうかなーってくらい! 自信があるよ!」
「一番じゃないのか?」
このやりとりの中で初めてきちんとした返事が返ってくると、一瞬驚きを隠せなかったふうをした伊三路も顔を明るくすると喜んで声を高くした。
「甘いねえ! つけものというのものは家庭の味だもの」
 わざとらしい含み笑いをしたのちに伊三路は改めて広げていた腕をすっかり下ろして窓枠にあらためて背中を預けた。そして身体の訴える楽をするままに僅かな前屈みをすると祐のほうを挑発的とも取れる表情で覗き込む。
「少なくとも、おれにとっての一番は母の作ったつけものの味だよ。そして、それは他のみなもそうさね。すべからく……とは言い過ぎかもしれないけどれども多くは自分の育った家の味が一番だってこと。それくらい違いのでやすいものであるし、求めれば繊細なものだ。だから、おれがたくさんのひとに食べてもらいたいという状況に直面したならば、間違いなく二番目を目指すよ。そしていつか勝ち取る」
 指で数字の『2』を示すとVサインにも似た形を突き出してみせる。
変わらず足元を見つめているような祐であったが、呆れるべきか、褒めたたえてやるべきか判断つき難い表情を隠すことなく、目の前に突き出された指の形を眺めていた。
「……事実ならば、いざ進路に困らない程度の特技と能天気で尊敬する」
「へへへ」と照れくさそうに笑う目尻の角度にいたたまれなくなって祐は鉛の口を開いた。「褒めてはいないからな」
 一見その場に立ち会うだけであれば祐がひどいことばかりを言っているような光景だが、伊三路は変わらず笑うどころか喜んですらいた。
この曖昧は八つ当たりほどではないが、普段ならばあえて口にしない程度に強い言葉を選んでいるように伊三路には思えていた。そして、同時に疲弊している様子から飛び出す端々からは結崎祐という人間が思う素直を感じ取ることができたように感じたのだ。
 真っ白な優等生ではない姿だ。
少なくとも、茅間伊三路のことを能天気だと思っていて、それをあくどいとも言える棘で伝えることもある。しかし後ろめたさがあれば罰の悪そうに訂正をする素直だ。
口を開けたまま己の上履きの先へ塗装されたわかりやすい防水加工へ視線を移した伊三路は、祐の気配へ視線を向けないままで口を開いた。
「祐。次の授業、『さぼっちゃおう』か」
 短い沈黙が二人の間へ割って入り、同じくして窓のそばへ身を預けるかのような間があった。
口に馴染みのない音のそれがきちんと伝わったか、という一抹の不安もよそにそれを聞き届けた祐はまるで呆れたため息かのように鼻から長く息を吐く。
喉と鼻の中間である管を掠めて、静寂の水面を触れるか否かと思わせる適度に音域の低い声が入り混じっていた。
会話の途中からはもはや閉じたままでいたと言い表しても過剰ではない気だるい瞼が持ち上がって、透き通る永遠の凍土に下がる厚いつららのような瞳が伊三路を見ていたのだ。
普段から並行を描いてあまり表情を見せない眉は訝しげを不快に似た感情へと寄せて根本を深くした。
「……誰にそう言えといわれた」
「え? わかっちゃったの。どうして」
 ついぞ本当に呆れた様子で語る。
ため息と共に戻ってきた言葉はますますのこと伊三路の目を丸くさせる要因になるのであった。
「横文字がぎこちないんだ、お前の語りは」
「そ、そう。そうなんだ……祐はおれのことをよく知っているんだね」
掠れた伊三路の声が転がって、その後に何も続けることが出来ずにいた。呟きが足元に居座る小石のようにして長い時間を共にいようと画策しているように思えていたのだ。
驚きのなかに自身のことを知ってくれているという喜びを滲ませながらも、このままのだんまりは継続させまいと気を取り直した伊三路は大きくため息をつくと、極残念として勿体ぶった顔をして身体を反転した。
窓を背にしていた場所から一歩を踏み出し、踊るような足取りで横から垂れる髪の房を翻したのだ。
かくして向き合った顔をしてはにかむ。
「まいったなあ。でも、一寸も悪いことなんか企んでいないよ。ほんとうに、そう、これっぽっちもね」
伊三路は自身の小指の爪を撫で、その滑らかを確認したのちにその桜貝に似て血色の良い表層を見せつけた。長さや質量の様子を表すための引き合いとして彼がよくしてみせる仕草である。
わざわざそのようなことを弁解目的に口にするという時点で祐にとっては伊三路のそれが心からのものであると理解できたために、それをとやかくいうことも、その例えが秀でて適切ではないということも改めて語ることはなかった。
「本当にね、先生に声掛けを頼まれただけなんだ。あくまできみが授業に参加する……できると語るならば、おれはきみを信じているからその意思を尊重する。きみのことをそとから見ただけで全て理解できるわけじゃあないからね」
『口うるさくは言わない』という旨を語ったものの、少しの間を置くと、伊三路は窓の外を眺めながら人差し指で天井を示した。
窓から窺い知る屋外は初夏の範疇につま先を浸しだけの時節にしてはいかにも気温が上がりそうなもので、太陽の光が惜しむことなくさんさんと降り注いでいる。それこそ、目の前の男が示したかったものを示したいように素直に指差したのならば、太陽を直視して一瞬で目が焼けることを祐は確信していた。
「これから一等に日がたかくなる時間がくる。今日はもうすこし気温も上がるというし、つめたーい水でも買ってくるよ。少しは気分転換になるだろうからさ。それとも、味つきのものがすき?」
「水はいらない。他も不要だ。何かしたいと言うならば放ってくれ。気が滅入っているんだ。お前の声は……生活音の中でも突き抜けてよく響く」
「強情め。おれがしたいのだから貸し借りじゃないって。でも、わかったよ」
 黒い手袋の左手で顔を覆った祐は、極めて透明のまま底まで照らし出すような伊三路の声が雑音なく届くことを何度も消し去るよう思い直したがって頭を振った。
 言葉を放ち遠ざけようとする――もしくは本当に必要としない様子をじっと伊三路は眺めていたが、青ざめた肌に足りない目に見えて多くのもののうちに水分もまた含まれていたのは確かだったのだ。
尊重することと、信じたが故に無意味に手放しをすることは異なる。
 祐の言葉に向き合ったままで話を続ければ、堂々巡りが並行をいつまでもやめないことを想像するのは難しいことではない。
故に、大した言葉を返さないままで伊三路は踵を返した。
気配が遠のくことを感じ取る祐の耳へ次に入ってきた声は「ちゃんとそこに居てねえ!」というゆるく解けた語尾だ。
四方を壁で囲まれた廊下は筒のように音を反響させる構造をしている。
それが校舎という箱の端から端を貫いて、奥行きの広い廊下に底ぬけに明るく、楽しげな声音が響いていた。



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