曇りのない眼でありながら、己の言葉を聞く周囲の目に対して『本当にみなは理解をしていないのだろうか?』と疑うようにしては眉を僅かに潜めている。
その姿を見て暦は半開きになったままでいた己の口元を自覚した。
複雑な事情を持ち合わせない限りでは殆どを白か黒かでしか語らない祐のはっきりとした物言いを少しくらい見習いたいと暦は思っていたが、同時にその不器用を感じる言葉の数々に弥彦の姿を重ねてどこか身勝手な共感をしていたのだ。だからこそ、その人を避けたがる棘の態度を寛容に受け止めることが出来ている。
伊三路や暦という肯定的に他人を見て接している人間との様子ばかりを取り上げると感覚が薄れていると感じられるが、結崎祐という人間に好意や親近を感じて接することが出来るかと聞けば十人中の七、八人は確実に「距離を近しくして仲良くしたいとは思わない」と語るだろう。関わりの外側から聞こえるであろう言葉たちも理解が出来ないわけでもない。
他より己の考えを優先して行動をするのだから避けられないことでもある。
かくしてより己の近しいもので補完された理解を、それが他の誰かにも伝わってくれたら嬉しいと思う伊三路の気持ちを、己にとっても近いものとして知っている。
 本当は外側から向けられる邪の視線が好き勝手に考えるよりもずっと優しくて繊細なところが存在して、彼らには彼らの信念があるのだろうな、と想像する。
そしてそういった人間が己の信念を優先する以上は万人に受け入れられることがないことも知っている。否、受け入れられなくてもいいと思えているのだ。
見えなかったり伝わらなかったりする優しさなど意味がないとなじられようと彼らには関係がないらしいことを知っている。
彼らにとっては彼らにとっての最優先が見せびらかすための優しさではないのだから仕方ないし、その面での評価など必要としないと思うばかりらしいことを確かに知っているのだ。
学生という時間を謳歌することを主にして日常を生きる他のクラスメイトよりも、僅かに背伸びをしたような達観じみたものを手元で覗き込める位置に匿いながらも、それを認めきれないでいる拙さだ。
少なくとも暦は幼馴染である弥彦伸司にもそういった意地っ張りの不器用な面が過去には存在していたと思い出していて、そしてその拙いまでにこだわりたいものがあることが存在すること自体が恐らく事実である確信がある。
だからこそ、今現在の関係がどれだけ荒んでいてもどこかではすっぱりと関係を諦めることが出来なかったことをしみじみと思うのだ。
そうなのだ。
諦めたくないという感情こそ、彼らと並べて語るならば気付きを得た暦の中にある幼稚なまでの執着である。
そして「そういった人たちの心に触れた以上は放っておけない」という己の中でも信念に似た『自分がそうしたい』の一本線が存在していることを自覚して暦は己の中に湧き上がる自信に似た感覚と鮮やかさを錯覚する色があった。自分がしたいことをぼんやりながらもしっかりと『自分がしたいこと』である確信を持って掴んだのだ。
「そうなんだあ。結崎くんって意外なことにも恥ずかしがり屋さん? みたいな感じなのかもね」
 暦は目を伏せて笑みを浮かべると緑色のマグネット板である盤面に白黒した駒を並べていた。
「伊三路くんがそういう考えのひとだから結崎くんも過ごしやすいんじゃないかな。僕もこの先も長い友達が居たら楽しそうだな~って思うからちょっとうらやましいよ」
「おれはさ、祐に対して"ともだち"だと口にしがちだけれども、きみのこともそうだと思っているよ。暦と弥彦伸司とのこともそうであったら嬉しい、ともね」
「……さあ、のんびりしてたら本当に結崎くんが暇をしちゃうし、ここは簡単にオセロなんてどうかな」
はぐらかすような言葉と共に少し伸びた爪で盤面を叩き音を鳴らすと、伊三路の意識が緑色のマグネット張りの盤面に吸い寄せられる。
駒の並んだ盤面をいくつもの四角形の面積で構成して区切ろうとする黒く細い線が盤面を縦横に走り、深緑、黒、白といった鈍い組み合わせであるはずの色が目をチカチカと焼く。
暦が示した通り、極めて簡素に作られたマス目には白と黒を上下で半々に分け合った丸く平たい駒が置かれているのだ。
促されるままにそれらを確かめるように指先で触れると微かに冷たい盤面がマグネットで出来ているのだというのだから、この駒にもそれが仕組まれていて磁力で引き合うのだと伊三路は考えた。
そして『なるほど思わずこの勝負をなかったかのようにめちゃくちゃにひっくり返したくなるような熱い勝負展開を想定していて、それを防ぐために盤面に駒が固定できるようになっていんだ』、口にはせずともそういった想像をして、これを確信とも思えて胸がくすぐったくなるようになる。
唇を食むように内側へ巻き込むと笑みを浮かべたように目を細める伊三路は座面の上で身を捩った。
心が躍るとはまさにこのようなことだ。それを全身で受け取っては外側から視覚で得ることのできる身体の動きになる。身体の奥底から今に飛び跳ねたり身体を揺らしたりしたくなるような快がこんこんと湧き上がるのだった。
 盤上で繰り広げられる遊戯に触れたことはないが思わずひっくり返してしまって喧嘩になる、というような幼稚は誰が口にしたのかを知らずとも聞けばなんとなく光景を想像することが出来た。加えて相手の動きを想像しながら先を読むことを遊戯としての本質のひとつとして持ち合わせるならばなおさらのものだ。間違いなく楽しいものだ。
命のやり取りが存在するわけではないものの、闘争本能を煽り、代替的に健全として昇華させるために争いごとに似た遊戯は存在する。
だからこそ盤面をひっくり返すような幼稚を働くことが相手に対してどれだけの無礼であるかということを重々に思い描くことのできる伊三路であったが、幼稚を働く人間は残念なことに確かに存在するものである。
一瞬にして狡猾な人間のいかにも卑しい面を想像した伊三路でもあったが、確かに盤面の駒が固定しやすくなることに他の利便性も存在する。
何より、暦に促されて触れた駒が磁力で吸い付く様はなんだか面白おかしいものでもあった。思考が逸れていくとそんな空想上だけの卑しい人間の顔はどこへやらマス目に区切られてこの時間は戦いの緊張を微かに心臓へ張った心くすぐるものになる。伊三路は早く先を知りたいと思ったのだ。
「なるほど、おせろ……おせろね。二人きりで行い、駒は白と黒に分かれている。聞き馴染みのあまりないような名前をしているけれど、やはりこういう"げえむ"は陣取りの類いと見るところが無難さね」
「ご名答! ええと、ルールはね……陣取りゲームだってわかるなら白黒の石と、この升目の役目だけわかればいいよ。基本は単純だから実際にやってみよっか」
 暦は自陣を黒とすると宣言したうえで、途端に生き生きとた表情で盤面に駒を置く。
その先では伊三路の陣の色である白い駒が暦の陣に属する黒い駒に挟まれて肩身が狭そうにしていた。
じいっと見つめては陣取りゲームと知りながらも期待に喉が鳴らん勢いで唾を呑み込む伊三路を前に、暦は自陣の色で挟んだ白い駒をひっくり返して黒色に染め上げる。
そして「あっ」と思わず短い声を上げた伊三路を見てはこの盤上で行われるゲームの行く先をより知りたくなり、暦はその言葉を待ってましたとでも言いたいがばかりに口の端を持ちあげるのだ。
「自陣の色で挟んだ敵の駒はひっくり返して仲間にする。常に敵陣をひっくり返すことが目的で、意味のないところに駒は置けないんだ。そうして最後まで埋めるか、埋める場所がなくなるかになったときに陣の駒数が多い方が勝ちだよ、伊三路くん」
その様子をついぞ前のめりになっては握り込んだ拳を揺らし見ていた伊三路は、暦の息遣いが切れるとぱっと顔を上げてすぐに言葉を返した。「ね、次はおれのばん?」
いきなり顔を上げた伊三路とぐっと近くなった距離に一瞬怯んだ暦であったが、あまりに食いつきのよい勢いと表情がだんだんと面白くなってきて明確な娯楽の興を察した暦は強気に頷く。
 やがて始まったゲーム――試合という言葉に引けを取らないほど真剣な表情で進んでいく勝負事は、最初こそ暦が一々の説明とよくある手のヒントをくれてやって伊三路が散々に悩みながら駒を置くものであったが盤面が半分ほど埋まる頃には両者ともの口数はすっかり減っていた。
普段から言葉数が多いと言える伊三路も唇を結んでは片手を膝に、もう一方で顎のあたりを時たまに触る程度の大人しさで行儀よく悩んでいるのである。
「おれはさ、見聞きしただけの言葉たちでうっすら理解をした気になって頭でっかちだけれども頭の回転は正直なところはあんまり良くはないんだよなあ」
時たまに悔しげに唸る伊三路を暦は軽くあしらって容赦のない攻めをするのだった。
この場面に置いて初心者のための手加減というものは存在しない。
勝負事でありながらもゲームがゲームである限り、楽しんだ人間が真の勝者である。
『楽しむこと』が遊びというものの中に揺るぎなくあるべき大きな一本の線と考える暦は、それ故に懸命に向き合って伊三路とゲームをしていたのだ。
初めてであろうから勝たせてあげようという気持ちが全くないわけでもないが、伊三路にとっての楽しさを見出させるために必要なプレイスタイルは弁えているつもりだった。だからこそギリギリまではいい勝負をしてみたいと思えるし、実際にそれを実行している。
「オセロは奥深いけれど、少なくとも駒の動きに決まった法則はないんだ。つまり、型や序盤の攻め方にとらわれないでというなら将棋や囲碁よりずっと簡単だって。……まあ、その逆ともいうひともいるけどね。たぶん、伊三路くんはこっちのが伸びしろあるよ」
そう言っては楽しそうに笑う姿が珍しくも強く好戦的なもので、あたふたとする伊三路と同時に普段の様子を対比するとまるで両者の性格が入れ替わったかのように真逆の様相に見える。早々に片づけと整理を終えた祐が椅子の背を引き、座面に腰を掛ける。そして持ちだした将棋の指南本を暇潰しに開き、川の流れのように滞ることなく滑らかな視線で文字をなぞって読み進めていた。一定の間隔に近い間を以てページをめくる音が伊三路の発している唸り声と泳ぐように悩む声の間を埋めていく。
他の机で囲碁や将棋、もっとカジュアルな人生ゲームやトランプ遊びに勤しみ、悔しがって声を上げる様が時たまに教室に大きく響いていた。
この活動部のなかでは誰もがボードゲームに夢中で、誰しもが楽しんでいた。
 伊三路や祐も最初こそその場へ存在すること自体が異物であることそのもののようであったが、少なくとも伊三路はこの場所に溶け込んでいる。
それくらいには今となって時計を気にしているのは祐だけなのである。和やかな空間の中で伊三路がいつ本題を切り出すのだと一人勝手に目視できる数の粒ばかり少しずつ落ちる砂のような時間に追われているのだった。
焦れる緊張を今となっては保持しない部室の中で盤面における角の陣地を取った暦が外側から色のぶつかり合う内地を本格的に追い込もうとする最終面に差し掛かったころ、戦略としてその勢いを濁そうとするわけでもなく急に思い出したような伊三路が口を開く。
将棋の駒の動きを見開きページの全面を大胆に使って紹介をしては嵩む紙面に触れていた祐はようやく思い出したかと今に呆れた様子を見せながら本を軽く閉じる。
 閉じる本の間に己の指先を差し込んだままその間にできる隙間の翳りを無意識に感じていた。静かな呼吸に合わせて膨らむ身体の動きに合わせて拡縮する翳りを見せるのだ。
娯楽から目を逸らしたくなるような話題へ移り変わることへ微かながら憂鬱を感じている。翳りは、まるで水の引く様に似ていた。
褪めているし、冷めている。何しろ理解と共感の薄いものを聞かされ続けるのは疲れる。
視線を僅かに上げては後に伊三路と意見をすり合わせる思考材料になるであろう言葉たちを聞くために耳を傾けた。



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