「……いいか、茅間。俺の言葉だけを聞け。気を早るな。全てを無駄にするな」
「何を、」
 祐が視線を僅かに上げて空を示す。言葉にせずとも何か確信のあるような物言いに伊三路は疑問をすべて拭うことはできないながらも、頷く。
そして身体から僅かに力を抜いた。
しかし、言葉が続くことはなく、祐の視線は往来している。
顔色は青白く、毒の回る様がよく想像できる。恐らく、彼にとって相当の苦痛であるはずだ。
「ええ? 目に映る態度はそれらの言葉とは裏腹に見えるけど。視線が忙しない。顔色も悪そうだ。そりゃ僕の、俺の、この生き物を知覚すればそれは毒だよねえ。息も苦しくなっちゃう? 嗜好としては、強がりよりも命乞いがいいって言ってるじゃんかっても、思うけど~」
言葉を待ってその様子を見ていた伊三路は、最初こそこの場所が如何に彼にとっての毒であるかを哀れに思いかけた。視線が覚束ないほどだ。
これは祐が再び普段通りに動けるようになるまで、時間がかかるかもしれない。どうしたって対策に憶測のつかないうちにここまで相性の悪いものとぶつかるか、と伊三路は憂えた。
しかしすぐに気付く。違う。
 祐の視線は雲の流れを見ていたのだ。
上空へ向けられた視線が何を意味するか伊三路は考える。
上に何かがあるのか、それとも何か思考を辿ろうとする際に自然と視線が導かれるのか。
それとも気象現象として絶えず流れる風に、天気に意味があるのか?
興奮に熱を上げる思考では正常な考え方が出来ないのだ。
どうにかこの影による拘束をどうにかしなくては、本当に祐の身が害されてしまう。
影を――、そこで伊三路ははっ、とした。
 先日の間に伊三路が語ったような風と雲の流れを読むことを、祐が正確にできる訳ではない。精々、結果論かそれの直前で『今日の天気予報』がうそつきだったか、そうではなかったかを知ることができる程度にしかその知識や感覚を持ち合わせていないのである。祐自身が後に伊三路へ言ったような会話を思い出している。
まだ初夏に入りきらない時節。晴れ時々曇りといった、薄い雲の流れが幾つも連なる空だ。
しかし頭上に多く広がる雲は早い風の流れに押され、時たまの合間に雲と雲の切れ目として覗く空が存在している。
彼がそれらと時間の経過を読むことが出来ずとも、本当に空を示しているのだとすれば。
伊三路は首を捻って空の状況を確認したいという感情をぐっと抑えつけた。
どうにか唾を呑み下して、糸が複雑に絡まったままの思考をどうにか転がそうとしていたのだ。できるだけ、絡まった紐を解くつもりではないふりをしつつ、解くことを兼ねて行えれば運がいい。
甘ったれた楽観を爪の先ほど残しながら、それでも、興奮が煮える中でなるたけの冷静を保って整理を行う思考から、どれだけのものを得られるかというと"そういうったような楽観"に期待をせざるを得ない。それによってはじき出される楽観たちだ。
悔しいなどと感じる間もなく、そして明確に、ただ理解を得ようとする脳に閃きが一つでも二つでも多くあればそれが突破口になるしかなかった。
その通りに伊三路には考える余裕がなかったし、祐のことを指して『"ともだち"になりたい』という言葉を願望で片づけるしかない程度には、知り合って間もない。
彼が遠回りに何かを伝えようとする際に、言葉をどんなふうに言い換えて、どんなふうに表現の癖があるのか伊三路は知らないのである。
ただ、ごく都合の良いことを考える際に、己の背後に広がる光景が、もし、祐がもう少しで太陽が隠れることを伝えようとしているならば――。
まだこの場に勝機を見ることができる。
彼の言い分は恐らく、直に短い一瞬にしてもいま出ている太陽は雲で隠れるだろうということを推測し、それを伝えようとしているのではないか。
「かげ……この、この、忌々しい影さえなければ……!」
まだ確信の持てない伊三路は微かにわざとらしさのある様子をしながらも、心の底からの悔しさを吐き捨てるように言葉をつぶやくと、取り落とした切り出しナイフを手に取り戻そうとしていた。微かな緊張に、指先が強張っていた。
指先から肘を示す前腕の、中ほどの筋が血をせき止めるように圧迫されるか、引っ張られるかのような違和感を覚えるもので、緊張は倍増している。
強張った筋肉が紙一重の高ぶりを見せて、伊三路の身体を支配しているのだ。そしてまた普段は意識もしないような身体の側面を伝う汗が、いやに湿度を持っている様が感じられた。
 反対に、己の視線の意味も空しく伊三路がまた訳の分からないことを言っていると思った祐は、本当にこれが終わりかもしれないと瞼を伏せる。
伊三路の言葉は曖昧であったが、しかしその視界の曖昧に確かに日が射しており、何らかの意思を示しているらしい。
伏せかけた視線で前を見ると祐は、一人勝手に清々しくなりかけている伊三路とと視線がかっちり合った。
言葉と裏腹な表情を見て、祐は開きかけた唇でそのまま思考を巡らせた。
一抹の不安が過る。
普段からちぐはぐな自分たちなのだ。もしかしする奇跡がなくとも、これは伝わらないということが普通なのではないか。
諦めの悪いことにこういうところで期待をしてしまうが、よく考えればおかしなことである。
 ――この男、本当に理解をしているのか?
率直にそう思っている。
表情を見る限りでは、あまりに絶望を根源とするものではない。
しかし、それを天秤にかけて感づかれてしまうきっかけを自ら与えるのか。なぜそんなにも、納得したかのように力強い顔をしているのだ。
惑うままに、唇を閉じようとする。しかし、伊三路の力強く、風の囁くような、または梢の様を色濃く落とす光をわざわざ覗き込むような瞳を見ると、恐らくとして浮かび上がるのは『茅間伊三路はどれだけ低く見積もっても三分の一ほどはこちらの言いたいことを理解をして、そしてそれを確信にしようとしている』ということだ。
応えるように微かな動きで頷くと一息と一息のあいだに確かな間を取り入れ、まるでようやく言葉が出てきたかのように演技がかって祐は語りだした。
「……"昨日のうちにやっておけばよかったことがある"」
少なくとも、祐にもひとつ指先くらいに確信と言ってもいいような、曖昧な芯の確信がある。
この場面において、まだ、伊三路がどうにか動きやすい環境を得ること、それさえ確保することが出来れば勝機を願望や希望ではなく、勝ち取るものとして確信を得ることができると想像することだ。
なぜ、夕方を過ぎて偽物の日野春暦は姿を消したのか。祐は考えていた。
「"延々とあるものだと思っていたからな"」
 日野春暦の姿を写し取っていた際の身体能力や、活動時間、西の方角から光を得ることが上手い部活棟の裏側付近という場所が本当に人通りの無さだけで選ばれたのか?
学校以外にも死角が山ほどあり、土地にも比較的空きがある。ならばわざわざ選ばれた理由は何なのだ?
影を操る、とする際に障害に成り得るものの数々――すべてが推測の域を出ない。
ただ、自然界において影を発生条件を考えればこれだけは確実に言える。
「"類似する事象が些細に移り変わるばかりのつまらないだけのものだとな"。"すぐにわかるだろうが、永遠など存在しない"。"直に影に食い尽くされる"。月並みだが、そうだろう、茅間?」
最初こそ伊三路と同じようにきょとん、と間抜けた顔をしていた蝕であったが、祐の言葉をまじまじと聞くと人体構造における眼窩と聞いて想像するには恐ろしく発達をした目周辺における筋肉の全てを使って喜びを表現した。ゴムに刃を入れて裂いたようにのっぺりと大きい口は笑みを浮かべ、その暗がりからは毛細血管の変異したような触手が蠢いている。細めて尚おおきい目に反射する景色が歪んでいる。
祐を引っ掴んでは怯えて命乞いをする様を焼き付けようとして近づけていた顔が悦に浸って歪んでいたのだ。
ぱ、と祐の前髪を掴んでいた手を離すと、手をついて身体を庇うこともできず地面に倒れ込む姿に目もくれず、手拍子をしては持て囃すようにして次の言葉を催促する。
どこか濃淡としての起伏を感じさせない実態を表皮の影と同じくする色と合わせてゴムのようだ、と祐は思っていたが、それでも手拍子は人間がする行動と同じように肉の詰まった質量がぶつかり合うものに違いない。
この非現実が等しく現実の価値や常識に置き換わっていくと、同時に死の気配が大きくなっていく。
それでもどこかでは、この場を切り抜けた後の想像が出来ていた。
 茅間伊三路が誰かを守りながら戦闘をする様は素人目に見ても下手くそで、まるで守ってやると言えた口ではない。
確かにそういったことを考えていたが、初めて会った際の不可思議と、生死の区別をつける線のギリギリを往く様は彼にとって『いつものこと』であると窺えたし、祐自身もあの日と比べるとこの対峙する敵は、ただ、やたらと口のうるさくて、煽る言葉をわざと使う嫌な性格をしているだけである"だけ"だった。
それほどには人の言葉を操ることの賢さを差し置いても、獣の蝕と比べるならばインパクトが薄かったのである。
「いい! いいねえ! もう少し感情とかでないの? もっと楽しませてくれよ。日野春暦の新しい門出に! 祝ってくれよ。人食いの人間として後世に名を刻むこの存在をさあ!」
地面に身体を預けながら、正確には芋虫のように転がされながら、祐はただ、今しがた悲観めいて発している己の発言を実現するためにここからどう身体を起こしたものかと考えている。
明るく、ごく楽しげな声は滑稽に聞こえていた。さらに詳細を尽くして表現をするならば、神経を逆なでするような愉悦の声を発する影法師の蝕が笑えば笑うほど、振りまかれた瘴気を過剰に吸い込んでいる祐の身体は重く、倦怠感に覆われていた。鉛を呑んで、ゆるい固形に沈んでいく感覚が、遠くのものではなくなりつつあったのだ。
笑う声は響き続けて、恐らくは現実よりずっと長く、声量の大きいもののように祐には感じられていた。
飲み込むのは鉛だというのに、喉が渇き、水を求める衝動が喉ぼとけの直下であるあたりで皮膚のずっと奥に存在していた。そればかりが今となってどうしても祐の気を引いている。
「"形振り構わず、逃げ出せばよかった。いや、今再びできることならば、そうする。そうしたいくらいだ"。"時間を巻き戻すように"」
「うんうん! じゃあ、最後の言葉は? 命だけは助けてくれ? それとも? なんだろう、ずっと言えなかったこととか言ってくれるの? できるだけ良い感じの言って! 縋ってくれたっていいんだからさ、そのためならちょっとくらい縛っているのを優しくしてあげようかなって思うくらい!」
応援をするような、催促をするような――そんな手拍子を恨めしく、そして悔しがるふりをして祐は砂を握る。
手袋の生地を隔てる素手に感覚は少なくとも、採石の場から副産物の真砂土を持ち込んだような細かい砂目を確かに握り込んでいた。
同時に、『この手袋も摩耗をしてきたものだから、少なくともこれの役目を終えたら捨てるか』などと一足先に非日常へ幕を下ろした思考をしている。
蝕から向けられる期待に対して、これからどんな答えが返ってくるか想像もついていない様をいっそのこと哀れに思って目を閉じるのだ。
湿りけのない、僅かに冬が抜けきらない様を思わせる乾いた風の匂いを感じてから、長い息を吐くことで十分に間をとってから口を開く。
 もし、次にこのような"最期の言葉"じみたことを誰かに託すとき、自分は心からのものとして何を語るのだろうか?
もしも話だ。されど、その"もしも"に大きく傾いてぼんやりとした思考を移り変わっていく。
それはほとんど無意識であったにも関わらず、次の瞬間には感傷じみた思考の中にさえ『最期のときに、そこには同じくして場にいる誰かの存在を意識している』ことに飽きれていた。
この意地を、褪めて生きることに楽と諦めを求めて生きることで自身が何を思ってきたのか、そのすべての裏側を認めたくないだけなのだ。
「……ただ、足手まといのことを意識する必要なく動けるならば、お前だけはお前の道を進み続けるのだろ。茅間、その際は頼んだからな」
「もう十分だよ。ありがとう」
 冷たい風に、静かな声だった。先ほどの蝕がはしゃいでいた姿からは想像もしない底冷えだ。
思わず息を呑む。が、微かに風向きが変わっている。
地面に這いつくばるかたちをしている自分自身が蝕を見上げる恰好で上を見ると、今に陰る雲が厚くなっっている。それに対比するように地表へ届く光は薄くなっていた。
眩しすぎることのない、薄暗さだ。風は絶えず流れている。
「最期までこちらに命乞いしないことは……虚勢か何だか、もうどうでもいいけど。これ以上に語ると、感動とかエモーショナルとかいう"こころ"とかいうものの揺らぎによる――鮮度が落ちるから! さあ、今に穿つ血管の、血の、極上の因果そのものの肉を試させてくれ! わかるでしょ、次はさ、そう。食事の時間だ。もう一度聞くよ。僕が、俺が、化け物が。さあ、この世界の常識ではどの言葉でも尽くせない"僕たち"が怖いかい?」
その言葉の向こう側をみる遠い瞳で、聞いているのか聞いていないのかさえ曖昧な様子だ。
祐はそのように、正確に像を結ぶ焦点を得ない瞳をしていたが、言葉を聞き届けてから、は、と鼻から息を漏らした。
何も面白おかしいことなどない生活で笑うようなことなど久しくないことだった。と、思う。加えて、口端が上手く持ち上がっていないことを自覚している。
それでも祐の息遣いは、嘲るような笑みを浮かべていたと言って過言ではない。結果的にそれが出来てないにしても、祐にとっては馬鹿らしくて清々しかった。
「ああ、そうだな。現状として恐れる理由も、必要もない。それだけだ」
「なっ、」と言葉を詰まらせて絶句をした後に、繕う笑みを浮かべた蝕は動揺を悟られんとして影を研ぎ澄ませて見せつけてくる。
『これが今にお前を穿つぞ』と言い聞かせるように不定形のそれを鋭くしたり、はたまた平面を這う影にもどしたりして起伏を作る。にじり迫る気配が、投げ出された祐の首に這う。
さらけ出してぐったりとする首だ。重い頭部が垂れ下がって、身体の側面を天に向けていた。横目にとらえる視界で、流れる雲に日光が隠れる。
綿を千切って解ける雲の端が一際に輝いて目を焼くのだ。
 雲より高く存在をして絶えず陽光を降り注ぐ太陽が隠れた瞬間のことだった。
その光を微かに透過する鈍色が、黄金の"ふち"を誂えられて、不透明な色のまま鮮烈な光を放っていたのである。
上空の雲が輝くなかで翳る地表だ。影の束縛が緩み、締め上げられてだらりとしていた指先は力を得て、伊三路は精気を取り戻したかのように首を上げた。
「……うん、任された。大丈夫だよ。おれはこれ以上きみに何も捨てさせはしない。ずっとそのつもりだから、さ!」
曇り空の鈍を写し取るように陰りを見せた地上で、効力を削り取られた影を破り、ふわりと地に足をついた伊三路が顔を上げる。
意思を宿してはさざめいて風の渡る草原の様相をした瞳の色を、雲間に隠れる日の名残りのような黄金色に見紛う。
正確に表現するにはこの空に存在していたのは黄昏における強い光の一種でもあるが、この空間の行く末としてもう少し先に存在するであろう完全な裏側で見る空とは同じ光の表情を示すにも異なったものに見えるのだ。
邪など存在せず、むしろ、大抵の人間は心地良いと思うようなものだった。祐も例に漏れず、重苦しさに乗っ取られていた身体が僅かに軽くなるのを確かに感じている。
それは、まるで陽光の訪れに応えんとして生命が息吹くように、樹木の影を追っては隙間から射す光に目を細めるように。
はたまたはそれそれものがまるで春の象徴のように、普段の祐が嫌悪するほどに優しく、そして等しく雪解けを誘う光だったのだ。



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