「祐、祐。おれだよ、伊三路さ。きみの良く知る茅間伊三路。きみのともだち。……いや、こんなときの刷り込みじみたものはちょっと、だいぶん、卑怯よね。確かに、おれはきみのともだちだけれども……」
 小さく訂正をした言葉が挟まって、声は続いている。
すっかり暗いところにいた。感情の問題ではなく、物理として、今この瞬間で己の目に映るものに対する評価だ。
「さあ、すこし、右手に失礼をするよ。わあ、今に凍えてしまいそうな指先だね。呼吸も浅いみたい。手に触れているものがなにかわかるかな、どう、温かいと思わない?」
 ふっと意識が急浮上して、重苦しい何かに意識が固定をされるかのようだった。同時に瞼が持ち上がる。
そして気付く。重苦しい何かに意識を固定された、のではなく、ただ、意識が肉体に戻ってきただけだったのだ。
身体は痩せた木が冬に鳴る様を通り越していた。関節の部分だけが逃れられぬ嫌な熱をもっているかの様子をしている。
形容のし難い様子だ。左右どころか上下、そして前後左右に非対称をする身体のどこに芯を求めるかといえば閉口をするものだ。
背骨に沿っているわけでもない、心臓は中心にない。とにかく、そういったどこか一か所を起点にして、節々がしくしくと痛んでいた。
首の後ろを覆うような筋肉の繊維が緊張で引っ張られている。自覚をすれば一気に感覚の範囲が広がり、眼前は暗いことに気付いた。
頭はすっきりしているというのに、もはや鉛そのものになった身体はうすぼんやりとしていた。瞼が下がり切る前に視界は暗くなり始める。
そうだった。重苦しい身体で這い回っていた。
なにか、どうにも抗いようがなくて、そして果てしなく魅力に溢れる何かを目指して這いずり回っていたような感覚がしていたのだった。
 伊三路と別れた後の祐は、様子を窺いに来た暦に見つけられ半分は彼の強引なまでのペースに乗せられて暦が見つけた影の場所へ合流をしていた。
その際、既に弥彦は血を流して体力を消耗したのか、普段通りならば所かまわず方々を睨みつける目をぴったりと瞼で覆って眠っていた。
率直に祐は面倒の種が眠っていて助かったな、と思ったのである。
 矛盾極まりなくも"冴え冴えとすら感じる鈍痛"に苛まれる中で、弥彦伸司のアタリ屋さながらの絡みをするしつこさ、何にでも吠え、噛み付くといった面を示して躾のなっていない"辛うじて番犬"といった態度の相手をすることを求められたら、文字通りの辟易を通り越して、舌を噛み切ったほうが楽かもしれないと思ったのだ。
弥彦伸司はそう言われて仕方がないくらいには態度や素行が悪く、加えて排他的な一面があったし、結崎祐は他者との線引きを異様に強く意識するために冗談の聞けない性分であった。
そして、互いが互いの許容範囲を逸脱しており、弥彦はいちいち癇に障る男に何かと言わなければ気が済まなかったし、祐は祐自身の価値観のうえで振られた会話がどれだけ一方的なものでも一言くらいは返すのだ。故に、友好を築くことはマイナスの数値から始めなくてはいけないというのに、初対面の印象が悪い状況からふたりはずっと、初対面時の最初の会話に区切りをつけずにそれを今も続けている感覚がしているのだ。
幼稚の延長戦だ。
祐の返事が一言「構うな」だの「不快だ」だのの類である直球すぎる言葉を放てば、突き放して更なる返事を求めていなくても、弥彦がこじつけてくることがほとんどだった。
祐の目を見れば罵りに口を開く弥彦だ。恐らく彼は大きく出て引っ込みのつかなくなるようなところがあることを推測した上で、祐は自身が脅かされている場面でそれらを繰り広げたくないと考えるのだ。
軽傷とはいえどもピンピンしてそれをするならば恐ろしい話だが、祐を強引に合流させる暦があまりにこの空間における瘴気に影響を受けてはいないために、祐は一番最悪で、面倒臭い展開をひとつまみくらいは想定の範囲にしていた。そういったことをしなければ、意外というところから一突きにされて、ふとした時に気持ちが完璧に死んでしまうと思うからだ。
様々に対応をするためには様々な予防線を張らねばならぬのである。悪いことではないものの、それを決してポジティブな方向には行えないのが祐の価値観に歪んだ思考回路だった。
とにもかくにも、静かな弥彦の姿を見て、それがひとつ杞憂に終わったことを安堵し――安堵したからこそ、一瞬とはいえ緊張の緩んだ身体はがっくりと重くなった。倍々に重さが増していくように錯覚する。
 息を吸うたびに身体が重くなり、反対に冴えては浮き上がる脳の感覚で、魂の根すら浮かせて飛んでいってしまいそうだ。
意識は間違いなく異常性という言葉を浮かび上がらせ、精神をも蝕む。明らかに普段通りでないという自覚が存在した。
偽物の日野春暦はひとりだけである、ということなどどれ一つ確証はなく簡単に信じることなどしてはならぬというのに、『とりあえず瞼を閉じることくらいは許されるだろう』と祐はそれなりの安堵を身体の重だるい感覚と引き換えに預けてその場に留まると、身体を小さくしては引き寄せた膝に己の頭を埋めた。
ザーッと流れる砂が、頭の位置が下がったことで低いところへ向かって移動しているかのようにも感じられて、鼻の奥が一瞬にして熱を帯びる。
それだというのに、首から下はずっと冷たい。
 結局のところ、耐えるしかないのだ。
こうやって身体を小さくしていると、ある意味では守るように身を固くしているとも表現できるだろう。しかし、気分がだんだん悪くなってくる。
思考を逸らして逸らして、そして逸らして、淡々と叩き潰した薄い平坦の中を漂っていた。
何も考えないで、ただ、目の前に立ちはだかりそうに流れてくる漂流物だけを、避ける。
それだけを想像して、いつの間にか耳鳴りが普遍の出来事と思う頃には何も聞こえなくなっていた。
首の後ろから冷や水を垂れ流し続けられるような、奇妙な冷たさだけがあるもので、それだけが身体と頭を繋いでいたのだ。瞼で覆って視界を遮ったはずが、瞼に守られた目こそが内側で冴えてくる。像を結びたがっているのだ。
「太陽が昇るでしょう。そうしたら、すこしだけ夜が遠ざかる。冬が過ぎたら、春がくる。腹が減ればなにかを食べるし、眠くなれば生きものは寝る。最後のふたつは特に、そうしないと生きられないようになっているくらいだ。どうかな、存外にここに存在する数々は行きっぱなしではないと思うのだけれども」
 手の中に温かいものを感じる。まるで脈々と流れる水だ。滞ることなく、そして絶えなく流れる柔らかな温水である。
もしくは日光。もしくは温かい部屋かもしれない。
どことなく屋外であるように、滞ることはない流れを感じると思ったからだった。
凍りついた血管を錯覚する巡りが再び活気を取り戻す様を肌で感じているのだ。
今に身体は温かくなり、そして、こだまするばかりに遠くで倍々になり返ってくる頭痛が反響を失いつつある。
呼吸をしていたことを思い出して、意識もしないように唾を飲んだ。
すぐ浅いところで意識は漂い、薄く目を開くことが想像よりずっと易く実現する場所にいた。
瞼を閉じていて、今までのどん底が恐らくのところ、眠りに近い意識だったことを知る。
茅間伊三路の声がする。なんだかよく物事を考えていないようにも聞こえる朗らかな声だ。
まだ瞼は開いておらずでいるが、彼がどんな顔をしていて、何を話しているのかをどことなく察することができていたのだ。
「きみが何かに打ちひしがれているならば、そして、それを行きっぱなしにさせないために反対にあるはずものを見つけられず、立ち上がれないのならば、おれのことを使ってよ」
半身が温まったあたりで気がつく。身体を温めるために使われているものだ。
怪異を遠ざけている。母親から受け取ったと語っていたお守りだろうと思って、祐の指先がわずかに反応をした。
「おれはきみに応える努力をすると言ったね。今回は不手際で……その、だいぶん……きみに害を及ぼした。けれども」
「……謝罪がほしいわけじゃない」
 ひどく掠れた声だ。
膝に預けていた頭部をわずかに上げて、長くかかった前髪から除く氷の瞳が伊三路を見ていた。
反対に、初めて応答を示した祐の冷たい目をみて、伊三路は安堵をすると緊張してずっと力の入っていた肩をゆったりとさせる。そして続いた言葉が「けれども」という、謝罪に続くにはわずかにずれた着地をするであろう接続語を強調した。
「おれはきちんときみを呼びにきたよ。任せてくれた結果をその目で見てほしいから、おれはきみに会いに来たんだ」
心から安堵して、ただでさえ大きくて丸い目の輪郭を描く線の尻を下げた伊三路は優しそうに、慈しむように、控えめに破顔をしていたのだ。
「おはよう、祐。もう少しきみの回復を待とうと思うんだ。暦もまだ少し動揺しているみたいだしね。横になるほうが楽かな? 呼吸が浅いから、気持ちだけでも首元を緩めたほうがいいかもしれないよ」
目元の薄い皮膚が乾く感覚が目尻まで及ぶと、それが眠気か、伸縮性を欠く皮膚の違和感か曖昧になっていた。
少なくとも、この身体に水分が足りていないのは確かな事実である。それだけは確かと祐は回り始めた思考で思い浮かべていた。
眠りに近い状態でいて霞んだ視界をリセットするかのように、一度だけ強く目を瞑った祐は微かに頷くだけの返事をする。
そして、膝をかかえる腕に頭を埋める状態でいる中の頷きなどという些細を理解しろと求めるほうが求めすぎだと感じて、行動を改め、重い口を開く。
「このままで、いい」
小さな声だ。別に聞こえていなくても仕方あるまい。
今の自分が無理なく出すに限界なのだ、と言い聞かせて祐は己にかかる余計な力を少しでも抜こうと肩を落とす想像を続けていた。
伊三路といえば、脈絡もなく、徐に己のブレザーについたポケットへ手を忍ばせると千切れた釦の所在を確認していた。ぎこちなさも、隣にいた。
「うん、わかったよ、祐。それで、暦の意見は? 祐のことはいま動かすほうがかわいそうだけれども、もし望むならきみたちを先に安全な場所へ連れていくよ」
「僕も待つよ。僕たちだけ先にとも言えないし、言いたくもないし、伊三路くんには聞きたいこともあるもの」
 三つめの言葉に対し、あからさまに息を呑んだ伊三路であるが、この場で唯一ピンピンとしているであろう暦は呑気か、彼なりの場の和ませたい一心か、「僕が単純に疑問なだけだから……弥彦くんはこの通りだし、起きたらいい感じに誤魔化そうと思ってるの。だから、僕が納得するために聞きたいんだ」と、弥彦に伝える状況を誤魔化すための根回し策を明るさに努めて語っていた。優しさでも排斥でもなく、暦自身が、弥彦にとってこれが曖昧な記憶になるならばすべてなかったことになってもよかったのだ。
 確かに幼馴染ときちんと話ができたことは暦にとって何事にも変え難い、代替するものを見つけること自体が困難なほど嬉しいことであったが、本来であれば誰にも言わず、言えずであった彼のかかえるものをズルして聞いたような真似を継続する必要もないと思っている。
ここからは自分が変わらなくてはならないし、変わりたいと思う暦の瞳は明確な意志を宿していた。
 黙って聞いている伊三路は、自分が何の説明を求められているのかを察していて表情が薄くなっている。
よくみれば、何か――主に誤魔化しを語ろうとして唇を尖らせたり、もごもごとうごかしたりしているのだ。
「伊三路くんは、たぶん、僕たちよりずっとここに詳しいよね。あの、僕になりすましていたものにも、この場所自体にも。い、一体……なにを知っているの?」
「おれは……今日のことは忘れるということがすべてのために最善だと思うんだよね」
「聞かせてくれないとして、僕は君が危ないことをしていると思ったら気が気じゃあないんだよね。それは伊三路くんも理解のできる感覚じゃない?」
待ってくれと指一本挟む間もない。普段から祐が"強引なまで"と表現する暦の勢いに、伊三路は初めて狼狽えた。
思わず逃げたがる身体が背を逸らす。心臓が早鐘を打つのだ。
このような問い詰めになることは理解していた。
ただ、自分だって必死が過ぎて、気にする余裕などなかったのだ、と言い訳をしている。
言い訳や、納得ができる風体をした『それっぽい作り話』を考える暇も、事前に用意する余裕もなかったのだ。
 頭を抱え、唸り声を上げてから、唐突に伊三路は口を開く。
まるでそれまでの苦悶をした様子から打って変わって、「閃いた」とでも言いたげにそれを語ろうと、顔を上げたのだ。
「そう、そうだよ。きみは腹が減ったらごはんを食べるし、身体が疲れたら眠る。健全ならば、死にそうになって死にたくないと思わなかったことはない。そうではない?」
急に話し出したと思えば、先に祐に語ったような言葉の類似に暦は目を丸くした。
「生きるための欲に飢えている。それがきみの自覚しうるに食事と睡眠で、しないとだめだし、特筆した疑問を抱かない。深い理由は求めないし、求めてもすべては生命を維持するためだ」
もはや暦が疑問を口にする暇など挟ませまいと伊三路はやや早い語調で続けるのだ。
頭を働かせている。
「おれも同じだよ。生きるためにしている。おれにはそれができるから行っていて、他はおれにそれを望み、つまりおれは求められている。それを行う対価に、おれは生きる術を得ているのさ。労働をして身内を生かしている、きみの親御と同じだ」
指を折って数を数えながら伊三路は必死に言葉を手繰る。
閃いた幾つかを繋ぎ合わせて、それっぽい話をしているものの、それら全ては後付けであった。
伊三路は求められることをされていても、それを自分が出来ているとは思えなかったのだ。故に、随分きこえばかり言いことに、少しばかり良心が痛むのだ。
そして、ありがたそうな言葉を発しながら、いつかそれをできなくなったときの自分を想像しないことのほうが難しくなってくる。胸がツキンと痛みを訴えている。
「学生はまだ労働をしてひとり生きていくところではないから、きみも、おれも、なんとなく上辺を掬ったような想像しかできていないだろうけれども、それに近いと思うんだ」
あまりの言葉のよさに、圧倒された暦は深刻な表情になって何度か頷きをし、伊三路に続きを求めている。
「おれは目には見えぬ悪さから、何も知らない人々に害が及ばないように努力をする。それを果たして、おれは生きるに易しい環境を得ることができる。まさに労働さね。それに理由が必要かな? 代替の環境を与え、保証をしないならば、誰におれにそれを辞めさせる権利がある?」
段々と馬鹿らしくなってくる。ついぞ伊三路は自分はそんなに立派ではないと漏らしたくなった。
これ以上言葉を言いたくなくなっているのだ。
「厳しい言い方だけれどもね。おれはきみの言葉が嬉しいし、それでも今の状況はおれも己の意志でそうしたいとも思うんだ。ただ、観測上でも最近の奴らの動きは活発すぎる。きっと、そのうち手に追えなくなって被害がたくさん出る。おれが偉そうなことばかり言っていることにみなも気付くと思うよ」
だからこそ、この言葉は意図せず零れ落ちた弱さだった。
いうならばずっと話ながら指折り数えた聞こえのいい理由らしさに、これらの言葉は本来含めれていないのだ。伊三路の手は開かれて、落胆に力が抜けていた。
「そのとき、その時が来て、今の会話の全てが暦にとって知らないことであったのならば、きみはおれにがっかりすることはなかったんじゃないか思う瞬間がくることを考えると、おれはこれ以上のことを語りたくないと感じる」
有無を言わせない言葉の圧があった。これ以上は語るまいという強い意志である。
真面目に、そして静かに語る伊三路をみて、暦は自分達の付き合いが、それらを超えることのできないくらいには浅いことに気付く。
もうずっと長く共に会話を交わし、暮らしてきたように思えていたが、それは錯覚であったのだ。
 恐らくこの一件で、誰しもが茅間伊三路という人間の不透明に気付いている。
あまりに日常に溶け込んでいながら、謎が多い人物であることに今はじめて改めることを知ったのだ。正しくは、本来の意味でその意味を理解をしたともいえる。
暦が伊三路に話をしてもらいたいと思ったときに彼が暦を信じられないのは仕方ないのかもしれない。
ただ、暦の中には既に明確な己の理想像が出来上がっていて、それに近づきたいと思っている。
つまるところ暦がこれからの自分ができること――そうありたい姿として、例えば、伊三路が何か深刻なことの話をしたいだとか、頼りたいだとかを自覚した時に話していいと思える選択肢に自分が入れるようになりたいのだ。
自分には何ができるだろうか、暦は考えていた。
そしてそれを考えて何か引っかかりを覚えるわけではない、という事実は、暦が伊三路を知らないのはそれを甘んじてきたからではなく、本当の意味でまだ時間が浅いだけであることを証明していた。
手遅れでもなく、心を閉ざしているわけでもなく、まだ熟していないだけならば自分にもまだ取り入る余地があると考えたのだ。
「そっか……ごめん、僕もいま、言葉が強かった、かも。ううん、話してくれてありがとう」
伊三路は少しのあいだ、何かを言いたげにして暦を見つめていたが「いいや、そんなことない」という意味を孕んで曖昧になった息を吐く。喉を震わせた意味のない音が漂っている。
「こんな状況で訳知りのような者がいたら誰だって問い詰めるのは当然だと思っている。疑いもするということをわかるから気にしないで。……さて、ここでごめんなさいの応酬をしても仕方がないし、祐が嘔吐しない程度に回復したならば安心できる場所で寝かせてあげたいから、発とう」
 膝に手をつきゆっくりと立ち上がると、伊三路は祐を見下ろした。
すぐにあまりに体調の悪そうな様をみて気の毒に思うと、困り果てては泣きそうな表情を浮かべた。
「とても辛そうだ。歩けるようには見えないけれども、ここはきみには毒のなかでも相当だものね。出てからしっかり休むことにしない? おれもそうしたいし、弥彦伸司も軽傷とはいえどもたくさん血が出たはずだ。一刻も早く医者に見てもらったほうがいいに決まっている。これに対して、とても苦に思って仕方がないとか、体調はまだ動けないほどつらいだとか、そういうことはある?」
そう語るとまるで鼓を構えるが如く祐の体重を肩口に預けるようにして担ぐ。
 全く力が入らないわけではないが抵抗をしなかった祐のいかにも苦痛に掠れた声は、伊三路がその身体をすっかり担ぎ上げたのちに遅れて聞こえてくるのだ。
力のなく蛇行する線を思わせて、ほうっておけば勝手にやせ細って消えていきそうな声だ。「不本意だが、異論はない。悪いな」
その言葉をしっかり聞き届けてから、次に弥彦を見た。
それから小脇の、己の肘が曲がる関節の辺りを気にしていることの意味に気がついた暦は大急ぎで申し出る。
「い、伊三路くん! 弥彦くんは僕が背負うよ。あ、いや、僕は非力だけど、その担ぎ方は結崎くん吐いちゃいそうだから! 大事にしてあげて!」
 慌ててはどうどうと宥めるように手を突き出し、伊三路の気を引こうとすると、中腰のまま妙に踊りの構えのような恰好で暦は付け加えた。
「ほら、頭のほうが下にさがっているし」付け加えてそう指摘をすると、十分に言葉をかみ砕いた伊三路は頭を殴られたような衝撃を受けたのち、口を開けたまま呆然と祐を大事に抱え直す。
正面で横に抱えると有事の際に自分が動きづらいとして小脇に抱え直したのだが、伊三路は自分ができる限り最大限の気遣いとして、頭部が心臓よりも下がった場所で安定しないように何度も確認をする。血の巡りが気持ちの悪いものではないか、ざあざあと冷える身体が吐き気を催さないか、気にかけながらなるべく丁寧にそうっとつま先を地面につき、度に抱える人間の様子を気にしたのだ。
本来ならば踵から地に着く歩を、気を遣いすぎてぎこちなくしている。しきりに大人しく項垂れている黒髪のつむじを見ていた。
冷たい体や、あまり温度にあたたかいだとかさむいだとかを感じない気候でぬるくなった制服の生地は、どこをとっても人間ではなく、まるで荷物を抱えるだけのように伊三路には感じられていた。故に、不安になる度に名を呼んで、その度に名を呼ばれる頻度を疎ましく思う祐の短い返事がした。
 道をなるべく丁寧に踏みしめ、祐の名を呼び、最後に暦に出口を方向を先導する。
角を曲がる度にその繰り返しだ。学校という建物は広い土地を持っているくせに、よくフェンスで区切られていたのである。
直線で区切って、フェンスの向こうは駐車場だったり、校庭だったり、手つかずの林だった。障害物の一切を無視し、現在地と出口の点と点を真っ直ぐ結ぶならばさして遠くないところを遠回りしては、微かな焦りとして滲む。
 一方で意識のない弥彦を背負う暦はそんな伊三路に比べると存外に弥彦を雑に扱った。もちろん、実際には脱力した人間を抱えて歩くのは困難であるし、暦より背の高い弥彦を背中に凭れさせて歩けば、つま先か踵が摩擦の犠牲となり、そう見えるのも仕方があるまいことだ。
それでも暦は弥彦に甲斐甲斐しくしたし、弥彦より身長があるものの線の細い祐を背負うと言わなかったのは、彼が伊三路にならば多少を許しているのだろうと察することができたからだった。
伊三路に抱えられて、脱力をしている祐は眼前の揺れに耐えるように目を閉じていたが、ふと頭上からした声に視線を上げた。
不本意に抱えられることはとうに仕方のないことで、手段であるとして祐は何も言わなかった。ただ、それを享受するならば、変に身体へ力が入ることで抱えにくい荷物になってはならないとして、脱力に努めていたのだ。ただ、右手にじっと温かい間隔のある光を握り込んでいる。
「……ねえ、祐。きみに話をしようって言ったでしょう。出たらすぐにでも話すつもりだったさ。本当だよ。でも、次に預けよう。きみの身体の具合が優先だ」
「今回ばかりは同意する」
 頭上で張り詰めた気が緩んで、祐の鼓膜にはふっと春を囁くような笑みが聞こえていた。
正確には、笑ったわけではないのかもしれない。息遣いが漏れたともいえるような、極めてありふれた動作だった。
ただ、ひどく安心したように丸みを帯びたその呼吸は、ぼんやりしているだけでも人懐っこい曲線を描く唇の端を思わせるのだ。
伊三路が真顔をしていないだけで、それはもう、誰をも拒まない風の様相である。そんな彼が冷たい顔をしているとき、祐は皮膚より内側の背筋に触れられたように無意識の緊張をするのである。
故に、つられて気の抜けた祐は首の力をうまく抜いて、再び下を向く。
腹を下向きに、つまり他の介入がなければうつ伏せに近い体勢は自然と下を向くのが楽だったのだ。この一時間半あるかないかの時間で、すっかり薄汚れてしまった騒がしき隣人の上履きを見ていた。
そしてなんとなく、次に何を言われるのかを考えていたのである。
「おれは怒っていないけれども、たぶん、それは"つもり"で、どこかでは怒っているんだ。先に話すべく話題は確信になったし、もう一つは増えたんだ。きみに物申したいことが」
「怒っている? 理解が出来ない」
祐は眉根をしかめ、それが外向きの感情となって眉の角度を吊り上げる。対する伊三路は言葉を詰まらせた後に困り果てたようになって、眉をハの字にひそめた。
あまりに理解の出来ていない祐にどう説明をしたものかと考えているのだ。しかも、その理解の低さは彼は全く悪くないのであるのだから、今の伊三路は微笑むしかなかったのである。
石のように時間をかけて何層にもかたくなった沈黙がころん、と足元に転がっていたのだ。一瞬だけ足が止まりそうになって地を踏む前に空を踏み、地面を探している。
そして、一度止まりはしたものの、思い出したように体重を重力に従って落とした足が地に着くと、それをわざざわざ自覚する前に当然のように足は再び歩きだすことをしていた。
「まあ、うん、それも、きみの返事かもしれない一つだとは思ったけれども……おれは怒っているのだから、それはもう丁寧にしてきみに言い聞かせてやらねばと思っていたところさ。でも、それ以上に申し訳ないと思っている。ごめんなさい。これだけは、どうしたって今日のうちに言いたいんだ」
間をたっぷりとって、伊三路は呟いた。前を見たままだ。誤魔化すような視線をして、伊三路と祐が話を始めたことに気を遣って歩を速めた暦の後頭部を見ているのだ。
そうやってまだ異形の残滓の残る空間と乖離していく様々を、ただじっと眺めていた。
正しい場所へ帰っていくだけだというのに、ひどく明確な線引きに、これもまたひどく言いようのない感情を抱いてそれを見ていたのである。
言葉が間を縫い留めてちぐはぐなふたりはここに存在していた。「おれはさ、」
押し出された声が寂しくこぼれて、ずっと転がり続けていた。
「真っ直ぐすぎて、一本道しかなくて、やり直しが効かないことをしている。そう言われて、おれはその通りだって思ったんだ。反論も、できないくらい」
 そっと逸らした視線がどちらからともなく散っていく。
何かを語って何かが変わるわけでもなく、そこに伊三路も祐も、言葉を必要としていない。
ただ伊三路の、転がり続けてから回る言葉を待っていたのだ。
「今までは場を同じくして誰かを守りながら戦う必要がなかった。この場所に連れてこられるならば、そこからはひとりきりの戦いで、ひとりきりで解決すればいいことだった。おれには今も家族のような女の子がいるけれども、これはおれがひとりきりで生きてきたのではなくて、こういうときにはいつだって彼女を遠ざけてきたからなんだ」
 フェンス沿いを辿り職員駐車場を抜けた伊三路たちは、そのワイヤー状の格子一枚先にさきほどまで自分たちが居た場所をぼんやり感じながら歩いている。
その林に面した自然の姿が多く残る道は細く、アスファルト舗装の処理が適当になされていた。
気を抜けば足を挫いてしまいそうな幅の狭い通路は、正確には通路ではなく、学校と林の境界で、とにかく足元が悪い。
車止めのようなへりをつけてアスファルトでもコンクリートでも打ち止める高さにしてやればよかったものを、横着をしている。そこへ繁茂した植物の自由な手足が伸びて奇妙に共存した生態系があるというのならば、結構に『ものはいいよう』であるなと祐は思う。そこを運ばれている自分、というのも不思議な話だった。
 伊三路は怒っていると自己主張をした後に謝罪をしたものの、祐は特筆して伊三路に怒りを抱かなければ、彼が怒っている理由もわからないし、悪いと思うならば反省も勝手にすればいいと思うのだ。
仮にも軽口のやりとりでなく、戦いに懺悔をする必要があるならば、それはそれとして意味のないことでもあると祐は想像するからである。
もちろん、この利害の一致による関係で互いが提供するものとして差し出すに品質を求める義務は多少あるが、その品質の向上は最低数値を超えた先ではただの自己満足に過ぎない。
そもそも戦いが生命のやりとりならば、そこにいるのは最終的に生者か死者だ。実力で生存率をあげても、結果が二つしかなくて、そのうちの一つしか選択されないということは、つまり二分の一。死ぬ時は死ぬし、そうでなくともいつの日か死ぬという不確定の先延ばしをしているだけだ。
 曖昧だ。ぼんやりしている。死ぬことは確かに恐ろしいのかもしれない。正確にはそこで初めて生を理解できること自体が――そう祐が思考した瞬間は確かに存在した。
しかし茅間伊三路が何に対してそんなにも必死であるのか理解ができないのだ。
みながそれを恐ろしいものと思考するならば、他を守ることなく蹴落としてでも生き延びようとするのが正常だと思っても仕方がない。
むしろそれがごく普通のことで、茅間伊三路だってその状況が差し迫れば二者択一で自分可愛さを見るに違いなくて、結崎祐の価値観ではそれが普通だった。
おかしいのは茅間伊三路のほうであると考えているのだ。
 抱える男の思考など露知らず、顔の前までよくのびた枝の先についた新芽が払い落されないように、丁寧に枝を手で避けた伊三路は暦に獣道を指す。よく見ればめいめい好き放題に伸びた木々や、足元を覆う苔に隠れているが、簡素な石畳みがあり、合わせた素材の石灯篭が対になって二、三とある。
もう随分と人が訪れてはいないらしく、ひっそりと苔むした岩が転がっているのだ。
横を過ぎれば、澄んだ空気に満ち溢れた場所に蛍のようなか細い光が幾つも飛んでいた。
季節柄を考えると蛍ではないが、意思を持って浮かび上がるように不規則な軌道を描いて、緩やかな明滅をする光がたしかに存在する。
「今日のこれらはどう見ても、きみが動かなければ誰かが死んでた。それはきみだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。蝕が話題のやつときみを称したように、おれはそういったものからきみを守ると言ったのだから、きちんとそれを遂行する。賢くなるよ」
 気付けば、石を削りだしたままの階段が崩れかけた様子で三段だけあるわずかに開けた場所に出ていた。例に漏れず、小さな鳥居も存在していた。
伊三路は丁寧に祐を下ろして、よく顔を見ては続ける。
起立性の眩暈に似た感覚で頭部を支えるような形をした手を添える祐が、声につられて伊三路を見る。
「おれはきみとともだちになりたいから」
 真剣な声色だ。
同時に、伊三路がそれだけ真面目に、心からの言葉を向けていることに対して、祐はそれらを理解できなかった。
伊三路に握らされていたお守りを突き返すと、黒い人工皮革の手袋で右手を覆う。伊三路に剥がされた手袋だ。
手の形によく馴染み、締め付けも過剰な緩みもないそれで手を何度か握り、手首に触れる袖を気にした。
そして緩めていたネクタイを締め直していたが、それらに普段のように厳格な様はない。
どこかで不調に様々を支配された様子が見て取れていたのだ。流石に気を遣って黙っていた暦も口を出しかけたが、それを制すのは祐だった。
今の彼には体調を気に掛ける声よりも、伊三路との会話の続きが必要だったのだ。
「……たまたま助けた人間が付け狙われるだけでそこまでする理由がわからない」
「きみにはまだわからないのかもしれないね。おれが、きみがきみを蔑ろにするように見える行動に理解できないということと同じだよ。無理に全てを知りあう必要はない。きみに全てを話す意思がないように、おれも全てを聞き入れる必要はないし、話したくないことはおれにだってあっていいはずだ」
言葉を疑って沈黙していることも構わず、伊三路はのんびりとした言葉遣いで続けるばかりだった。
「でも、おれはきみの味方だよ。ひどいようにしない。なぜかと聞かかれたならば、そうだなあ、おれはね、きみのこころを知って理解を示したり共感をしたりしたいんだ」



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