「伊三路くん。僕、考えたんだ。僕なりにしたいことや、なりたいものを」
 弥彦がもとより今日という日は学校に来ないつもりであったのだということを伊三路や祐が知ったのは、課題提出に自ら赴いた私服姿の暦をたまたま見かけてのことだった。
先日の騒動にて風に煽られた石礫に引っ掻かれてできた傷に生白く新しい皮膚が被っている様は生命力を思わせるも、同時にどこかくたびれて見える。そして、微かに充血した色を思わせる目元が暦にとってのここ数日がどんなものであったかをよく表していた。
しかしながら、教室に残っていた伊三路と祐のことを見かけると暦は背を正し、丸まっていた肩を肩甲骨から開くかの如く意識して胸を張った。
次いで、まるで感動の再会に立ち上がりかけていた伊三路の両肩をそれぞれ対応する二つの手で押し込めるようにして椅子に座らせたのである。
自身は伊三路の隣――同時に祐の前に位置することでもある席の椅子を借り、しっかりと体ごとを向かい合わせにして突然に言葉を切り出したのだ。
「休んでいるあいだ、ずっと考えてた」
 半分息遣いのような掠れた声が想像より情けなく思った暦は恥ずかしがったのちに肩を揺らす咳払いをした。
反対に、昨日のうちに示した囮捜査に似た試みについて起こりうる有事の段取りを擦り合わせていた伊三路と祐は、目配せすることもなく会話に区切りをつける。
ある程度では言葉にきりもよく別れ際になってから暦と鉢合わせたこともあったが、無関係であると思い早々に席を立ちかけた祐をここへいるように引き止めたのは伊三路であった。
伊三路を見るなり決意を固めたようにして眉を吊り上げた様に対し、本能的に感じた気まずさを和らげるための助けを視線で強く訴えたのだ。
その視線に折れては浮かせた腰を改めて下ろした祐が学生鞄を置き直したことをしっかり確認してから、伊三路は暦の言葉に対し初めて会話に応じる言葉を返した。
 明確に内容を察する言葉が切り出されるまで、途切れた線が首を垂れた先を見つめるようにして隙間が存在していた。
だが三人は人知れぬ先日の騒動を共有する身として、奇妙と思いつつも用件の内容についてはいくつかを察することができていたのである。その上で、この空間に対して各々の緊張を持ち寄って存在していたのだ。
「進路のはなし……? うーん、暦が焦らなくても、この前の授業は一回くらい休んでも致命的に差のつくものではなかったと思うよ」
「ううん。そうじゃないよ」
 静かながら敢えて白々しい言葉を平然と語る伊三路をものともせずに暦もまた、真っ直ぐに語る。
その視線は惑い逸されることもなければ、普段なら落ちた視線の先で誤魔化すように遊ぶ手の気弱もない。
穏やかな呼吸で微かに上下する胸と、しっかり地面に根を張りつく両の足だ。
伊三路は密かに眉をぎゅっと近づけるような表情をしたが、暦の真剣な様子を認めると応えるために居住まいを正す。
拳ひとつぶんほどの足を開いて体をゆったりをさせてから、視線を上げたのである。
 蚊帳の外から見ている祐にも感じられるほど、肌を刺す圧がある。呼吸のためのわずかな息遣いさえ耳が音を拾いそうだ。
外側から肌に触れる圧を感じることこそあれど、祐にとっては自らのことではない。
引き留められて、ただ居るだけでいいとして在るだけなのだ。
盗み聞きをする趣味もなければその内容にも特別な興味も持たず、無関係として努めてただ文庫本のページを捲る。
紙の擦れや翻る乾いた音がしんとした教室に響く。
最終下校時刻を間近にして外から聞こえるはずの喧騒も下火になっていた。代わりに、急ぎ足が合成ビニール材に類するを主原料にする床を跳ね回るようにして階段を昇降する騒がしさが遠くでしていた。
斜めに差し込む西日も低くなり、宵の色を連れ立った月が窓際でも目視できる。
反対に、黄色く変色した蛍光灯は光源であるはずであるものの、どこか色を薄暗いままにして教室を照らすのだ。
静かに興奮を湛える暦が鼻を鳴らしていた。
全ての流れが編み出す緻密な撚りを俯瞰で見ていたがっていた伊三路はそれが不可能だと悟る。
悟ったからこそ、わずかに目を細めた。そして息を吸い込むと言葉を紡ぐ。
「……この前のことを語りたいのならば、おれは忘れたほうがいいと思う」
 普段からはっきりとした物言いをするところしか知らない暦にとって、たっぷりと間を要とした先に出てきた言葉の内容に驚きを隠せないでいた。
返ってきた言葉はまるで逃げである。
だからこそ弱気な様で僅かに視線を俯けた彼の姿を前に、暦は気が抜けてうっかり腰を浮かせかけたのだ。
しかし、足の爪先に力を入れて踏みとどまると、会話を継続する努力を続ける。
「……伊三路くん?」
「今からでも遅くはないもの。それに、覚えていることがあってもなくても、いまのきみと伸司はもう違(たが)ったままではないのだから」
「伊三路くん」
引き留めるような暦の声が強くなる。
「生きるために都合の良い線引きは必要だ」
「伊三路くん! 待ってよ、僕の話を聞いてよ。じゃあ、じゃあさ、君が僕の立場だったら、忘れるの……忘れられる?」
息が引き絞られた問いの末尾で声が裏返る。
針の穴へ糸を通すように、はっきりとした物言いから目を逸らしたがったのは伊三路のほうだった。
暦の紡ぐ意味は厳しいながら、真剣さ故に固くなる音以外は普段と変わらない気弱ながらも深く優しい調子によって編まれる言葉が続く。時に声の調子を裏返しかけ、か弱いながらも二人の考えの根底にしっかりと存在する言葉と例えが伊三路をひどく鋭い刃物に似た切り口で突き刺すのだ。「もし、そうだって言うつもりならきちんと僕の目を見て答えて」
椅子に浅く座り、地面に根ざすかのように力強く構えた暦の視線が突き抜けて足元よりも深い場所を見ていた。
「それは」と口籠る伊三路の肩が時間の経過と同じくして過ぎるほどに丸まっていく。
重力をものともしないかのように柔らかく跳ねている毛先も下を向くと、普段ならば落ち着いているはずの姿が確実に一回りは小さく見えたのである。
時に大声になるやりとりを前に祐は文庫本を読み進める最中で窺うこともあったが、ついに口ごもる伊三路のことを視線を上げて確認する。
それは、ともだちを巻き込みたくはない、しかし強い主張を滅多にしない暦の言葉を無下にもできない、といった様子で困り果てていた姿だった。
祐は伊三路と初めて出会った際に自らが彼に言いつけた言葉を思い出している。
あれもこれも、と語り全てを達成しようとする様は傲慢そのものと語ったことだ。
そして全く同じ感想を抱き、密かに息を吐く。
 譲れない事柄があるのは誰でもあることだ。
思考の種類やそこへ至る仕組み、経験が複雑に混ざりあっては唯一ともいえる個を確立している以上、他人へどれだけの迷惑をかけても達成したいものやことがあることはおかしなことではない。
誰にとって何が迷惑であるかなど人の数あればそれが母数である。だからこそ、容認して程度のある理解を示すのだ。
仕組みを理解をしてなおも祐は目の前で困っている伊三路を見て、その貫き通したいことを他人のためであると持ち貫き通そうとしていることが理解できずにいた。極端に言い表すと馬鹿らしく思えて仕方がなかった。
目を逸らしていたのだ。

 肩がいかるように吊り上がって、電気を流すように微弱な痛みを伴う緊張は伊三路の身体を支配する。話しかたを忘れてしまった、とすら思えた。
暦の語る『自分なりに考えた結果に得たしたいことやなりたいこと』が先日の話の内容に触れるとしたら――。
言葉の一つを聞いてから、明確に話題を切り出されるまで伊三路はずっと恐れていた。
なに一つの嘘なく、彼が恐れているものは自身の至らなさに見限られることだ。
純粋に、心からの困惑をしている。
 譲る気など持ち合わせていないつもりであったからこそ多少強引にでも話を進めようとした暦であったが、その想定外の反応に対して唇を半開きにしていた。顔はまだ取り繕って毅然をしているつもりでいたが、背には湿りけを自覚できるほど汗を垂らしていた。
ただ張り詰めることとは異なる緊迫が妙に心臓の表皮を剥離させるかのような気持ちの悪さで存在している。
あまりに鋭く感ぜられる気配を前に逃げたがって手を緩めた暦が、手遊びをしかけていることに自覚をして強く拳を作る。
そして下がりかけた視線の先を動揺する伊三路へ向けては意識的にしっかりと定めて、その続き気を待つつもりでいるのだ。
それが仮にどれだけの時間を要しても、暦はまだ引き下がれる気にはなれなかった。
 反対に、その二人の後ろで文庫本を手にする祐はやはり特筆した興味はなさそうにして聞いていた。
話があると聞かされてみればそんなことか。そう考えながらまだ傷跡の新鮮が絶えない暦の顔を横目で捉える。
他人との関わり合いに深い意味を見出そうとしない祐でもどこか想像する日野春暦の人物像は"お人好し"がよく似合う姿なのだ。
日野春暦が協力を申し出るということは、祐の中で存在する日野春暦像が著しく偏見でない限りでは予測しうるいくつかの話題の一つであったのである。
想像だにしなかったわけでもはないものの、といった様子で薄らと同じ像を抱いていたはずが明らかな動揺を隠せずにいる伊三路の姿へ視線を移す。
 幕が垂れ下がるように重くなった空気に耐えかねては、机の影で手の甲を撫でる姿を見て、その姿を気の毒に思うのだ。
何にしても、この話題であるとしても祐の中で複数想定された暦の様子との相違点を一つ挙げるとすれば、瞳に強い意思を宿した暦の言葉を跳ね退けることは確実に骨が折れるであろうということだ。
折れる骨をたとえ話でするにも一本や二本ではない勢いですらある。
 普段はあちこちを気にしてすぐに曖昧な笑みを浮かべるような暦がこうも強く食い下がっている。そして肝心の伊三路が狼狽える始末だ。
伊三路の縋るような目に対し、利害関係という以上は借りばかり作るのも得策ではないとして居残ることを了承した祐であったが、もはや率直に面倒くさいという感情を抱く。
あまりに譲らない様子の暦にも等しく真剣に返そうとしていた伊三路も、ついに言葉を探し迷うことを辞めた。
要らぬ語弊を生じさせないための言葉をどう選んで形容しようか困っていただけで、語るべくは決まっているのだ。
座面から僅かに腰を浮かせ、椅子に浅く座り直す。仕切り直す度にこれを繰り返し、持て余した手を膝のあたりに置く。
何度か似た応酬の末で、逃げたがっていた視線を恐る恐るながらしっかりと暦に合わせた伊三路は語る。
「その言葉は嬉しいよ」
 やっと選んだ言葉を口にした後、伊三路はすぐに顔を曇らせてしまった。
しかし途切れることも迷うこともなく、言葉が続いていく。やつれてか細く、覇気が薄れた声だ。
「でも、暦が危ない目に遭う可能性を覚悟してまで提案をする理由にはならない。だからおれは提案を受け入れられない。おれはきみを変えようと思ってそうしたわけじゃないもの……たとえ、おれのしたことの結果としてどうあったとしても、そうなんだよ」
伊三路は口端だけ力なく笑って見せると、僅かに手元へ視線を落とした。
そして視線が下がっていたことを自覚してはっとするとすぐに、それでも静かに暦へ視線を戻す。
「だから、変わったことにありがたがってくれてそうしたいと思うならばそれは違うよ。事実と感情を履き違えている。そんなことがなくたって仲間外れじゃないし、おれたちはともだちじゃないか」
「友達だから放っておけないんだよ!」
すぐさま反論をするようにして暦の声が大きくなると、荒げることになれない喉は音をひっくり返しかけて響いた。思わず立ち上がった勢いのまま、拳を握り込んで冷静を保とうとしている。
見上げるばかりの伊三路の前に影を作る暦は顔を赤くしている。
はっとして口元を塞ぎかけたが、奥歯を噛み締める声が震えていた。
「僕は友達だと思っているからこそ……放っておけない。放っておきたくないよ。疎外感に突き動かされているんじゃない。伊三路くんのおしごとをするうえでも結崎くんのことが気がかりな状況であるんだろうな、とも察してる」
「そうだとしても」と言葉が続く頃には声量が落ち着き、暦は下瞼に涙の膜を這わせていた。
「疎外感でも責任感でもなんでもない、僕が僕のためにしたいんだ。僕はあの日の伊三路くんのことずっと気掛かりだったよ。付き合いこそ浅いけどさ、この数日あいだずっと。君のこと思い出してた」
 上擦って、今に泣き出しそうな嗚咽を聞いたかのようだった。
伊三路の膝に置いていた手の中で指先がビクリと跳ねる。
同時に、思い出したように、もしくはその動作から感情を読み取られまいとしてなのか、改めて握り込んだ拳の内側に汗がにじんでいることを伊三路は自覚する。
頬の内側に満ちた緊張が強張りとして冷たさを錯覚させる。巡る血液が冷めていた。
「暦……」
「僕はさ、そんなことを気掛かりにしながら見たことを見ぬふりして、それでも変わらず接していくことができるほどの意思の強さはないよ。いや、僕自身が思うよりもそんな度胸、元からなかったんだ」
窺うような小さな声が確かめるように暦を呼んでいた。
「それに伊三路くんみたいに戦えないし、根本を解決しようとする行動力もないと思う。結崎くんみたいに肯定や否定をはっきりしたり、正しくないことに臆せず意見したり叱咤したりすることも、うん、これは確実にできないなあ。慌てちゃうんだ。言葉もうまく出なくなるし」
 柔らかな言葉が紡ぐ糸が浮かび上がるように繋がっていくと、伊三路と暦の双方ともに互いの言葉へ対する説得力が芽生えていた。
明かに異形の生物に対して何かしらの協力を申し出ては無意味に命を賭けんとする友人に抱く伊三路の不安も、暦にとって親しいと思える誰かを放っておきたくないことの自覚も、どちらかが正しくてどちらかが間違っている話ではないのだ。
ただ、それらに折り合いをつけることが出来ず、そして互いのために譲れないのである。
互いが抱くそれらの真剣を、互いが立場ごとに曖昧ながらも理解することが出来るようになっていたのだ。
だからこそ一層のこと譲れないという気持ちも互いに育ち、そしてこれ以上にどちらかへの判断を付けるならば、もはや感情の強さだけだった。
「でも、もう曖昧に笑っているだけはできないんだって、弥彦くんとのことで改めて痛感した」
その視線が貫く信念に対して先に目を逸らした方が負けるということだ。
今までに見たことのないほどの押しの強さに気圧されながらも、やっと伊三路は向かい合うことへの臆病を棄てることしている。
「例えば誰にとってもそうあってほしいなんて大それたことは言えないけど……少なくとも僕は、僕の周りの人たちが助けを欲しいと思うときにそれを口にできる環境でいたいと思うんだよ。打ち明けてもいいかなってちょっとでも迷える選択肢になりたい」
暦に強い視線を向けながらも感情の強さに関して語れば、伊三路の中にはひとりで立ち向かうことを続けてきたからこその孤独という弱い部分が存在している。
故に、実のところで暦の言葉は魅力的だった。
気掛かりだったと語られて嬉しくないわけがないのだ。
心配してもらえることがいかにありがたいことであるかと痛感し、そしてどこまでも単純に、嬉しかったのだ。
それが他人を危険に巻き込んでしまっても理由にはならないだけであって、だからこそ曖昧にやわな部分を匿ってはこの問答を続けている。
自分がどんな言葉を返せばよいのか、伊三路はほとほと困り果てていた。
人の目も立場も恥も、そして己が己のために持ちたい像さえも捨てて許されるならば、泣き出したい気分ですらいた。
「だって周りから見ているだけの立場で『辛かったら教えてね』と言うだけなら、言える環境であるか否かはそのひとへ委ねられる。楽なんだよ、きっと僕はそうやって曖昧にやり過ごし続けてた」
 蛍光灯の薄暗く白い光が矛盾を孕んだ様子で教室を包んでいる。
宵は深まり、夜へ向かう最中である。遠方の稜線に沈む直前に際立つ強い夕日の帯は消え失せていた。
おかげでくすんだ蛍光灯がようやく白く輝いて見えていたのだ。
すべてのことをただ聞いているだけの祐は密かにその視界を細めている。
思考や感情の動きが極めて平坦をしていた。
「選択肢にしても、考えを全く一緒にして嘘の肯定をすることは出来ない。けど、話をしやすいとか聞き出しやすいとかいう立場は、できないなりにどれだけ些細でもないよりはあるほうがいいって僕は思うから。だから、必要に応じて受け皿になれたら、う、嬉しいんだ」
 今更になってから一瞬だけ恥ずかしげにした暦はまつ毛を瞬かせる。そして私服のパンツであるジーンズ地の腿で手のひらを拭うかのような動作をしてから、座ったままの伊三路に手を差し出した。
「だから僕は僕の意思で、そしてやり方で……! 伊三路くんのことを側で見ていたい。話したくなったときに話のできる相手になりたい」
困惑に唇を半開きにしたままの伊三路の手を勝手にとると、暦は恥ずかしげもなくそんな言葉を言ってのける自分に対して正気に戻る前に言葉を言い切った。
「人を惹きつけるような君の近くで知りたいんだ。君のことも、僕自身を振り返ることも。そして……もし伊三路くんが困ったときに少しでも力になれたら嬉しい。それは難しいことかな?」
 言葉を聞き続けていた伊三路は眉の距離をぎゅっと近くすると、しばらくして俯いた。
そして暦に掬われた方ではない手で顔を覆うと、泣きそうな声で呟く。
「そ、の……言葉は、本当に、ほんとうに、嬉しいんだ」
言葉と共に頭を抱えた様子に、更なる沈黙が上に降り被る。
今更になってから、感情を競わせることが目的などではないのに伊三路にこのようなことを言わせては意味がないのではないか、と思い出し始めた暦がよく日常に慣れ親しんだ気弱と言われるような態度を見せる。
互いに狼狽える様に対し、先までの緊張が音をたてて崩れていくのが感ぜられた。
「だって、おれが暦の立場でもきっと同じことを言ったと思うもの。だけれども、ああ、やっぱり素直には喜べないことだよ。取り返しのつかないことには絶対にしたくない」
「あ、あ、し、心配しないで、ほら、僕……あんまり断るのは得意じゃないから……人付合いも少なからずあるんだ。だから、情報を集めるとか、なんか、そういうことならできるかなって思って」
言葉尻が消え失せる。「それだけだよ」
しかし、すぐにまた普段の騒がしさを取り戻して慌ただしい訂正を重ねる。
前屈みになる中腰で、言葉の行き違いに臆病を覚える手がさまよい続けているのだ。
「僕の気持ちだけの以外でも……伊三路くんの明るさでは僕の人付合いの範囲なんかもすぐ追い越しちゃうかもしれないけど、僕には知り合いのみんなのおかげでそういった強みがあるとも言い換えられる! と思います! そう思うんだよ。どう? 僕はどうしても役に立てそうにない?」
負けぬように上書きし、鼻を鳴らす勢いで自己アピールをする暦であったが、徐々に上ずっていく感情に対して冷静を装おうする様がから回っていた。
「むずかしいこと、なのかな」
伊三路は一度首を左右に振った後から何度も頷いた。
しばらくして、しとしと雨のように普段の半分程度しか元気がないとでも語り出すかのごとく控えめに口を開く。
「暦……おれはさ、おれのことを深く知らないひとからすれば、もしかしたら素晴らしいことに選ばれたようなことをしていると見えるのかもしれないと思うことがあるんだ」
 暦が大げさにしていた手振りの勢いが薄れ、やけに響く言葉の続きを待つ。
背を正し、髪の毛を意味もなく耳にかけて暦は唾を呑む。
緊張からか、耳の奥に圧を感じていたのだ。
息を吸い込む。吐き出すことを今にも忘れてしまいそうにして、伊三路の言葉を聞く。
言葉をただ待つということを次は自分の番であるとでもいうかのように、向かい合っていた身体に背を向けない動作をしながら後ろへ摺り足をして静かに椅子へ座った。
「だけれども、それは必ずしも求められる素質が揃っているというわけじゃない」
昨日の祐に語ったこととほとんど同じことを語る様子は、二度目だけとあってあまりに緊張で強張っているということはない。
座面に深くかける伊三路は背の角度を開いたまま視線を遠くへ投げかける。
言い出しにくいと感じると共に、退屈を覚えていたのだ。自身の身の上を語ることはつまらない内容の話であると心から信じているのである。
そして窓の外へ逃がしたはずの視線が曖昧な焦点で教室を一瞥したのだった。
「先日のような異形のいきものは、"そこら中の人間誰しもに見えるわけではない"ということが彼らの普通だ」
 暦の肩を過ぎ、まだ黄昏と同じ夕の色が残った町を見ている伊三路のまつ毛が震える。
影の色をして上空を渡り往く鳥の声がどこからともない遠くからしていた。
昼間には木の葉を鳴らしていた風も止み、静かな暮れの泥みがある。
「おれもね、視えないんだ。人間を喰う一歩手前になるまで。……飢餓状態でなくてまだ防ぎようがある段階だとしてもおれにはそれが視えないから、察知することはなかなかできないのさね」
しっかりとした口調こそすれど二つの意味を兼ね備えた剣呑で伊三路は続ける。
「言葉を選ぶまでもなく、おれにはおれひとりの面倒をみることすら難しいことだと思っているんだ」
無意識から己の胸に手を当て、心から真摯な様を見せると最後の確認をするように、または駄目押しをするように、強い言葉を放つ。
「つまり、おれと深くまで関わろうとすれば、いつか惨状を見ることになる。もっと直接的なことを語るのであれば、そうなるのはきみかもしれないということでもある」
暦が唾を飲む。
それに対して、伊三路が気遣いの言葉を掛けることはない。
厳しくも紛れもない事実を、誤魔化すことこそが伊三路の思う誠実ではないという理由ただひとつのためだった。
「他の可能性でも、敵が口封じめいたことの手段を思考しうる者ならば被害を受けるのはきみのご家族かもしれない。または伸司であることもあるかもしれない。たくさんの大事な人たちすべてがその標的になる。決して安全ではないということさ。それでも同じことを言えるのかな?」
「誰が被害者の候補でもそれらが無作為に人間を襲うならば、なおさら僕は君に情報提供して防げないかと考えるくらいだよ。もしもの話を続けるなら、僕は見て見ぬふりの結果で友達や知り合いを失うほうが後悔する」
一切の迷いがない言葉が伊三路の瞳の中でさざめく葉の色をしっかりと掴まえて言い聞かせるのだ。
芯の通った声が澄んで梢の影を突き抜ける。
「僕のすることが大した足しになることがなかったとしても、一切が無駄だとか考えすぎだとかに終わっても、いまの伊三路くんの話を聞いて諦めたなら、覚悟をしなかったことを一生後悔する」
 再び立ち上がった暦が深く頭を下げる。
椅子に座ったままの伊三路の眼前に暦のつむじが見えるほど深い礼だ。下を向いたままの暦が切羽詰まったかのような強くて、微かに引き攣った声を上げていた。
「怖いことには怖いよ、当たり前だよ。今みたいに足が震えるかもしれない。夜に眠れないこともあるかもしれない。でも! 危険に関して自発的に身を引くことと自己責任の線引きは忘れないように律するし、足は引っ張らないよう……なるべく努力をするから! お願いします、伊三路くん!」
勢いのある声音の後に、キーンとした甲高い耳鳴りのような名残りが漂う。
答えをもらうまで頭など上げないとでもいうかのような固い決意をしている暦を前に、伊三路は長いため息を吐いた。
ため息と形容するよりも、極度に緊張しながらやや細まった息を長くはいたとするほうが適切だ。
誰もが次の言葉に緊張し、それを想像することに恐怖と不安を覚えるほど長く感じれらる時間だった。
「そう。これだけ言ったとしてもいま、きみの意思を変えることはできないのだね」
 残念そうにポツリと言葉が落ち込む。平たい声だった。
次に、相反してあるもう一方の感情が溢れると緊張した面持ちの伊三路の表情が崩れて、誤魔化し混じりながらへにゃりと締まりのない顔になる。
しかし、普段の掴みどころがないながらに楽しげであり、かつ柔らかなものではない。
困り果てた後に保つ表情は最後の砦であったはずであるが、真剣な暦の言葉に嬉しいとも思う本心とそれらに連なる感情を見出すことを心のうちだけで隠しきれなくなっていたのだ。
「もはやおれは、きみのためとおれのためのそれぞれを考えたときに、本当は何を言って何を選ぶべきか、選ばせるべきか、もう全くわからなくなっちゃっているよ」
 親指で目元を拭い、しまいに視線を移した伊三路はやや上目遣いを向ける態度で祐に縋った。
正確にはこの場所に引き留めていた意味の真価を発揮させるために、祐へ目配せをしたのだ。
その視線を受け取って、祐は内心で己がこの場所に居ることを求められた意味の答え合わせを得ていた。
何を聞かれても己の回答を改める気はなかったものの、こんなにも分かりやすく意見を求められると少しばかりは心臓が緊張に覆われるというものだ。
これが普段通りの光景であれば『自分には関係ない』として大して相手にもしなかった話であるが、今回は別である。
利害関係の"ともだち"を遂行すること、そして本質である安全保障に重大な害を及ぼしかねないことが、遠いながらも目視できるほどの延長線上に予見できるのだ。
それを受け、祐は文庫本から僅かに視線を上げるとこの場で最も静かであり、そして冷たい態度で応えた。
良くも悪くも、望まれた通り結崎祐としての回答である。
「勝手に首を突っ込んできた他人がどこで力尽きようが俺には関係ない。どんな事情や感情が存在してもだ。ただ、目に見えるところで失せて後の面倒を押し付けるようなことはしてくれるな」
暦に事実を伝えることと同時に、伊三路へも視線を移す。
後者はわざわざ纏わりついてきているという事実も含めて、関りを断ちようもない関係である伊三路に対しても同じことを言えるとして鋭く語り掛けたのだ。
この場を収めるつもりなどなく『ただ面倒を起こされると迷惑だ』と語る感情だけの言葉であり、いくつもの生命が連なり脅かされる事象――怪異へ向き合うことだけをさして抱く感情としてはこの上なく正論である。
「日常の些細は相互扶助であるべくだと納得はする。だが、他人の永続的な不在を誤魔化すための始末など迷惑極まりないという以外の感想がない」
 改めて口にされたため息の交じりの言葉に思わず委縮したのは伊三路のほうで、耳が痛いと自身の非を認めながら苦笑いを浮かべる。
しかし、大きく頷いたのは祐の言葉を否定とも肯定ともとらず、『迷惑だ』とだけ放った言葉に良くも悪くも自身に都合よく解釈をした暦だった。
『迷惑』ではあっても『やめろ』とは明確には言われていないと感じたのだ。
この時の暦にとってはっきりとした物言いをする祐へ一種の憧れに似た感情を抱く"気の弱い自分"は、祐が何を意見しても『自分は関係ない』と語る以上は他人の行動まで制限して求めないところが好ましいと思っていたのである。もちろん、それは許容範囲に留まる限りであったことも知っているつもりだ。
だからこそ暦は都合よく解釈をしたのだった。
皮肉にも『正しさを強く語られたのならば、考え直して身を引くこともあるだろう』という打算を含めて祐の言葉を頼った伊三路にとって効果も空しく、暦はその言葉で最後の一押しへ踏み入るための背中を押されたのである。
「じゃ、じゃあ、答えがかみ合わないなら、とりあえずやってみようよ。僕も痛い目に合わないとわからないんだよ、きっと。自己責任の線引きは忘れないし、足は引っ張らないようにする……努力をするから! 最悪の展開でもそれが結果ならば、その場でどうにかするしかないよ」
 充血した目尻に力の抜けていたような、それでも岩のように力強く構えるような笑みを浮かべた暦は、恰好をつけるたびにいたたまれない気恥ずかしさを抱く。
そして自ら見てくれの良い木枠で整えたかの如く形作られた美しく力強い言葉を、自ら僅かに崩しては誤魔化す手振りや視線を交えて緊張を逃がしている。
「最後には死ぬ論じゃないけど、でも、いつか呆気なく絶望的になるのはさ、僕たちが未来を知って回避を試みてるとかではないかぎり当たり前にあり得ることじゃない? これももしも話だけどもね」
自信なく彷徨う指先が意味もなく頬の皮膚を浅く掻くのだ。
視線が泳ぐ。教室の奥行を横切り、そして折り返して明るい色とかち合う。
馬鹿にされる返事が来ないことは確かに理解をしていても、自分自身があまり似合わないキザなセリフめいたことを放っていることが胸をくすぐったくさせたのだ。
「少なくとも、その瞬間の感情がどうであれど、ここまで無理を言って食い下がってるんだから僕は文句なんか言えないよ。た、例えば、それが命に関わること、でも」
しかし、紛れもない本心だけは、それを気恥ずかしいだの、格好つけと思われることを後ろめたいだのと消極的になる感情すらも凌駕し、強い閃光の如くどこか暗澹ともと見られる深緑の原に風を立てる。
風に押された色が翻り、連なって渡っていく様は波の綾に似ている。森を渡る風が草木に波を立てている。
それは何度でも真っ直ぐに言葉をその瞳の奥へ届けて見せるのだ。
誰に何を言われても、ただこの現在なにより強く存在する感情や意思を、抱く本人である暦すらもが誤魔化して表すことなどできることではなかった。
意思は暦の姿を大きく見せて言葉をゆっくりと、一音一句を染み渡らせる。
「その時はきっとたくさんの負の感情で潰れそうになるし、場合によってはそのまま……。でも、もしそんな結末でも、いま語る僕の意思を思い返せば誰にも文句は言えないし、言わせない。何を選んでもそれが後悔を避けた代わりに受け取るものならば、僕は誰も恨まない」
思わず息を呑んだ者が誰であるか――ということをこの空間で語る者はない。
あまりに強い言葉の圧、その意思に対して空間の端が摘ままれたように一瞬ひき攣りを見せる。
息が喉でクッと鳴り、頬の一番高い位置から側面が熱を持つ。
暦は自身の顔が赤くなることが興奮なのか、緊張なのか、はたまた気恥ずかしさか理解できないでいたが、感情の波が頂点から引き始めようとすると次の誰かの言葉が早くほしくて仕方がない気持ちになっていた。
伊三路はというと、やはり耳から入った情報を咀嚼して飲み下すほど噛み締める意味をどう解釈するべくか悩んでいた。
「情報──今は噂や明らかに変わったことを追っている状態だけれども、噂が回るより早く事件が起きることだって珍しくないんだ。本当に……無理だと思う前に手を引くって、約束をしてくれる?」
じっとりと汗をかいていた拳を開き、握ることと開くことを繰り返している伊三路が窺う様子を見せつつもついに折れた。
そして暦のことはなるべく視界の端でとらえるとでもいったように意識をしていない"ふう"を装う伊三路がポケットからハンカチを取り出しては、自身の指先を執拗に拭き取っていた。
それらは斜め後ろの席から彼らを見ていた祐にとってそれらの行動の全ては強い緊張を受け、紛らわしつつも左へ受け流すための手遊びや視線の定まらなさと同義である。



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