冷えた夜をやり過ごした方法を覚えていない。
液晶画面の電源を落としたかのように突如真っ暗になった視界の後で眠りに落ちていたのか、ただ記憶がないだけで何かをしていたのかすらわからなかった。
指先の痺れが身体から水分が随分抜けていたことを知らせていたのだ。
日常が再開されている。
その過程がなにを辿っていようと曖昧であるならばそれを熟考する意味もなく、今の祐にとって家事や課題が終わっているか終わっていないかだけが問題であるのだ。
朝に目覚め、頭が幾分か覚醒した後に熱いシャワーを浴びる。そして淡々と朝のうちにやるべき家のことを済ませる。
昨夜のうちにまとめていたごみを片手にスニーカーを突っ掛けるのだ。
鍵をかけるといやにはっきりと落ち込む金属音が沈んでいった。
淡々と階段を降りる音がアパートの安っぽい階段の踏面を叩く。
山裾から登り始めた朝日が一層に白く輝く様に目を細めて、一日が始まる。
 輪をかけて失われる食欲のうちでコーヒーは刺激が強すぎるとして、ぼうっと佇んだままキッチンで適当に刻んだ余り野菜をコンソメで煮込む。沸騰を見届けることなく一度キッチンを離れるのだ。
やり残した課題、掃除機を改めてかけること。洗剤や食材の補充。そして帰宅前に買うもののリストアップと確認を淡々と行っていく。
普段ならば前夜のうちにやっておくべきことの数々であるが、自ら定めたサイクルが乱されると途端にこれらの家事が日常的に気にする以上の時間を要していると思えては焦燥に駆られた。
そもそもを語れば全く休んだ気がしない。自覚し得る以上、倦怠感の渦巻く身体を抱えて行動をすれば普段より時間がかかってしまうというのは全く以て正しい感覚なのだ。漫然とする頭の中が茹だっている。
認識をして、これを甘んじて受け入れる自分が許せるか許せないかということもまた別の話だった。
結局のところ、さっさと家を出る準備をしてから残った時間を祐はただ椅子にもたれていた。
 一度座り込むと立ち上がることがひどく怠い。
鉛を呑み続けているかのようなのだ。とにかく身体が重い。
この状態で授業を受けられるのか?
疑問が浮かぶ。逃げたいだけではないか、とすぐに言い訳をしているのだ。
とにもかくにも出席の実績さえあれば、そうそう実家に伝わることはない。
それだけで出席する価値が跳ね上がるようにすら思えた。
ゆるゆると浮上をするようにふと先日の昼に伊三路と交わした会話を祐は思い出すのだ。
『休んじゃったらだめなの?』
 気の抜けた丸い顔の中で怪訝に眉を顰め、心から理解が出来ないと語る口ぶりだった。
軽々しくも感じる口調をしているが、至極正しいことだ。
 同調の圧力があれど、学校という小さな箱に詰められた世界では後がなくなるほどのものでもない。
ただし圧力に抑圧され続けて瑕疵の受けたものをその小さな社会環境が保障をしてくれるわけでもないのである。
ただ、組織図として存在する健全と、流れに従わない人間に他者が抱く感情は別だ。
 想像することさえおぞましいことかの如く、思考の中でさえ存在を思わせる言葉を努めて連想することはせずに祐は自問として浮かび上がられた。
つまるところ、美洸がコロコロと変えてみせる幼稚な態度を思い出していたのだ。何を言われるかもわからない。
少なくとも親元を離れている子供に対する純粋な心配などではない。もし、それならばもっと有意義な会話があるはずなのだ。
口を開けば成績のことを聞かれるばかりであり、時たまに知りもしない美洸の日常に多くある出来事に対する愚痴が思い出される。
会話の多くを占める美洸のための話題を聞かされ続け、祐が自ら言葉を放つのは専ら肯定を促されては望むままにそのとおりであると返事をするためだった。
まるで彼女が宣う"親元を離れている子供に対する心配"ゆえの電話である体を成していない。
 祐は考える。
今日の授業を欠席したとして、それが知れたら何を言われるのだろう。
ふと窓の外を眺めようとして、祐は初めてカーテンをまだ明けていなかったことに気付く。
昨日のやり残しのことばかり考えていて、少々閉じたままでも問題がないそれを忘れていたのだ。
朝よりも高くなった日の角度がカーテンの隙間から目を焼く。奥を刺激され、椅子に座ったままの祐は疎ましく視線を下ろす。
学校へ行くのならば家を出なくてはならない。
自分の身体でしか感じ得ることの出来ない体調の評価を"はい"か"いいえ"で分けることは出来るというのに、それを意思表示として外側に答えるがすらできないでいる。
項垂れて握りしめる携帯端末の画面を力なく眺めているのだ。
「……くだらない」
そんな時間はないよいうのに。自責する掠れた声はどこから聞こえるのだろう、と同時に思う。
準備だけをしたマグカップは今か今かと自らが活躍する場を待っていたが、鍋の中に作られた野菜のスープは完成したまま手つかずに冷めていくだけと化していくばかりであった。

 肺の循環に到達することもなく胸の辺りで押し戻される感覚で呼吸を続けている。走るなと定められた警告を省みることもなく廊下を駆けていた。
手に握った学生鞄は教科書やテキストを詰め込んでいるだけあって、振りかぶる動きをする腕に振り回されている。そしてその存在を認識すると重りとして余計な役割を果たすのだ。
 さすがにもう朝のホームルームは始まっているだろう。
廊下を歩く教師はおらず、同じく遅刻をしているのにまだ間に合うとでも言いたげな自信に満ち溢れた早足をする生徒は一人見た。
見知らぬ生徒はただの遅刻かもしれないが、祐は既に一度欠席の連絡をしていたためにさらに先急いで焦っていたのだ。
 今ならまだ出席すると言い張れる。ホームルームを担当する最上の性格を思えば、小言を言われてもどうにかなるはずだと考えていた。
どうしてもというならば、適当に理由をでっちあげなくてはならない。納得ができるくらいに絶妙で、後から矛盾の生じることのない、それでもなにか生まれる違和感ならば取り繕うことのできる言葉で編まれた理由が必要なのだ。
 回らない頭で往復に慣れた廊下を真っ直ぐに進む。
教室はよく仕切られるものの廊下自体が何かで隔てられることはほとんどない。故に音が筒の中を反響するように響く構造である。
足音の主がどこへ向かっているか想像することは難しいことではないのだ。
黒板のある側ではない後方のドアに手をかける。そしてそうっと引く。
その扉用の古い木板は、湿気や乾燥でよく膨らんだり萎びたりするために遊びがあるものだ。
極力静かに引いたつもりのドアはかみ合わせを違えるように時折ガタリと鳴り、当然のこと視線は遅刻した者へ向く。
欠席の連絡を受けた最上はおろか自席の付近へ目をやれば伊三路も祐を見て驚いた表情を向けていたのだ。
「すみません、遅刻をしました。先の申告はありましたが授業への出席を希望します」
 この時期の朝はまだ温度が上がりきってはいないはずであるが、僅かに汗ばんだ祐の表情を見て最上は口を開いた。
教職である以上ひげは概ねきちんとしているが、まるでひげを蓄えたひとが毛並みを撫でつけるような指の動作を顎の付近でしては何かを思考しているようだった。
「んー」と携帯のバイブレーション機能のような体内に響く低い唸り声をあげている。
「ま、日ごろに免じてその理由くらいは聞いてもいい。ただちょっと……おい、お前ら朝礼は終わりだから、始業の鈴までに各々準備しておくように。結崎は廊下」
祐はチャンスを貰えたことに深く礼をしてから再び廊下へ出た。丁寧に、そしてぴったりとドアを閉じる。
そして一歩横へずれると呼吸が整わないまま、安堵のままに鞄を胸に抱えてしゃがみ込んだ。
急な運動で回った血液が煮えたように体温を上昇させるも、首から上は冷えているように思える。
抱えていた吐き気はとうに浅い呼吸へと入れ替わっていた。
朝よりは改善された体調であるが、急な運動にはたちまち身体はしなびれて足の痺れをただ地面に逃がそうとしていた。
それでも当初欠席を希望した時間よりはずっと気分は"マシ"になっていたと自覚をしている。
だからこそ一度は学校へ欠席の連絡を入れたものの、いざ始業の鈴が鳴る時刻が近くなってくると漠然と不安に駆られたのだ。
 何をどう足掻いても、授業を欠席したという事実について回る学校外から与えられる影響が恐ろしかったのである。
直接的に何かに追われているわけでもなく離れた地に住む母親が今すぐ接触してくるわけでもないというのに、足を止めていることが、文字を読み解いていないことが、何もせず浪費されていく時間にたまらなく不安になっては学生鞄を引っ掴んで家を飛び出したのだ。
 しゃがみ込んだまま俯いて足元を見ている祐は最上の気配を感じて静かに顔を上げる。
それでも足元から自身の膝を見る程度に視線を移したもので、最上がいつも校内で着用している汚れたスニーカーの足先が見えただけだった。
「授業を受けられる様子には見えないが」
「全力で……走れば間に合うと思ったので、朝からという意味では少々無理をしたのは否めません」
祐の頑なに対し、最上はあからさまに大きい息を鼻から吐くと自身も屈んみ姿勢を低くして視線を合わせた。
「息が整っていないので今はそう見えるかもしれません。しかし現状の体調で授業を受けることに支障はありません。授業は受けます」
「発熱」
「ありません」
「寝不足? まさか起きれなかったとか?」
「横にはなりました」
一言で事足りるような淡々の質問が続き、同じくして一言の平坦が答えた。
「悩み事は」
 無自覚に肩を揺らした祐を見逃さなかった最上は目を細めてもう一度繰り返す。
「悩んでんの?」声色は普段通りにやる気なく、ふわふわと脳に響く間延びの音だ。
透明であるというのにいやに曇っている。矛盾を語りたくなる空間に、ボウボウと響く遠くの風が聞こえるさまに似ていた。
湿るトンネルの中のような、浴室に長く居るような、とにかく息苦しく気持ちの悪い浮遊感だ。そしてすぐそばに存在する気配は輪郭を曖昧にするばかりである。
濡れた呼吸の息苦しさで茹だる脳が、感覚を鈍くしていくのだ。
「……取り分けて語るべくことはありません」
やっと語った言葉は、祐自身が想像するよりずっと間を要して放たれていた。
垂れ下がった時間の重りを惰性でぶら下げたままでいるのだ。
「ふゥん」
 同じくらいの間を以ってして思考をやめると関心の薄い最上は立ち上がった。
「ま、今日は急遽午前授業になったんであんま意味ないけどね。ご苦労なもんで」
はた、と祐の顔が持ち上がり、一房こぼれた前髪が揺れる。
視界が上をたどっていても同じくして既に立ち上がった最上の足元が見え続けるだけだった。
次の言葉を待っているが、それを促す一言がうまく口から出ずにポカンとしたままの顔で見上げている。
「午前授業の最後は全校集会だ。緘、口、令。二日三日帰らん生徒が出たんで、今期はじめの事件とあわせて緊急の危機管理教育と説教を兼ねた集まりだ」
淡々と事実を告げる口調は退屈で草臥れ、そして自由にすることも面倒くさいとでも言いたいかの如く、ただひたすらに覇気のない抑揚だ。
それが少々の白々しさを孕み、そして大きなため息を交えながら枯枝を思わせるてのひらで身振りをする。
「現状を知り不安を露わにしただのと可哀想に言えば少しくらい抜けても恩情を貰えるさ。この状況で仮病だなんだと聞けば批難されるのは間違いなく学校側だ。詰られるなんてもんじゃない、クビだね」
 明確な主語は避けているが暗にサボってしまえばいいと語る最上に言葉を返そうとする祐は空白の音であるまま唇をはくはくとする。
張り合って何を語るわけでもないものの、目の前に突き出される考えや事実は学校という狭い世界を語るためにはあまりに正しくないものだ。
仮定として、規則正しく四角い枠組みからはみ出さない生き物を排出することがこの小さな社会の役割であるならば、大層に見え透いた罠である。
ただ、それらを語る最上の声音は諭すように別の視点を語っているだけだ。
開きかけた唇を閉じ、そして永久凍土の姿を待ち求める眼差しは今度そこ目の前の人物の表情をしっかりと捕らえていた。
その器官に像を結ぶ。
インクの掠れ汚れが付いたままのシャツのそで、草臥れたしわ、曲がったネクタイ。
それらが演出するものを教師ではないひとりの人間としての仕草や痕跡たちとして見ているのだ。
「それなら来なくても同じじゃないかねえ、って考えも世の中にはあるってことだ」
気付けば祐は逃げるように瞼を伏せた。
「……何を仰るのです。外側からそう見えて抜け穴があるなら潜る者もいるでしょう。手段の一つであり、感性として選択肢があるのであれば、自分はこれに共感はできません」
「ま、お前の体調はお前にしかわからんことだ。んなもんで、好きにするなら俺が怒られないようにうまーくやっといてえ」
 鼻から大きく息を吐くと、好き勝手に膨らんだ髪の毛をかき混ぜる。そして互いに語りたいことを勝手に語ったとして満足したかのように返事も聞かず最上は背を向け去っていく。
繰り返しの洗濯で型崩れした表情が癖になっていることがありありと理解できる様相に伸びた衣服をまとい、やはり根無し草のような態度でいる。その背中を向けて歩き出す様を祐は見ていた。
 床材に靴底を引き摺る鳴き声のギュッとした音に対し、時たま詰まったような甲高い引き攣りを持ち合わせて廊下を去っていく。
重心をわずかに左右へ揺らしながら廊下を歩む後ろ姿と、振るわれる腕に合わせて大げさにぶらつく日誌。そして上から押し潰したような大股で歩く猫背姿が最上という教師の姿を構築していた。
 猫の背が囁く言葉の中にも含んで引き合いに出される"サボり"ということの詳細を考えていたが、やはり"丸一日扱いの欠席や不安要素の残る早退よりは正当性ある言い訳のほうがまし"の言葉に限るのだ。
それ以上も、以下もない。五段階評価の他に用いる手段の中でも"まる"以外は、ただ"さんかく"か"ばつ"かのどちらかということを延々問答するだけの数字が、半期後には記録として数字にあてはめて表されるだけである。
祐は呼吸の仕方を思い出してから、静かに立ち上がる。
理解はできるものの、こうして茹だる脳ではいゼロかイチの評価のみしか受け付けない。
どうにも飛躍する感情を線上に示すならば、真中がぽっかり空いて締まりのない姿をしているはずだ。
何を語るにも言い訳のように比較して口をつく"まし"という言葉と、極端な思考だけが宙吊りになったまま放置されているように思えていた。
そのどちらかだけが選択を強いる強迫の意識に対して明確な答えになり得ると信じ込むようにして差し向けられ生きてきたのである。



目次 次頁