パステルカラーに塗られた木目の引き戸は、どこか学童施設のようにも思える。
ささくれた肌や、繊維に沿って剥がれ続けたせいでペンキの色がところどころ抜けているのだ。
建物が古いとはいえ、建物自体はいかにも高等学校然とした色や造りをしているが故に異質である。
保健室とでも言われた方がよほど騙されるというものだが、好意で長年勤めてくれていると言われているようなボランティアの図書室司書が塗り直したのだというから誰も何も言わなかった。
 三センチほど開け放たれたままで、施錠されていないことが明白な引き戸を無遠慮に引く。
室内を見渡すと、寂れてはボランティアで来ている司書が在席した痕跡も疎らな図書室はしんとしていた。
照明も空調も入っていないらしく、締め切った部屋には粗雑な扱いで一部が痛んだ本の匂いがしている。
脇の壁に取り付けられた照明のスイッチを次々と押して電気を点灯させ、壁の湿度計が適切な数値を示していることを確認すると申し訳程度に換気のための窓を開けて回る。
外気温における湿度もさほど湿ったものではないためにこれくらいは許されるだろうと考え、窓の片側を五センチほど開け、ついでに日除けのカーテンを引く。
 鍵が開いていることや、貸出カウンターのテーブルにファイルが雑に置いてあることから司書は全くの留守でもないのだと次に推測をして、祐は貸出カウンターの中に入り込む。そしてパイプ椅子を広げて座った。
日直番が回っても幽霊委員が来ないことはままある。そして、司書自身も短時間のみ席を外す際に無関係の生徒を指名しては貸出番を一時的に任せることもまた、ままあることだった。
故に文句など何一つ言われることでもあるまいと堂々カウンターにノートを広げていると、二、三分もしないうちに見知った顔がひょっこりと顔を出した。
「あれ、昨日も思ったのだけれども、祐って図書委員会の所属なのだっけ?」
「……未所属だ。そもそも定められる参加は各委員会に二、三名ずつでこと足りる。部活動か委員会のどちからには所属するよう制度上では勧められるがいずれも強制力はない」
「へえ! 実はおれも部活動のことの話をされていたのだけれども別に絶対に入ってねえ、というわけではないんだ」
 所属ではないのになぜカウンターにいるのだ、とみなまでは聞き返さず伊三路はカウンターを挟んで笑っている。
よく見ればその腕に抱えられている二冊の本に図書室で管理するためのコードが張り付けられているのだ。
へらへらとしていることばかり想像に易いが、行動範囲の広さと時間の使い方にはもはや感心するものである。
祐は密かながらに率直で無礼な感想を浮かべていた。
このひとつの体で行うには広い行動をしていることが多く、果てには一体いつどこで何をしているのか想像がつかないのだ。
しかし返却に来たのであれば己もすべきは処理である。そう言わんばかりに促して祐が手を差し出すと、ポカンとした表情が返ってきたが思い出したように分厚いハードカバーが手渡された。
そして反射的に渡したものの、は、と伊三路の動きが疑問に傾いた。
「え! 返却処理をしてくれるの? ありがとう」
「カウンター前でいつまでも居座られるのは困る」
本の裏表紙へ貼り付けられた管理用のコードをスキャンし、端末に表示された文字の羅列へ目を通す。
情報に誤りがないことを確認し伊三路に与えられた利用カードの記録を改めて拝見していると、これらの本が昨日の夕方に貸し出し記録がついたばかりであることに気が付き、マウスを操作する手が止まる。
「これはねえ。古文の先生と、日本史の先生がたくさん勧めてくれたうちの二冊。おれにはあまり合わなかった」
 教科担当教師の名を聞いて祐は納得する。
「ああ……歴史と任侠物好きの」
伊三路が図書室を訪れていたことと借りた本についての疑問に推測しうるいくつかの点と点が繋がる。二人の教師は歴史に準ずる偉人の伝記や軍・または戦記、任侠もの――とにかく古い時代が舞台である本が好きで知られた図書室の常連であるのだ。英雄譚や広義の勧善懲悪を図書室で語っていると、後日ふたりの教師に本を勧められることは図書室に何度が通うと必然的に知る噂だ。
まるで怪談話のように囁かれる恐ろしい話なのだそうだ、と祐も司書から聞いたことがある。
実際にもカウンターの貸出番を任されていると、何度か出くわすことになる光景の一つでもある。
 昨日も訪れてはいたものの貸出番を任されることがなかった。故に奥で自習をしていたが、騒がしくあの教師たちに挟まれて連れてこられたのは茅間伊三路だったというわけらしい。
わざわざ確認するまでの興味もなく詳細を知らずにいたが、やたらと機嫌の良い教師たちにまるで"捕らえられた宇宙人"のように挟まれて連れてこられた生徒が誰かまでは知らなかったのである。
熱心な布教活動も虚しく次の日には返却される本を思うと錯綜する思いもあるだろうが、あの勢いを前にしては仕方あるまいだろう。
そう祐は珍しく同情の目で伊三路を見るのだった。
「真っ直ぐすぎて、一本道しかなくて、やり直しが効かないことをしている――つまり不足分を正しく言い換えて、真っ直ぐとしか言いようのないほど一つしかない価値観、持つ手段も少ない意味の一本道。確かに、やり直しが効くわけがない」
 パイプ椅子に座り、返却処理を終えたにも関わらず祐は本とスキャナーを片手に伊三路を見上げた。
不意に放たれた言葉に目を丸くして、聞き返すような表情をしたのだ。
伊三路は極めて平たい声音でそれを語ったが翳りは演技じみた様相に留めると、すぐにぱっと顔を明るくした。
「まだ気にしているんだ。兵学というか……まず入門にということも兼ねて、一部創作物としての脚色や、仮に史実にしては大袈裟なそれでもなにか得るものがあればいいかなと思って。きっかけに、さね」
眉を困らせて笑い、そして気恥ずかしさを隠すように意味もなく頬を指先で掻いた。「おれ、読書がすごく得意だとか、好きでよくするだとかではないから……」
事実か謙遜か、線引きのし難い場所で曖昧に笑っている。
羽根で撫でられるためにくすぐったく浮つくとでもいいたいが如くの姿勢で肩を控えめに揺らしているのだ。
それを見ていた祐は自分まで何故だか居心地が悪いような気がして身動ぎをする。座面の上で居住いを正していた。
「戦術一覧! みたいな早見表のほうが良かったのかも。物語仕立てのそれらは説得力ある教訓としては素晴らしいのだろうけれども、よく考えなくてもおれのからだはひとつきりで、戦いがあるならばわざわざおれひとりで完結するようにしていたからさ」
説明に力み、指を振り立てて語るも、最後は僅かな期待はずれをついぞ滲ませてしまっては肩の先を下げている。
「当然に違う話だったということね。あ、いいよ! きみはきみの仕事をしながら聞いて。ありがとう、丁寧に聞こうとしてくれて」
話の内容も手伝い、時に静けさの凪を思わせる声に祐がしっかり聞こうと再び座り直そうとする様に伊三路は制止をかけた。
「ただの世間話さ、確かにきみはもっと効率の良い方法を知っているかもしれないとは思うよ。でも、今日はほんとうに、ただのひとりごとにさせてよ」
満月の後に月が欠け始めることと同じようにして目がほんの僅かに細められた。「格好悪いでしょ。でも、きちんと考えているよ」
 熱心な布教活動の餌食となりただ流され連れてこられたわけではないらしい言葉たちを聞き、祐は改めて本の表紙に視線を落としている。
戦局を変えるための要素や地形の有利の面にて優位の兵法を知りたかったのだろうが、恐らくそれらは一般に軍の単位で動くものが多い。
わざわざ読み漁るジャンルではないが、それらが重宝されてきた時代背景などを考えるとぼんやりとした推測は全くの間違いではないはずだ。
『少なくとも茅間の思うそれを満たしはなしなかったのである』と、祐は思考に完結をさせた。
有名な策や陽動の典型ひとつにしても一人きりでは相当な地理や優位の要素があったと仮定しても、役立てるには難しいだろう。
そもそも人体の限界を容易に超える可能性すらある敵を相手にしているのだ。それを考えれば役に立つものを探すことより、消去法で選別するほうが早い。
 祐は区切りをつけた思考から地続きにそう考えてはハードカバーの表紙をめくり、中を開く。
書籍の内容を確認するのではなく、綴じたページに明らかな破損がないかをパラパラと音を立てるページたちを流し見ることで判断をすると、最後に後ほど棚に収める返却本のまとめる仮置き場に積み上げた。
 カウンターの側に聳える柱に背を預け、さまざまな手段を模索するための試みを思い出している伊三路は瞼を閉じては歌うように流暢に語っている。
「武道の類は今や精神の部分が重んじられていて、作法まで含めるとおれの価値観で向き合うにはあまりに失礼かと思ってしまうのさ。もちろん、これは偏見だから、いくつか部活動の見学に行ってみて決めようと思っているけれどもね」
うんうんと頷き、自らの言葉に改めた納得をしてからピカリと笑う。
「まだ途中なのだけれどもね。ここは過疎地であると皆は語るけれども、賑やかな部活動が多くて、おれはすきだなあ」
「……妙に静かだとは思っていたが、別な場所を駆けていたのか」
カウンター越しに指折り数えては既に見学を終えた部活動と、これから向かう候補として目星をつけている部活動名を伊三路は挙げている。祐は彼が楽しげに話をしている間に端末を用いた管理ソフト上での処理工程の全てを終える。
図書委員会所属としての管理権限を持たない祐は、カウンター内側にあるひとつの引き出しから迷わず図書室司書の管理コードが印刷されたカードを取り出していたが、使用後には管理ソフトを主に扱うためのパソコンの側に置いた。
司書が本の状態確認を重要視していることを知っている祐は返却処理を行った本を戻すことこそしなかったが、たったいま返却された本が属する棚の正確な番号と本のタイトルをメモ張に控える。
それをメ一枚切り離すと、モニターのうちで液晶には干渉しないフレーム部分へ貼り付けた。
「時間が縛られると違った都合の悪さがある。実は強いて所属を求めるわけではないということも知ったし、元々どこかに長居することも向いていないし、もう少しだけ悩むことにするよ」
「……そういったような言動を受けるほど疑問だが、一体いままでどうやって生きてきたんだ」
 茅間伊三路という人間に語りたくはないことがあっておかしなことではないと本人自身が語るように、祐もまた同じ考えを持っている。
故に彼の無知に対して深く言及をする権利などないし、仮に知りたいとしても、それは茅間伊三路を心配するような意味ではない。
精々いまの祐にそれを意図して探りたい意思が積極的にあるならば、それは伊三路が訳知り顔で接してくることに対する反発ただひとつだった。
だからこそ、その言葉に返した『いままでどうやって生きてきたんだ』というものの本質は不意に疑問が出てきたに過ぎないのだ。
含みのあるようにも聞こえる言葉の数々をきちんと受け止めようとした結果のうえに成り立つ、ただの感想めいた疑問である。
「仮に精神を重んじる作法がなくって、要らないものをどんどん削ったのならば……最後に残るのは『動かなくなるまで己を正しいと思わせる意思を振るうことだけ』じゃない?」
呼吸の隙間が覗いている。
言わんことを察して祐は唾を飲んだ。
「おれは無知かもしれない。けれども、おれはおれの戦いにおいては敵意ある相手を黙らせるために腕を振るうことが効果のあることだと理解することができる。そういうことだよ、祐」
 失言の意味を考えるまでもなく、戦いに身を投じているうちに模索すべき手段の話題を続けていた伊三路があっけらかんと妙にすっきりと返した。
数えていた指を緩く折り込んだ手のままにきょとんと顔を上げた伊三路の表情が、純粋な様相をしている。
 一点の曇りもなく、むしろ問いかけをした祐に対して『他に何が残るのだ?』と聞き返したいように目を丸くし、困ってすらいるのだ。
祐もまたそんな伊三路を見つめたままで何も言えないでいる。
その瞬間をまるで緊張の駆け引きと錯覚するほど続けていると、不意に伊三路は腕を天井へ向かって伸ばし、あくびをするように大きく息を吐く。
そして背筋を正しくした姿でしっかりと視線を合わせると、毅然とした態度で言葉を続けた。もはや今しがた自分が言った答えに嘘偽りはないが、それが正しいとも限らないことをよく理解して一周をしてきたような、晴れやかな顔をしていた。
「矛盾をするけれども、おれはいつも死にたくなくて死にもの狂いなんだ。今は確かに大変だ。でも、落ち着いて考えることが出来るくらいの安泰が来たならばきっと違う答えもあるのでしょ」
肩をゆったりとさせてから「すくなくとも」と、伊三路は続ける。
「きみと一緒に居たら――正確には、多くの人々と関わってこれらを続けていったのならばきっと、これ以外の考えも知れると思っていたい。それを見てみたいの。だからおれはここにきた」
真っ直ぐすぎる言葉を真正面からぶつけられた祐が、その真っ直ぐな勢いに押されたかのように肩を揺らし、一歩後退る。簡素なパイプ椅子が音を立てていた。
 瞬間、二人の意識が全く向いていなかった後方で大袈裟にドアを引く音がした。
「結崎くーん、貸出番ありがとね! 何も言ってないのに、助かったよ。教頭先生の話が思ったより長くてさあ! いま戻りました。もう大丈夫、代わります」
暗い茶髪を首の後ろで一つに結んだ図書館司書が明るく声をかけると、ハッとして祐はパイプ椅子を畳んで立ち上がる。
「ていうか、出勤時は職員室に挨拶に行くんだから、連絡事項があるならその時に言ってほしいよね。とんぼ返りをなあなあにすると面倒くさいんだって、地味な労力のはなしだけどさあ」
ぶつくさと文句を垂れる司書がカウンターの囲いを抜け出した祐と入れ替わるように身体を滑り込ませる。
そして祐の書いたメモに目を通し、本の四隅に角打ちなどやページの目立つ破損がないかじっくりと目視していた。そしてそれらが杞憂であると確認し終えると顔を上げて笑った。
「なーんか今日も暇そう。人も来ないし、ウェルカムプレートでも作ろうかなあ。フォトスポットかねておすすめコーナーを新設しようとは思っててさ、どう? 結崎くんとお友達も。お手伝い」
「遠慮します」
殆ど間を持たない即答で返した祐は、言葉とは裏腹に丁寧な所作で礼をする。
「自習は図書室の本来の使用意図に反することではありません。適切な用途目的であり、暇潰しに来ているというわけではないのです」
「うーん! 真面目だねー。お友達と来ていいから今度は遊びにおいでね。お友達……ええと、茅間くん。きみもまたおいで。無理に『本を読め〜!』って追っかけ回すなんてしないから、暇だったら一緒に図工でもしよう」
 司書の言葉を半ば呆れたような目で見る祐のトゲトゲとした視線をうまくかわし続けて、彼女は伊三路に笑いかける。
比較的明るい性格をしてはフランクと適当の線引きを曖昧にする司書と、太陽のような底抜けの明るさと飄々とする伊三路は、特に意図をせずとも会話が噛みあう部分があるようで笑顔を向かい合っていくつかの言葉を交わしていた。
話題に混ざることのない祐が図書室の奥側である机の方へ向かおうとすると、会話をしていた伊三路がつま先立ちをして呼び止める言葉を高々とあげた。
「祐! ちょうどいいや、少し話さない? 邪魔はしないよ。目的は本の返却だけれども、きみにも話があるのは前にも言ってあるし、いい機会ではないかな」
女性ものである春らしい色のカーディガンの肩越しに伊三路の跳ねた髪の毛の先がひょこひょこと揺れている。向かい合ううち、祐の立ち位置から司書を挟んでドアに近いところに立っていた伊三路は、祐からも自分の位置がわかるようにつま先立ちをした後に身体を左右に揺らしていたのだ。
しかし、僅かに間を置いた返答は明るいものではない。すぐ傍の本棚にも貼り付けられた掲示物に記載されているようないかにも模範解答として、祐は彼の言葉に応じられない理由を一言で表したのだ。
「……利用者は少ないがな、必要以上の私語は厳禁である場所に変わりはない」
その言葉に伊三路はぴたりと動きを止める。そして出入口付近にも張られていた掲示物に目を凝らすのだ。
昨日の布教活動にも似た教師たちの勢いを思い出しているのだろう。あれらはうるさいじゃないか、とでも言われればその通りである。
きっとそれをぼんやりと考えていても変な話ではないと祐は考える。
昨日の教師たちは声が大きく、静かというにはあまりに適切ではない。しかし、本を持たせてやるための――つまり宣伝活動であるならば、それは例外的に許容されるものだろうか。
そんなことを考えているに違いない。そう想像をする祐の思う通りに、伊三路は思い出すように視線を動かし、僅かに唇を尖らせてから「うーん」と唸るのだ。
現に祐が伊三路へそのようなことを語ったのは静かな部屋に対して明るくよく通る声は相反して存在することが大きな理由のひとつだった。
伊三路が想像する以上に伊三路の声は遠くまでよく聞こえるものだ。故に、現実的ではないであろう会話がより他へ筒抜けになるとも想像していたのである。
言葉にしない以上は祐の考えが直接的に伝わることはなかったが、結局のところ私語厳禁という言葉が用いられる意味は納得できるという思考に結びを導きだすと、伊三路は唸り声を飲み下して閃いた声を上げた。
「じゃあ、そうだ、自動販売機のところ! そこから廊下へでたところの……中庭さね。そこならば、ね、ね。いい? いいでしょう?」
伊三路が指で示す方向の通り窓の外へ祐の視線が誘われる。
使おうとしていた文具を手早く学生鞄にしまうと鞄の持ち手を握り直して答える。
「……わかった。ただ、司書に用事がある。先に行っていろ。五分は待たせない」
 了承を得たことで目を一際と輝かせた伊三路は、目には見えないがまるで犬が尾を振るように喜んだふうをして何度も頷いた。
そして祐の返答をよくかみ砕いて飲み込むと、締まりのないように柔らかく綻んでいた顔を戒めては力強い表情を作る。
「うん、ごゆっくり!」
そう言うや否や胸の前で控えめに手を振り、司書に礼を告げてから跳ねるか転がるかをするような小走りで図書室を出て行く。
後ろ姿を見送っては「彼、別に身長がちっちゃいわけじゃないけどなんか、このまえ動画サイトでみたマメシバの赤ちゃんみたい」と頬の肉を持ち上げて微笑む司書が呟く様を、祐はとくにこれといった感情があるわけでもない横目で一瞥くれるだけだった。



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