「え……?」
 伊三路の極めて静かで、かつ厳しい声色を浴びせられた暗褐色を持つ二人分揃えられた目たち、その主――二人の暦は大きく動揺した。いかにも血の気を引かせて顔を青くする様がまるで二人の間に鏡でも置いたかのようだ。
どちらかがどちらかを真似ているのではなく、どちらもがどちらとも日野春暦然として語り、驚き、そして恐れ、怯えているのである。
 一見するだけでは先に抱いた感想その通りに鏡を置いたかのようであり、隙目もなく同じないし第三者が想像する日野春暦がまさに行いそうな反応をしているのだ。
常日頃のうちでも物事に大きい反応をする人物として人々に映る日野春暦像は、本来よりも大袈裟なものとして焼き付き、多少の嘘や誇張を混ぜ込んでも、十分に『らしさ』の軸として彼を成り立たせる範囲に該当をする。
そして、伊三路の持つ暦の像も他に倣うように例に漏れない。彼は人の言葉をよく聞き、大きな反応を見せて、話すことが好きだ。
そういったふうに伊三路も解釈をしている。故に、わからないでいる。
むしろ、自分自身が心の底から困っているということ以外がわからないのだから困っていた。じわ、と温度の感覚が薄い湯に似た焦りが滲む。
 彼を彼として見て、大袈裟なまでに反応を示しては困り眉のままよく笑う姿のうち、『どちらかが偽物である』ということは理解ができても、『どちらの日野春暦が本物か』ということに関しては確信を持てない。
選択をするにあたって、もし自分の考える日野春暦像が、正しい解釈ではなかったら?
極めて精巧なこれらにどうやって断定をした言葉をぶつければよいのだ?
伊三路は悩む。喉が詰まり続けている。
動揺を誘い込んでもぼろを見せないのだ。ならば、どんな言葉で探ればいい?
 考えろ。
そもそも、多くの人間が認識する日野春暦像が正しい日野春暦の姿よりも誇張されて知れ渡っているとしたら、逆の方向へ考えて、顔を見ずに判断するべきかもしれない。これは大袈裟な言い方かもしれないが、発想の転換だ。
顔を見れば親しみやすい彼の言動や、訴えかける表情に絆されてしまう瞬間が必ず存在する。ならば、その像を見ないで彼を構成する別の部分を見ればよいのではないだろうか。
例えば、どこか、どこか普段ならば気にもとめないような特徴だとか――。
視線が這うように下り、暦の輪郭を舐めていた。
「ま、待って、ぼくは!」
「僕は弥彦くんが心配なだけで、彼が、彼が弥彦くんと歩いて行ったのを見て、ただ事じゃないのもあるけど、単純に確かめたくなって……!」
 言葉を遮った暦は、もう一人の自分へ向けて後ろめたいような、それでも譲りはしたくない意志を表すような、伏し目の視線を横に送る。
そうっと瞳だけで輪郭をなぞり見ては逃げるように泳ぐ視線に対し、また、そこからさらに逃げたがる目の先という結果として、二人は延々とかち合うことのない目の動きを描いてるのだ。
視線から噴き出す汗のような気のまずさが滲み出ている。もしくは、何かを見透かされるのを恐れて互いは互いの目を見ることが出来ない。
 姿かたちは全く同じなのだ。
故に、己と向き合うことに嘘偽りが全くないかということの問答を、ここに改めて見せつけられるのを恐れている。
時間だけが早送りを続けて、フィルムに焼き付く人間たちはずっと同じ言葉と思考を繰り返しているみたいだ。
思考は一定を空回ると疑い合うこと始めて、振り出しに戻る。
たくさんの人間が特定の一人を認識し、表層より深いところの人間と個を理解しようとすることの難しさだ。
これに答えが出たのならばどれだけ良かったか。そういう事柄はきっと最期の日まで続く課題であり、それを紐解くための鍵を探す手段が言語だ。それに合う錠を探すのが自らが動いて関わりあうということだ。言葉を交わすことともいう。
かつての伊三路がそういったことを問いかけられたのは二回と存在した機会だった。
――それに対して返す言葉を今も見つけることができずにいる。
肯定も否定もできなかったのだ。わざわざその言葉を発した真意が掴めないなかで、どう返事をするべきかわからなかったのである。
それだというのに、あまりに早く訪れた小テストばりの足止めに惑っている。自他ともによく回ると言われる舌が途端に言葉を忘れるのだ。
皮膚がじわじわと感じ取っていた緊張が、時たまにどっと押し出されて不快を増していた。
誰もが間合いを探っている。ほとんど同時に繰り出された言葉が重なり合うことで発言の優位がつくことに後ろめたさを覚えているのだ。
 瞳の奥と見つめ合いたくない。
これらはここで何かの選択を求められるものたちに共通して心を蝕むものだった。
伊三路がそれを嫌うように、暦もまた心臓を痛くしている。
 言葉で生じる優劣のうちどれか一つが、誰かにとっての解釈を違って、自分が偽物だと言われたらどうしよう。
でも、何も言わなければそれこそ自分の存在は簡単に書き換えられてしまう。そして選ばれなかった自分はまるで罪人のように見られて、忘れた頃にそっと始末をされる。
生きていてもまるで誰にもなれないまま後ろ指をさされ、死を意識すれば同じ人間はふたりといらないと言われて、僕のすべてはついに僕から離れていく。しかも、同じ人間がふたりと居ることがおかしいと言われる頃になって、そのときには追いやられたほうが納まる椅子があるわけでもない。
人生のとりかえっこではない。奪い合いだ。
そういったことに直面して浮かぶ思考はなにも暦だけのものではない。
誰にとっても間接的に死することと同等か、それ以上に恐怖をする感覚そのものだった。
しかし、一度飛び出した言葉がちょっとやそっと思い留まる程度で止まることはない。
言葉を紡ぐための音たちが今更になって意味を成さないままで失速をすることなどできないのだ。
なぜならば、止まればたちまちこの拮抗しているはずの言葉に、明確な勝敗がついてしまうからである。
偽物が自分に成り代わっても気付かれず、成り代われて生きていけてしまうであろうことを暦はなんとなく理解をしていた。
 今までの不可思議に対する様々な感情たちが、湧水のようにこんこんと溢れて混乱を招いている。
誰が誰であるかということすら第三者に証明できてはいないというのに、答えに生き急いでいたのだ。
ただ困惑しているはずの視線が往来すれば、それはごうごうとした火をくべた薪の中央でゆらぐことに似た感情の渦と、疑惑であること、そして邪の根源を相手に押し付けようとする。「その……彼が……本当に僕の姿をして、僕を語っているのかどうかを」
思うところで止まれぬまま、牽制のように互いを遮っては言葉を紡ぎ、時には結果的に相手を罵る言葉すらが飛び出す。
今に泣き出しそうになる声を聞いて、伊三路は慌てて下へ向けた手のひらでどうどうと、動物をあやすような手振りで場を落ち着けた。そして順番に話すことを求めると、先ほど言葉を遮られてしまった暦へ視線を移す。「じゃあ、次に。きみの言葉は?」
その声のあまりの冷たさに暦は肩を震わせる。普段から感情豊かに抑揚をつける話し方でなければ、草原に温かい風が渡る長閑もない。
瞬きすら回数が減っていると思えた。責められているというような気持ちになれば互いに回数の減る瞬きに従って、互いが異質の存在に思えていた。人間味のないところを示してやろうと躍起に互いを見ているのだ。
 疑えば疑うことにきりがない。口腔内が乾燥を漂わせていた。
ぺったりとして、そのうち唇の皮もぽろぽろと剥がれ落ちてしまいそうだ。
緊張で、生命を維持するための呼吸の行く先が怪しくなっている。ふと目元が乾いていたことを思い出しているのだ。
暦は想像はなるべく己の律して逸る心臓の気配を薄める。
仕方のないことではあると思う。伊三路にとって、この状況でどちらかの言葉を贔屓せず、ごく公平な判断するのであれば当然の態度である。
しかし、極度の緊張に見舞われ、もし自分が選ばれなかったら、ということを想像すると気が気でないのだ。
『もしかしたら』よりも、『どうしよう』が大きくなるほどには気後れをして、すでに気持ちの面で負けている。
 思考がふと浮かんでからはずっと底のほうから寒くなっているのを自覚していた。
伊三路が公平を求めるか、もしくはどちらもを蝕である可能性があるとみなしての声色か、とにかくそれが暦にとってはおそろしく身体の内側へ響いて熱を奪うような感覚があったのだ。例えるならば「く」の字に曲げた手のひらの形が身体の底から臓器をごっそりと持っていくような、空っぽになった場所へ冷たい風がひゅるひゅると抜ける感覚を知る。
緊張の重さに耐えかねるように暦は肩をすっかり縮こまらせ、下を向き、今に崩れるように四つ這いの恰好で絞り出した言葉を発する。
 暦には己こそが日野春暦である、ということが何一つを揺るぎない事実であると証明は出来なかったが、その言葉以外に状況を説明する言葉がなかったのである。
それこそが暦にとっての事実であり、真実であるからだ。
言い分が重なり連なることの無意味な言い合いに、憚りを知って抗議することを辞めれば、偽物は自分であると貶められるだけだった。
誰もが判断をすることが出来ないことを継続する今この瞬間で、暦は誰にも信じてもらえないまま日野春暦が入れ替わっていくことを、時の砂が落ちるその一粒ごとで感じているのだ。
「ぼ、僕は……ううん、僕も、その通り、だよ。彼が先にそれを言うからきっと、信じてもらえないかも……だけど! い、伊三路くん、きみなら、わからない? 僕が暦だよ、君なら、わかってくれるよね? ねえ、お願いだよ、伊三路くん。僕だよ……」
瞳を縁取る睫毛に今に溢れんばかりの涙を絡ませながら発せられる言葉は、今に縋りたがって喉を震わせるばかりだった。
「なっ、そんな! どっちが本物か判断できるか、だなんてそんなこと! 僕は弥彦くんを殴ったりしないし、そもそも証明ができない状態で先にそういうことを訴えるのはずるいよ。こんなこと、今この瞬間で言い争うべきじゃないよ! はやく……はやく安全なところへいかないと。危ないよ。こんな……まだ安全が確認できなくて、しかも、誰がオオカミかわからないところで問答するなんて!」
そして彼もまた、続ける。「いやだよ、伊三路くん……僕が……! 僕を信じてよお」
 両脇から飛んでくる声が縋りつくように鼓膜にずっと残っている。
伊三路は己の判断がまるで今後の命運を左右する大きな選択に思えた。
事実としてその通りでもあったのだ。
どちらかを選ぶこと――その緊張は焦りを自覚した際よりずっとずっと膨らんで伊三路にのしかかっている。
もはや、いや、実のところ、選択することの緊張を前にした伊三路は、暦の言葉など三割ほどくらいは感動を薄れて聞いていた。
どうする? 不正解を選べば確実に死人が出る。どうすれば、何を起点にして判断すれば――?
他の特徴を判断材料としようとする観察を目的とした視線がいつの間にか滑っている。
実際に、口にすることはなくとも、頭の中でそんなことばかりを考えていたのだ。
そして混乱招く悪魔の囁きが耳の奥からこめかみのあたりの血をよく巡らせて、熱を孕んだ。思考が空回っていく。
段々と逸れて、そして問題は最初の位置へ戻ってくる。走りだした地点で終わるのではなく、周回を重ねて疑惑は疑惑を呼ぶ。そして回を増すごと増えた疑惑疑問は手をとって並行に駆けるばかりだったのだ。
 自分は今まで彼の何をどれだけ知ってきたのかなどと自問する必要もなく、判断できる材料が圧倒的に少ない。痛いほど理解していた。
集中を妨げる雑音を振り払うように頭を振ると、二人の言葉を制止するように伊三路は瞼を閉じるのだった。
 酸素を、口で吸い込んだ時間よりもずっと長い間をかけて息を鼻から吐き、もう一度と瞼を持ち上げる。今に取っ組み合いを始めそうな二人が鋭い視線を送り合っている様と、転がる弥彦の呼吸が僅かに乱れている様を見る。
よく見ると弥彦の頬は内出血で青くなっており、確かに暴行があったらしかった。そしてなにより、伊三路が驚くことに、彼には意識があるらしいのだ。
弥彦の怪我をよく見て、場合によって触れたはずの数分前に脈拍や呼吸の乱れは目に見えて感じなかったことから、この場の状況を観察して黙っているのか、日野春暦という存在が恐ろしくて今はそれと向き合いたくはないというのか、とにかく拒絶じみた表れだった。
 伊三路は頭を抱える。少なくとも、正常な精神状態の彼ならば暦を言い当てることが出来たはず、なのに。
頭の中で率直に浮かんだ思考に下唇を噛む。
どこかで他人に押し付けては預けたくなる選択の権利――もはや義務となったそれを、これは今この瞬間に於いてほかの誰でもない己に課せられたものだと言い聞かせ、伊三路は何度か往来した視線の流れに区切りをつける。
考えろ。
何度も言い聞かせては、頭の働きに合わせて騒ぐ血とは反対に、静かなほうへ思考をもぐり込ませようとする。
考えろ。
暦が不可解を言い出した日の三日分前ほどから今日までの印象的な場面の会話が蘇る。
急いでこの場の時間に追いつくように過ぎる早回しの会話だ。
学校で行われる部活動の勧誘話で少しだけ暦から聞いたことのある暦の所属する部活動の話から、数日後の体育の授業で行った球技、後日訪れる三石宗吾の言葉――。
実際に困りごとを聞いて探りを入れ始めてから多くの生徒に聞いた話の数々。どれも納得はできて、不思議に思うことはないと思える。
引っかかりはない。どれも日野春暦だと思う。
しかし、と敢えてそれらの記憶に制止をかける。
どうだろうか。実際のところ伊三路の記憶の中でも印象的な場面ばかりを追体験するさまは、反対に印象に残らない場面を普遍の想像で埋めるために、正確性はわずかに欠いている。
その通りに伊三路が不思議と思わなかった部分についての言動をしようとすれば、それはよりぼんやりとしたもやのようにしか思い出すことができない。霧散しながら曇る。
薄く白む視界で、暦の言葉尻を捉えることに自信がなくなっていくのだ。
考えろ。
声は水底へ。ついに心細くなり始める。
考えろ。
やるせなさで満ち溢れそうになってしまうのだ。
考えろ――!
瞬間、暗く瞼の奥へ降りるひらめきが脳を貫くようだった。
弥彦が怪我をしている、という様を見て思い出したのだ。
痛々しい内出血だ。伊三路はそれを最近見た記憶がしっかりと残っている。
追体験する会話のうちでは気付かなかった。彼の体育が得意ではない三石宗吾との会話、そして『助っ人の日野春暦』に繋がる不可解に気を取られていたからである。
そして二人の暦をじい、と見つめると片方にだけ手を差し出したのだ。
「……うん、少なくともおれの信じたい暦は絞れたことにした。どう、立てる? 暦」



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