身体を捩って勢いを殺し、ついでに翻った上半身で次に足を着く位置の体勢を見直す。視線はぐるりと先をみて、ついに真隣に立つこととなった伊三路は祐と同じ視線の先を捉えた。
 視線の先には――黒曜石をあでやかに濡らしたような煌めきをもつ純な暗褐色と、肌に滴る水の気配があった。
額に汗を浮かべ、今に長い距離を走ってきたような暦が立っていたのだ。
彼もまた、少し驚いた表情をして二人を窺って見ている。
「あ! 暦だ。学校で別れてぶりだね、こんばんは。……あれ? きみは今日もお父上の手伝いではなかったの?」
偶然の出会いに少なからずの驚きを浮かべ、それから目を輝かせた伊三路は暦に駆け寄る。
いくつかの言葉を交わす様を遠巻きに見ていた祐は会話には参加せずに、しかし急かす意図もなく、ただ会話を盗み聞きするほどの手持無沙汰ではないと言う意思表示をするかのように腕時計の時間を確認していた。
背後にあるその様に僅かながら退屈を浮かべていることを伊三路も認識しながらいくつかの会話を交わしているのだ。故に互いの都合を考慮して挨拶程度で切り上げようとしていたはずの伊三路本人が不意に首を傾げる。
訝る意図もなく口からポロリと出たままのような疑問を言葉で飾ったり包んだりすることもなく、そのままにぶつけられた暦はブレザーの手首で額を拭ってから答える。
「う、うん。父さんに頼まれたことがあるのは本当だし、早く戻りたいけど、その……弥彦くんがまた無理難題をさ……」
視線が泳いでいる。いくつかの言葉に惑って、そのどれもを投げっぱなしにするように途中で言葉を辞めた。
暦は言動の全てにおいて気まずさを滲ませ、身体を揺らして悩んでいる。ゆっくりと思考を解いて、拒絶されることの不安を抱えていたのだ。
伊三路が自身の言葉に乗ってくれなかったら、誰にこれを言えばいいのだ? 言えるのだろうか。
そういったような不安が次第に視線の曖昧を形作り、暦は自身を支配する不安に押しつぶされるように唇をわななかせるのだった。
今にも泣きだしそうな顔に対して偶然の出会いに喜び笑った顔も僅かに曇る。そして落ち込んで小さくなる肩を支えるようにして寄り添った伊三路の動きがふと止まった。
それを祐が認めたのは偶然の折り重なりでありちょうど腕時計から視線を上げたときのことで、伊三路の表情が強張るまさにその瞬間を見たのである。
眉尻がピクリと動いて、訝しげに下瞼を震わせた。
その様に更なる訝しさを呼んだ祐が声をかける前に瞬きをすれば表情はいつも通りの丸い瞳と、感情を素直に表す幼さに戻っていた。
「あの、その、伊三路くん。少しだけ手伝ってもらえたりしないかな。僕だけじゃあ、とても……申し訳ないんだけど。難しい?」
「……もちろん。構わないよ!」
怪訝そうな表情が見間違いだっただろうか。祐が結論へ思考を収束させる直前、やはり伊三路はそれらの反応全てに対して深く意味を掘り下げるような間を含ませた。
 空白がやたらと意味を深くすると思えたが、それ以上に、彼の声色が低かったのだ。
少なくとも人間が"普通の生活"を営むうえでは知り得ることのない裏側の話をする際の他に聞いたことがない。それくらいには低くて、感情の薄い平坦だったのである。
祐は思わず背筋を正して、腕時計を確認するために上げていた腕を下ろしかけた。続く言葉を待っていたのだ。
「きみの手助けが出来たらうれしいと言ったのはおれだしね。でも、生憎のところ今は祐の体調が優れないようでさ。ちょうど共に行動をしていたし、目に見えるほど顔色が悪いことが心配だから近くまで送っていくつもりだったんだ。十五分くらいは待ってもらえる? それが難しくても行き先を教えてくれるならばすぐに追いかけるよ。おれ、足の速さには自信があるからきっと長くは待たせないと思うのだけれど」
心細い表情を浮かべる暦に安堵を誘う笑みを向けて伊三路は柔らかな声を出した。
言葉と共にあたたかな指先で背中をさすられた暦は何度も頷いて、いつの間にか涙目になっていた目を拭う。
「……う、うん。ありがとう。結崎くんも、お、お大事にね。何もできなくてごめん。急いでて……僕はこれからさくら川の西側へ行くつもりなんだ」
暦が瞼を指先で拭う様を気にかけて顔を覗き込もうとする伊三路を暦は手のひらで制する。
「だ、大丈夫だよ! 気にしないでね。すごくびっくりしたり感極まったりするとすぐ涙でちゃうんだ。他の人よりも涙腺ゆるくてさ」
「ほんとう? 無理はしないでね。待っていてくれるならば共に行けるのだけど……そういうことならば相わかった。すぐ追いかけるよ。またあとでね」
 会話を早々に切り上げると伊三路は強い力で祐の腕を引いた。
好き勝手に歩調を早めては少し前を歩く背中を見ながら祐は「おい」と呼び止めた。
しかし、伊三路は振り返らなければ足を止めることもない。改めて強く制止しようと言葉のために息を吸い込んだ祐を早口の言葉が留めた。「今だけはおれの言葉を聞いて。黙ってついてくるんだ」
じっとりとした空気が圧をかけるように周囲に存在した。まるで薄暗いトンネルの中にいるようで、吹き抜ける風の不気味が背後から感ぜられるような気がしていた。
伊三路の予測した通りに晴れて、暮れの中でも僅かな日差しともいえる光があるというのに寒の戻りで底冷えしたかのように冷たい。
肺と腹の底を冷たい手が掴む準備はいつでもできているのだぞと言われているかのようだった。
「振り返ってはいけないよ」
己の腕を引き、前を歩く人間が口にする言葉である以上、言葉が前方に放たれるのは当然である。しかし言葉はよく聞き取れて、むしろ背後からごく近い場所で囁かれているとすら錯覚できる。
ローファーの足音が二足組分だけ不揃いにアスファルトを行くだけだ。歩幅の違いからか、バラける足音にいつのまにか存在しないはずの三人目が在るかのように錯覚できるのが如何にも不気味で、確かな異常であった。
背に走るものは寒気ではない。単純な寒さや病の気配ではなく、本能の恐怖だ。怖気そのものだ。
長いトンネルを先ほどから歩き続けている錯覚に次いで風の音はぼうっと円筒の縁をなぞって暗闇の低い鳴き声をあげる。恐らく夜行性を持つ梟の鳴き声であるが、不気味に夜を思わせる無機質や冷たさのような暗い輪郭を浮き上がらせるのだ。
そんな情景が浮かんでいたが、ごく一般的な住宅地はいくつかの角を曲がると最短で大通りへ出たのだった。
 どっとして耳に音が流れ込んでくるように思えていた。汗が薄く皮膚を這っていて、久方ぶりにまともに酸素を吸った気がしたのだ。
ゴミ集積所へ向かう最中ではあまり人とすれ違うことはなかったが、学生が疎らに歩き、時たまに自動車が通過している。
トンネルを思わせる暗がりの気配を抜けた。率直に祐はそう感じたのだ。
確かめるように来た道を振り返る伊三路の表情から緊張の糸が弛む様で確信を得ると、祐は掴まれていた腕をサッと振り解いた。
いつまでも介助のように付き添われては固めた意思という牙を抜かれると思い込む。
それに自分がまるでひとりでは何もできないかのように思わされるのだ。つまり、癪だった。
「様子が異なるように見えたが故にその場では反論しなかった。だが、何を考えている? 俺は体調不良の"た"の字も語ったつもりはない」
多少なりとも意外を浮かべた伊三路であったが、少しばかりの間を置くと、ニ、三度頷いてあっさりと答えた。
「うん。あれは嘘だからね。祐を家まで付き添って送り届けるんだぞ、という牽制さ。きみは気付いた? さっきの暦の足元」
あまりにあっけらかんとしている口ぶりのせいで、勿体ぶってか持った間の余白はなんだったのだと祐は思う。
また思わせぶりで疑問ばかり掻き立てる語り口に対し、腕を振り払ってまでした拒絶を引っ込めざるを得なくなっていたのだった。
祐は数分前を思い出すように目の奥に意識を向ける。記憶を巻き戻してたどり、思えば思うほど祐は取り分けてあの場で二人を意識してはいなかった。
強いて言えば、伊三路の顔が強張ったかのように思えた一瞬があったことが引っかかる程度である。
「……注視はしなかった。お前の顔が僅かに強張った瞬間は見たが」
「えっ! そう。こういうときは表に出る感情の振れ幅をなるべく小さくするように努めているつもりだけれどもね、やっぱりむつかしいや」
返ってきた言葉に素直に感嘆をした伊三路は別の話題に口を開きかけたが、逸れに逸れては意味もないし、悠長にしている場合でもないと思い出して半開きの唇を結んだ。
「閑話休題を望むんでしょう。続きをしよう。まあ、おれも偶然気付いたんだけれども……結論から言うと、あの暦には影がなかったんだ」
 影という言葉を聞いてそんなものが出ていただろうかと思う。
そもそもこんなに夜へ傾いた明りの中で生じるものだっただろうか?
思考をした祐は「天気など――」とそう反論のための言葉を紡ぎかけてはっとする。
伊三路の足元からは確と今も影が薄く伸びているのだ。暮れきりかけて影が消えかかったり、再び雲がかかり始めていたりするようにも思えるが、たしかに、十数分前の伊三路が語ったように未だ太陽光ともいえる程度の光が出ていた。
加えて、今なおもアスファルトにはごく薄いながらに影が落ちている。民家や庭木に遮られて地表まで落ち切らなかった光が代わりに足元へ影を落としているのだ。
雲の加減で疎らに薄くなる色もある。そして己の足元からも薄く伸びているのだった。
思わず言葉を無くす祐に伊三路は呟く。「そう。これはほとんどを占める確率でいうところの怪異、さね」
 心臓が脈を打つ音が身体の中でいやに響いて、胸が引き攣ることに似た胸騒ぎが確かに掻き立てられる。
ドキリ。安っぽいがそういった明確を以てきゅっと締まる鈍痛が一瞬にして身体を支配したのだ。
「仮に怪異として――影に寄生して姿形を写し取る力を持つ蝕と仮定した際に、あれが暦から乗っ取った影なのかあくまで影を奪われた本物の暦そのものなのかはわからない。どちらにせよおれはきみを送り届けた後に彼を追いかけて、明日には学校に来た暦に確認するつもりだ」
言葉を言い切った後に鼻から息を漏らす伊三路は少しばかり興奮に満ちていた。
「本当に暦本人ならばおれもおれの意思で弥彦伸司には物申したいことがあるしね」
そう語る言動から先ほどの人物が本物の日野春暦であった場合も捨てきらず、物申したいことがあるとやはり興奮気味に小鼻を膨らませている。
ふすふすと湯の沸くが如くの息遣いで過ぎた弥彦伸司の行いを詰る勢いで語ると、急に静かになった伊三路は祐へ向き直った。
祐といえば、これらに関わることについて己が憶測で語ることはないとするままに黙って次の言葉を待っていた。
同意を求められれば己の意見として同意できるかを可否のみで語り、判断として個の感性で何かを求められれば伊三路のいう通りただ一人の一般的な見解を離すつもりでいたのだ。つまるところ多少は身構えているのである。
「とにかく疑惑の彼はおれたちを分断しようとしたともとれる言動をしてきた。送っていくよ。だからきみは今日という日のうちはもう外へ出ない方がいい。さくら川の調査にはひとりで行くことにするからさ」
「何を勝手に……待て。家まで着いてくる気か?」
 着いて来いと言ったり帰れと言ったり、という意味で一つくらいチクリとしたことを反芻してやるつもりが思わぬ言葉に祐はぞわっとした。
己の望まないことの過ぎたるに粟立った肌と、開いた頭皮に髪が膨らむような感覚だ。背筋を駆ける嫌悪感が確かに存在する。
家を知られたらいよいよ一人で居られる場所がなくなるのではないかと考えたのだ。
何故ならば祐は自覚しているのである。結局のところ、伊三路に流されて"なあなあ"を是としていることが少ないながらに日常の様々に散見していることを。
本能的な恐怖とはまた異なる場所に由縁する怖気に思わず冷たくなった腕をさする。
その身振りを見て僅かに呆れたような、少しばかり緊張感のなくなったような伊三路は眉を下げて微かに笑う。「ええ、ぞわりとするところはそこなの?」
戯けた様子ではないが言葉尻が間延びのした様相がぬるま湯のようだ。安堵を誘っている。
言葉の後に困ったという様子で頬を引っ掻いた彼は、決意を固めたように唾を呑むとゆっくりと頭を下げた。
九〇度に近い形まで深々と下げた頭部からそれらの言葉を語る意図を祐は好意的には掴めなかったが、伊三路はそのまま言葉を続けた。
「そこをなんとか頼むよ。お願いします。真剣に心配なんだ。先の人物がどちらの暦にすれど蝕からすれば周りをうろつくおれたちは疎ましいでしょう? そして彼奴らは人間の血肉をも食らう。忘れていないかい、きみは食らうべくに努められる訳知りの捕食対象なんだ。執着としても、裏側のことを知ってしまったことにしてもね」
「……頭を下げてまで語る内容に後半の脅しは必要か? いい、わかったから膝をつこうとするな」
 流石に土下座をされるのはいよいよ関係性の調子を崩す。それに祐自身は気にしなくとも誰かに見られでもしたら、伊三路の交友関係からも広く疑いを持たれる可能性が高い。
そして疑いを持たれた際にそれを祐の口から晴らすことは非常に困難になるのである。他人の言動を己の生活に勘定しないというのはその日常に支障をきたさない限りなのである。
誰かと親しくなることそれ即ち、支障をきたすとして気を遣うべく事柄が増えると言うことだ。
少なくとも己と茅間伊三路の間に疑いを持たれた際に十中八九の人間は茅間伊三路を信用する。そして自分も彼をよいだけには思っていない。
茅間伊三路が彼だけ都合の良い言葉を周囲へいい加減に語った際に損害を受けるのは間違いなく自分だ。弁解の余地もないだろう。
確実に理解をする複雑な面倒くささを覚えながら祐は、ついぞ行き交う靴が存分に踏みつけたアスファルト製の道路に伊三路が手をつき頭を擦り付けようとすることを辞めさせて、同時に己の中でこれを許すことに納得がいかぬとわがままを言いたがる稚拙を宥める。
はあ、とため息を吐けば上目遣いで窺う視線が刺さるのだから、ここまでくれば既にどうでもよくなっていた。
精々ボディガードとしての無駄足でもしてもらおうと開き直った方が早いとすら思えていたのだ。
「よかった。幸い暦は学校よりも北の土地に住んでいるというし……夜中はともかく、まだ人の目に触れてしまう可能性が高い早朝なんかは理由もなく遠い場所には出現しないと思われる」
「はあ」
 ため息ともやる気のない返事とも取れる言葉である。
確かに日野春暦の姿を思い浮かべれば如何にも老齢の男女が好むような純朴な孫の理想像に似た愛らしさはあるだろうし、会話は時間の許す限り聞いてくれるだろうとも思えた。そしてその想像は伊三路の口ぶりからも恐らく事実なほど暦は人が好いのだと祐には思えた。
つまり、活動時間が早い老人たちが様子が異なったり、学生たちの登校時間と比較しても早すぎる時間に日野春暦の姿を見ようものならばそれは大層に印象に焼き付くわけである。
少し考えれば想像のつくことだ。
恐らく影は日野春暦のスケジュールをよく把握したうえで、放課後を主にしてしか活動しない。
否、慎重になればなるほどそれしか出来ないのだ。
「つまり、おれの考えでは早朝に疑惑の存在である彼と接触する可能性は低いんだ。いいね? 今日はもう外に出てはだめだ。実際に出会うこと以外の要因である波長の合致による精神干渉はなかなかに低い可能性ではあるけれども、接点が増えれば引き込むことは容易くなる。なるべく息を潜めていてほしい」
既に己の力ではどうしようも無いところまで先に進んでいく話の内容に祐は頷くことしか許されはしないのである。
腕時計に目を落とせば、夜に近い時間になっていた。反論すべき点もなく、用事もない。
アパートに帰るばかりなのだ。従わない理由がない。
祐はしばし目を閉じると、次に瞼を開く。
隣で僅かな不安を浮かべながらも明確な返事を待つ姿を一瞥する。そして踵を返すと先導するかのように歩き出した。
伊三路がひょこひょこと柔らかい髪の毛先を揺らして後ろをついてくる気配がしている。
無言のままでいることであれど足の向かう先を了承として捉えた伊三路が努めて声色を明るくした。
「承知した。しんがりは任せてよ。格好をつけてそうは言っても、この場は元よりふたりきりだけれどもね」
ふふん、と鼻の奥で笑う声の調子を耳に受け止めていると、この軽薄ばかりが事実を嘘くさくしてやまないのだと祐は眉を潜めた。
非日常に揺さぶられる感情や、本能に喘ぐ心臓の反応を少なからず新鮮であると欲しがるのは己だというのに思わず言ってやりたくなるのである。
「茶化して場を誤魔化すな」
夜の色により近づいた頭上だ。さらに暮れゆく空に覆われては冷めも褪めもする地表にため息が一つ浮かび上がる。



前頁 目次