怒りに打ち震える蝕は模倣の上で必然と知ることとなった感情というもののうち、ある地点を通り越すと笑い声をあげた。面白くて仕方のない感覚だ。愉快である。
開き直るような態度や、急に面白おかしくて訳のわからない状態を疑問に思うことすらなく、暦の姿をしたままで重たく視界を遮る前髪を掻き上げた。
花壇を形成するレンガに殴打された額は割れ、肉がぐずぐずと柔らかくなっている。身体において末端の一つである手先とは異なって頭部に怪我をすることに対し、生命維持に危機感を覚えたのか、それとも写し取ったはずの姿かたちから大幅にかけ離れていこうとする肉体に異形としての力が作用するのか、その肉がざわざわとより集まっては傷を塞ごうとする動きをしているのだ。
足の往来した雪道の溶けかけを思わせるような惨憺たる肉の泥濘から黒々と粘りけのある血が流れ、そのあいだにも修復を試みる肉の凹凸の間でぞっとした吐き気を催す色の反射をしていた。それらが身体の面積と触れ合うことのない空に落ちるたびに、凝固して乾いた黒々になっている。びしゃりと地に打ちつけられて、たちまち液体としての性を揮発をして泥の染みになるのだ。
 鼻腔を満たす血液の甘ったるく熟れては一層のこと刺激が強く、時に尖った輪郭で嗅覚や喉の奥を空嘔かせるようないやな臭いがしていた。
さまざまに混ぜ合わせた草を燻し、色が変わるまで熱した鉄に水と共に打ちかけるような感覚だ。
それを継続することで積み重なってきた分厚い錆をこそげとり、引っ込もうとする舌の根を無理矢理に引っ張り出して乗せたのなら、きっとこの不快を上手く表現できるだろう。
鼻の奥で折り返し、丸いかたちで燻っている。湿気が停滞したり、煙が曖昧な渦を描いて立ち上ることに似ているのだ。
それを鼻から喉にかけてを経由し、腹の底へ取り込むことを想像すれば、きっと気分悪いこと極まりない感覚を共有することが出来る。そう思うくらいには形容のし難い感覚だった。
「さっきまで『弥彦くうん』って言ってたのに、二人して逃げ出しちゃって! どこ行くの? まってよお、おいていかないでえ……なんてね。ここは既に僕の、俺のものなのにどうやって足掻いてくれるのかなあ? 隠れてないで見せてよ! ねえ!」
 焼け焦げたような煙を纏い、影法師の蝕は姿を変える。
土気を払い切らぬまま糊の如く正体がなくなるまで煮込んだ木の根をした様相に、加えてくすみきった灰を満遍なくかけてやったとも言って適切な重たい影の色をした体躯は、人間の姿かたちを真似していただけがあってか極端な巨体ではない。
確かに祐や弥彦のような一般的な男子高校生や、それか日本人男性の平均身長を考慮しても少しばかり数字の足を出て大きい部類ではあるが、同じ人間には十分に見てとれるほど、人間に近しい輪郭の線をしている。
しかし、肌の凹凸に対し、目だけが異様に発達をしているともとれる眼窩周辺の造形がまるで人間ではなかった。
眼球周りの筋肉がよく発達し、目玉を球体を丸ごと覆うように存在している。正確には異なるが、分かりやすく例えるならば、目が飛び出ていて、それに追従するように引っ張られた皮膚で目の周辺の肉が盛り上がっているのだ。
人間の目が比較的に切れ込みを入れた皮膚から覗くような構造をしていることを前提にするならば、どちらかというとカメレオンの顔にも似ている。
それらからは感情がうまく読めないと言うのに、口と同等程度にはものを語るといったように例えられる目ばかりが異常に発達しているのだ。
そして異形が服を含めて模倣をした姿かたちの暗がりからは、伊三路が蝕と呼ぶ怪異が、皮膚の下で飼う細い触手状の黒々が影という影からめいめい自由に蠢いていたのである。
口や、衣服の袖口、粘膜の隙間から煙が立ち上るような細かい触手が幾つも顔をだし、うねり、獲物の気配を探っていたのだ。身体だけを見れば分厚いゴムのような造りにも見えたが、もはや、自分達と同じ人間の姿かたちをしていると思うことは到底できず、嫌悪感を覚えるには十分すぎる外見をしている。
まともにその姿を目に映している伊三路や祐がその不気味に圧倒される間もなく、蝕は方々へ長い影を突き出し、這わせながら、身体はまとっていた煙らしきを振り払う。
 無差別方々へ這っていくいつもの影のうちの一つが、まだ視界の端で時おりよろけながら逃げ出そうとしている弥彦や暦へ向かっていた。
 地面を這う影を起点に、鋭い突起を出現させている。伊三路がすいすいと避けながら切り出しナイフを器用に使い、影を裂く。フィルムの素材で作られた薄紙のように脆く、さっくりとした引っ掛かりもなく薄汚れた気配を捌き続ける伊三路の足留めをよそに影は伸びる。
そして、風という密度へ割り入り、二人の人間を捕捉するために柔軟性のある影が不定形を示しながら迫りゆく。
ついぞ飛び出した帯状の一つが暦の視界の端にも捉えられる距離にあった。
 すい、と時に身体を翻して機会を窺っていた祐に、思わず舌打ちをする感覚がある。茶番として馬鹿らしいと思うはずの身体が、極めて無意識が動いていたのだ。
「あ、」
その声とともに大きな影が覆っていた。
「結崎くん――!」
帯状の影に腕を強く締め付けられる。時たまに乾いた木の軋むことに近いように大袈裟な摩擦音を身体に響かせ、恐怖を煽るように少しずつ蝕は祐の身体を引き寄せるのだ。
靴底がじりりと砂を踏み躙っていた。ざわついた冷たさが触れ合っている箇所から心臓へ向かって駆け上がってくる。
唇が震える感覚を祐ははっきりと感じていた。
「え、なんで……僕たちを庇って――」
「……構うな。語る必要はない。茅間の劣勢を見てわからないか? 今この瞬間を走らなければ間違いなく全員、死ぬ」
切れども切れども幾つもの影に際限なく攻め込まれていた伊三路が隙間に確かめるように手を伸ばし、は、と顔をあげてから、そして祐の言葉たらずへ付け足しをするように言葉を続けて、叫ぶのだ。
「だから、今は走って!」
伊三路の半分裏返ったような声を聞き届けると暦と弥彦は今にこの先にげこんだ安寧のなか力尽きてもおかしくはないように、顔を見合わせて頷いたあとは互いの傷を気遣うことも顧みず、わあっと勢いよく走り出した。
「だからさア、ここは僕の領域なんだって。おめおめと逃げ出さなくたって結果はおんなじなんだから。理解ができなくて可哀想に! ゆーっくりなぶり殺しにしてやる!」
 自身が一歩たりと踏み出さずとも影を伸ばせるはずの蝕が一定の距離以上はその後を追わず、何の未練もなく二人を逃がすと腕を絡めとっていた祐を一気に引き寄せる。
反対に伊三路には、先が鋭くなった影を幾つも伸ばして足止めの牽制を続けているのだ。
強く踏みしめた足を軸にし瞬発力で飛び上がると、最大の上昇箇所で留まることはないが上昇時より瞬間的な加速度を落として滞空時間の長い跳躍をしている。
まるで一見は不規則にも見える動きで猫を御弄する羽根つきの玩具のようだ。まるで吊るされた糸の瞬発力と、あそびとして撓んだ糸が滞空時間を表しているのだ。
その不規則が蝕にとってもどこか苛立ちを募らせる。攻撃を与えようとする度に生じる勢いの圧で飛び回るだけにも似た獲物をいつまでも捕らえられぬとイライラを募らせているのだ。攻撃的に発散されるべくそれらが、いかにも凶悪に育っている。
翻弄される伊三路も意図して不規則をし、飛び回っているかと思えば時に上半身にブレを生じることなく、下半身の体重移動のみで姿勢を低くするのだ。揺動まで行かずとも、冷静を欠いて間合いを感じさせない努力の一つである。
 暦と弥彦が去る際も、現在この瞬間も、伊三路は何かを守りながら戦わねばならない。そして、常に一定の距離のこのうちは影法師の蝕にとって有利な範囲を保たれている。
それらの様子は劣勢以上にも以下にも見られることはない――が、戦いのうえで気に留めなければならないものが減れば減るほど、その差を縮めることに尽力する伊三路に蝕の影が圧倒されていることがよくわかるのだ。
この距離は確実に縮められている。影の先が伊三路の頬や、髪や、制服の生地を掠めることも少ないわけではなかった。一歩として進める距離だって、大きくはない。
しかし、それを考慮しても、伊三路は襲い掛かる影の多さと比較した際に『すいすい』という形容詞を使って避けていると語るにに十分だった。
いつしか腕の距離を間合いとすれば優劣の境界は溶けてなくなる。ただ、先に油断をしたほうが死ぬだけだった。
それら全てを把握しながらも、影法師の蝕は着実に背後に迫る伊三路に一瞥もくれなかったのである。
ただ、値踏みをするように舐める視線で、わざわざ飛び出してきて捕まってくれたらしい祐をじっとりとみていたのだった。
「まあ、いいよ。この領域の支配者が誰か、なんてすぐわかる。生きた荷物を抱えておマヌケしてる伊三路くん、空気の読めないそこの黒いの。そして――伊三路くんに勝ち目を感じなくなりそうでナイーブな僕、俺、誰? さあ、己のわがままをぶつけ合おう。最後に立ってりゃ、そいつが勝者なんだから」
 祐の腕に絡みつけていた影を蝕は自ら身体から切り離す。そして根元からさっくりと簡単に裁ち落とされた影は粘ついた触手の断片を垂らしながら、元の形に戻ろうとする。
もがくようにうねり、痛みに喘ぐようにのたうつ。
まるでそれ自体がひとつの生き物のようだ。断面を保護するため、残った身体の体積で癒着をしようとして、祐の身体ごとぐるりと一周をする。そして触手からすれば異物である祐をそのまま抱え込み、拘束するかのように輪を描いたのだった。
両腕を塞がれた――正確には極端に可動の狭められた姿を見て蝕は悦に浸り、雑に伸びた長めの前髪を容赦なく掴んでより顔を近づける。
恐怖でも何でもなく、ただ、常日頃から凍り付いたような青い瞳に微かな碧が浮かんでいる様が、この後に及んで蔑むように己を見るのが面白おかしくて仕方なかったのだ。
虚勢だと、ただの強がりだと思ってこの後に命乞いでもしたくなるような恐怖を思う存分与えてやろうとほくそ笑んでいたのである。そして、悦にのめり込みかけて蝕はあることに気がつく。
確かめるように小鼻が膨らむほど、わざとらしく鼻息を鳴らし、「うん?」と間の抜けた音で喉を震わせた。
「きみ、なんか匂うなとは思ったけど、そういうこと! 話題のご馳走クンか。さっきの二人に対して試したり、守ったりするように見える言動も支離滅裂も、この瘴気だとかいうものにあてられちゃった? 思考がまとまらない? それとも、本質や因果の根本は『僕たち』に近いのかな?」
囁くような声色に興奮が滲み、語尾はいまに音階を上げる。まるで猫撫で声で、可愛がって目を品なく細める。
今に見えない電気の帯びた舌に舐め上げられるかのような感覚がそばにあった。もしくは、帯電にうずく産毛がひどく怯えているかのような、触れるか触れないかの距離にその不快は居座っている。
 食ってかかる前に言葉巧みな意地悪をしてやろうと思い舌で唇を舐め上げた瞬間、ヒュッ、と風を切った音は今に詰め寄っていた影法師の蝕や、祐の横を通り過ぎて行った。ゴムにも似て単純な無彩色の黒色ではない頬がすぱりと割れて、浅い傷口では血の代わりにか細い触手が割れ目から頭の先端を左右に揺らしながら這い出す。
それ――顔を半分振り返って見る限り何も変わったものが存在しない地面が広がっていることから、その辺に落ちていた小石でも投擲したのであろうが、それを放ったのは紛れもなく伊三路であり、そして当の伊三路は、蝕と向かい合っている祐の視界にしっかりと映りこんでいた。
 影法師の蝕の肩越しに映る伊三路は、切り出しナイフを今に蝕の首に横から突き立てんと逆さ握りをしている。いつもは新緑のように青々とした瞳が、深い緑ですべてを呑み込んでは隠してしまおうとする不穏な色をしていたのだ。
嫌な目をしている。肌が粟立つのを感じている。
梢の影を美しく強調する日の痕跡も、全て潰えれば暗いだけの青になる。
言葉が出ない。圧倒されているのだ。
その視線の恐ろしさが己に向いていないことを十分に理解しながらも、圧倒的な力でねじ伏せて屠り食らう勢いの様が、まるで捕食者そのものと感じられた。
急激に伸びる枝葉が全てを覆う。そう思うような翳りが全てだった。
そうやって感情が激しく揺さぶられるような光景を見せつけられながらも、跳びかかる伊三路の髪が揺れる様がやけに静かな場面としてそこに存在すると思えていた。
停滞を辞めたはずの空間で、ついぞ風が止まったかのように感じている。
 瞬きをするごとに、静かな世界にコマ送りと表現するにはあまりに自然な速度のの間違い探しが生じていたのだ。
「実はさあ」
ぽつりと蝕が呟く。
正確には誰が言葉を発したか理解の出来る状況ではなかったが、この空間において距離と空間を捻じ曲げてはよく耳に通るように、それでいて水の中で言葉を発するような濁音があったのだ。
これらを実現できるとしたら、それは正にこの空間を自由に操ることのできる支配者だけだ。そのものが、蝕がまともな会話をしようとして語りかけている。
「この能力は別個体で過去にも発現したことがある。そして、死んでる。もし陰陽の道の者が居れば詳細が記録されてるかもなアって少しくらいは不安にも思ってたけど……そんなふうにありがたい言葉なんて残ってなかったんだね。伊三路クンはつくづく馬鹿で単純だ。しかも運までない! やばいね。ああ、本当に、ねえ。可哀想に」
くつくつと笑う背後で、伊三路の身体がびくりと大きく震えて、そのまま宙に留まっていた。
「ほぉ〜ら! 影、踏んだぜ!」
長い時間の中で跳躍していたかのような錯覚が、正しい時間を取り戻して体感する風をめいいっぱい受ける。
あのスローモーションの中で地面から両足を完全に離しているはずの伊三路の影と、影法師の蝕が伸ばした影が繋がっている。
場を攪乱させるために影の体積を突き出して鋭くした攻撃と異なり、影だけを縛って支配するこの能力の見た目では、どう見ても伊三路だけが何にも干渉されない宙に留められていたのだ。
自分が宙を駆けているからと疎かになった足元で、影が繋がりあっているだけだ。たったそれだけで、影よりもずっと質量があるように見える伊三路の身体は宙ぶらりんにされている。
「状況に対して少しは余裕が出来たはずなのに、真っ直ぐで一本の行動しかとれない。やり直しの利かないことをしがちだ。それとも焦ってる? この黒髪、君にとっての何なのさ」
影を振り払おうとするも、両足を浮かせたままでは瞬発力を作り出すために地を蹴ることも出来ないままである。
蝕に無様と嘲り笑われながら、伊三路は影に縛られ、四肢を振り回してもがいていた。
気紛れに影を締め付けられるならば、それらの影を作り出す物質――実際に質量を持って存在する伊三路の肉体もが締め付けられた。
血の巡りを遮るかの如く、見えることのない強い力で縛られては温度の冷めかけた伊三路の手が、指先が、切り出しナイフを取り落とすと乾いた木材の柄が軽い音を立てるばかりだ。
袖口から伸びて、素肌をちらりと覗かせる手首は締め付けられることそのままに不自然な凹凸を作り出されている。
反射で指先が大きく動き、時おりに痛みに呻く声が悲鳴に近づく。すべてを手のひらに収めたと錯覚する蝕の、いたずらなからかいである。
つまるところ、目の前の適正生物は悪意のように昇華に手間のかかるエネルギーが発散して生じる類や、悪意そのものを好みながらも性質が似ている。
これらは共通しない言語を翻訳と伝達をすることと、悪意のままに愉悦をしることは伊三路の語る『知能を持つ』のうちでは優しいらしい。
これで本能から少しばかり足が出た程度というのか?
思考をする祐は少なからず、息を詰まらせていた。
「もう、ちょっと黙っててよ。行動がうるさい伊三路くんはそこで捕まってな。邪魔者はいらないだろ? とっておきの硬度なんだから暴れようが意味ないんだよ、お前のしてることって。お友達が頭からムシャムシャバリバリ食べられちゃうところ『悔しい~!』って見てなよ。見せたいから、腹は貫かないでやったんだ。瞬きなしでちゃあんと、ほら、みてなね」
 その言葉で伊三路は一瞬のうちに静かになり、風すら吹かない色をした目で蝕を見ていた。
風がないというのに、深い木々の色が不気味に蠢いていると錯覚するのだ。
表情を変え、目を白黒しながらも、伊三路の中では枝葉が伸びて閉じた森のような心が続いていたらしい。
受け入れるような慈愛から、それらが時に表情を変えて人々を脅かす恐ろしい自然の表情だ。
目を瞠るほど豊かに変化をしている。
そしてそのまま、暗いとこへ引きずり誘うような声色でしっかりと言葉を伝える。「……陽の光を解放して貴様を巻き込んだ自滅をしても、おれは構わないけれども」
「ああ……」伊三路の言葉をハッタリと思いかけた蝕が呆れたようにして感嘆の言葉を漏らす。
『"それ"をこんなところで使うのか?』、『この黒髪の人間はそれだけの価値があるのか?』。蝕にとって伊三路に問いかけたいことは幾つか存在していたが、ハッタリだと思う程度には使うに惜しい力のはずなのだ。
つまり、古臭く伝わる言葉だ。忘れられて埃の被った言霊でである。
『そんなおまじないみたいな言葉は聞き飽きたんだよね』という目をして深くため息を吐いていた。だからこそ、言葉を続けることに意味がない。
これは己の身を大きく見せるための嘘だ。そもそも、蝕が嫌う光を保有しているとは仲間内でも誰も言っていないし、この町にそんな言葉は既に途絶えている。
伊三路が言葉だけで語るそれらを本当に持っているという証拠もない。示しようなどないのだ。
蝕はそう考えている。
「何より、」とこの場で言葉を続けようとしたとき、間髪をいれず一等先に言葉を発したのは祐だった。
「いい、茅間。暴れて無駄な消耗をするな」
「……そう! そう、ご馳走クンもそう言ってるじゃん。どうせ死ぬならもう少し物思いに浸らせてくれ~ってさ。どう、異形の生き物は怖いかよ? すべての見納めに相応しい? 命乞いでも、一ミリでも大きく見せようとする虚勢でも、元気よく喚いちゃってよ!」
伊三路の発した言葉に対して抱く感情や不安や、疑念を払うように蝕は祐に捲し立てる。
しかし、脅しかけた言葉を幾つ浴びせても、精々のところ片方の眉を微かに吊り上げることしかしない祐につまらなくなった影法師の蝕は、自身の姿かたちが人間からいかに離れて異形と呼ばれるのかを再確認させるかのように口から長い舌を見せつけた。
異様に多い歯が並ぶなかぽっかりとした暗がりを続ける口腔と、そして唾液に濡れた舌は明らかに触手の形状をして口腔にも生える細かな影たちとは異なる。
ざらついた様子の粘膜だ。おどろおどろしく、口腔内の暗がりからテラテラとした色を覗かせている。その身体のほとんどを占める影の色にしては珍しく、血の通ったような、赤みを思わせては色彩の滲むものだ。
祐がまだ己の見る世界や常識に摺り寄せて表現を近づけるならば、やはり人間よりもカメレオンが近しい。もしくは深海魚にも近しいものが存在する。
この人間側の占める世界に例えた際に、何かに擬態して成り代わる概念として近いものをカメレオンや、それでもどこか親しみのない不気味を残す深海魚のようなものから異形としての概念を人間の普遍的な思考から新たに得たのか。
部分ごとの類似を探して頭に浮かぶもの自体を近しいとして当てはめることは容易であったが、それらの色や質感や、そして歩行のシルエット。隙間という隙間から気配を感じ取ろうと蠢く触手らを総合して思うと、どう足掻いたところで異形である以上でも、以下でもなかった。それだけだった。
寄せた姿に質感は伴わず、ようやく再現した質感はこの世界との整合性に欠いた。それだけが、この生き物が存在するわけのない生き物だと定義するのだ。
舌を揺り動かし、やたらと言葉数の多くなった蝕は、言葉で祐から動揺を引き出そうとするばかりだった。
 飽き飽きとしてため息をつく祐の様が、爛々とする蝕の水晶体に映りこむ。
「お前が茅間に黙っていろと語るように、俺はお前に話を振ってはいない。それだけだ」
「強がって……まあ、いいよ。少しずつ怖がらせてあげよう。虐める趣味はないんだけど、飯は旨いほうがいい。他人の不幸は蜜の味なんでしょ? 僕たちも、俺たちも、そう思うほうだ」
「……興味もなければ会話の価値も感じない。会話の順番も守れないか? 煩わしい。不快だ」
「冷めてるね。君みたいなのってホントのホントに命の危機を感じないと感情が動かないタイプ? 見たいなあ、みっともない命乞い」
『命乞い』という言葉を強調するように音節を切って語る甘ったるい語尾に対し、自由やりたい放題の蝕に伊三路は明確な怒りを露わにしては拘束を逃れようと激しく身動きを繰り返す。
「彼には触れるな!」制止の言葉も意味なく、そして空しく、長い舌が脈を皮膚の上から押さえつけるように舐るのだ。
首の筋をなぞり、頬を愛でるようにゆっくり、ゆっくりとした動きだった。
「今に喉を締め付けてやろうか、ねえ、ご馳走クン、黒髪の? 空気の読めない――ああ、"結崎くん"、そうそう。下の名前は、確か」
いやに反響する声色がざらついて、糸の撚りを解いたように離れていく。
一つの声が、音の高低や抑揚を統一しない幾つもの声に聞こえる。
「"祐"」
その声を聞いた――名を呼ばれた瞬間、心臓のすぐ傍にささくれた薄暗さが立った気がした。冷たい手が宛がわれているように、触れられも、害されもしない心臓が緊張に包まれて縮こまったと感じらえれたのだ。薄皮を剥がそうとしている。
 じとりと湿ったそれが脈に逆らって撫でる最中に、駆け上がる怖気から逃れたがる祐の喉から「う、」と微かなうめき声のようなか細く掠れた声が漏れた。
ぬとりと触れる感覚だけだ。湿りけが乾いたところに浸食をしてくる気分の悪さだ。
湿度を共有しようとする様が極めて不快である。温かさも冷たさも感じず、硬さも柔らかさもない。
つまるところ、この異形は異形としての様相を晒しながら尚も、人肌程度の熱を持つのだ。故に体温に差異の少ない表皮が無に近い感覚を伝える。
血を流していた暦の姿をしていたときと随分と見た目の変化しながらも、同じくして、人間のもつ肉の質に似たものを保持しているのだ。
脈を感じる。ここには熱も脈拍も、呼気も、そして生命が存在していた。きっと、もう少々の学習を経れば、一見見極めることなどできなくなる。
触れた先から不快という猛毒が皮膚の表面を支配するのだ。理解の範疇を超えるものの姿である。
「陽の光ってヤツ、本当に保有しているなら、使うよねえ。フツーはさ。次は首に穴をあけようと僕は思ってるけど。どっちに、だと思う? 君と祐のうち、どちらかという話だよ! いい? 伊三路くん?」
唾液で濡れた首元が外気で冷たさを知ると同時に、この、到底に人間とは思えない二足歩行をする蝕という名の異形にも、心臓となる核があり、生命活動を行っていることを思い知らされる。
 血管を穿てば血液が噴き出し、心臓を潰せば血の回らなくなった脳は停止する。脳が破壊されれば、不可逆の波に機能の全てが打ち消される。
顔から血の気が引く感覚がしていた。
これらが命のやり取りをしている。自分も生きている。
当たり前に存在する思想が、己を動かす内部のメカニズムを思い出させられると、急に汗が噴き出すような気分になる。
喉を圧迫する感覚に生を押し付けられて身体が硬直するのだ。
非日常は恐ろしいものだ。己の生を意識して死を恐れる。それと同時に、凍り付いた血液が流れて身体を巡り心臓を動かしているという感覚をこの上なく知ることが出来る。
身体を生かす機能を知って、それらが思考することがすべて結果論の矮小な錯覚だとしたら?
――なにもその先に静寂を見たところで、結局のところ望むものはなに一つとして手に入れることは出来ない。
何故ならばそこで解き放たれたものが昇華されることを考えたって、自ら望んできたことに賛美する声もなければ、受け入れられることもない。
死を恐れる感情は生きていることを知ることで、生きることは漠然とした息苦しさに喘ぐだけだ。
死生のどちらに傾いても円をなぞっているに過ぎない。意味などない。
非日常に何を求めていたのかを知って、祐は粘膜を鋭い針で掻くかのような複雑を覚える。
皮膜に皺が寄るばかりだ。その反対で伸びきった限界値を過ぎて崩れていく。
胸がざわついている。吐き気がこみ上げてきそうだった。
 極端に可動域の制限された指先が、既に手を離れたお守りを探してブレザーのポケットを弄りたがっていた。
滑る生地の上をずっと引っ掻いていて、喉から引き攣った嫌な音がする。
伊三路に貸し与えられたお守りに触れていただけあって幾分の穏やかさを取り戻していた気質が、再び、そして急速に、毒の瘴気にあてられていく。
直に触れた部分が脆くなって、そこから染みて回っていく毒を想像したのだ。
まるで日ごと中だるみして知らぬふりをする被害妄想が、何を恐れているか気付かされてしまいそうだ。
寄せた皺の代償として伸びきった皮膜が破れた真下を満たす液体の――泣き縋る、目だ。
わからない。しらない。
暗転をしている。
暗転をしている。
暗転をしている。
瞼を閉じたらしかった。
身体がひどく痙攣していた。そして今一度に呼吸を思い出す動作で、ひどく咽込むようだった。痙攣というよりは、浅い眠りから覚める際の筋肉の強張りに似ている。
実際のところ、身体の感覚は危ういものの、実際にそれをしていると意識上にあったのは一回きりだった。
祐にとっては浅い夢からの目覚めだ。そういうことに理解を押し込んだのだ。
気持ちの悪さに頭を振る。水に長く浸かったような脳にひどく響く振動だった。
長く、長く息を吐く。



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