「だってきみはやさしいひとだもの」
 奇妙な場所から出て、伊三路が外向けに何を説明するかのすり合わせをする間もなく暦は家族に電話をかけていた。
『ついに弥彦くんと本気の、すごく本気の男の戦いをしてしまって、彼に怪我を負わせてしまった。これについては双方納得で解決済みだけど、あまり騒ぎにしたくはないから……』といった内容で、間違ってはいないが、あまりに事実でもない文言を綺麗に並べて宣ったのだ。職員駐車場の隅に母親らしき女性を呼びつけて、その真珠の光沢に似た粒子を纏う塗装のされた四角い軽自動車に、弥彦伸司と、二つの学生鞄を押し込み、それから自身も飛び乗った。
必然と見送る形になる伊三路と祐に何度も頭を下げながら暦は――嵐は去って、それから伊三路が発した言葉がこれだったのである。
『やさしいひとだもの』という言葉がまるで片言で意味の通らない言葉に聞こえた。
理解に時間を要して、次に自分に向けられたことを知る前に、こういう価値に偏りを生じさせようとする言葉を大衆で言わないくらいの心配りはできるのだな、と祐は思った。
見殺しにしてもバレないだとか、逃げ出してしまいたいほど八方塞がりになった言葉がすべて演技であったかどうかだとか、そういう一般的にひねくれたことばかり言う人間にその言葉は似合わない。
どちらかと言えば、『こいつが?』と思わるほうだと祐は思う。なぜならば、その価値が"やさしさ"であるとして受け入れられるものならば、それの逆をいくつも選んで大事に可愛がっているはずだからだ。それらの意味が全て無駄と言われているわけである。
うすぼんやりと流れて馬鹿みたいな会話を重ねる気もなければ、そんな時間もないのだ。この言動には少なからず意図がある。
それは極めて傲慢なことに、自分が楽に生きるためであり、故に、祐は"そうすること"を選択している。
つまり、ここで伊三路の語る"やさしい"はきっと、概念を形容する言葉を耳にしてからでは、大衆の意識下に存在してよく想像するものからほぼ確実にはずれていたし――そもそも"やさしさ"というものの概念は規則ではなく、原則だ。
きっちりとした一つを定めるのではない。例外的なことを考慮されて設計がなされている。
時たまにはみ出たり、満ち足りなくなったりしたときにも対応のできる幅で『大体この辺』が許されるのだ。むしろ、それこそがこの"原則"という言葉の強さであり、人間を惹きつけつつも統制してコントロールをするいい響きであり、規則からすれば最も手薄くなる脆弱性だった。
伊三路がその幅におけるどのあたりを示しているのかは誰も知らないが、恐らく、大抵の人間は原則の軸から離れていない善良を想像する。
ならばみな口を揃えて言うだろう。
『茅間伊三路のいう結崎祐に向けた「だってきみはやさしいひとだもの」の"やさしい"は、たぶん勘違いだよ』。
そういうに違いないと祐は思っている。
「人間は、人間の受け取りたいようにしか物事を思考しない。お前がそう思うならそれも答えの一つなのだろう。だが、そのめでたい頭の考える理想にそぐわない行動をした瞬間に返す手のひらならば最初から望みは薄い。期待値があるだけ、イメージからの転落は簡単だからな。そういうつもりなら構うな。迷惑だ。そこには生産性もなく、漠然と膨らんだ疲労と途方もない時間浪費があるだけだ」
「謙遜をしなくていいのに」
 横目で一瞥をすると、丸い鼻先でいつまでも職員駐車場の出入りを見ている伊三路の表情は嬉しそうだった。
わずかな間をもってして、ささめく緑の梢が揺れる瞳は視線を祐へ向ける。
そして、肩の力を抜き、背後で後ろ手にし上半身をやや屈めると覗き込むようにして祐を見るのだ。小動物のような厳格のかけらもない表情で、口元はきゅっと機嫌良く笑みを描く。目尻の下がるようなほころびで再度、「謙遜をしなくていいんだよ。きみのいいところだ」と言った。
 もはやここまで来ると拍手を送りたいくらいだ。
どうしたって茅間伊三路は人を信じる生活をしてきたらしい。
それはもう誘拐犯もびっくりすぎて囮捜査を疑う勢いだろう。唐突に良心を思い出して自首をするかもしれない。
十六、七にもなって不自然なのだ。天真爛漫というか、幼いというべきか。圧倒的に常識が不足している側面がある。
ただ、それらは思考が未熟で、という理由の見通しの甘さではないようなのだ。本心から人を信じているのだろうな、と誰が見てもそう思考する。
過大評価のすぎる言葉が並べば並ぶほど、一層のこと気の毒に感じる。そして祐自身が圧を覚えた。
それを向けられる自分の感想を語れば、期待値を勝手に上げないでほしいのだ、というこれに尽きる。
大抵場合、それに沿った対応は出来ないし、求められることを理解できてもしたくはない。
誰かの言いなりで生きていたくはないと思うのだ。
あまりに人間を純粋だと思う目の前の男を気の毒に思ったから。期待値を勝手に上げられたら自分が困るから。
その一心で言い訳半分じみたことをゆっくりと祐は話しだす。
「……流石に死人が出たら当事者と認定されて後々面倒と思っただけだ」
 まるで悠然と雲を泳ぐ言葉だ。ただ、これが言い訳じみた話かたでも完全なる言い訳ではなく、あの時あの瞬間の本心であることは違いない。
あれらは優しさの後押しでも、時間稼ぎや撹乱でもなく、事後の盤面がややこしくなった際で有利に働くカードの可能性をひとり得るため探る言葉だった。
「ええ? 弥彦伸司はどさくさに紛れて見殺しにしてもいいって言ったのに?」
「弥彦"だけ"を見殺しにするならばな。最悪、その負い目を握って"その場には日野春暦だけが居た事実"を事実として作り上げればいい。茅間と俺は"間に合わなかった"だけだ。実際に触れても、言葉を交わしてもいない。だが、被害者に日野春暦が追加されれば知らぬふりは出来ないだろう。三石宗吾に日野春を追う姿を見られている。……結局、あまりに美しいらしい友情だの思い出だのが結果をそうにはさせてくれなかったらしいが」
 上履きから靴に履き替えるために昇降口へ向かう間の手持ち無沙汰を埋める会話だ。
沈黙はあまりに重く、だからと言ってヘラヘラとしている伊三路に肯定をされ続ければ、己から乖離していく像に納得がいかなかったのである。
故に、祐はポツリポツリとした言葉を会話として続けなければいけなかった。
「ふうん。でも、その選択はかえってきみを不利にした。そこまで想像がつかなかったわけじゃないでしょう。まるで自分のことはどうでもいいみたいに、彼らを試したのだと、おれにはそう見えたけれども、違うの?」
「なにをどう『そう』したとする? 社会的な死を押し付けられてなお生かされる残りの平均寿命と、今すぐに失われるが同時に安寧を得る生命を一瞬想像して天秤にかけただけだ。そこまで大袈裟にせずとも、周りが飽きるまで自分に目が向かなければそれでいい」
「おれのこと、信じてないなあ。守ると言った以上、きみを簡単に殺させはしない。もちろん、暦も弥彦伸司も。その選択はおれがさせないよ」
語調はゆっくりとして、再びめぐりだす時間の流れに逆らっているかのような錯覚をするというのに、互いの言葉に間は少なくなっていた。
互いが互いの言葉につい、物申したいようになっていてどうしたって言葉が気を逸る。
己を正しく知ってほしいという気持ちが底にあって、関わりを継続する以上はそれへ目を向けてほしいという欲が芽を出していたのだ。
祐がそう思うように、伊三路も自分の言葉が今は未熟でも心からであること、そして自分が祐に向ける言葉の数々が、ただ他人のすべてがお人好しでやさしいひとという一括りとして考えているわけではないことを知ってほしいと思っていた。
これを知らずに言葉の間に訂正を重ねたがる二人の会話は、もはや牽制である。
「信用が欲しいのならそれなりの振る舞いと、頭を使った戦闘するべきだ」
その言葉で先に折れたのは伊三路だ。図星で、今まさに謝罪をしたことを直球にぶつけられては「ウグッ」と喉の詰まったような音を鳴らす。そのあとに咽せ、呼吸を整えた後に伊三路は苦しみ喘いだ涙を拭いながら繕った笑みを見せる。
 ひどい言葉だ。ひどい言葉であるが、これは間違いなく伊三路が引き出した祐の本心に近い言葉だった。
少なくとも今この瞬間の彼が、体調が悪くて弱っているからにしても、きちんとした言葉を発している。
それは伊三路にとって間違いなく嬉しいものだ。わずかな複雑だけ、やるせなさが小指の爪の先ぶんあるだけだ。
「それも今の君にとっておれは怪しいだけだから、だものね。もっというならばきみとおれの目で見ているものが異なる場合だってあるんだ。考えは異なって当然さね」
 喜びと少しの複雑をよく顔に出し、眉を吊り上げながらもどこか機嫌良くなる唇をごまそうと忙しなく尖らせている伊三路の顔を、まるで訝る祐が横目て見ている。
その状況が面白おかしくなっているのだ。最初こそ祐に無意味な勘ぐりをさせないように真面目を貫こうとしていたが、ついにその愉快は弾けてしまっていた。
「こんなのこどもの言いあいじゃない! 曰く、おれたちは利を求める関係だもの。結果に出してくれるでしょう? おれも、そうするつもり。次はきみを感動させるよ」
「次があれば、ではなくて次は、か」
「それを常と思えば心の準備という手間が省けるもの。今の話題を多く語るならば、おれが怒っている事柄にも通ずる話だ。それはまたにしようよ。『そう』の答えに納得をさせてやるのだから。今日はゆっくり眠って、はやく元気になって欲しいなあ。暦も今度、駄菓子屋に行こうって言ってたんだ」
言葉を一度切ってから「きみとも行きたい」と付け足すと、はっと呼吸する間もなく返事が差し込まれる。「行かない」
「だ、か、ら」と言葉と言葉を大げさに区切って伊三路は両手を広げた。
「それまでにおれが魅力をたくさーん知っておいてさ、きみをその気にさせるつもりなんだ! 安心して、おれがおすすめをいっぱいいっぱい教えてあげる! きみはたくさんの駄菓子を家に買って帰って好きなだけ食べる。幸せな気持ちになるよ、きっとね」
得意げに人差し指をたてて、注意を引くように指を揺らす。驚かせてやると強気に語る伊三路が笑っていた。
 気付けば両脇に伊三路の背丈ほどの石柱を構え、門の通行止めをじゃばら折に収納をすることが出来る校門抜けていた。
そういえば会話の間に廊下を歩いていたことを思い出す。視界のはしに窓を見た記憶があるのだ。
仮にこの瞬間まで絶えず会話をしていたならば、伊三路とは随分話をしていたことになる。学生鞄を手に取り、靴を履き替えていた。
どうやら本当に『こどもの言いあい』をしていたらしかった。
とりとめのない会話をこんなにも意地になって続けていたのか? と思い直す。疑いすら抱くほどだ。
まるで鳥居を潜ってからこの瞬間までを切り取って、両端をむりやり正しい時間に結びつけたような――。
生温いとしか言いようのない宵の入り口に立った夜の色が広がっていた。
四月の夕暮れ時はまだ肌寒い。
確かめるように伊三路を見れば、薄い月の昇りはじめる空の下で、その顔は祐を見ていた。
「どう? 少しくらいは元気を取り戻せたかな?」
 まるでいたずらの成功したかのように楽しげに、空の竹を忙しく鳴らしたようにからからと楽しげに、延々笑っている。
言葉に仕掛けをしたのかこの男の持つ不可解な力が何かに働いたのか、いまいち検討はつかないままである。だが、確かに自分が何かをしてやったと示唆していることだけは確実に理解できる笑い方だ。
反応を求めて視線を向ける伊三路に対して祐は理解より早く表情が出てしまっていたために、そのまま遠慮することなく、やられたらしいと不本意にいやな顔をして眉を顰めるのだった。



前頁 目次