風向きが変わるとはまさにこのことで、風のすべてが背後から吹いてくるかのように身体は軽く、むしろ、押し出されるかのように伊三路は力強く足を踏み出した。
僅かな時間をすっかり動揺に支配されていた影法師の蝕は、慌てて足元に転がっているはずの祐に手を伸ばそうとした。自由自在な影より早く、手首より先を鋭い切っ先の形へ真似た"腕"で脆弱極まりない人間の身体を貫いてしまおうとしたのだ。
 『捕食』という体をしながらも、不定形に形を模倣するこの生き物に本来は口も、臓器も、動物的な構造を持つ輪郭も必要がない。ただ、この蝕にとって好ましい因果の血肉を自らの体積に接することが出来ればいい。食事のために模倣の形を成すものは、それがたまたま模倣した姿が好みでそれを継続したいからであったり、生き物というかたちや営みにあこがれを持つ模倣の生命だ。
もしくは、食事をすることの理解をしたうえで深い解釈を持ってして行うことが出来るという賢さの誇示だった。身内むけにひけらかす行為に過ぎない。
どれも本能として必要とする食事よりも知能に依存する精度を自慢じみたことであるが、影法師にとっては模倣こそ狡猾に得る最上の愉悦であり、いかに手を汚さずに賢く生きるとしても最適な手段だった。その能力が故に姿かたちになどにこだわりを持たないのである。
だからこそ、『食事』という言葉を使った余裕はどこへやらとして、ただ単にぬるい皮膚を裂いて滴る血液を浴びるだけで良かった。
これは生命のやり取りをしているのだ。そしてこの盤面が自分が優位ではないことも、気が付いていた。
ついぞ嗜虐と愉悦を語る間もなく、『極上らしい』以外の言葉で簡単に価値の測れないそれを勿体ないとすら思わず、一刻も惜しく求め、欲したのだ。
 殴られたかのような痛みが反響するようにぐわんぐわんと重い金属のような感覚に吐き気を催しながら祐は上半身を起こした。
腿から下がまだ力の抜けたようにあるばかりであることを自ら叱咤し、力を込めて立ち上がりかけると、差し迫った影の鋭さに臆することなく先ほど握り込んでいた細かな真砂土を眼前に投げつけた。
そして風に押し戻される若干の砂の細かさに目を細めた。
素早く立ち上がり、振り回される身体に平衡を求めてはよろめいた足で地を踏むのだ。踵に傾いた重心で、今度は頭から後ろに転びそうになりながら飛びのく。
 全て祐が伊三路に語った言葉のその通りをなぞる行動だ。動かそうとすることを放棄したくなるほど脱力にかまけようとする身体と、知らない声が堕落を甘く囁くように停滞する思考が身体の機能を幾つか制限することまでを考慮して総合評価をするならば、どうにか、ギリギリ及第点と言えそうな動きだった。
それを十分な余裕のある及第点へと押し上げるかのように伊三路は駆けた。
まず蝕の真横を通り過ぎ、祐の襟首をつかむと前腕の届く範囲に抱える。流れを止めず後ろ手に回すかのように背後へ押しのけると、伊三路は自身よりも背の高い祐を後ろに隠すように立った。そして逆手に構えた切り出しナイフの切っ先を蝕に見せつけたのだ。
 彫刻をするに良い程度の切れ味を維持しているだけのはずの刃が、どこか光り輝いて影を写したかのように思われた。
他を害すための悪意に満ちて淀んだ沈黙の中で、誰からともなく唾を飲み下す感覚程度の時間を、誰もが待っている。
その中で一等先に伊三路は緊張で怒る肩の力を抜くと、わざとらしく大袈裟な息を吸って、そして大きく声を上げた。構えるように微かに腰の位置を下げた伊三路は戦うための準備をしていた。
 見つめ合い、今に誰が先として動くのだと間合いを見定めながら火蓋を切るその瞬間を窺っている緊張を思わせることなく、背後にいるはずの祐に十分に聞こえるように向けられた声は、わざわざくを努めて大きく、そして調子を明るくして発せられたのである。
「さあ、さあ、引いていて。任された以上、おれはきみのすべてに応える努力をする」
背後にいるはずの姿に一瞥もくれないままの伊三路の横顔を、見ていた。
年齢の割に未だ丸みを強く持つ頬だ。表情は見えない。正面で向かい合った際に、耳の前ほどで垂れ下がる毛束が風で揺れればそれすら確認することが出来なくなるのだ。
しかし祐には元気を装っているふうをする伊三路の声が、前向きな意思をよりそれらしく伝達する術と推測しながらも全くの演技ではないと思えたのだ。
生命のやり取りの場所に立って、敵に対峙している今この瞬間で、笑みを浮かべているはずがない。"普通"を考えるならばそうに違いない。
それでも、祐にはその表情が強い生命力と自信に溢れたものだと感じられていたのである。
伊三路さえ自由になれば勝機はまだ失われていない。そういった思考が無意識に身体を巡った時よりもより強い確信が胸を占めていて、祐は安心して一歩を引く。
息を呑んだままの気配に対し再度促す言葉をかけた伊三路は、踵を返し去り行く姿にもう一度だけ言葉をかけたのだ。
「『すべて』という言葉そのものがゆめみたいな理想論でも、少なくともおれは掴もうとすることをやめはしないもの」
よろめいた身体で半身を振り返るも、その姿がこちらを見ている様子はない。ただ、微かに甘く、冷たさに酸味を感ずる朝に開く花の匂いがどこかでした気がしていた。まるで桜前線を待つ、冷たい朝のうちでもやわい匂いだった。
「きみがその理由を知らなくたって、知ろうとしなくてたっていい。ただ、きみが困る必要はひとつもなくて、これはおれがしたいだけだ」
「……ただの芝居に何を」
 まるで朝日から逃げ出すかのような足取りで、校舎の足元に存在する花壇の横をを通り抜けては、地面へ大きく影を落とすように植えられていた隅の木の付近へ転がり込んだ。
今はその影の大きさも息を潜めて、静かにただ立ち竦んでいる木だ。
祐は転がり込んだという言葉ままにほとんど身体を横たえては、まるで止めていた息を吐き出すように、再び言葉を吐き捨てた。
「それ以上でも以下でも、ない」
異様に分泌される汗に寒気を覚えながら、身体を抱えるように小さくしている。触れなくとも察しのつきそうなほど冷え切った唇が震えていた。
首のあたりから急に冷たくなっている身体と、どこか色を褪めて世界を捉える視界を僅かに上げると、二つ目と視線が結びつく。
暗がりに輝く石をみたような、目だ。

 「あーあ」と、わざとらしく残念さを表現しては、葉の下で燻る姿を思わせて身体を揺らす。鼻からそれはもう大袈裟な音を立てて息を吐いた。
その動作の端々がこの状況が退屈でつまらないものだとひしひしと伝えている。
「やっぱり、伊三路くんが居ると邪魔だよ。ゆっくりできやしないし、ご馳走クンは逃げちゃうし! 最悪! 日野春暦の声で罵って、いたぶって、散々だしもう死にたいかもって思わせてから、ひとつずつ臓器を抜いていつまで生きていられるかなゲームでもする?」
「いいや、半分は『追いかけなかった』、が正解だよね? そう、おれを始末しないときりがないと思うように、おれも……お前が邪魔なんだ。ならば、超えていかねばならないよね。どちらかが動かなくなるまでのことだ」
簡単なことだよ、とでも言いたげな言葉だ。伊三路は伏せた目を瞬かせてから嫌見たらしく横目で舐って蝕を見る。
先ほどよりも透明の色を見せる影が、目を充血させた影法師に寄り添うようにうねりを上げていた。
言葉はいかにもひょうきんを装って、面白おかしいとさせていても、目までもが「そうだ」とは決して口にはしなかったのだ。怒りを見せている。
伊三路はそれらを眺めては無意識で下唇を舐める。じりじりと睨めつけあいながら間合いを図っている刹那は、瞬き一つで動き出す。
それは枝から葉が落ちる瞬間で、水滴が鏡に触れる瞬間で、そして、閉じていた瞼が最初に結ぶ像と同じだった。
呼吸をすることが当たり前のように、殺意のなかで殺意に倣うならば呼吸と同等に当たり前の行動なのだ。
真正面から切りかかるのも、だまし討ちも何もかもが足を踏み出さねばならない。見つめ合うだけならば、それはその辺に転がった石に過ぎないのである。
 まるで燕が空を低く滑るように素早く細い影がいくつも走り、一つの地点へ目掛けて突き刺す動きをする。
乾いた土を抉るたびに、飛び散る砂や、はじけ飛ぶ小石、そして引っ掻かれた地面の表情そのものが、いかに鋭い刃物の仕草をした異形の力として刻まれていた。
姿勢を低くし、駆ける伊三路は足を一瞬として止めることなく素早く視線だけを巡らせ、まるで蛇行をする動きでそれらを避ける。
適当に揺られた線を描くと見せかけて、次の一本を避けるために十分な距離を稼いだ明確な線を伊三路は頭に浮かべ、それをなぞって走っている。
時に飛びのき、時にさして刃渡りのない切り出しナイフの側面を押し当てては互いにぶつかり合う力を上手く流して影をいなす。
繰り出される影の襲い来る圧が風となり、それに煽られるごく軽い物質のように伊三路はひらひらとそれらを避けてみせたのだ。
自分が避けた攻撃が誰にあたるかもしれないという心配もない。身体が、まるで水を得た魚のように軽いのだ。
 翳りを見せた地表では先よりも威力の落ちた影がしなる。鞭のように元気が良く、弾みを得て何倍も反射する力はなかった。
性質を摩耗して伸びきったゴムのほうが想像に近い。鋭く模した刃の切っ先をひっかけてはそのまま自重の勢いで切り落とされた影は、もうすでに鞭のように暴れる元気はないようだった。
容易には目視することが出来ない力に身体が縛られることがなくなったこと、気掛かりの存在が減ったことで自身の行動に枷を嵌めるものがなくなった今、伊三路には憂うものがない。
何故ならばこの脅威は必ずや自分が奪い去りその害を追いやってみせるからだ。その意思に何の疑いもなければ、迷いもない。
ぐんぐんと距離を詰めるだけだった。
 懐の間合いに足を踏み込むと、直接、蝕の持つ刃物を模倣した腕に切りかかる。
角度を変えて打ち合うたびに、まるで金属同士がぶつかり合うように高温に弾ける光と、本来『蝕』という生き物を人間が黙視する際に彼らを構成する粒状が飛び散った。
底なしに真っ暗闇をした硬質の皮膚が、伊三路の刃物にいなされて空を捌く。同じくして伊三路の刃物を押し返すたびに、模倣に過ぎない硬質が刃こぼれのように崩れるのだ。
甲高い音が鳴り響くたびに影色の粒が飛び散り、そして刃こぼれのように模倣を維持する体積が削られていくと、僅かに、それでも確実な徐々のかたちで金属を打ち鳴らすような音たちに変化が生じていた。
まるで旋律を奏でる金属音の中に、炎が物質を舐める舌先のように影を揺り動かす合間に、確かな隙を見た伊三路はそれを敵の持つ行動の"癖"として焼き付けるように目を見開く。その瞳孔を開く些細を見落とすことのなかった蝕は己から伸ばし、操る一本の動きを修正して低い位置を走り、足元を払った。
ただ、その姿に金属の性質は存在せず、刃こぼれで失われた体積を寄せ集めている。伊三路の足に絡みついては脆く崩れる。
しかしながら、勢い余った人間の足元における安定を崩すには十分すぎる強度ではあったのだ。
蝕へ向け、人間としての形状で例えるならば頸動脈を分断しながら喉を一突きしようとして腕を突き出しかけた伊三路の上半身のバランスが崩れる。
膝から力が抜け、がく、と傾いた体勢に蝕は刃物を模倣した腕を突き出す。
「ほぉら、首を掻っ捌かれるのはどっちだァ⁉」
 即時に受け身を取れないことに対して苦し紛れに上体を思い切り逸らす伊三路の胸元をかすめ取った刃物は、果実を咥える鳩を紋章とした金メッキの釦を奪った。
制服の釦が弾けたのだ。
曇天と呼ぶにはどこか物足りないが、晴れているとも言えない薄暗さに鈍い空でメッキの冷たい金が緩やかな反射をする。そして弾く動きで刃物に与えられた衝撃をそのまま受け取り、落下と同時に回転を続けていた。
明滅するはこの手に求める象徴だ。そして、取り戻そうと思わず手を伸ばしかけることと同時に顎の先にチリッと焼ける痛みが走り、伊三路は片方の眉だけをひどく顰める。
気付けば「は、」と乱れた呼吸が吐き出されていた。
大きく逸らした身体に、今一度と意識を寄せる。何もしなければこのまま背から倒れるこむだろう。
強い痛みをそのまま受け取ってひしゃげた息遣いが肺から大きく押し出され、そして次に痛みに喘ぐ。金属でできた空の筒を叩いたように頭に、背中に、痛みがいつまでも続くだろう。
転ぶ――! そう思った際に、転んだ後の痛みなどをどうしようもないと理解しながら嘆く姿を想像することも少なくない。
心配性である側面さえ持つ伊三路からしてみれば、大層に思い悩むことでもある。
予想外に悲しむくらいならば、杞憂のほうがいいのだから――普段ならばそう思う。
しかし、この瞬間、伊三路はそんな心配をひとかけらさえも抱かなかったのだ。
 おれは掴み取らなくては得られないものがあることを知っている。
そう言い聞かせて身体を反らした体制を続け、足を振り上げる想像をする。ただでさえ勢いのない低い姿勢だ。足元が浮かんでいるのだ。
蹴ったところで反対に働く力がないのだから、ここから加算される物理的な働きがない。身体を無理に逸らし続けて着地に失敗すれば首を折る可能性もある。
だが伊三路はふくらはぎの裏のあたりで血を流れる様を想像すると、空に存在しないはずの足元を想像し、そして蹴り上げたのだ。
後方に飛びながら倒れるだけのはずだった身体に力が宿ると、身体が浮き上がる。宙返りをし、地へ足を付けると膝を曲げることで衝撃を逃しながら後方に滑り、足元を整える。
そして呼吸一つ整える間もなく、片手を地面に着くと迫りくる蝕に向けて高々と蹴り上げて足払いをし返した。跳びかかってくることを想定して、足払いしては少し高い位置の蹴りだ。
遠心力で振り回され円を描く勢いを腕で支え、蹴りの力にする。またそこから地面についたままの腕を起点に飛び上がるようにして、正しく立ち上がったのだ。
拳のように握り込んだ手を顔の前に構えて「ふう」と長く息を吐く。その胸に、『上手くいってよかった』とでも言いたいような安堵を浮かべてぎらついた目を向けたのだ。
「今! いま、おまえ! ありもしない宙を蹴るとき、光を――"陽の光"を使ったな? まさか本当に所持してるというのか⁉」
激しい動揺のままに、蹴りを見切ることが出来ず地に這いつくばった蝕は目を丸くして、そして声を揺らして叫ぶ。
「クソッ! クソ! 最悪だ。この! この忌々しい影さえなければ!」
自らが影の性質をひどく歪めた能力を持ちながらも、癇癪を起すように地面を殴り、地団駄を踏むような姿を見せる蝕の前に伊三路は立つ。
簡単なことであるように「どちらかが動かなくなるまで」と語った言葉通り、その『待った』と言いたいばかりの声を無視して一歩近づいた。そして、問いに答えることもない。
「……きみは、きみの模倣した姿の持つ体積以上の影は操れない。しかも、自立して動けるものでないとだめなのでしょう。だから校舎の大層な影には寄生しなかった。足がないものね。これらすべては推測のなかでも説得性には欠くものでしかなかったけれども、少なくとも、おれが聞いていた"弥彦伸司絡みの人助けに一役買って出てきてくれる日野春暦"はいつも夕方には消えていた」
「わかった! い、命乞いでもなんでもするから! 待って! 待ってよ! こんなの聞いてない‼」
 喉をひきつらせた蝕は日野春暦によく似た声で叫び、べったり座り込んだまま、止まって欲しいことを全身で表して腕を突き出して手のひらを伊三路に向けた。
拒絶の意を全身で表しているのだ。明らかに人間のものではない目に、人間を見つめる恐怖が浮かぶ。
よく聞きなれた声に反応し、身体を揺らしてまた一歩と近づくはずだった足取りが止まる。
「待って待って! 待ってって言ってるじゃん! 待ってください! 命乞いをしてるから! 伊三路くんが止まって……」
伊三路の横から伸びた髪が揺れ、そして静かに止まる様を見送って、蝕は伊三路の様子を窺った。一分ほどをしてなお動き出さない様を見ると、泣きたいような、笑いたいような歪んだ半笑いを浮かべて蝕は、この環境では威力が落ちるために地に這わせたまま様子を窺っていた自身に残る影すべてを伊三路の心臓へ目掛けて突き出した。
「止まって、だから……その隙のうちにさっさと殺して終わりにしてやるよ! さっさと死ねよお!」
 素早く枝分かれを繰り返しては裸の木を思わせるような影を展開し、そのすべてで伊三路の身体を貫こうとしていた――次の瞬間。
そこには薄く伸ばされた影の切れ端だけが落ちている。目にもとまらぬ速さだった。
幾つもと伸ばされたそれらは、伊三路や蝕の語る『陽の光』を必要とすることすらなく、ただ切り落とされてぐったりとしていたのだ。
ただ今までは影がすぐに揮発することはなかった。一気に生命の揮発した影がすがたを維持できずに土くれになっているのである。
確かめるように視線を動かし、その末端たちが寄り集まって自己修復する間もなく砂に変わっていく様をただ見ては、今度こそ演技の一つもなく、本心から蝕は恐怖した。
怖気だってゴムとよく思われた肌を粟立たせて、目に涙のような汁を浮かべるのだ。
震える、という生き物の行動概念を知らぬ生命体が、恐怖を知って感情に支配されている。
「夜には活動記録がなく、昼間には笑っているだけ。曖昧な生き物は曖昧な時間に最も活発になるものさね。境界が曖昧になるこの時間に。だけれども、もう少し深掘りをするならば、ううん。おれもひとりきりでは推測に過ぎなかったけれども――」
その様子を顧みることなく、伊三路は続けている。
頭部以外は人間の――正確には烏丸清水高等学校の指定制服である深緑のブレザーを纏うすがたをする蝕の腕を掴み、無理やり立たせると背中を押して部活棟の裏に広がる土の広い面を踏ませた。
「きみは、どれくらいの人間を喰った?」
「だ、だれも、誰も喰ってない! 死なない程度にちょっとしてやっただけだろ? 風邪ひいたくらいにさ、ホラ、いたずらみたいなものじゃないか! ちくしょう、あるべく生態系の正しさと何が違うんだよ!」
 悲痛に裏返る声にも冷たく『そんな屁理屈のような言葉は聞いていない』、そう言いたいばかりの伊三路に対し、失われた命の数は変わらずゼロであることを言い訳にしようとした喉が言葉を発しようとすると、それがぱっくりと割れていることに気付く。
人肌程度にぬるく、薄い皮膚を裂き、筋繊維と僅かな肉をすぱりと断った喉はその先の暗闇から大量に砂粒を噴き出す。まるで血のように噴き出す乾いた砂は、揮発した蝕の質量だ。
首から上に位置する穴という穴から砂を吐き出し、喉元を確かめようと指先で襟元を弄る蝕はよろめいては、ただうろたえていた。まるで嗚咽を上げるように苦しんでいる。
よろめいた足が手数を増やして地を踏みしめる度に、傷口から勢いをつけて漏れ出す砂が小さな山を作っていたのだ。
その喉を通さなくとも意思の疎通は可能だというのに、まるでだらりと弛緩した舌が喉を塞いでしゃべることが出来ないかのように、息が詰まる声にならない苦しみと喘ぎが存在する。
影法師の蝕はその能力故に人間という役になりきりすぎたのだ。
「根本まで含めて語れば、きみたちがこの場所にいてはいけないことに過ぎない。ただそれだけのことさ」
 紙ペラ一枚のように、肉を感じさせない首の皮膚をした蝕は自重で頭を落とすと、己の影に頭部を統合して最後のあがきをした。
頭のない姿のまま前方に彷徨わせた腕で方向の感覚を悟ると、生徒の模倣を続ける蝕は身体の全てから影を突き出し、抵抗をした。まるで死した魂が生きた精気を求めてさまようような格好だ。
こちらへ歩を進めながらも、もはや伊三路のことを仕留めようとするのでなく、己に近づさせることさえさせなければ形振りを構わず腕を振り回すあり様である。まさに子供の癇癪のようで、生命のやりとりをする術にしては余りに幼稚なものだった。
切り出しナイフを使い、火花を散らせながら、伊三路は迷うことなく前に押し進む。
姿勢を低くし、時には目に見えて脆くなった影をもはやと手で千切る。懐の範囲に入ってからは縮んだ距離故に小回りの利かなくなり、伊三路は、微かに煮立つ怒りや煩わしさにかみ合わせた歯をギリリと鳴らす。
仕切り直したほうが早い。
そして跳ねたつま先は、蝕の肩口に靴の底を押し当て――宙返りをすることとなる。
もしこの時に頭部が存在していれば顎を蹴り上げでもしたものの、既に頭を落とした場所には何も存在せず、伊三路は相手を後方に蹴りつけてよろめかせながら十分な距離を取る。
そして今度こそ終わりにするとでもいいたげにナイフを構えるのだ。
踵から地面に着くように押し出された蝕は、それだけはさせる前に「次こそ、次こそ息の根止めてやる」といいだけに自ら突進をする。
目を形成しない姿では威力が落ちては容易に切り伏せられて、時には手で千切ることも容易にぐったりと散らされる影の数々が、目視にしてどれくらいかを計ることは出来ない。
 伊三路は悠長に生地に残った金メッキの釦を丁寧に外し、合わせの前を寛げると制服である深緑のブレザーを脱いで、それを高々と空に放り上げた。
「きみは己の影さえもを覆われるように――自身の影や、対象の影がもっと大きな影の元にあるときは干渉が出来ない。そうではないかい? さっきも答えはくれなかったけれども、まあ、今に防がねば死と共にそれを証明するだけだ」
さんざめくともいえるほど明るく、そして朗らかであるはずをずっと失くし、まるで風の黙り込んだ瞳をしていた伊三路であるが、その様に再び風が吹き始めるかのようだ。
まるで命を運ぶ新鮮な風だ。それらは時間が動き出すともいえたし、それは始まる以上に終わりがあるものへ向かう風でもある。
誰しもに平等であるように、それは伊三路にも通ずとも言えた。それにしては、長くここに存在する風のように感じられるそよ風だった。
乱雑に砂を蹴るローファーの硬い足音が響いている。
「高い知能を持った蝕だったらどうしようかと思っていた。おれはこの通り愚図ののろまと言われて相応であるし、おまけに、慢心の恥でもあったけれども、おれは誰かを守りながら戦うのはずぶの素人だ。間違いなく、この場で一等に頭の出来が悪い」
シャツの袖口を気にするように俯く素振りを見せ、十分に手首の周辺に触れてから、伊三路は切り出しナイフを肩の高さに近い位置で切り出しナイフを水平に構える。つま先の方向に揃えて切っ先を示すと深く息を吐いた。
柄を握る右手を覆うように左手を添えると、微かに首の角度を変えて呟く。
「少し……短いかな?」。柔らかい言葉の割には迷いのない真っ直ぐで、されどひとりごちるという域をでないただの意味の薄い言葉だ。
「ああ、でも良かったよ。きみが、難しいふうな語彙をするおしゃべりなだけでさ。自分の質量が減っていることは理解しながらも目視を怠って、そして、自らが多用して人間を害そうと喜んだ力を封じられ――生命体の核を自ら貫かれに来る」
蝕の伸ばした腕が、伊三路に触れる前に身体の動きは止まった。
深々と胸に刃物を突き立てられているのだ。苦しみを浮かべたであろう頭部はすでに存在しない。
しかし、もしまだここに目玉のひとつ、ふたつがあれば、それは先ほど以上にゆっくり、そして信じられないとして恐る恐る己の胸を見たに違いない。
まるで砂時計をひっくり返したかのように、刃を突き立てられた胸からとめどない砂があふれていた。
「あ」っという間もなく、勢いを殺さないナイフに追いやられるように乾き始めた蝕の身体は地面に押し倒される。
その動作に一つまみの感情すらない。配慮のない勢いだけは、人間の真似をして、そして人間としてあり得ない様相に成り果てた身体の背を強く地面に打ち付け、反動だけで浮き上がる揺り戻しすらをも黙殺していた。
「ぎゃっ」と喚く声なのか、肺から押し出された呼気が切り込みの入れられた皮膚の側面に漏れた濁音なのか、判断のつかないものが短く鳴く。
一切を構わず胸に刃を押し付けたままの腕を折り曲げ、蝕の身体に対し、つま先から頭の先まで睨めつけるが如く自身の顔を伊三路は突き付けるのだ。
まるでこの顔を焼きつけろとでもいうかのような勢いでありながら、囁くと表現するにはあまりに乱暴で、言い聞かせるとするには優しすぎる声音で語る。
「お前たちの声は、人間の器官としての声帯を通さずとしても発することができるはずだ。役に入りこみすぎて忘れてしまったのかな? 所詮は影、口もあるまいし、すべては模倣に過ぎない。不定形の生命体だ」
 脈々と流れる血を代替した砂と、力の行き場と流れを失ってめいめいに伸びる四肢だ。びくびくと痛みに打ちひしがれる触手を横目に見ながら、伊三路が手元の刃物で胸の肉を抉る。
「さあ、教えてもらおうか、きみのいう"僕たち"の背景に何者が居て、統領が何処にいるのかを」
博愛のために普段は穏やかで心地のよい凪を思わせる、愛嬌そのままのような稜線を持つ眉が思い切り吊り上げられていた。
目頭の皮膚を寄せ、深く皺を刻む。ギラついた瞳が細くなって、蝕の姿を通して裏側で黄昏れる風景を見ているかのようだ。その目は既に蝕の個を見てはいない。
怒りという感情以外にも複雑な思いを抱いた瞳はしているものの、それらを言動では一切に感じさせない。故に、異形の者を排斥しようとする意図はこれでもかと感じられど、そこに命乞いへと漬け込む隙は一切として存在しなかった。
事実を差し置いたとして、少なくとも、影法師の蝕には、茅間伊三路という存在が異形のものを排斥をしようとする際に一切の言葉が通じないかのように冷たい血が流れる人間に見えたのだ。
「僕は……俺は……こんなところでは終わらない」
 掠れた声がどこからか聞こえる。円筒をなぞる風がぼうっと鳴るような、心臓の底をそうっと撫でるような、奇妙な不安を煽る声だ。そうでありながら、発する主も虚ろをみてぼんやりとしている。
死の色が濃くなった蝕の声だった。
「答えるんだ。さもなければ図らずとして血の流出を抑えている刃物を今すぐ抜くか、今は貫いただけの核を完全に分断する」
さらに目尻を吊り上げた伊三路の静かな声に対して、自虐めいた笑みがする。
鋭く鍛え上げられたその冷たき信念に胸を貫かれている。目に見えて人間が共感できる出血こそなかったが、揮発した悪意がただの土くれになり始めているのは明確だった。
指先に値する末端が冷たくなってきたのだ。ただ、感覚としては核がじくじくと嘆く痛覚だけが確かに存在しており、独立した個に憧れるかのような生の痛みに、蝕はすっかり気が滅入っていた。
「どうせ死ぬじゃないか。すごく、痛いんだもん。……まあ、いいよ背景も何も、おまえたちのいう秩序などない場所だ。統率などない……混沌だけだよ」
 息を呑む。極限まで張り詰めた空気が肌を刺して、ぞわりと肌を舐める。嫌な視線にも似ていた。
そのありもしない双眸がこれをただの箱の中身とするように見られているかのような俯瞰を覚えるのだ。
「僕たちは、僕たちに自我が存在していることに気付けば、ただ己より大きなものを恐れ、弱きものは結託じみたことと出し抜けの卑劣を繰り返す」
思わず伊三路は視線だけで周囲を見渡しそうになった。気配の出処を察知したがって、顔を動かしかけた名残りに鼻先が僅かに向く方向を変えた。
そこにはなにも存在しないことをこの目で確認しながらも、現れたり、消えたりする双眸に見つめられる感覚は疑いの芽を育てては確かに存在していた。畏れと表すことにすら近いと言えたのだ。
「風の噂だよ。バカでかい力を持つ"僕たち"の一人が可愛がってる獣がやられたんだ。そのとき巻き込もうとしたヤツがあの、ご馳走クンでさ。今後もっと美味くなる見込みがあるから、とかいう理由でわざわざ後付けの因果を手渡しでくれてやったらしい」
乾いた泥がこびりついたように汚された柄を握る指先が震えた。もはや抵抗を辞めた蝕は四肢を投げ出したまま、まるで空を仰ぐようにしてぼうっと洞に響かせる呟きを続けている。
「"僕たち"はとびきり栄養価の高いご馳走クンに夢を見て……出てきたのさ……お手付きの獲物の取り合いにね。喰えば生態系がひっくり返る。これはゲームだって」
「――そう。生憎だけれども……おれが聞きたいのは"それは誰か?"の答え合わせであって、きみたちに流れる噂話を聞きに来たわけじゃあないんだ。……すでに想定の範疇だからね」
「表裏一体でも命は命だ。理に従って、正しい流れに還るんだ」言葉のやり取りの中で向ける言葉の最期として付け加えたように語ると、伊三路は『短いかもしれない』などと宣った切り出しナイフを躊躇なく核から引き抜いた。
 ぬるりとした粘度を持つ高濃度の生命体がまるで血のようにおどろおどろしい糸を引く。まるで見ているだけで吐き気を催すような血の色を――邪悪を表す暗褐色をしていた。
「お前、お前はなんなんだよ」
 掠れた声に伊三路は答えではない言葉で応える。
見下ろす視線をおり冷たくしたのも束の間のことだった。再び強い力で貫かれた核は次に考え事をしようと思えば、既に絶命をしていたのである。
「終わりだよ。すべて終わった話だ。死ぬゆくものに応えることはない。きみが何に還れることもなく何かの推測を続けるならば、推測の域を出ないままにいつか行く冥土の土産にでもしてよ」
身体は乾き、核における死の自覚は投げ出された肢体の先までを一瞬にして土くれに変えた。ざあっと色の褪せた塊に、目を瞠らせる間もなく幾筋もの亀裂が身体を覆って、ばっくりと割れたのだ。
そこからかつて操った影の触手が飛び出すことはなく、収縮をした後に弾けると、土くれは細かな砂となって空に還っていった。
語るならば素晴らしい英雄譚か、美談の締めだ。
事実としてはただ、質量の小さく、ひたすらに細かい粒子が風に煽られて浮き上がっている。それだけだった。
「一気に歳をとったきぶん」
まるで嘲るようにすこし笑った伊三路は砂に一瞥もくれず、地面を見ていた。



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