凪いだ水面をそうっと撫ぜる風が──正確には、それによって生み出される波形が、じわりと肌にしみ込んだ。
脹脛のあたりで筋肉が収縮する。踵を浮かせたくなるような不快さがうっそりと静かに下肢を支配していく。
鼻腔内で粘膜に触れる。その感覚でようやくここには極めて薄い冷気があるのだと自覚した。
このまま立っているのならばまるで濡れたまま立ち尽くすが如くこの身体は芯まで凍えていく。
だが、そうなのだとしても、緩やかに奪われる思考が異常なことであると感じないという事実は変わらないのだ。
素足の底が触れていた地が崩落する。開いた暗闇の口腔へ、ただ落ちるという表現以外の一切をし難い感覚に身を任せている。
底など想定していないというのに、ここは中腹だな、とぼんやり思う頃、緊張した筋肉がビクッと痙攣した。
縮こまっていた筋肉が痙攣を起爆として本来の形に戻ろうとする。
 勢いに弾かれた瞼に半ば強制として持ち上がり、視界が開けると、十字に先が分かれた路の中心に立ちすくんでいた。
今この瞬間もなお地に足をつけてしっかりと立っているという自覚を得る前に、無意識の思考を身体へ結びつけようとしていた柔い糸が切れる。
思考と身体を繋ぎ止めるものを糸と表現するのならば、その下を静かに蝕む感覚もまた、糸である。着地点が異なるだけで、思考の本質に変わりはない。
人間は多面的な質量を持った生き物である。少なくとも自分はそう思っている。
ぐらりと揺れる身体を立て直す素足はざり、としたコンクリートを踏む。ざりりとヤスリの上を歩くような感覚は、まさにこの身をすり減らす生を思わせたが、今はそんな繊細を詠むことはどうでもいい。
曖昧な冷気を孕み、色のないまま漂っている霧は、その現象を文字通り正しくなぞっていやな湿り気を帯びている。
水を多く含む粒子は重なり合い、一〇メートルも先となればすっかりこの世界に個として存在する色を消し飛ばしてしまっていた。
どうしてこんなところにいるのだろうか、と鈍くまとわりつく頭の痛みと理解のできない状況に思考を巡らせる。
 最後に、正確には最後ではないが、とにかく確固たる意志を持って言える最後の記憶では、自身は机へ向かっていた。
退屈も熱中もない、平坦な道を一定の労力のみで歩き続けるように目の前に提示された設問を紐解いていた。
そして日付が変わる間には切り上げ、同時に遅い時間に回し始めたおかげで未だに音を立てていた洗濯機がようやく止まったのを覚えている。換気扇が回転を続ける音に煩わしさと眠気を感じて、ハンガーに濡れたシャツをかけるのが億劫だった。
眠る前は身体が鉛のように重かったために、室内の照明を落とす行動までをなぞる間にも、終わりに向かって記憶が靄がかかる。
夜間という事実もあり、特にアパートを出る理由もなく布団へもぐりこんで、間もなく意識を沈めた。眠りについたのだ。
つまり、などと前置きするまでもなくこの状況は異常なのである。かと言って夢であると断定するにはあまりに透明な意識と今も肌を刺す小さなとげとして存在する冷気を、そして冷気とちぐはぐながらに共存してしまえる気持ちの悪い湿りけが、現実を押し付けてくる。
どう見ても現実ではない。しかし、感覚に依存するとはいえ、夢である理由を列挙するほうが難しい。
胸のあたりが気持ち悪い。ほとんど無意識のうちで、寒さから逃れるような動作で持ち上がった左手で部屋着の肘に値するあたりの生地をさすった。
 これが夢であっても、そうではなくとも。
このまま自身のことばかりを気にしているわけにはいかない。自らここに足を運んだのでなければ、悪い想像ですらいくらでもできるのである。
周囲を見渡すと、少し先にはところどころ塗装の剥げた信号機があった。
左手の電柱には、蛍光色と沈んだ鈍色が交互に並んだ反射材が張り付けられている。雨風にさらされて輪郭を失っては色褪せている広告が、そして雨垂れの跡がくっきりと残り錆が尾を引く街区表示板が張り付けられていた。
左右に続くブロック塀。足元は一部が割れた白いコンクリートを流し込んで作った側溝が続いている。途中で切り替わるアスファルトの黒い道路舗装の一部にヒビなどの経年を感じさせるが、その隙間や継ぎ目からは一切の植物が生えていない。経年で割れたアスファルトの隙間をこじ開けて下を覗くのならばきりがないようだった。
信号機や広告からはこれ見よがしに人間の生活の痕跡があるというのに、ブロック塀の向こう側には家屋以外に目立った建物はない。いつも遠方にかすむ山の色もすっかり霧に塗りつぶされている。だが、それが晴れたとき、そこに山があるのだろうか、といったことを考えたとき、なんとなくここは空き箱に模型を放り込んだだけのもののように思えた。
雑草や小石といった不規則かつ不定形に存在する自然物が排除された絶妙な歪がそこにはある。
どこか不安を煽る、嫌な感情がずっと足元を這いずっていた。
そしてようやくに気が付く。この世界の色は奇妙だ。
色彩の温度に統一がとれていない。曇り空の下に、晴天時の色を並べたときの比が、目の奥を刺す。
鋭いほどの透明を極める思考と反対に覚束なくなっていく身体に似ている。よく春になると広がっている、底を見誤るような泥濘に似ている歪だ。
 文字が表示されている街区表示板をじっと睨みつける。
見たことのない字ではない。だが、同時に常用のものでもなく、"語句を表すために並んだ字"としての機能はしていない。
コンピューター上で再現をし損ね、意味を通す文字として機能しない切れ端たちが羅列し、蠢いている。
蟻が集る様に似ているそれを目視している今にも、輪郭は曖昧になり、瞬きの間にたちまち今しがたとは異なる字形を表現する。
微かに蠢く文字たちの規則性から何かを正しく理解しようとすれば、意識に引っ張られた目が皿のように細くなっていくのが感じられた。
この場所は、おそらく自身が認識している世界という確かめようもない理の裏側に潜り込んでくる。
率直に、不快極まりないのだ。
 烏丸三丁目という見知った地名の下に続く細かな番地を確認していると、ふとどこからか見張られているような気配を感じて僅かに顎を持ち上げる。正面には半分以上が霧で希釈された、夕暮れよりもずっと不自然なオレンジ色に濡れたブロック塀が続いていた。
濁る風景を見送ってから、再び視界から得ることのできる情報を探していると、刺さる視線が想像よりも近くにあることに気が付く。
同時に自分自身の身体が浮き上がって、つむじを見下ろす気分になる。
視線を投げかけるものは、上にいる。
気配のほうへ、つまり空へ伸びる電柱をなぞって視線を上げると、それはあった。
光の縁が焦げた太陽から目を焼く光を確認しながらも、ぽっかりと空いた穴を思わせる。
黒い。矛盾を覚えながらも、暗がりが降り注いでいるとしか言いようがない。その逆光の中で、誘う寒風がぞっとするほどやさしい手つきで頬を撫でつけていく。
強い光を遮る陰になっても、それはよく見える。
 覇気がなく、乾き、筋肉がとうに固まってしまった瞼の間から覗く眼球が、まさに「穴があくほど」という表現そのもののようにこちらを見下ろしていたのだ。
見慣れたくすんだ緑色のブレザーの袖や、重力に従って捲れたせいでプリーツの折り目が境界を薄くしたスカートからは蝋人形のように血色の失われた手足が、脱力したままにそこにある。
性別としての特徴といっても差し支えない曲線の多い身体つきからは想像もできないほど彼女の線はかたくなって地面に向かって伸びていた。
有刺鉄線のように等間隔に突起のついたワイヤーで電柱の中腹ほどに括りつけられている身体は、ピクリとすら動かないままでいるが、時たまに同じく下がった黒い髪だけが柔らかく揺れている。
唾を呑み込めないままでいる。
驚きのまま肉体への信号を停止してしまう脳は、どこかの教材か何かで見た中世の魔女狩りのような光景を彷彿とさせていた。意味もない見せしめに見えるだけの、吊るした肉の塊だ。
今となってはどこを切り取っても生という生を全く感じさせることはない女子生徒が開いたまま息絶えた瞼のうえ──やんわりとしつつも吊り上がる線を描く眉には恐怖を張り付けたまま奥には虚ろを湛えている。
それと視線がかち合ったまま、目を逸らせないでいる。
意思があるなどとはどれだけ目を細めても想像はできない瞳の中で、目を見開いた自分自身と目が合う。
胡乱な色に引きずり込まれてはっとすれば、また自分は電柱の下に立っている。逸らせない視線に誘われて、すぐそばまで這い寄った仄暗さに足を取られては何度もそれを経験した。
身体から気が抜け、胡乱になった女子生徒の瞳の中にいる凍り付いた表情の自分を見ている。
眼球だけが不意に上を向く感覚に似た眩暈で血の気が引く。頬が、もっと言えば頬の内側の肉が冷たくなるようだ。まだ虚ろを見たまま、素足が一歩下がったせいでざらついた路面が皮膚を薄く削いだ。
 血が滴っているわけでもなく、死臭が酸素に溶け込んでいるわけでもない。
確信などどこにもないというのに、目の前の"死"を理解したことでざあっと駆け上がるように粟立つ肌と神経に呼応して、胃の底からこみ上げる胃酸を無理やり飲み下そうとする。
そして再びせりあがる胃酸を飲み下すこともできないまま肩を大きく揺らしていた。ただ、今に足元へそれらをぶちまけないでいられるのは、なおも視線を逸らすことのできなかった、乾きっては水晶体にしわを寄せる瞳のおかげだ。
思考するほどやさしいものではない。二度と音を紡がないはずの唇は薄く開かれたままで、ぐるぐると円を引き込む胡乱の奥では何かが蠢いている。
最初こそ、それは錯覚であった。今に倒れてしまいそうな自身が自身の脆さを認めないが故の強がりなのだと。
だが、今に実感する。そこには確実に"何かがいる"のだ。
蠢いてはくすくすと馬鹿にしているように視線が投げられている。胡乱な色が投げつける緊張が肌を舐める。視線を舌と例えるのならば、過ぎ去った後に薄く纏わされる唾液がざわついた不安と、何者かが潜んでいる事実を恐怖として煽るようだった。
釘付けになった自分自身もまた、瞳が乾いていることに気づけずにいる。
一点に収束する意識が細く、鋭く、冴えていく。
──""これ"は危険だ。
自身の思う"これ"の正体などどうでもいい。
はっきりと認識をしてしまってはいけない。
なぜ? 知的好奇心を満たそうとするのは人間の性でもあるのに。
脳が本能的に危険信号を発信しているというのに指一本すら動かない。
故にの焦燥を背後に、冷静さがひたりと居座っていた。
眩暈の中でもがき続けている。焼ける喉の中でやっと地面を蹴った足は、いつの間にか元の場所に吸い寄せられている。
絡まって塊になった糸のような思考を投げ出したくなる。
先ほどまで諦めしかなかった中に鮮烈な死が一滴のインクとしてもたらされただけで、脆弱な身体はこれほどに平衡を失う。
空間が捩じれている。もうそれでいい。
足踏みしているだけの、前に進むふりなどしている場合ではないからだ。
息が上がっている。どくどくと心臓が脈を打っている。
表皮を押し広げてなお、膨張する不安がついに皮を内側から破り去った。
ぱっと地面から離れた足が、数十センチ先の地面を踏みしめる。
身体を翻し、出遅れた重心に振り回されるのも構わず走りだそうとした、その時だった。
自身の中で不安が弾けるのと同時に、屍の生白くなった皮膚ごとブレザーを突き破った何かが、地を這うような咆哮を上げた。
水けを多く孕んだ嫌な、重みのある音が自身を通り越して、地面に赤黒い飛沫を吹き付ける。
女子生徒を構成していた臓器が背中にぶち当たる。前方を確認する間も身体が浮き上がる。すぐに黒い影が迫っていた。
 強い衝撃に挟まれ、コンクリートに背中と後頭部を強く打ち付けたらしく、一瞬の間、意識までもがすっ飛んで行ってしまったようだった。
瞼が思い。後頭部にあるぬめりが、何によってもたらされているのかまで思考できない。これは屍──ひいて女子生徒だったもの、のものであればいいが、だからと言って自身の生命が保障されたわけでもないのだ。
グラグラとした痛みの波形は脳を透過し、骨を振動させている。
目の奥で視界が歪んだ像を結び付けようとしている。
小さく頭を振ると、脳はすでに形を成しておらず、どろどろになってしまっているのではないかとすら思えた。
ゆっくりと像を結んだ先では、自身の部屋着よりもずっと黒い、闇色の体毛を持つ獣が、存在を確認するように腹にマズルを押し当て、しきりに鼻を膨らませていた。吐き出す鼻息がみぞおちのあたりを蒸していく。
湿度と不快感、そして覆いかぶさられている圧迫から逃れるように身動ぎをしようとしたところで、手繰り寄せようとしていた冷静の後ろ髪をつかんだ。下手に獣の感覚器官を刺激しないほうがいい。絶対に。
 視線だけを動かし獣を見やると、黒い体毛に覆われた顔は確認できなかった。マズルの中腹あたりから鬱陶しくなってしまいそうな雑面が頭部を覆いだして、その裾がしきりに鼻梁を掠めていた。
雑面自体は半紙のような地に、朱色で目玉の意匠ととれる文様がひとつ、ぎょろりと書き込まれたいた。
象形文字というよりは、子供の落書きのようだ。筆の扱いにまるで慣れていないものが、安定しない軸のまま書きなぐっている筆跡だった。
探る視線に気が付いたらしい獣は、動きを止める。すぐに"目が合った"。
俯いた鼻梁から牙の色が覗く。発達した犬歯の先だけが見えている。
水に浸した植物が根腐れを起こして腐ったような生臭さと興奮した息遣いがむわりと頬に触れる。ねっとりと舐める視線とともに背筋に悪寒が駆け上がる。
自身の喉元が、引き攣った悲鳴を上げると、獣は天を仰ぎ、歯茎を獣自身の欲を満たす恍惚のまま剥き出し、振りかぶる。焦げた太陽に照らされた牙に目はすっかり焼かれて、像を結ぶことをやめた。
恐怖に支配された身体が痙攣するような抵抗もできない。
やっとの思いで目をぎゅう、と瞑る。目頭に深く皺を刻むと、殴られたように反響する痛みではない、ツキンとした冷たさが響いた。
それだけだ。ここにある己のすべてはこれしかない。
退屈。
一瞬よぎったそれを問い返そうとするも、襲い来るであろう牙が部屋着ごと薄い皮膚を──文字通り容易く、勢いを殺すことに一ミリも貢献しないまま肉を抉る想像に塗りつぶされる。
衣服に牙が触れる。思わず身体がびくついた。
痛みより早く、閉じた瞼の裏に強い光を感じて意識が強く引っ張られる。

 足を蹴り上げて、上半身を起こす。
一瞬つまった呼吸の仕方を思い出す。背中がじっとりしていた。
足元には乱れた布団が意思もなく、だらんとしている。生き物ではないのだから、当たり前だ。
まだ暗い自身の部屋に間覚ましのアラームが鳴り響いている。
夢、か……?
そう言葉にしようと──したかった。
部屋の角を認識すると同時にせりあがってきた吐き気に対し、ほとんど反射で口元を抑え、身を屈める。
下を向いた瞬間にしまった、と思う。反射は連鎖して胃の内容物を飲み下そうとすれば胃は大きく収縮して、背中が冷えた。
蛙が鳴いている最中に、圧倒的質量で押しつぶされる様を想像する。
やや乾燥した喉に追い打ちをかけるように粘膜を焼いた酸は、口元を抑える指をすり抜けていく。
部屋着の腿のあたりを濡らしたあたりで「ここで嘔吐してはいけない」という染みついた意識だけで保っていたすべてが、もうどうでもよくなった。
大きく揺れる肩で呼吸を整えながら、汚れていない手の甲のほうで鼻の下を拭う。
少なくとも、ここで嘔吐する覚悟を最初から決めていれば、吐き出したいという欲求を曲げない肉体と拮抗した挙句に、口や鼻から胃酸をぶちまけることはなかった。我慢するからこんな結果になるのだ。押し出すようにせき込んだ後にティッシュを数枚引き出す。
柔らかな紙質のそれで鼻全体を覆い、下を向く。口から吸った息を静かに鼻から吐き出す。
鼻腔内に残る水気がティッシュに吹き付けられる。何度か繰り返すと、胃酸の嫌な匂いが当たり前のような感覚になっていく。
憂鬱だ。最悪な一日の始まりだった。

「腹部が裂かれてたらしいんだけど、明らかに引きちぎったみたいで。なのにバラ線で吊るされてたって怖くない?」
「えーっ! それって、クマとかではないってことでしょ。いや、でもさ、ま、まさか生きたまま吊るされて……とか?」
「自分は吊るして蜜塗っただけだって言い逃れでもするのかね。ヤバいでしょ。シリアルキラーに進化しちゃうかもね」
 きゃあきゃあと面白がっているのか、怖がっているのかわからないような悲鳴が上がり、鼓膜を引っ掻いた。思わず目を伏せる。
先日から行方知れずになっていた女子生徒が、今朝方、遺体で発見された。
学校という狭い社会の中でいうのならば真面目で成績も悪くない。人当たりはもちろん、誰に対しても分け隔てがない。
そんな好印象だとか、模範生だとかいう言葉そのままであった。そう、学校という狭い社会のテンプレートでは。
太陽という光源のもとでは万物に影ができる。己より輝くものがあれば自ずと影は生まれるものである。
そしてすべてにおける完璧は存在しない。誰もが影をなくして立つことは不可能に近い。人間は極めて歪な多面体だ。不可能というのは、すべての行頭に"完全な"という語句を付加して球の接地や摩擦を議論するのと同じだ。
彼女にも羨望の裏返しか、はたまた事実か、素行不良の見られる生徒の溜まり場へ向かって翻るスカートの後姿を見ただとか、三駅ほど離れた大きな市で援助交際の真似事をしていただとかいう噂が浮かび上がっていた。自身がなぜそれを見かけたのかという過程を階段飛ばしにしている。
そうでありながら己の中で何段分の棚を上げればそんな話を娯楽として口にできるのかと言いたくなるような噂話が、彼女を好き勝手に見下している。
田舎社会の流れもまた、その裏も取れない噂に信憑性を与えており、次第に水は濁っていた。
この事件は極めて猟奇的という言葉を孕みながらも、万人に受ける目立った取り柄を持たない田舎町では出発点は自発的な家出になりがちである。
すべての言葉の末尾は"らしい"であるというのに──いや、曖昧な言葉であるからこそ交流に飢えた新学期の教室は湧きあがり、加速して尾を引いていく。
そして気が付けば、明るく優しく、真面目で、誰に対しても平等などといった女子生徒像には純粋すぎる悪意で腐った泥が塗りたくられていた。
 遠くの席で他人の命を交流のタネにしては消費していく楽しげな声を聞きながら、妙に現実味のある夢と酷似した現場で発見されたという女子生徒の噂に結崎祐はすっかり気が滅入っていた。
全身汗まみれで目覚めて、たまらず嘔吐したのち、すべてがどうでもよくなった。
幸い胃の内容物で汚れたのは服だけであったし、着替えてすぐ眠ってもよかった。ただ、彼にそれができたかといえば答えるまでもない。
呆然とする意識の向こう鳴り続けるアラームによって現実へ帰ると、ため息をつく。飲み込んだ苦みと、焼けた喉を下っていくチリチリとした痛みが憂鬱を掻き立てる。
緩慢とした動きで、枕もとのティッシュボックスに手を伸ばす。
大方をふき取り、洗面台で口を漱ぎ、風呂場の電気をつける。
今に思い出してもあの時どんなことを考えれば憂鬱、辟易以外の言葉が見つかっただろうか。
この瞬間でさえ、胡乱な瞳や指先から凍える冷たさ、神経を逆なでする湿気がまざまざと思い出せる。
『こんにちは、今朝方ぶりですね』、思考の端にとらえただけでそんな言葉とともに未明の憂鬱が遠くで手を振ってきそうだ。
祐がそうやって苛立ちや不快感、そして憂鬱と戦っている間に朝霧のかかった烏丸三丁目の十字路で、電柱に有刺鉄線によって固定された女子生徒がまき散らした臓器や遺体を新聞配達の若い男が発見したのだというのだから、なお更に気分が悪いものだ。
当然ながら祐の中には、若い男を哀れむだとか、気の毒にだとか思う感情は一切もない。不幸の共感はしてやれるが、だからと言って可哀想かどうかは自分には関係のないことだからだ。
 噂の信憑性を信じるほうがどうかと思いながらも、運が良ければその中に一つまみくらいは含まれる事実は、いくら関係者が伏せようとも「噂だけどね」という甘い言葉とともに拡散されていくのが田舎社会だ。狭い社会の中でふるいにかけられた精鋭の情報が、また別の枠組みにあたる狭い社会で共有され、食い潰しあう。
噂を詰め込んだ壺の中に最後に残った強者は、噂ではなくなる。
無駄が削られ、正しい情報によって研磨された宝石だ。最も真実に近い。そう考えれば噂話も嘘ではないのだと頷いてしまいたくなる。
結局は蠱毒と同じ仕組みで、自然の摂理よろしく淘汰された噂のほうだけ見れば、百あっても一しか残らないだけだ。
馬鹿げている。それが田舎の――否、田舎に限定するわけではないが、とにかく、求めもしない交流を強要される狭い世界の常だ。
 回りくどい言い方をやめるのであれば、今回の物騒な事件には既に町中が騒めき立っていた。
正午近くなるまではまだ夜の気配を引きずる季節の体育館での全校集会の後、各自待機となっている教室内はビッグニュース以外の話題はない。
どれが噂でどれが事実がを面白がって検証したがる声や、非日常を期待する声、猟奇的事件のこれからの発展を気にする好奇が圧倒的な中、ごく少数のみが不安を語っていた。
代り映えのない土地なのだ。少なからず、誰かが望んだ非日常ではなかったのだろうか。
こういった形でなくとも、自分自身は非日常を欲しがっていた。だがそれに他人の命の消費は必要であったのか。
死んだ人間を悼んだり、周囲を心配したりするポーズだけの人間はうんざりする。
関わりのない人間が死んで悲しいものか。命の消費との引き換えに疑問を持たないのであれば両手をあげて喜べばいいのに。
これならばまだ他人の命の消費が引っかかる自分の方がよほどマシだと思いながら祐は窓の外に目を向けた。
 四角い窓枠に切り取られた空は、筆に水を多く含んで伸ばした青い絵の具の色をしており、ぽつぽつとした間隔をあけてちぎった綿を並べている。
あまり奥行きを感じない薄っぺらい綿雲の毛先が滲んでいる。
新学期を迎えたばかりのためによく整えられた校庭にさっそくシジュウカラかなにか白黒した鳥が一生懸命になって足跡をつけていた。きっとその足元で小さな虫が逃げ回っているのだろう。
呑気なものだな、と机に肘をつきながら鳥をぼんやり眺めていると、視界の端で担任教師の最上が入室してくる気配をとらえた。
職員室から教室へ向かった際に一番近いのはロッカー側、つまり教室の後方側の引き戸であり、故に最上は教師の威厳のかけらもなく、いつも後方の引き戸をくぐる。靴の底で床を擦る音に生徒たちの視線が向くと、野生動物を宥める際の手の動きをした最上はおざなりに場を制した。
不潔だとか、煙草のにおいを纏っているだとか、そういった不快を演出させるものこそなかれど、くたびれたシャツと型崩れした襟を正すこともない。猫背を見ると、自身の世話に興味がない中年のサラリーマンのようだった。いや、営業職のサラリーマンのほうがよほど見てくれを気にするだろう。
どこか厭世の煙を漂わせて見えるが、そういった意図は彼にはないはずなのだ。
適当でやる気がないという態度は、同じ授業の繰り返しと、三年毎に入れ替わる顔ぶれがそうさせた。彼の普段通りである。
そういったことが普遍になった結果、最低限の労力で賃金を得ようとしているだけで、賢く生きている部類なのだろう。
強いて言うならば、出勤早々に行われたであろう教員会議の疲労からか、最上という教師に味付けをする服や肌に浮かぶ皺は一層深くなっていることか。
一つまみの塩が味を大きく変えることのような存在が最上でもあり、今現在に知りえた職務との向き合い方が生徒の支持を得るのだと推測される。
祐が天板についていた肘をおろし、座る姿勢を正している間にも最上は机から身を乗り出しじゃれあっていた生徒たちの間を半身で抜けようとしている。
ただ、あまりに遠い教卓へたどり着くのを諦めたらしい。
ちょうど手を下した位置にあった机にプリントを投げ出すと、席の主に配るように指示をした。あくびをしたそうに唇を結びなおすと、ボールペンのノック部分でこめかみをたたく。
配布用のプリントから文字を拾い上げる最上の言葉の抑揚が、本当に読み上げているだけで、たびたび生徒の茶化す声が飛ぶ。
「んーと、そう。とりあえず今日は解散、だ、と。烏丸三丁目の交差点で起きた事故について一部規制が始まってるそうだ。えー、邪魔になるので近づかんように」
「いやぁ、無理があるっしょ最上ぃ。もしかしなくても今朝の事件は事故じゃないじゃん」
事故と称されている事柄が今朝方の遺体発見事件を示しているということに気が付かない人間を探すほうが難しい。誰もが口にせずとも結びつける事件はそれ以外にあり得はしなかった。
最上は唇の左半分を大きく歪ませ、目を逸らした。放置された白髪が混ざって霞んだ黒髪を適当にかき混ぜ、その手はうなじへ回った。
部屋の隅から忍び寄っていた沈黙が壁のように厚く、気づけば人と人の間を隔てている。それが縦に伸び続けて、次第に自重に逆らえず垂れ下がる。
先端同士が触れ合うと、沈黙から派生した緊張がドーム状に教室を覆った。息苦しさは、丸みを帯びた緊張が及ばない教室の隅へ逃げたがっている。
視線だけ延々と泳いでいた最上は地面の高さと平行にして下へ向けた手のひらを上下させてなだめながら、意を決して口を開く。
「そうだ。女子生徒が発見された十字路だ。事件性しか感ぜられないが、まだ検察結果が出てないんだから仕方ないだろうが。勘弁してくれよ。野次馬には行かないように。面倒かけたら進路担当にあることないこと吹き込むかんな」
一部の生徒たちが目配せで合図をしあうもので、最上は一文字ずつを強調して、野次馬をしに行かないように強いていた。
そのコミカルさがカリギュラ効果を呼び起こすことになるのはまた別の話であり、再三の注意はした、という最上は責任逃れの種をまき終わると教卓も赴かず、職員室へとんぼ返りしようとしていた。
肩のあたりまで手を上げ、捩る身の面積を限りなく小さくして机の群れを抜けた最上は去り際に引戸に手をかけたまま振り返った。
「ん? プリントの下にまだ通告事項があったな。もう隠す必要もないだろう。奇怪な事件ゆえに、地方局やマスコミの記者が紛れてるだろうが、お前たち、迂闊に答えるなよー。模範的な行動をとるように。あとは知らん。ホントのホントに、やるならば学校に迷惑かけるなよ。かわい~い下級生だの未来の本校生徒が自転車で山超えて一迫市の学校に通うハメになるのは不憫なことこの上ないだろ~?」
深いため息を皮切りに、沈黙の壁に穴が開いていた。
あれほどの厚みを作っていた壁はシャボン玉のごとく、油膜をつつかれると弾けて、最初から何もなかったように崩れ去った。教室内は再びざわつき、新学期早々に教室内の統制をあきらめた最上はプリントを丁寧に折りたたむと、胸ポケットに押し込んで退室していった。彼の背中の哀愁を見送るものは誰ひとりいなかった。
 一層盛り上がる生徒たちは、幼稚に高ぶった声を上げながら野次馬しにいく計画を立てる。
思考回路はまるで無知で、故の悪意すらを忠実に再現している。純粋にも似ているがこれが本当に幼稚さだけで生きている歳ではないために、小賢しい作戦なのである。
素行不良に片足を突っ込んだ生徒たちが、誰が一番現場に近づけるか、などと言い出した頃にようやくこの空気の可笑しさに気が付く生徒が出始める。
"普通"はここまで他人の命を踏み荒らしたりはしないのだと。
そういった頃には時すでに遅く、教室は混沌の底を見る。
言葉の上に浮かぶ娯楽性だけを掬いとっている。
誰もが、まだ捕まっていない犯人の目が次に留めるのが自分ではないと確信している。



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