祐が地面を思いきり蹴って距離を取ろうとするもいきなり現れた指先が許さなかった。肩をがっしり掴まれた祐は忍ばせていたカッターナイフを内側に向けた手のひらへ落とし、スライダーへ指をかけて振り返る。
他人にこんな形で刃物を向けたことなどないが、自身でも驚くほど流れる動作でカッターナイフを握り込んでいた。
しかし、身体が振り返る力を味方にして振りかぶるはずの刃は、視界に映った形をとらえると明らかに失速していた。
先ほどまで何もいなかったはずの場所に現れた存在が、人間の形をしていたからだ。
目を見開き、動揺を浮かべる祐の腕が不自然に上がっているのを見ていた人間は不思議そうに口を尖らせ、次に締まりのない顔を傾けた。
彼、という呼称がふさわしいと思われる少年の姿をしたものは白い狩衣を着ていた。
一目では何を描いているのか推測のできない文様が描かれた前垂れを飾り紐によって狩衣の前身頃に留めている。
脱着の構造上、飾り紐は一対の雌雄がなくとも単独で中華服に使用される簡易的な花釦のようなものだろう。下履きは木の幹に対し、すっかり酸素を奪われた灰をかけた色味をした袴の姿だった。
顔を見れば、幾つか年下に見える幼い顔立ちの少年は目を伏せて薄い笑みを浮かべている。
「おれの存在に気付いたのだとしたら、ずいぶん突拍子もない行動をしたね、きみは。うん? いや、そんなことはいいんだ。気にしないで。おれはきみが一度は自分自身の力で逃げ切ったのに再びここに引きずり込まれてしまって、そう。気を悪くする言葉かもしれないけれど──不憫、と思っただけだからね。……まったく執着の強さもここまでとは」
肩を竦めておどける姿を不快を隠さない祐が睨めつけていると、少年はその視線をくすぐったいだけに頭を振り、こびりついた視線の暗さを散らす。
そして他人から見れば鬱陶しだけのもみあげから伸びた髪を揺らして穏やかに顔を上げた。
改めて祐の顔を認めると少年は「あれ?」とでも言いたそうに大きな瞳をさらに大きくする。きゅう、と収縮するような彼の瞳の様子に祐の目頭がぴく、と騒めくのが自覚できている。
人の好い人間が見たら、その表現が実際にあり得ることではないということを知っていても芽吹く緑を象徴した色の瞳が零れ落ちてしまわぬように手を差し出してしまいそうなほどだった。
しかし驚いた表情をすぐに追いやり、そして懐かしむように目頭に微かな皺を寄せると目尻を下げ細め微笑む。
下方向へふっくらとした弧を描く、つまり、絵にかいたような笑みを浮かべていた唇は微かに平行になって言葉を飲み込む様によく似ていた。
幼さに合わない笑い方が訝しみを誘い込んで祐は下げた手に潜んだカッターナイフのスライダーから指を離せないでいた。
本来であれば、少年の仕草は人間の母性本能をくすぐるだろう。
庇護欲をそそる小動物に似た丸みを帯びた頬や細めると大袈裟な厚みのある下の瞼。控えめではあるが同じく丸い鼻。子どもらしさを思わせる大きな口だ。太い眉毛がどこか春の陽にまどろむ呑気を演出している。
そのどれもが祐にとっては締まりのない呑気さであると思えるように、よく変わる表情の種類がそれらを過剰に演出している。
いわゆる、日本人離れした色の髪や瞳をしていなければこの田舎で狸が人の世を忍ぶための姿といっても何処となく通じる垢抜けなさがある。ハムスターやリスが必死に木の実を頬に詰め込む動きを日常としてしそうな雰囲気を纏っていた。
ただし、それは、その柔らかな曲線を描く白い肌によく映える赤色がなければ、の話である。
 人間の形をしていたから。
そう完結させながらも祐の腕が失速した一番の理由は、視界にとらえた赤色のせいだった。カッターナイフが拡散したその色が、少なからず、意識よりずっと深い場所でを脅しつけていたのだ。
べったりと付着する赤色──あるいは少年自身から、水気を帯びた鉄錆の生臭さが漂っている。
雨上がりの路面、または締め切ってかび臭い部屋の中に微かに潜んでいる熟れ落ちた甘い臭い。
嫌でもそれがなにかしらの血液であるとすぐに理解できる。
鉄錆のなかでも特に曲線を描くように存在する甘い臭いが鼻腔を満たすと身体が反射を起こして空嘔を漏らしそうになっていた。手の甲で鼻を塞ぐ祐の視線を追って少年も自身の腿のあたりに視線を落とす。
理解を示さない表情が、水滴を絞り出したままのように丸いままで下に降りていく。そして「ああ」と言いたげな表情をした。
「あっ」と表現するにはあまりに緩やかに着地をして、彼にとっては何でもないことなのだということが察せられる。指で胸のあたりの生地を二本指でつまんでいた。
そう、彼の狩衣を前垂れごと括る帯代わりのしめ縄の位置より下の布地はたっぷりと血をすい込んでてらてらと怪しい色を放っていた。
少年の精神状態や佇まいから追われているようには思えないのだから、目の前の彼が血を被るとしたら加害者になったときである。
逆に、追われているし、他人を盾に差し出してきたとでも平静のまま言い出すのなら、この少年を祐はうそつきだと思うだろう。
じっとりとした濃い赤色の照り返しに黄金の色味を帯びている。まるで油膜に生じた光の干渉と反射を見せつけられている。
鮮やかな色に対して皮膚の奥の深いところをひっくり返そうとして違和感が潜り込んでいる。
「ふむ。きみは驚いているんだ。……それもそうだ」
改めて胸の高さで手のひらを天に向け手首のあたりに被さり落ちる服の生地を掴んでは、顔に寄せた少年は血液を存分に吸った狩衣から発せられる臭気に嫌な顔をした。
苦いものを塗り付けられたかのようにおえっと舌を出したあと、びよびよという剽軽な効果音が付きそうな雰囲気を引きずって舌を出したり戻したりしている。
訝しんで睨める視線を向ける祐が、彼が足に履物を履いてはいないことにようやく気付く。
「泥と埃にまみれた雨上がりの黒い道みたい。そうだね。驚いたさね。じゃあ、おれの言うべき言葉は"ごめんなさい"。合っている? 意地悪じゃあないんだよ」
安堵をもたらしたいのであろうということは理解できる。
存在に気付いてから悪意というものは感じられないものの、節々に含みのある物言いが引っかかる。
この男が普通の生活を送って、それをよしとするのなら心底哀れに思う。
自身とは異なり人に好くしたいと、懐くであろうとする態度が見えているからこそその含みのある物言いは、きっと人間ではなく個としての人を隔てるだろう。
つまり関わらないのが正解である。
 少年の言動の印象としての解と彼の節々から得られる人となりの違和感が合致したことに何度も頷きたくなる。
何事もなかったように、それこそ眼前からの逃避として祐は再び学校へ戻る道程を往く。
彼の言動以上に動物としての構造上で一対ある腕の片方に握られているものを直視も指摘もしたくなかったのである。
少年は腕を折り曲げて自身の背や腕の側面にどれだけの血が付着しているのかを見やろうとしていた。ぐにゃぐにゃとした動きを繰り返しながらあちこち身体を捩じると半身の姿で唸っている。
次に、祐が目を逸らそうとした抜身で且つ刃渡り三〇センチ程の短刀を帯の上から飾りつけに締めたであろうしめ縄と狩衣の間に軽く差し込むと、両手の指先だけで頬に触れる。
自身の顔に飛び散っていた血の量が指先に糸を引く程度だと確認すると驚いて目を丸くした後に顔をあげる。そこでようやく彼は置いて行かれていることに気付く。
「ねえ、何処へ行こうというの。おれはおすすめしないよ。ここはどこもかしこも危険だけれどね、今は霧が出ているもの」
「何が言いたい? まるでこの霧が何であるか知っている口ぶりだな」
立ち止まるも振り返らない祐が背後に立つ存在の表情を窺い知ることはできない。少年もまた、頬に自身の両手を添えたままじっとりとした無表情を投げかけていた。
「……この霧は獣の索敵網だ。眇眇たるまでに完璧な黄昏を再現したかったのだといえば……うん、あまりにおざなりであるけれど。この空と煤からすくいあげたばかりの太陽は少なくともこの場所では常だ。むしろ、今まで霧などなかった。緊急事態とかいうやつさ。大きな獣を見たでしょう」
少年は言葉をゆっくり繰り返している。
自身が視界に入れていない少年の松葉色を硝子に透かした瞳が三日月の弧を真似て怪しく細まったことを空気が伝播した。
慈しみを滲ませていた少年の瞳や声色は、彼を訝み且つ穿とうとする己の感情を見透かしている。
その上で自分ではない他の存在を圧で内側へ包めてしまおうとする様に対し、思わず視線が下がり、祐は握り込んだ己の拳を見ていた。
「だからね、ここは危ないんだよ。理解るかな。きみが捕食されないためにはここで呼吸を透明にしているほうがずうっと賢い」
鼻からではあるがこれ見よがしに息を吐いた祐は、拳をゆっくり開くと首の後ろにそっと触れる。居心地の悪さから気を逸らしたかったのだ。
何処へ行けども危険だという口ぶりがあるのなら、平穏が約束された場所があるとでもいうのか?
欲しいものは目には見えない感情というものに訴えて振り回す権力でも褒めそやされる環境でもない。
ただ風を聞くような静謐が、本当にあるとでも言いたいのだろうか。
泥沼のように温く曖昧な言葉だ。安寧こそ個の秤に依存するというのに。
思考の連鎖を区切ったのもまた、嘲笑だ。鼻から短い息を漏らして、少年がしたようにコミカルな様子で肩を竦めた。
決して上がってなどいない口角で乾いた笑いという表現から推測する嘲りを再現している。
「蛍を呼び込むとき、己が側の水のほうが甘美であると嘯くのを知っているか?」
「ふうん。じゃあ、今からあっちの水のほうが甘いことにしようか。ね、どうかな。"あっち"の甘さを知っちゃったら戻れないもの。戻る前にぺろり、さ。死に際した魂はその瞬間を延々と繰り返すのだって、人間は言うんだっけ? ……いいや、例えは関係ない。きみの意思だからね。でも、それでもさ、」
停滞していた空気が少しずつ流れ始める。
少年が明らかな動揺を見せて、祐の後を追いかけてきている。
彼はおそらく、この場所をよく知っている。
つまり、この状況でどんな言葉をかければ混乱している人間をコントロールできるかを心得ているのだ。だからこそ、秤が逆の反応を示したことに動揺している。
素足が地面を踏みつけると靴底よりずっと柔らかい音が付いてきて、歩幅と速度によってずれが生じた足音は次第に少年のものが先へ行くようだった。
「平静を湛えた他人が血にまみれて且つ刃物を持っている。状況で信用されると思っているなら随分めでたいものだ。あえて聞くがお前は"そう"思うか?」
「うーん、それでも、少なくともきみよりこの場所に訳知り顔で優位に立とうとするおれに利用価値を見出せるとは思わない?」
「質問を質問で返すな」
会話がまるで成立しない。
 彼のいう透明は意味もなく言葉を浪費することなのか、と問いただしたくなる。
何より今日という一日の奇怪さが、そして含みのある少年の言葉一つ一つが、祐の中で特にささくれたところを刺激するのだ。声が平静を装って震えている。
流れ出した空気の層を細い金属が絡めたようにきゅっと詰まっていた。
のちに素足は空回り続ける柔らかな音だけでなく、質量として祐を追い越した。
翅をもつ虫が舞うように躍り出て向かい合う形で前に立つと視線を合わせて破顔した。先ほどとは異なる、ぎこちなさを持ち合わせているが子どもらしさを覚える荒削りの笑みだ。
「ね! ほら! おれは危なくない。怪しまなくても大丈夫だよ。だって何も持っていないのは危ないでしょう。それに刃物は文明だ。肉も切れる、もちろん野菜も。紐や布の──そう。そうだね、人間の手でわざわざ複雑にされた繊維質だってね。生活の一部だ。それがこんなに血を被るほど傷つけるために使われると思う? あっ、これはね、これは刀だけれどね、おれのものではないから」
少なくとも、不信感の出所の一つが刃物の所持であることは理解したようだが、場違いな軽薄が疑念を深く掘り続けているという事実までにたどり着けないでいる。
意味のない言葉を思いついたように並べて、言葉の最中に浮かんだ言葉をまた付け足している。
先ほどのゆっくりと余裕に満ちた声の調子や速度と一転して、随分な早口になっていた。
同時に往く道を阻む少年を避けようとすればまるで反復横跳びのように正面を向いたままの横移動を繰り返しており、呆れた祐がその肩を押しのけ横を通り過ぎようとしてようやく少年は再び声を潜めた。「厳しいかな。苦しい言い訳だと思う? ただ、それを言うのならば、きみだって刃物を隠し持っているでしょう」
動揺する様との切り替えように体温が引く声色だ。
隠せていると思っていたわけではないが、その言葉に目が見開かれたのを自覚する。顎の付け根からうなじまでがスーッと冷たくなって、少年のふざけた態度に流されていたことを知る。
ただの茶番ではないか。ただ行くべき場所を妨害するだけの意味を成さない言葉遊びだ。
 左手に握り込んだままのカッターナイフ上でスライダーを思い切り繰り出すと、右手で少年の胸倉を掴む。
そしてブロック塀に自身より少し小さな身体の背中を押し付けさせて首元にカッターナイフを押し宛がう。
後頭部を打ったにも関わらず、少年は痛そうな素振りも見せずにまっすぐと前を見ていた。
動揺は二人の間を往来しては、冷静を欠く程度にその自我を食っている。
刃を返すように動揺が映り込んだ祐の肩が揺れた。
それでもなるべく、分厚い氷を想像しながら唾を飲み込み、顎を引く。眼光を鋭くさせて口を開いた。
「まるで生産性がない会話はやめろ。本題だ。此処はどこだ」
「……あは、やっとおれの方を見てくれたね。出会い頭にも思ったけれど、やはり顔色が悪いよ。落ち着いて聞いてね。おれはね、きみには危害を加えないよ」
「そんなことは聞いていない」
生物の括りの上で、自身の同じもので構成されているといえる皮膚が、ただの分厚いゴム板に見える程度には感情が凪いで平坦になっている。
同時に、ゴム板のように見えてしまう目の前の人間の形が自身と同じであるとも思えなかった。直感がそう疑えと訴えている。身体が冷たくなるほど冷静になる。肌がざわついている。
舌骨の周辺に値する皮膚に刃物を押し当てられた少年は、唾を飲み下すために、あるいは呼吸のために、身動ぎでもなんでもいい。とにかく振れ幅のある行動をとれば、勝手にカッターナイフの刃が表皮のいちばん外気に面する薄い層を裂くだろう。
その距離でも彼は少しも怯えはしなかったし、首を逃そうと下がることも、はたまた威嚇することもなかった。
ころんと丸い瞳だけで、少し考えるように上を向く。瞬きとともに正面へ──祐に向き直った視線はどこにでもいる人間のものだ。
「ここは茅之間町の、烏丸三丁目だよ。具体的にはええと、三丁目の何番地? こういったものがどう区切られているか考えるのは苦手なんだ。申し訳ないけれど。ただ、ここは……きみがよく知る場所と地理はほぼ同じだけれど一部だけが似て異なる」
手負いの獣を宥めるように手のひらを下に向けて上下する。
「顔が怖いよ」、「落ち着いて」。「おれはきみに危害は加えない」。
追いかけてきた言葉が安堵を与えようとして笑みを曖昧に形成する。
「おれたちの知識における共通の部分だけで会話をすると、三丁目の大きな十字路の付近ということさ」
「……他にお前の肩をもつ存在は? 仲間がすぐ傍の曲がり角で待ち伏せしているだなんてことはないだろうな」
狩衣の胸倉を掴み押し付ける右手を自由にするためにはいかないために、祐はカッターナイフを宛がうのをやめ、カッターを握り込む指から親指を立てて方角を示す。
そしてすぐ傍の十字路をさし示した。
「おれ? おれはひとりだけれど。何かを誤解していない? 駄目だよ。待って。本当に。今は迂闊に動いてほしくはないんだ。危ないし、獣に町を壊されるのは困る。お願いだ」
棘のある問答がじわりと根を張っている。
少年が矢継ぎ早に取り繕い、祐はそれらを今現在知りうる情報下での信用に欠くと一蹴する。これ繰り返すために言葉を消費するほど、この場所に居座る二人の存在は根を張っている。
「疑われない方がおかしいと思わないのか。答えられず飄々とするくらいなら、百のうちに一つでも信憑性のあることを言ったらどうだ。一つまみでも真実で味付けした方が余程のこった嘘を信じたくもなる」
「きみの判断を司る秤があまりにおれへ傾かないだけだよ! 頼むよ。お願いだ。おれはただ──」
 少年の言葉が途切れる。静かに口を閉ざして、頭上へ意識を向けた。
つられてその方向へ視線を投げると、今まで簡素であった家屋や路面を構成する些末な要素の精度がより増していた。ブロック塀の雨垂れに這う苔や、標識の鉄錆び、砕けた石に散乱する石粉。道路のひびを割って生える草までもが精巧な再現とし、よく知る十字路を構成している。
祐はこの風景を日常的に見ているような錯覚に陥る。こんなにもちぐはぐな色で構成されたおどろおどろしい場所を、よく知っているという感覚はしっかり意識よりも下のところへ潜り込んでそれを常と刻み付けるようだ。
この少年──もっと警戒して呼ぶのなら目の前の男──を信用せずとも、わざわざ構う必要なくともこの場所を切り抜けられるのではないか?
そんな考えが浮上する。
おもちゃ箱の中に雑多に投げ込んだ町にきちんと色を付けて整理したように、パズルが出来上がる過程のように気が付けば町とともに普遍であるという認識が背後に佇んでいる。
それのすぐ傍で子どもの落書きよろしく気の抜けた線で描かれた朱色の眼が、正確にはその奥に潜んだ虚ろの視線が、祐を貫いて影を縫い留めていた。
 ブロック塀の上に四つ足で立ち、庭木の陰から覗いている。
ぶわりと、毛穴が開き粟立つようだった。一瞬にして呼吸の方法がわからなくなる。
本当に?
これが普遍として在ろうとするならば、少年へ獣の注意をひいてやり過ごすことだって、おかしくはないはずだ。
唾を飲む動作にひどく痛みを覚えている。
この大きさの生き物が通りを走り抜けたらどれだけの速度が出るだろうか? 住宅地の小回りまで考慮したときに逃走の成功率は?
思考が追い詰められるほどにはやる鼓動を高揚と見紛う感覚へすり替えられている。
言葉が切れてそれきりだった少年の薄く開いた唇が口腔内に酸素を導いて震えた。柔らかな表情が息を潜め、瞳に厳かな色を滲ませている。
「見つかっちゃったね。よーく聞いて。きみは……疑うことを知っている。それができる。この景色が圧としてもたらす感情が与えるのは安堵ではない。理解るかい? 先のやり取りできみがおれの言葉を信用できなかった理由は何だったかを」
囁く少年はしめ縄の帯に刺していたままの短刀へ伸ばす手とは反対の手の一刺し指を自身の唇へ添えて目配せした。
自身の乱れる呼吸のずっと下で地鳴りのような唸り声がする。地を這うのではなく、獣の呼吸で地が揺れ、獣が来たぞと遠くまで知らせていた。
口から吐く黒い息が霧へ瘴気を含ませる。
「大丈夫だ。ゆっくり息を吸って吐く。この身体は透明でいる。そうそう。透明だからね、身体に悪そうな色になっちゃった霧も通り抜けていく。だからちっとも害なんてない。そんな想像をしていて」
首を低くし、狙いを定めるように二人を品定めする獣を刺激しないように極めて緩やかな動きで少年は祐を後ろに隠し、身を硬くする自身よりも一〇センチは身長の高い祐を支えながら後ろへ下がる。
ゆっくりと歩を進めている。
「大丈夫、だいじょうぶだよ。一気に瘴気が濃くなったから身体が驚いている。きみが弱いわけではないの。意識を保っているだけで立派だからね」
少年は緊張を続けながらも低下して冷たくなる祐の意識を繋ぎとめるようにゆっくりとささめく言葉を続けていた。
「きみのことはきっとおれが帰すからね。怖かったら目を瞑っていればいいんだ。そう。そうだよね? そうだと思わない?」
獣の位置から死角である袋小路に立つ電柱の陰へゆっくりと祐を座らせようとする。決して溶けはしない冷たい氷の色の瞳から鋭さが薄れている。
少年は微かな虚ろに蝕まれている祐を見て目を伏せた。
「……この場所がきみを脅かすのはきっと、おれのせいだ。ごめんね」
彼が縋った言葉に水面の層を抜ける。強い力で引かれた意識の糸が水面を抜け、空中に大きく投げ出される。
祐がはっとして瞬いた瞬間、左手袖に潜ませていたカッターナイフが滑り落ち、古くなったコンクリートを打つ。
それが皮切りだった。
獣がずっと立っていたブロック塀が音を立てて崩れる音がする。後ろ足の蹴りつける力に勝てずに崩落したらしかった。
獣は体勢を立て直すと路地をまっすぐに駆け出す。動揺した少年が祐の肩を押すとわざとらしく袋小路を出て行ったのとほとんど同時であった。
不規則な四本足の騒ぎを遠くに、祐の視界が捉えた少年の後姿が揺らぐ。
一瞬、炎が揺らぐそれと同じ既視を覚えるも、確信を得る前に目の前の霧で薄まって答えを手繰り寄せることはできなかった。
あれだけ慎重に広げた距離を獣は一瞬にして詰めている。その勢いで流れを作った風だけで少年の身体は舞い上がってしまいそうだった。
雑に伸びている黒髪が暴れるのを抑えながら祐は声を詰まらせている。
悪意は想像よりずっとぴったりと寄り添っていて、なお距離を詰めんと迫っている。



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