強い力を受けた場所を起点に圧縮されたゴミ集積所は見事にもとの体積の半分ほどまでに小さくなってひしゃげていた。既に息絶えた姿に死の間際の苦悶を張り付けたままの凄惨な姿だ。
もし、周囲の人間が推測するように自動車の単独事故だとしても思わずして搭乗していた人物の安否が一瞬に過るほどの潰れ具合だったのだ。
誰もがその事故の規模を空想せざるを得ない。どの観点から見ても不自然なのだ。
これだけの被害をもたらす事故を誰も目撃せずに今日という日までやり過ごすことはまず不可能なのである。
祐にですら、この現場は人間には到底理解の出来ないものであると一目で理解が出来る。
人間に備わる五感すべての認識が生活に困らない程度の能力を有し――しかも田舎という噂話がガソリンを舐める火のように広がる場所で、誰もそれを知らないということはあり得ないのだ。
もはや『不可能』や『あり得ない』を通り越して強い意味を持つ『絶対』という言葉が適切だと思えるほどであった。
 黄色と黒の警戒色を交互に並べたテープを巻きつけるバーをカラーコーンに通して集積所は立ち入りを禁じる意思の表示を行い、そのバーの中腹には近隣の集積所へごみを持ち込むように案内する張り紙がされている。
伊三路はその足元に屈みこむとより一層に背中を丸くしていた。アスファルトの上に落ちた砂を摘まんでは指先で躙っているのだ。
集積所に着いてからは宣言通りに「協力はしない」を決め込んで退屈そうに立つ祐を他所に伊三路は一人であたりを歩き回り、時たまに生徒手帳のメモ欄を開いてはペンを走らせていた。
その邪魔にならぬように電柱の傍へ立っていた祐は先のとおりに持て余す退屈に飽きている。
隙間時間における退屈しのぎのために常日頃から持ち歩いている音楽プレイヤーでリスニング課題のセクションでも聴き進めればいいものの、どこかイヤフォンを通じて音を聞くことをあの日以来は頭のどこかで拒否をして避けたがっていた。
ざらりとした砂粒を絶えず流し込むように鼓膜をさする音が身を震えさせる様を今にまざまざと思い出せるようであったからだ。そう思えば今この瞬間も目視できるか出来ないか程度でありながら硬度のある砂粒を耳の奥に擦りつけられているように思える不快さに思わず頭を振る。
 少年という誰かもわからぬ形容のままで記憶に希釈されることを許さなかった伊三路が編入してきてから、祐の中であの日の出来事が鮮やかなままで焼き付いていた。
鮮やか――そう形容するには幾つか語弊がありもしたが、どうにも忘れられぬまま記憶に鮮明に焼き付いた仄暗さだ。それらがきっとどこかの時分で再開されることを知っているのだ。
無関係でいることはできない。そうは理解しながらも、茅間伊三路という人間に肩入れをして傍観者でいることを辞めることだけはしたくないと思っていた。
何よりも自分が傍観者でいることを諦めたり、茅間伊三路という人間を己がもはや意地である自我のわがままとして跳ねのける様々から境界の内側へ許す日が仮に来るとしても、"結崎祐"として在るべく自分が許さなかった。三日に一遍は考えて答えの出ない問答に辟易している。
 繰り返しであることには変わらない日々に鮮烈な淀みを一滴落とされている。自分の意思で自分を変えることがまるで恐ろしいことのように思えていた。
今も近くで泥のような虚無を深掘りした氷の穴がこちらを見ている。この生活を継続するにあたって乖離していった自分の像だ。
いつの間にか外側に押し出された幼い姿が縋る瞳で見ているのだ。
ぼうっとして氷に開けた穴から地下を見下ろす際の色に似た瞳から視線を逸らす。
何に対する罪悪感なのか、言い訳なのか、それとも自分勝手な以外妄想か。とにかくこの瞬間において極めて脈絡のない空想をして、祐は渦に取り込まれていた。
 知らず知らずのうちにため息が押し出される。
次第にこの場所へ意識を引き戻された祐は腕と胴の間に収めていた学生鞄を小脇に抱え直すと、伊三路に預けられていた彼の学生鞄を手先に持って明確な後退りをした。
集積所から五メートルほどの距離をとり、膝を半分ほど屈める。祐自身の身長の半分ほどまで視線を低くするとすっかり屈んで足元を気にしている伊三路の後頭部が目線の高さに見えていた。
暮れなずみの中でも雲の切れ間から覗く太陽光で僅かに明るくなる地表に被さる日と反射の具合を窺いながら、視線の角度を変えるのだ。
赤茶の系統をした色に灰を溶かしこんで煮詰めたようなアスファルト舗装のひび割れを視線でなぞる。
アスファルト材に内包する混合物として存在する砕石や砂に混じる石英の鈍いような輝きは見られるものの、鋭く目を焼く硝子の色は見られることはなかった。
三分ほどそれを続けて、祐は再びため息を吐く。
故に確信する。絶対は絶対足り得て言い訳じみた可能性という砦を次々に潰していくのである。
 残念なことに、このひしゃげたゴミ集積所は本当に車が突っ込んだことに由来するわけではないらしいのだ。
もはやこの世の理に則って事故である理由を探すことの方が難しい。隕石だのというなればまた異なる調査方法がないわけでもないとも言いたいが、力の加わる方向についてもその被害に対して周囲が余りにも無事でいることがどうしても説明がつくとは思えなかった。
単独で衝突したと思われる自動車事故がこの規模で金属フレームの集積所をひしゃげさせることができるのであれば、合わせ硝子製であるフロントガラスはともかく、その他の部分で人間の手でも割れるように出来ているサイドやバックのガラスは圧力と衝撃で飛散したはずだと祐は想像したのである。
清掃をしたにしても粉末に近い形になった硝子の一部が落ちていてもおかしくはない。
そもそもを言えば丁字路でスピードを落とさない方が不可思議であるし、自棄になっていたとしても事故の後に逃げるだろうか。我に返ることまではあり得ても、その後に逃走する気力があるだろうか? 情報が行き渡ることに苦労をしないこの土地で逃げ切れると思うのだろうか?
少なくとも、衝動的であるとはいえども命を投げ出すために事故を起こした人物があるのだとしたら、衝動的に逃げる気力があるだけ将来はそれなりに明るいのではないだろうかとすら思えた。
すべては『自動車事故が起きて、且つ搭乗者が無事で、車も動き、逃げるだけの気力や身体の余裕がある。その条件が全て満たされると仮定した場合の非常に稀有な条件の元の話』ではあるが。
もはや天文学的確率といった表現をわざわざ使いたくなるほど気の遠くなる可能性のもしも話と、少なくとも己の目で見て存在を確認している非現実。己だけを納得させるのであればしっくりと落ち着けることのできる答えとして飲み込みようがあるのがどちらであるのかは明白であったのだ。
『絶対』という言葉を納得させられながらもどこかでは覆したい気持ちが残っていた祐から、このゴミ集積所の現状についての説明と証明をすることにすっかり諦めがついていた。
次第に自分に直接関わりもしないことで『信じたくはないが故に疑うこと』における意義の薄さがこの意思決定を強く勧めたのだ。
それと同時に黒革の手帳の記述と伊三路の推測する縄張りなどの概念が概ね正しいのだと思わされる。
腑に落ちるもにしては落としきれないものはあれど、わざわざ否定をする意味もない。
この世に正と誤しかないというのならば彼らの答えは正という境界線の内側にいる。もしそれの他に答えがあるとするならば聞かせてほしいくらいだと祐は思うのだ。
そうして集積所の足元に小さく身を屈める伊三路に向かって声を投げかけるのだった。
「収穫はあったのか。これは一般人の見解にしても明らかに"普通じゃない"。自動車に使用されるうちでも割れるべく硝子の痕跡がほとんど存在しないからだ。ブレーキ痕もなければ、自動車由来の事故に関する何かをぱっと見で感じられることがこの場所には全くない。……元より集積所をこれだけ歪めても車体が動く程度に無事で、且つ誰にも見られないのは限りなく不可能と言っていい」
「そっかあ。こちらもひしゃげるばかりの金属に爪や牙の目立った痕跡はないし、獣の身体に関するものはみなすべて土くれになってしまったからね。まあ、走る勢いで突っ込んだのだからわざわざ突き出してもいないそれらの痕跡が見つかることも少ないのだろうけれども。幸いおれたちは知識をもって生きるに得意な世界が反対に近いからね。相応の成立しない理由を聞きすり合わせてこそ確信に至るようなものだよ」
 言葉を送ってから黙った伊三路は膝に手を着いてゆっくりと立ち上がる。
振り返る色の鮮やかさとその持ち上げるばかりの言葉を疑った祐が不快を表すようなぶっきらぼうで鼻を鳴らすのであった。
含みを持つようにも思える言葉の居心地悪さに祐は目を逸らす。その先でといえば、ブロック塀の上を点々と歩くカラスと一瞬だけ目が合う気分になるばかりだった。
数十分前に伊三路が語った通りに雲と雲の間で晴れを覗かせた空は着々と夜に向かって空を宵の色に近づけ始めていた。今はまだ赤みの強く残る空が遠くにあるのだ。
夕食の準備をしているのかどこからか魚が焼ける匂いが漂ってくれば、今日という日が暮れかかっていることを強く思わせた。
想像上のノスタルジーを掻き立てるのだ。魚の焼ける匂いの出処を探して伊三路が首を大きく動かして視線を仰いでいた。
「素人目だ。正確性を求めたいならば現場検証のプロでも雇ったらどうだ」
「手厳しいんだから。おれはきみの感覚を心から信じているのに。おれが見つけたものといえば"強いていうなれば獣の爪跡かもしれない程度のもの"だけさ。まあ、先の通り土くれになられてはそれの照合すら今は叶わないけれどもね」
 言葉を返せば数を増して返ってくる口数に対してこのままでは真夜中になってしまっても終わらぬと憂いた祐は学生鞄を伊三路の胸に押し付けた。
学校のある方角へつま先を向けるとさっさと歩き出すのだった。
指先が離れた後に支えを失って重力へ従う学生鞄を取り落としかけながらも手に入れ戻した伊三路は、それを大事に抱きかかえながら己より少し高い背の後ろ姿を追う。
「ええ! 今の言葉に対してならば全く他意はないのだけどなあ?」
ぶすくれるというには幾らかの冷静を保ったまま不機嫌をする祐の横に並ぼうとする伊三路の大きい一歩が歩幅に乱れたリズムを奏でて追い付こうとする。
ローファーの硬い靴底が不揃いな足音を響かせていた。時間が間延びをするようだ。
言葉がないなりに続く沈黙に苦痛はなく、追いかける言葉に振り返ればまるで間延びした微睡だ。
ぬかるみを持つやわらかに足を取られれば、きっと大した間もなくそれに染まってしまうと祐は考えていたのである。
「否定も肯定もしていない。この場で確認したいことが終わったのならば次へ行きたいだけだ。これに付き合って明日の朝日をみるのは御免だからな」
「おはなしは嫌い? ただ歩を進めると眠くなってしまうよ。移動中は取り分けてやることはないし放課後のおれは頭がふやけているんだ。頭の中にあるらしい脳というものを刺激したいよ」
「すれ違った車のナンバープレートに記載されている数字の乗算でもしていればいい」
進行方向を見ているばかりの祐の視界の端でも騒がしいその手振りはよく存在を自覚させている。
「おれねえ、二桁同士を計算する乗法を頭だけでするのはあんまり得意ではないんだよなあ。三桁同士でそれをしろと言われたら筆算式を書いてもそれなりにいやさね。祐はさ、桁数の多い計算では減法と乗法とだったならば、どちらのほうがまだ許せると思う?」
学生鞄を持ちながらも両手を後ろ手にすると上半身を乗り出し、上目で窺い、覗き込むようにして伊三路は祐の横顔を見た。
そしてすぐ後にすれ違った車のナンバープレートに記載されている数字を無意識に追うのだ。
短い沈黙の、一瞥もくれない氷の瞳が返答を寄越す僅かの間で、二桁ずつで区切った数字を乗算した場合の解を思考のうちで探る。
「回答の義務を感じない」
「えー! もう、わかったよ。さくっと行ってしまおう。あまり遅くしないつもりだけれども、暗くなれば警戒すべきが増えるものね」
あからさまなブーイングをした伊三路が唇を突きだす。そしておどける言葉をすっかり引き上げると背を正しくして前を見た。
その際にいつの間にか歩を止めていた祐の背に自身の鼻面をへし折られそうになっては、つんのめりながら足を止めた。
 



目次 次頁