意味は求められる以上のことであるとして、そして言葉は求められるままであった。
そうして席に着いていた祐は密かに細い息を吐く。
果たして自分は何のためにこの場所に同席することを求められ、そして何を見せられているのか。
他人と密になる関係を望まない祐にとってそれら目の前で繰り広げられる会話たちは、あからさまに見え透いて作り物のような茶番劇に見えたのだ。
 日野春暦にとって茅間伊三路に抱く恩は大きい。
長らく気掛かりであった友人との関係を改善できたきっかけをもらったどころか命を救われている。おまけに晴れ晴れとした感情さえが今は胸を占めているのだという。
そしてその出来事における舞台であった非現実の出来事すべてが彼の感情をひどく加速させて、酩酊するように浮ついた感情へと昇華させているのだろう。
驚いたことに対して心臓が少しばかり早く動くのと同じだ。血液が早く回って逸った身体的衝動の全てがそれに計上されている。
目の前の人間が適当な酔いで気分が高揚し吐いた言葉に対して知らぬ存ぜぬをし続けることのできる人間であるとは考えないが、確かに熱に浮かされて口走るそれと表現しても行き過ぎたものではなかった。浮ついているのだ。
祐は考える。
そして一方の茅間伊三路は、自身のことを語りたがらない故に人懐こい性格に反して一線を引いているように思われがちであるのだ。
普段の軽薄かつ無知と相まって日常に於いて目を惹く存在であるという印象だ。
周囲に人間の集まりやすい性質をしている。
その事実から、愛玩や庇護欲にも似たそれのひとさじがクセになって世話焼きが捗るのだ。
少なくとも祐から見た日野春暦像に斜の見方をすればそのような言葉がよく似合っていた。
感情の行く先を、対等からは微かに履き違え、弟分のように思っている。しかし、どこか掴み切れない風と梢のささやき、そして達観を持ち合わせるぬるい日光だ。
弟分のようであり時に弟分にしておくには些か広すぎる懐を前にして調子を乱されていった結果として、この短期間で二人の間に形成された濃い親密があることを仕組みとして理解することはできる。
しかし、その関わり自体を避けたがる性の祐には仕組みとしての説得力と結果を理解することはできたとしても、共感することはなかった。
だからこそ、眼前の光景に興味を示すことはなく、退屈を見え透いて遠くへ視線を逃がしたのである。
まるで現実感がない。空白の話をしているかのようだった。
事実としても己に関係はない。
自身の感性では共感を得ない。
その事実に十分な納得した以上は思考することにそれより先の意味はないのだ。
区切りをつけて壁掛けの時計を確認し、そして意味もなく、自身の腕時計を次に見る。
当然のように同じ時刻を示していた。
強いて語れば、クォーツ式としてアナログ回路の要素が強い壁かけ時計は誤差程度の歪みを若干に抱えているだけだった。
 祐は二人の様子が結論に至ったことを確認すると学生鞄を手にしてひとりさっさと席を立つ。するとすぐに、二人分の視線が祐に集まった。
「生徒向けの最終下校時刻が近い。教師に捕まって小言を聞くのは御免だ、以降の茶番を続けるならふたりでやればいい」
「う、うん。他の人に聞かれるのはなんだかよくないと思って、つい。ふたりを見たら今すぐ言いたくなったのもあるけど……引き留めちゃってごめんね」
その言葉を皮切りに吊るための糸が切れたように姿勢を崩した伊三路と暦は、光が薄くなった教室の暗さに驚いて慌ただしく帰り支度を始める。
誰の言葉を聞くまでもなく退室しようとする背中を追いかけようとしながら学生鞄にテキスト類を詰め込んでいく伊三路に、暦は控えめな動作で小指を差し出した。
「さっきはかっこつけちゃったけど、死ぬかもしれないとか、なんか危険とかやっぱり漠然としてると思う。でも、いや、だからこそ、無理しないって約束」
小指を見つめた後に、伊三路は暦の顔を見上げた。
「最悪な結果がそうかもしれないって思うことはあっても、そうあって欲しいわけなんてあるわけないんだもん」
「怖いしね」と、やっぱり困って笑う暦の眉が八の字のように下がると、伊三路もいつもの歩幅に戻って語る。
「怖いと思っているうちは安心さね。それはつまり、本能という性のうちで警戒心がちゃあんと働いている証拠だもの」
交差した小指同士を僅かに絡めて、伊三路は繋がった手を上下にゆすった。
「無理をしないということは約束。でも、今際の際に思うことは誰にも強制できない。それを強制する権利もない。だから、約束として受け取ることができるのも『無理はしないこと』だけね」
学生鞄を抱え直した伊三路が普段通りの朗らかな笑みを湛え、よく通る声で仕切り直す。
「それじゃあ、日も暮れるし帰ろうか」
「うん! なんか、ごめん。ちょ、ちょっと、急に恥ずかしくなっちゃったね」
 肩を竦めて顔を赤らめる暦がそう語ることとほとんど同時に、引き戸式の教室のドアから白髪混じりの頭が覗いた。
気怠げな様子の最上が教室に入ってきたのだ。よれて皺の寄ったシャツとそれを強調する猫背はあまり清潔さを感じさせない。
冬眠から目覚めてまだ寝ぼけ眼の熊、と聞いて想像するとその姿の通りだ。
のそのそと緩慢な動作で教卓から黒い表紙の日誌を取り出すと眠そうに目尻の下がった目で教室の後ろの方に居る三人を見た。
「お前らまだ残っていたのか。戸締りするから早く出ろな」
「はい、下校するところです。ドアの戸締り以外は済ませました。日誌については本日の日直に確認してください」
突然に登場した最上に驚き焦る暦を他所に祐が涼しく答える。
後ろめたいこともないというのに動き多く狼狽えている暦や尚ものんびりしている伊三路を他所に、最上は教卓の前に立ったまま日誌が本日の日直によって記入されていることを確認すると首を伸ばして黒板を振り返った。
 チョークは白の一本を残して全てしまわれ、その一本も短くなったものを丁寧に補助軸に収められている。
指先ほどまで短くなっても書きやすくするための補助軸だ。明日の一校時を担当するこだわり強い教師のためのものだ。
口うるさいわけでもないが、その教師の持つこだわりを遂行しやすくするためのセッティングがされていたのである。
字消しは黒板に正面で向かい合った際に肩幅ぶん開いた左手側に置かれていた。
シャツの上から脇腹を搔きながら最上はあくびをする。
「結崎~、お前まいにち日直をしてくれてもいいんだぞ。今日のは日誌も満足に書けんみたいだしな」
最上がこれ見よがしと広げた日誌には学科以外の何一つ記入がない。もちろん、日付も曜日もない。
それを見せられた祐は一瞬だけ眉を顰めかけたものの、これは怠惰と言うよりも朝礼前に今日の予定を書き写して以降の一切を忘れていたという様子に近いものだった。
理由はどうあれど放置された日誌には既に何を言っても意味はないし、それに記入漏れの有無自体は本来生徒の誰ひとりとして何も困らないのだ。
制約だけで縛って何も良いことなどない。成果を誰かと比べる理由にもならないのである。
「それが常になるとして生徒側にメリットはありません。真面目にやらない者が増えるだけです。一人に任せきりでも情報の客観性に欠くことはお察しのことでしょう」
「ええ……生徒の味方なの、お前。そう言うならもうちっと協調性があるといいんだけどねえ」
「何を意識せずとも普遍してどの環境にでも言えることです」
言い返すこともなく最上は言葉を聞き終えると、もう片方の手を払うように素早く動かして早く教室を出ることを促す身振りをする。
「媚び売りたいわけじゃないってか。とにかく不登校にはならんように上手く息抜きしろよ。経験上、堅いやつは折れると面倒なんだ」
追い出されるようにして祐が最後に教室を出ようとすると、確認し終えた日誌を小脇に抱え胸ポケットから教室の鍵を取り出す最上が「そういえば」と思い出したように口を開いた。
「"発覚した時点での昨日"から男子生徒が何人か帰っていないらしい。野郎を誘拐する趣味の奴はよっぽどいないだろうし、どっかで遊び呆けてるだけと思うが……一応気をつけて帰るように」
 暦は途端に緊張の面持ちを強くする。今しがたそんな危険と向き合う話をしていたせいか、心臓が縮んだかのような表情を隠さず表に出していた。
その変化に気付けども暦の普段の言動を理解している最上は何かを指摘することはしなかった。
そして自身に近い順番の祐、伊三路、暦といった順番で三人の顔を見てから横顔のまま呟く。「堅物、楽観、気弱」。
「まー、揃いも揃って、良くも悪くも各々が各々らしい理由でたぶらかされはしないような生徒で。先生は安心だなあ」
にやりともせず無表情に近い草臥れ顔で呟く最上の鼻からフッと吐き出される息遣いだけが笑みを含んでは凪いでいた。
最上は教室のドアにしっかり鍵がかかったことを確認すると胸ポケットに"2-C"と記名されたタグをつけた鍵をしまい、廊下を歩き出す。
「心配ないだろうがお前ら、明日も遅刻しないように。面倒だから。日野春もな、悪い意味では誰も気にしてねえから、いつも通り気を付けて来なさい」
長年に教師をしているだけあって、やる気を感じられ無い態度をしていても"らしさ"まで薄れたわけではないらしい姿だ。
語尾を伸ばした気怠げを継続したまま、日誌を持つ手を憚ることもなく左右に振りながら去っていく最上を見送ってから暦が苦笑いで呟く。
「なんかいい話みたいに締めて行ったけど、実は僕だけは誑かされそうなラインナップだったね」
「そうかな? きみはちゃんときみの意思を伝えることができるから、押し売り販売員のどうしようもない泣き落としくらいしか心配することはないとおれも思っているよ」
ケロリと語る伊三路に暦はショックを受けては目を開いて語る。苦笑いはすっかり吹き飛んで、背を逸らして伊三路を見つめ直す。
伊三路の語りそうである言葉とは暦にとってあまりも思えなかったのだ。
「ええ……伊三路くん、そんなことどこで覚えてきちゃったの!」
「登校中によく会うおばあちゃんから。ちょっとね」
 得意げな笑みと共に廊下をゆっくりと歩いていく。
下校すべく時刻を僅かに過ぎただけだというのに明かりが灯っている教室は全くといっていいほどになく、また、生徒の姿も滅多にない。
さらに語れば、廊下でさえもが職員室の付近以外は所々が既に消灯されていた。
こうして疎らな照明がポツポツと校舎を照らしていたが、とても照らしきれるものでもない様子でいる。
冬よりも随分日は長くなったとはいえ、廊下は静かなる暗闇を保っていた。
二メートルほど先を歩く伊三路と暦は外の明るさを気にしているのかはたまた気にしてなどいないのか、肌寒いとはいえども随分と日が長くなったものだと天気の話題に花を咲かせている。
そして温かい飲み物の話へと続き、通学路に位置する自販機の数々におけるラインナップを生き生きとして語り合っている。
特に自動販売機限定飲料の話に目を輝かせる伊三路に暦も喜んで語る声が明るく、よく響いた。
その後ろで今日の授業のことや帰宅後にやるべきことを考えていた祐は、二人の会話の端々を耳に入ってくる程度に認識していた。
 階段の踊り場を折り返し、下り、廊下に出る。
瞬間、祐の左足首につい、と何かが引っかった。
そのまま足の勢いだけを殺され、慣性に従い続ける上半身は前に進もうとするのだ。明らかに前へ進む身体に足元が置いて行かれていく。
正確にはそこに何かの力が働いているのではなく、強く張り詰められた糸状の細いものに足を引っかけたような状態だ。
遮ることにも似た抵抗をそのまま受け取って、前のめりになる身体がぐらつき、受け身を取りたがった意識がほとんど同時に手を身体より前に出すことを指示する。
スローモーションの中で脳の指示だけが鮮やかな伝達をしている。
転ぶことすらも想定していたものの、そのまま上履きを履いた足は乱雑な体裁を構わずして廊下の床材を踏みしめた。
その派手な足音が隅まで照らすことのできぬ暗い廊下にこだまするのだ。
前に出した手に追い付くように、バランスを崩しながらも転ぶことなくしっかりと立っている。
祐はその動きのために少々大袈裟な中腰でそこに留まることに成功したが、一息を吐く間もなく、反射の行動に等しくして背後を振り返った。
足元には何もない。
それどころか、そもそも障害物も目に付く大きなゴミすらもない廊下の中心付近を歩いてきたはずだ。
薄暗いということを加味しても、気付かないということなどにわかには信じられない殺風景とも言い表すことができる。
すっきりとしすぎるならば、逆説的に廊下のゴミは目立つわけでもあるはずなのだ。
いくつかの想像をするものの、どれだけ周囲を見渡しても足を引っ掻ける物体の存在を確認することは出来ずにいた。
とにかく静かで、そして目立つゴミなどひとつも落ちていない静寂が妙に不気味に感じられるのだった。昼間の校舎とは全くと言っていいほど打って変わって別の顔をしている。
「祐? どうかしたの」
吹き抜けのように天井まで距離を延ばす階段付近で声がこだまする。
それは先ほどの足音がそう長く響いていたことと同義であるのだ。
立ち止まって来た道を振り返っていた祐の背中に声が飛んでくる。前を向き直しても、間接的に会話をぶつ切りにされた伊三路と日野春が目を丸くしているだけで周囲に変わった様子もない。
「いや……別に、何も」
 自覚をしていないだけで日頃の小さな疲労のようなものが蓄積して足が縺れただけだ、とこじつけじみた結論で思考を打ちとめた祐が何事もなかったかのように平然と歩き出す。
涼しい顔のままだ。
その横顔をポカンとして見て、伊三路と暦の二人は首を傾げては角度を保ったまま鏡写しの如く顔を見合わせていたが、すぐに少し前の話題に戻って笑い出す。
祐はその声をどこか遠いところで聞いているような気分だった。何か妙な引っかかりを覚えている。
ただ、この数日の奇妙さに感覚が高ぶっているだけなのだ。風邪の引き始めに皮膚がざわつくことと大差はないような話である。
尾を引く思考に誤魔化しをしながらも昇降口に近付くにしたがって再び明かりが戻ってくる。そしてその光に濡れた影の色が照らされるたびに、妙な気配は薄れていくのだ。
前方の会話は途切れぬまま、スチール製のシューズロッカーが並ぶ昇降口から自分の生徒番号が振り分けられたロッカーへ慣れた様子で向かっていた。
 ロッカーを開き、ローファーを取り出す代わりに上履きを預ける。
ふと顔を上げた祐は自分の居る明るさから暗闇に続く廊下の奥で何かがこちらを見つめているような気配を感じた。
それは珍しいことではなく、便宜上の表裏で語る"裏側"であるほうの茅之間町に引きずり込まれて以降、"たまに感じること"となる程度には知っている感覚だ。
産毛の触れるか触れないかの距離で怖気だつほどの気配が往来し、それをまともに認識するならば途端に血液が凍り付く様を想像して間違いのない感情である。
恐ろしいだの、気持ち悪いだのと感じるまでもない。しかし知覚をすればすでに胸に穴が空いて内側から引き込まれるような暗闇の目だった。底なしの闇だ。
近づけば、風を引き込むことに似た引力に身を持っていかれることは難しい想像の話ではない。
それに対する正しい答えが『何者かが本当にこちらを見ている』のか、単純な錯覚の話で『蝕に狙われているという茅間伊三路の言葉に過敏な幻想を起こしている』のかを知りえることはなかったが、祐自身がそれを見つめ返すことはなかった。
仮に深淵に潜む何者かがこちらを覗いていたとして、わざわざ見つめ返すこともなければそれはただの空想に過ぎないのであるのだ。
祐はそう考えている。
見つめ返す意味も義理もない。
 飾り気のないシューズロッカーを閉めるガチャンという騒がしさと、暦の放つ「あっ」という明るい声が重なる。
「まだ昇降口開いていてよかったね。職員玄関のほうから出ることになると下手したらお説教コースだからさ、ちょっと安心しちゃった」
その物言いが前科を思わせることに気付かないまま安堵たっぷりに嬉しそうな声を上げる暦は靴を履き替えると昇降口の扉を押して笑った。
伊三路が暦の言葉に疑問を返し、会話を継続しながら着いていく。
「結崎くんは正門からでしょ。伊三路くんは?」
「おれも商店街のほうで用事を済ませてから帰るよ」
「そっか。じゃあ二人ともまた明日、だね」
いくつかの言葉を交わした後に、控えめに手を振った暦は裏門のある職員駐車場の方へ向かって歩き出した。
暦の姿が見えなくなるまで、背伸びをしてまで身体を伸ばしては大きく手を振っていた伊三路がふいに振り返る。
そのことで伊三路と祐は顔を見合わせることになったが、とくに会話がないとすると祐は帰路へ着くために歩き出した。
背を向けて歩き出すと、その姿を大股で追い越した伊三路が前に立つ。
「まだ何かあるのか」
「何かあるのかって、だって祐、さっきつまづいていたでしょ。なにかあったのかなあって思って。どんなに些細なことでも、言いたいことはない?」
 伊三路の瞳が先程までの柔らかな色から徐々に真剣な様を濃くする。剣呑は瞳孔の動きに現れて、祐は思わず片方の足を後ろに引いた。
今までにも何度か感じていたが葉の裏を透かしたような松葉の――四季それぞれの表情をする木々を彷彿とさせる色は、どこか心までもを見透かし結崎祐という人間の内側を見られているような気分になって居心地が悪い。
その実感を今まさに肌で感じながら、祐は伊三路のそういった日常から遠い面を見せる瞳が嫌いな理由を思い出していた。
肌寒い風がそれきり口を閉ざした二人の間を埋めるように吹き抜ける。そして巣に帰り遅れて頭上を飛んでいくカラスの甲高い鳴き声がその沈黙を縦に切り取って裂いていくだけだった。
「何もないと言った。それ以上も以下もない」
答えなければ帰さないと言いたげに重く、そして厚い質量でのしかかっていた伊三路の無言という圧に先に折れた祐がぽつりと零す。
「そっか。きみがそう語るのならば、そういうことさね。行間の余白は余白に過ぎない。つまり文字はないもの」
 すい、と糸を手繰りなぞるような様で伊三路の指先が空を切る。反射に近いかたちでその動きに目を奪われた祐は指先が真っ直ぐに自身を示していると理解するまでに二秒かかった。
眼前を指しているのではなく、喉元でもなく、やや左下方に逸れたものだ。胸――心臓だ。
それ以上に考えて、気付く。
彼は昨日のうちに手渡した結び飾りの存在を意識させるために指で示したのだ。
「いまのきみに対しておれも特別な気掛かりはない。だからおれはなにも聞かない。聞いたところで意味がない事だろうしね。だから何もしないし、できない」
「念を押さずともいい。何度も言わせるな」
今日のうちに何度か行ったやり取りである。それに飽き飽きしている祐であったが、伊三路もその続きを面白おかしく茶化して続ける。
「あは」と喉を鳴らして無邪気に笑う声が掠れていた。
「『そもそもその類の話は日野春が来る前の教室でもした』と、言いたいような顔だ」
柔らかな声が、僅かに音域を低くしては圧を出したがった様子で喉を締め上げている。
祐の放つ言葉の雰囲気を真似たがって台詞めいたそれを読み上げた伊三路はいたずらに笑うと嬉しそうに跳ね、小走りで祐の隣を陣取る。
「なにとぞ、"それ"は肌身離さずでお願いするよ」
低い姿勢から上目遣いで見上げる緑は、ちゃらけた態度に反して静かに想像し得る危険に備える策を思案する。
ただ、相手の目に見える態度をして語るに不安などひとかけらもないようにして見せては、祐の語らぬ胸騒ぎを視線で貫いていた。



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