「ところでさ、これは、たぶん……きっと。とても話しにくいことだとは思うのだけれど。過去のような関係の暦と弥彦伸司が袂を分かったことには、明確な理由があるよね? きみが困っていることには少しひとに話を聞いてきたのだけれども、正直なところを言うと決め手に欠けるんだ。日野春暦と弥彦伸司の関係が変わったことと……きみが未だに彼を気に掛ける理由を明確に知りたい」
 言い淀んだ伊三路が自らの発言ながらに居心地を悪くしては身体を座面へと埋めるように身体をにじり動かし、顔を俯けるのだ。そうして丸く、小動物を思わせる顔立ちに対して控えめに通る筋の――鼻先を暦は静かに見ていた。
言葉だけを咀嚼しようとすれば目に見えて二人の間に認められるような沈黙とその質量としての重苦しさとは相反し、ずっと重い口を開くのではなくてどこか拍子抜けのするように、勿体ぶった息継ぎすら必要のないもののように、間を開けることなくすぐに言葉を紡いだ。
まるでいつかはこんな言いたくもない事柄を口にして、説明と弁明をしながらでなくては己の感情が整理が出来ないことであると暦は理解をしていたのだ。そしてその時が今この瞬間なのだと観念したかのようだった。
とにもかくにも暦にはそう納得をして思えて仕方がなかったのである。
「……僕たちは、正確には幼稚園かもっと昔くらいからの仲だよ。母親同士もここらで付き合いを円滑にするだけとはいえないくらいには近所付き合いを超えて仲が良かったんだ。確かに中学二年生になる少し前の頃まではなにかとくだらない約束をして遅くまで馬鹿みたいに遊んで、クラスが離れても部活が違くても一緒に帰ってた。弥彦くんのお家でお夕飯をいただいて帰るってことも結構あったかなあ。弥彦くんの……お母さんが亡くなるまではね」
その言葉に指先の動きを一瞬だけ止めるも、伊三路は黒い石をひっくり返して陣地を広げていく。
パチン、パチンと小気味よく駒の色を返す音だけが静かに鳴っていた。
机の上に投げ出されたままでいた暦の片方の手のひらは拳の形を強くしたものの、どこかで力が抜けて、いつのまにか行き場をなくした手遊びになっていた。
「さあ、暦の番だ」
 促す言葉に大袈裟に前髪を揺らした暦はボードゲームを前にしていた際の状況がまだ続いているにも関わらず先の強気な表情はどこへやらと俯いている。
もとよりこの話を聞きに来たというのに、伊三路はついになんだか自分がズルをしてまで勝負に勝ちたい小さな人間のように思えた。
そう思いながらもやはり曇ってしまってはあまりに重くのしかかる薄暗さが完全にこの場を覆ってしまう。
このまま言葉の一つも出なくなることを避けるためには、何でごまかしながら話をしなければならないのだ、その他にどうしようもあるまい。そう言い訳をしている。
重苦しくて、内臓の天地がひっくり返されようとしていることを想像したような気持ちの悪さがある。
それは切り傷の怪我をした指先に玉のように滲み出る血液や、種子を抱え込んで色の煤けた蓮の花托を見ては身を震わせる感覚に似ていた。身体の一番外側だ。その安定した線に鉛がひとつずつ乗せられていくようなのだ。
正確には恐怖や不安といった単純な感情を撚り合わせて一つにしている。じわりと身体に沁み込んでいく恐ろしさを進行形で振り返っては言葉で現すことが難しい。
とにかく今に机へ突っ伏してしまいたい。いつだって自他を問わず、誰かの『寂しい』という感情に触れるのは伊三路の苦手なことのひとつだ。
他人の言葉に多くの感情を膨らませる想像とまるで己が身で見聞きしてきたかのように沁みるそれらの繊細、震えるようにたちまち心細くなる心臓。
己の中では区切りをつけたはずとして追いやった不確かな感情たちが呼応して顔を出したがるもので、どこかで隠れて泣きたくなる。空気がぎこちなくなるのを肌で感じていたのだ。
「子供の僕たちにとって大抵は自分たちと自分たちの母親――お母さんが世界の中心だった。べったりってわけではないけどね、父親って昼間は外で働いているものだし。彼は彼のお父さんとも仲が悪かったわけでもないけど……お母さんのことは本当に突然の事故だったから、今思えば弥彦くんのおうちは数年くらい荒んでたんだと思うよ。僕の母さんもよく弥彦くんを晩御飯に誘ったりしてたけど、彼はいつの間にか来なくなってた」
 心の引っかかりを吐き出すように呟いて、一度区切りをつけるように暦は駒を置いた。縦に並んだ色をひっくり返す音だけが鳴っている。
そうやって駒をひっくり返していく度に今まで思い描いていた『自分自身がお人よしでいること』の裏側を暦は自覚しているのだ。
善意のつもりで知り得た裏で勝手な恨みが募っていくと自分自身が恐ろしくなる。そして同時に安堵を覚えていた。
誰しもが聖人君子で居られるわけがない。仮にそういった振る舞いを誰もが揺るぎなく行うことができるのならば聖人君子などという言葉は存在しないのだ。
暦は暦自身が望み、弥彦に『こうであってほしい』と押し付ける身勝手を自覚していなかったのである。
変わらないでいるつもりだったのは自分だけだったのだろうか。伊三路の言葉が己の中に存在するやわやわと根性なく漂う甘ったれを深く抉るたびに考えた。
親切心のつもりの押し付けであったと自覚し始めている。寄り添うつもりでいたはずが、振り返れば弥彦のことを考えてはいなかったかもしれないことを知ったのだ。
そして彼が自分の思うようにはなってくれないが故の勝手な恨みを知ったことが一番に恐ろしかった。だからこそ、これからの自分はこの気持ちにどういった折り合いをつけて、どのように弥彦に接していくべきなのかを悩んでいたのである。
 社会を生きる身として適切な距離を置いて生きていくことは簡単だ。そうやっていつか離れていく。
人生における自身の状態やその適切な間を迎えた瞬間に身の置く場所を変えることは、季節に合わせて服を着替えることと同じくらいありふれたことである。
関係という己にまとう衣を着替えてく必要があるように、春になってもいつまでも厚着をしているわけにはいかない。逆に暮れの時節にいつまでも薄着でいれば風邪をひくように、心というものは目には見えないがこうやってすぐそばで裏と表の関係を感じ取ることができた。
じゃあ、仮に『自分が望んで弥彦くんの友達でありたい』と思う感情が心身に害を及ぼすために諦めるというならば、これらの感情はどこへ追いやればいいのだ?
それがここ数日の間、選り分けて取り上げるほどに暦の中でずっと渦を巻いている思考だった。
「そして僕とも一緒に帰ってくれなくなって、気付けば弥彦くんは非行ばかりが目立つようになった。それでも僕は、僕たちの関係の根っこは変わらないと思ってたよ。お父さんを支えるために今もかけもちでアルバイトとか頑張ってるみたいでさ。そのせいで最近学校はサボりがちみたいだけどね……。きっと思うようにいかないこともあるんだと思う。なのに僕がいまだにお気楽な弟分でヘラヘラ近寄ってくるのが本当はうざったいのかなあってちょっと想像してる。寂しいんだ。聞こえはちょっとナイーブすぎるかもしれないけど」
 彼を尊重して距離を置くこと、言葉を違っても互いの理解を近づけてよい友達としての関係を求めていくこと。
結局のところ他の尊重と自分のしたい身勝手を天秤にかけている。後悔をしないためという不可逆の選択を、いつの間にか選択をしないための言い訳にしていたのである。
自分たちの今の立っている場所を観測して、分析するところまでは出来たというのに、これからどうしていけばいいのかという方法をまるで見出せないのだ。
「そうだったんだね。次はよりはっきり聞くから、気分を悪くするかもしれない」
「いま、僕の声は震えてるだろうけど、この瞬間で話すことはなんとなく思ってた。いいよ、続けて」
「……心根で弥彦伸司と変わらない関係を続けたいと思いながら、少しばかり私怨というか、『なんで?』と言いたいような薄暗い気持ちを持ってしまったことは?」
浅瀬で揺蕩うような言葉だけならばまだ生温いものの、ついぞ深いところまで足を踏み込んだ伊三路に暦は自ら許可をしておきながらドキリ、とした。
出来れば口にしたくもないと同時に思ったが、既に観念した頭ではどうせならば愚痴を吐き出す勢いで聞いてもらいたくもあったのだ。誰にも打ち明けていなかったことではあるが――そういった心を見透かされたようで心臓は驚いていた。
嫌悪より先に、伊三路が中心も中心の弱いところを突いてきたところに身体が驚いて仕方がなかったのである。
 確かに自分はとにかく気弱で、人に何かを押し付けられても断れない。そうでありながら、何も感じず仕事を淡々とこなすだけの都合のいい人間になることもできない。やはり面倒くさいと感じたり、その頼みごとを断ることもその場で言い返すこともできず後になって理不尽を悔しがったりもする。嫌なことが立て続けに起きれば思わず呪ってしまいたくなるような言葉が過ることもあるのも事実である。
呪うといってもその人物が目的とするパンやおにぎりが購買部で売り切れてしまえばいいと思うくらいであるが、そうやって私怨を昇華させようとするものならばそれは間違いなく呪いだと信じて暦は己を恥じていた。そして思い出した頃に疲労が蓄積したが故の卑屈でそんな思考をしては自己嫌悪の夜は更けるばかりに多忙を重ねる。
そういったサイクルを繰り返していくうちに、いつしか根も張らず風に漂う曖昧になっていたのである。それが暦の愛想笑いだった。
日野春暦としてひとつの世界の中心を生きているつもりだ。中心だなんて大それたことは言えないつもりだが、己の目を通すならば、それ即ちここは観測の中心点であったからだ。
思考をそう定めながらも胸を張れないことばかりであると暦は思う。
「……ここでそれがないって言えるくらい僕も穏やかじゃないよ。気付いたのは、本当に最近だけどね。伊三路くんのせいなんかじゃないけど誰もが"それ"をおかしいなんて言わなかったもの。僕は今まで、たぶん、誰にとっても、なんでも言うことを聞いてくれる便利なはけ口だったんだって……ちょっとくらい悲観もしたしね。恥ずかしい話なんだけどさ」
 瞳を閉じて、見えない自分自身の姿と対話をするように穏やかさを見せた暦は小さく笑みを浮かべた。
自覚することは苦しいことだ。己の思う姿からの乖離を認めることに多大な労力を必要とする。
そこかた軌道修正をしようと思えば誰がどうみても日野春暦の様子は気にかかるものになるし、それが上手く受け入れられるかとも保証のあるものではないのだ。
しかし、ほとんどを気付きながらも見て見ぬふりをしていた暦にとってはその心臓をつぶすような圧の中で、不思議と肩の荷が下りたとも思えていた。
会話の中で自分が誰に何を言われようとしたいことの尾を掴めたからかもしれない。あとは追いかけていくだけだとどこかでは強く思えているのだった。
自虐を含みながらもしっかりと暦は前を見ている。
伊三路はそれを外側から眺めては微かに安堵を浮かべて長く息を吐いた。下瞼にやさしい皺を浮かべ、咲いたばかりの花を遠くから眺めるように見つめていたのだ。
「言いたくないことをわざわざ言わせてしまってごめんね。やっぱり、もう一人の暦が現れるようになったのはおそらく、いや、大きな確信を持っているのだけど、時を同じくしてそれを自覚した頃に現れたもう一人の暦が起こした行動はすべて間接的ながらに弥彦伸司に関係すること……なのではないかい?」
「すごいや伊三路くん。僕はこのことを話すとき詳細は大分省いたのに。うそ、本当にいろいろな人に話を聞いて来てくれたの?」
言葉に明るさを取り戻しつつある暦が駒を置きながら素直に驚きを浮かべる。
その言葉に得意げになった伊三路は机の天板に片方の肘をついていて、そして胸ポケットから取り出した生徒手帳の表紙を左右にちらつかせて得意げに語る。よくメモを取っているように情報がたっぷり詰まった手帳だ。しかも、伊三路以外には解読が難しいくらいには"達筆"な文字で綴られてもいる。
表紙をめくれば内側には墨の流れたような形で『茅間伊三路』と記名がされているのだ。
「言ったでしょう。おれはおれの意思できみの困りごとを、解決まではいかなくてもどうにかいい方向へ向かわせたいってね」
ありありと得意げを浮かべた伊三路はふくふくと鼻から息を吐きながらその鼻先から顔の角度をあげて上機嫌な様を見せつけた。まるで褒められたことを誇らしく胸を張り、『そうでしょう、そうでしょう』と今に聞こえそうな様で大好きな優しい手に撫でられることを待つ犬のようである。
 安堵に息を吐くような姿のまま笑い出した暦は胸を撫でおろして、この会話では久々となる純粋な笑みを浮かべた。
ふふ、と口元で笑う様には暖かい風を見送るように胸に光が灯り、どこかで身体が軽くなっていることを確かに感じていたのだ。
「最初は弥彦くんに絡まれてるところを僕がうまく言いくるめて助けたって話で感謝されたんだ。次は最上先生に感謝された。弥彦くんが溜め込んだ提出物や反省文を僕が書くように説得して全部持ってきたってね。僕は彼がそんなに溜め込んでたなんて当然知らなかったよ。でも、そんな"知らなかったことを解決した僕の話"は次々に舞い込んできた。時にはお礼の品なんか持ちだされちゃって、僕は相当焦ったよ」
椅子に背をしっくり預けて背伸びをする。ぐぐっと腕を天井に伸ばして噛み殺したあくびをもらしてから晴れ晴れとして言葉を続けるのだった。
「弥彦くんのことを上手く言いくるめて場を収めたっていうのが本当なら僕たちって今の仲じゃないよね。なんだか面白いことだって笑えるくらい。……僕は変わらない場所から彼の理解者でありたかった。でも、誰よりも僕が彼を同情してたんじゃないかなって、今更気付いたんだよ。でもね、そしたら少なからず僕も彼へ対する不満ってあったんだと気付いた。しかもこの二、三年で随分育ってた。目を逸らしたくなるくらい邪悪にね」
 すっかり前を向いて笑った暦を薄暗い眼が見ている。
氷に覆われた大地の中にある洞窟の氷のようだ。透明で、少しばかり青い色をしている。
精神を落ち着ける色彩と神秘を表すと表現される様相にほうっとするものの、どこかで鋭い氷の切先を見ているのだ。そのような感覚だ。
ぐにゃりと渦を描くような眩暈で祐は瞼を閉じる。
なぜ人間は人間を結局のところで許すことが出来てしまえて、それだけに留まらずそういった"なあなあ"が押し通ってしまう様を最も健全である美しい精神とするのだ?
閉じていた本を再び開いてページをめくる。
 地の底も知らないまま沈みゆく氷は青を通って底に広がる行き止まりへ誘われていく。
日陰で透き通る氷の色は日の暖かさを知らないまま、静観をしているだけに留まらず暗がりへ向かっていた。卑屈だ。
少なくとも己には想像の出来ないことで、そして仮に想像が出来てもできなくても今後の自分へ何かを揺らがせるような影響はない。そう思考するだけだ。
ただ第三者から言わせれば帳消しにさせられたと言っても過言ではない生温さを理解できないものであると見ているだけなのだ。まるで遠くの出来事のように疑問を見つめている。
なんだか居心地の落としどころをつけられないまま祐は静かに本を閉じる。
気持ちが悪い。吐き出すような感情が投げつけられるように浮かび上がるのだった。
 腕時計へ視線を落とせば程よい時間が経過している。そのことに気が付くまで、数秒を要していた。
この場所から再びサッカー部の部室まで戻ることと、会話をしながら進む伊三路の緩やかな足取りを考えれば移動時間を含めていい頃合いである。そしてすぐ視線の下に存在する盤の上でも白と黒に分けられた陣取りのための戦いは明確に、覆しようのない結果が見えていたのだ。
全てには潮の満ち引きのようにそのときに最適な解が存在する。
「暦がさ、おれが祐と一方的でも"ともだち"でいたいと言ったことを先のように語ってくれたようにね、きみたちも"そう"であればそれは喜ばしいことだと改めて思うよ」
「ありがとう、伊三路くん。自覚した気持ちに対してショックなこともあったけど、最近は一人でもやもやしてたからさ。話してって言われて逆にすっきりしたんだと思う」
 会話を重ねたことで近くなった距離を確かめるように握手を求める伊三路に、暦は自信という確かを得た力強い表情で返した。
そして触れ合った手のひらに微かに冷めた皮膚を感じながら、はっとして口を開く。
「あ、でも……繊細な話題でもあるから、特に彼のお母さんのことは……」
言いかけた彼の言葉に伊三路は心配は無用だと態度で示すように、首をゆっくり頷けた。「それくらいの気遣いはおれでもできるから安心してくれていいよ。ありがとう暦、話してくれて」
 さて、と盤面に向き合うふたりであったが自分の番で手が止まっていたそれへ目を落とした伊三路は目を丸くしてから「ふは」と吹き出すような、呆れたような笑い声をあげた。
「弥彦伸司のしたことは事実として気分の良いことではないしおれも支持は出来ないけれども、きみが彼を心根では嫌えないことを聞いてどこかで安心したよ。なぜだかということを、おれはおれの等身大の価値で知りたいんだ。だから、その時が来たら、きっときみがおれに気付かせるきっかけのひとつをくれたら嬉しいよ。……ね、それでね、暦。おれの負けだよ。おける場所がもうない」
おどけてみせてから両手を肩の高さまで上げると伊三路は降参のポーズをして見せる。
手のひらを半身に翻すように小さく振る様のうち、掌紋に光が当たることで生み出される陰影を眩いもののように目にした暦が続けて視線を下ろすのだ。
そして慌てたように肩を飛び跳ねさせて謝罪を口にしたのだった。
なぜならば、あわあわと焦りに落ち着きない様とは裏腹にオセロの盤面は容赦ない事にほとんどが暦の陣営である黒色で覆い尽くされていたのだ。
「ご、ごめん! 楽しんでもらいたかったのに、伊三路くんと遊べると思ったらつい熱くなっちゃって……! 手加減とかは明確にするつもりはなかったけど、楽しんでもらえるようなことも心がけるつもりだったんだよ……一応はさ」
「そんなことないさ。きみの察する通り見え透いた手加減をされて楽しめる性分でもないし」
からりと笑って己の陣営と同じ色の駒を回収していく伊三路の手を追いかけながら、暦は勝者であるにもかかわらず極めて悔しそうな声色で喉を締め上げるような言葉を紡ぐ。
「うう~、伊三路くんはそう言ってくれるけど、せっかく興味を持ってくれた貴重な部員候補だったのにってみんなにドヤされちゃうよ~!」
「お、じゃあもう一戦お願いしたいな。さすがのおれでも二、三度の勝負をしたら少しくらいは勝手がわかってくるだろうし、そのうちは退屈させない努力と結果をきっと見せるよ」
言葉で盛り上がっては等しく駒を分け始めようとする二人を不意に立ち上がった祐が制した。
「茅間。そろそろ時間だ」
 口を半開きにしていた伊三路が本来の目的を思い出して「あっ」と曖昧な言葉を放つ。
「あ……そっか。残念、伊三路くんまたにしよう。結崎くんもありがとう、今度は君とも遊びたいな。将棋の本を読んでいたみたいだし、ゲームっていうには少しお堅めなものでもどうかな」
「将棋やチェスみたいな駒に動きと制約が複数あるものとか特に好きそうなイメージなんだよね」そう付け足しては好みそうなアナログゲームの数々を指を折りながら数えて暦は笑っていた。
「そういうものに興味はない」
「ちょっと! その言い方はないよ、勿体ない。祐も一度こういう遊びを体験してみるべきだよ! 奥深そうで面白いし、おれも! きみと! 遊びたい! 遊ぼうよ!」
 提案を蹴られた暦よりも伊三路が不意に立ち上がり横から反論すると、むきになって今しがた知ったばかりのオセロの面白さを力説し始める。
細切れの言葉が末尾に向かっていくにしたがって勢いが強くなると彼の背後から追い風が吹いてくることを錯覚するかのようだった。
「本来成すべきを思い返せば今の言葉がどれだけ適切ではないか自覚できないのか? ならばこちらも興味も付き従う理由もない……邪魔をしたな」
ついに全く感情のこもっていない言葉で礼を言った祐は心底面倒くさいと言いたいような顔をしてから伊三路を尻目にし、さっさと椅子を片づける。
本をジャンルと著者の順番に丁寧に並べ直したばかりの本棚に将棋の指南本を戻すと未だに不満そうにしてむくれる伊三路に「今は時間がないのだろう」とよりわかりやすく言い直すと悔しげな伊三路を置いて教室を出ていった。
「くっ、時間に追われてさえいなければ……! さすれば祐を頷かせる自信があったのに~!」
 わざとらしく「くっ」と喉を鳴らした伊三路が乱雑な言葉の調子に反して丁寧に椅子を片づけてからバタバタと慌ただしく祐を追いかけて部室を出て行く。
ちょうど引き戸式のドアの前で振り返ると太陽から降り注ぐ陽光の如く笑ってから、教室全体へ行き渡らせるような明るさの声を上げるのだった。
「じゃあ、またね。暦! みなも! また遊びに来たいと思っているから、そのときはお手柔らかによろしくお願いするよ!」
大きく手を振る様にどうにも重苦しかったり和やかだったりする温度差に身の振り方を迷っていた部員の生徒たちに柔らかな感情を与える。そして何人かの生徒は去る姿に絆されたまま手を振り返すのだった。
疎らに振り返される手に伊三路はめいっぱい光を取り込んだ目を輝かせてから、離れていくばかりの背を追いかけることを再開するのである。



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