いつの間にか出てきた不謹慎を叫ぶ声に不快感を隠さないまま、祐はさっさと教材を学生鞄に詰めると立ち上がった。
苛立ちのままに引いた椅子が想像よりも大きな音を立て、そして混沌の中で一番に立ち上がった姿に、自然と複数の視線が集まる。
この男が次に何をする? 不謹慎を詰るか、それとも野次馬に参加したがるのか?
祐の次の行動に好奇を示す下卑た視線だ。嫌な意味での好奇には慣れているものの、これを"よくあること"という感覚に落とし込むことはできない。
何より不快である。かといって"よそ者"に対してそれなりの頻度で向けられるそれに割きたい思考の割合はない。
好奇の視線に今更ふり回されるいわれもなく、踵を返そうとしたとき、誰よりも強い悪意が、どこからか刺さる。
虚ろの中に明確に息づいていたあの底なしの闇が脳裏を過る。
反射的に視線を落とせば視線のすべてがあの胡乱になる。足元に水が滴ったように嫌な色をしている。
幾つもの目が、黒い太陽が、不安を注いでいる。自身の身体をゆうに超える暗闇の獣が漂わせる生臭さがすぐそこで再現されるようだった。
焼かれた色の光景に冷たくなった手のひらが相反してじっとりとした汗を滲ませる。いつの間にか乾ききった喉を唾が通り切れないで詰まっていく。
目の奥から響く、酩酊にも似たふらつきに思わず左手で顔を覆う。右手が机の天板へ着き、眩んで閉じていく色に再び明るさがともされるのを待つ。
無意識にかみ合わせていた歯の間から、ため息が漏れる。
「あ、の。あの! 結崎くん、大丈夫? 顔色が……すごく、その、大丈夫? 保健室で休んでいったらどうかなあ。心配だし、ぼ、ぼくは保健委員だから案内するよ」
蚊の羽音にすら負けそうな声ではっとした。
今に視線は散っていて、どっと洪水のような雑音が流れ始める。
思い出したように視線を上げれば斜め前の席に座る如何にも気が弱そうな男子生徒が、伺いを立てる上目遣いで未だに平衡を欠いている祐を見つめていた。
言葉尻はもう口の中でつぶやかれていて、小さな言葉は雑音に潰されたといくらでも無視できるものであった。
切りそろえられた前髪から覗く、暗褐色の瞳には極度の緊張から薄らとした涙の膜が張られていて、不審な視線は手元を往来と往来している。雑音にかき消されたことにはしてくれないようだった。
「……お前には関係のない事柄だろう。構うな」
眉根を寄せて吐き捨てるようだった祐の言葉をぽかんとした顔で反芻していた男子生徒は、ようやく嚥下して意味を理解すると顔を赤くさせたり青くさせたりしながら大げさな手振りをしている。ぱくぱくと開いては閉じる口からは「あ、あの、その」と切れ切れの言葉だけが言い訳を形成できずに続いている。
「もういいか」
「あ、あ……うん、うん! ごめん。あの、本当に。余計なこと言っちゃった、よね」
俯く男子生徒を気にも留めず田舎町の学校にして大仰な指定鞄を持ち直し背を向けた祐に気弱な声が投げかけられる。
堂々巡りだ。会話に生産性がない。男子生徒も諦めて黒板を向き座りなおしたこともあり、この会話には区切りがついたのだと完結させて祐は教室を出た。遠ざかる雑音に、こめかみのあたりに居座るこの鈍い痛みも早く引いてほしいと思っている。
 遠ざかってしまえば、廊下は奇妙なほどしんとしていた。
教室内でいつまでも溜まる生徒のせいで閑散としている。
人けのない廊下に教室内の騒めきが漏れている。一枚の壁だけでも心地がいい。この時間帯は日陰にもなるこの方角は屋外に比べると涼しく、教室内の雑音のほかに新芽から伸び始めた葉がささやくのが聞こえる。
体温が下がるような風が頬を掠めていことが今の自分には合っている。いやな緊張に身体が熱くなっている。
生活の色を乾いた紙で拭い、拭いきれなかった人の気配や痕跡が適度に残る反射率の高い床と、同時に生きる日常ではない静けさが少しばかり掻き立てる不気味さが──それくらいが、それくらいでいい。
今に重くなっている思考に、事実として鈍痛に現れる憂鬱に、帰ったら日々の生活もこなさず眠ってしまおうと考える。
最後には心地がいいはずだった冷たい廊下からも、いつまでも窓の内側に映る夢の残像から逃れるように耳にイヤフォンを押し込む。そしてブレザーへ手を突っ込んだ。人工皮革の手袋をした指先が、固い端末に触れる。
手探りのままで音楽プレイヤーの電源を入れれば、もうそこに現実はない。

 リスニング教材として設けられた英文が耳元で流暢に読み上げられている。
大通りに面する商店街は普段と変わらず買い物客や呼び込みの声で盛り上がっていたが、道を一本外れると全くと言っていいほどに人の往来がない。
学校という地均しのための箱を出ると、人の気配や自然物の気配が適度にある光景に安堵を覚える。
春の薄い黄色が去り行く冬の前に霞をかけている。過ぎ去った季節に目を細めて足を進めるのはわざわざ自分から遠ざかっていくようだ。どこか後ろ髪をひかれる気分になる。
きっと今日は散々だが、この先いいことがあるかと言われればそうでもない事実が"そう"させている。故に、新しいことを知ることを億劫として過ぎ去る季節ばかり名残惜しんでいる。
自然と小学生のたまり場になっている駄菓子屋はその特性ゆえに、型ガラスに「本日 休業」という紙きれを張り付けては締め切っている。
自販機横に鎮座しているカプセルトイの筐体も撤去されて、台のあった場所に金属錆を含んだ雨垂れだけが存在の空白を示していた。
看板猫がブロック塀の上で退屈を紛らわせるあくびを繰り返していた。風に揺られる型ガラスの引き戸がガタガタと音を立てている。
 井戸端会議の主婦も、徘徊する老人もいない路地を往く。
地域の特性としか言いようのない、見ず知らずの人間に話をかけられるということがないだけで、この町の出身ではない祐には住みやすい。
他人の命を非日常のために消費されることの不快を覚えながらも、祐は祐の居場所として与えられた場所が今現在のほうが快適であることに薄く気付いていた。
非日常は存外、理性よりも、本能よりもさらに深いところで──個という境界を、思考というろ過装置の過程を勝ち抜き滴下した先の深層心理で人間を満たすものなのかもしれない。
 祐が下宿先であるアパートにたどり着くにはまだあまりに距離があるというのに清涼さを広げた空が一転し、雨粒を抱え込んだような鼠色の厚い雲がのっしりと強い意志で居座っていた。
太陽が隠れたために活き活きと巣穴から出てきたカラスがごみ集積所に掛かる動物避けのネットをつついている。足元に反応し顔を上げると、よろよろとした歩行を続ける祐を観察するように見つめ、すれ違いざまにカア、と鳴いた。ラミネート加工の施された紙きれに、ごみ集積所の金属網棚設備化の署名協力を!と太い文字で書かれている。
カラスはそれを知ってか知らずかよく鳴いていた。
 湿度を孕んだ空気がこめかみの鈍痛に脈動の不快を付加していた。すっかり苛まれて、耳元で流れ続ける英文を認識するのが難しくなっている。
如何にも欧米の感情落差がある豊かな調子はいつの間にか平坦になり、ぼそぼそと乾いている。知っているはずの言語を拾うため、無意識に言葉に耳を傾けている。
音楽、そうだ、音楽が流れている。遠くで笛と鈴の音が混じった変なリズムで囁かれている言語は何だ?
母国語のような親しみと、どこにもない空がある。自分は今、何をしていただろうか?
靄が複雑な体内を満たし、膨らんでいる。チリチリと火花が遠くに見える。
金属線を伝う小さな火を見て、何かを焼き切ろうとしているのか、とぼんやり思う。
爆ぜる光にはっとして思い出したように天気の悪化に悪態をつく。
天気が悪い。湿っぽい空気が重く肺の底をなぞっているのだ。
故に、呼吸が浅くなってこの体調不良を加速させている。
 ようやく自我という糸を掴んで浮上すると、ブロック塀に手をついて伝い歩いている。
息が浅く、短く、それでいて不規則だ。
鉛のように重いという言葉に先があるなら、もはや身体が溶けてねばつくそれを引きずって歩いている、がきっと正しい。泥、泥だ。
語源でもある空想上の生き物は、人間が概念と自我を与えたのだから、きっと人間にも通ずるのだろう。
空想上の生物というのは大抵、生き辛さの責任転嫁で──もういい。思考を一刻も早く辞めたい。早く帰りたい。
大体にして、烏丸三丁目の十字路はこの区画の主要道路のくせになぜ閉鎖するのだ。
迂回しなくてはいけない事実に宛てのない怒りを覚える。冷静であれば閉鎖の理由に納得するし、そうであるべきだ。そう思いながら、意味もなく洟をすする。
怒りは火が付いたように広がってまとまりのない思考すべてをすっかり染めてしまった。
迂回路を往かなくてはならない。そうだというのに、追い払われるというのに足が十字路を向く。
行かなくてはならない。
早く。そう耳元で囁かれている。
何を急ぐ必要がある? どこへ行けばいい?
先ほど掴みなおした糸を離すように諭されて、見えない意思に指を一本ずつはがされている。
「……もう、いいか」
耳に引っかかっただけのイヤフォンの先が甘美な肯定を与える前に、焼けただれた思考に白い花弁がそっと触れた。視線がふっと持ち上がる。
ぼんやりとよろめいた足の着いた先で、靴底が痩せぎすの枝を踏んだ。
落ちてしばらく経っていたのかローファーの靴底をそっとよけると枝は、衝撃に耐えうる繊維を維持する水分もなく力尽きてぽっきりと二つに折れていた。枝を見下ろしたまま、身体は崩れ落ちる、と、そうなるのではないか、と予想していた。
 踏むことを予見していたわけではないが、きっかけを求めていたからこその「もういいか」という言葉だと思っていた。
それだというのに両の足が地面についている。どちらかといえば、手を離したほうが崩れ落ちるためには簡単だろう。
悲観的になって、そして想像していたより生に必死で馬鹿らしい。
急に過剰な悲観を自覚して唇を噛む。うるさいと睨みつける背後の気配をかき消した。
「感情の秤こそが独立した独立する思考を持つ個に与えられた特け──」
負け惜しみのような言葉を受け取る前に、触れもしない音楽プレイヤーが音量を増して砂が流れ始める。
激しく雨が地面を打つ音にも似ている。金属音を挟み、顔を顰めたくなる不快が鼓膜を強く掻く。
冷静を取り戻すなというように叩きつける音の暴力から、とにかく不快な音から逃れようと乱雑にイヤフォンを引き抜く。
見開いていた目が乾いていた。黒いイヤフォンが握り込んだ手元からだらんと首を垂れている。
よほど静かな世界に呆然としていと、耳元に息遣いを感じる。
ノイズ音よりずっと透明であるのに、わずかに湿度を帯びた息遣いを感じるのに、無感情に老若男女の声の重なり合った音が触れた。
「みつけた」



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