不意に伊三路が昼間に取り出していた黒革の手帳を再び手にし、視線を仕向けるように左右に揺らす。
「この手記のどこまでが正確かはわからないし、書いた人間のことはこの裏表紙の内側へ名前を記していることしか知らない。けれども表側の世界を模倣しているはずの裏側で最適化されて記された文字をおれは解読することは出来なかった。だから、おそらく表と裏の言語機能は異なる。つまり、これはこちら側の言語を操ることのできる人間――もしくはこちらの言語を操ることができるほど知能が高いものが書いたんだよ。そして、おれが知り得るいくつかの情報とも合致する。現時点で信頼できるよ、これは」
 差し出された手帳を受け取った祐は、クリーム地をした方眼線引きの紙面を適当に捲った。
所狭しと書かれた文字のところどころは滲んだり、黒い煤のついた指でこすったりしたように見える。そういった汚れや紙面を強引に破った痕跡、そして走り書きがあるページを眺めると伊三路の言う通り祐もよく知り得る言語が記されていたのだ。
革張りである表紙の内側は一部上質な厚紙のような地が見えているが、革の色に合わせた濃い黒であるおかげでほとんどの違和感を消し去ってそこへ存在していた。
一目見る様子では伊三路の語るような名前が記されているようには思えなかったが、画用紙に似たラフな肌を残す用紙には微かに鋭いものを当てこすった跡があることに気付く。
その凹凸を軽く指先でなぞった後から祐が開いたままの手帳を傾けると、表紙の色と同じく黒いインクが乗っていた形跡が確かに存在しては光の屈折する角度を異なっていた。
目を欠ける月のように細くし、ピントをよく合わせる。目を細めることで視界の広さや十分な光量から与えられる情報が狭められると、ひっかき傷のような凹凸を作りながら記されたその線が構成する文字を推測しやすくなるのだ。
インクの部分だけの凹凸や反射を頼りに読み取った先――そこには手記の文字の癖と全く同じ筆致で"淵東七助"という名前が確かに記名されている。
「きっと男のひとだね。おれの知っている情報と比較してみても彼の記した手記の内容を見るに、やはり――この世界には"表と裏の狭間"さえもが存在する。そして蝕は縄張りを作る習性がある」
「……潰れた集積所と、手記の中からその情報をピンポイントで拾い上げて二つを同時に語る因果はなんだ。何を言いたい?」
「前提として数字を正しく数えるときに一と三の間には二があるでしょう。表を一、裏を三にするならば、意識の低下で引きずり込まれた祐が夢と思った"狭間"の場所が二だ。」
伊三路は拳を前に突き出して、数を数えるにしたがって指を立てる。
「まず、本来の蝕の力程度では表のものを一度に引きずりこむことは出来ない。なぜならばそれが出来るならこの世界はとっくに裏側に統合されているか、蝕が支配者として君臨しているべきだからだ。だから二の場所を経由して人間が干渉の出来ない裏側、つまり三の場所へ少しずつ持ち込むような例えさ。それをしている。きっと大きくなった蝕には一度に引き込むことも不可能ではないのだろうけれども、とにかく、そこで蝕は精神に干渉する力と境界を越えた先の物質を歪めてしまう性質を無意識に応用して中間の場所へ簡単な独自の縄張りを作る、ということをしたのさ。ええと、つまりこういうことさね。肉体よりも精神の行き着く場所に近い場所から引力を伴って連れ去ってしまうんだ」
自身のものである生徒手帳をブレザーのポケットから取り出した伊三路は祐に紙面をよく見せながら、安定のしない手元で握ったペンを使って一部が重なりあう円を二つ描いた。
その重なりあう縦向きの楕円へ斜線を引く様子を眺めていた祐は、次にそういった言葉が続くのかの予想を概ね悟って頷く。ボールペンのノックを押し込んで芯をひっこめると、楕円を指でよく示す伊三路の指先を視線で追いかけていた。紙面をなぞっていた指先が思い出したように重なりあっている範囲のなかに円筒状の図形を書き入れ、境界を突き抜ける橋のような役割を描く。
「絶妙に表と裏の性質を兼ねる場所へ隧道のように跨っている縄張りを作るんだとおれは考える。性質をいいとこどりしながらも正確にはどちらの領域でもない縄張りだからね、他の蝕が干渉することは少し難しいこととなる。でも、ここは裏側ほど力を発揮できないし、不安定でもあるから脆弱性があるのかもしれない。きっとあの日の町が急に精巧さを増して家々を象ったのは縄張りを張ったその"狭間"からより一層の"裏側"へ引き込まれつつあったからだ。その領域で縄張りの主がおれに敗れたあと、中途半端なところに放りだされたものたちは物質の存在した因果率に則って表側へ浮いてきたと思われる、というわけさ。ごみ集積所のあたりはかなり裏側まで近いところに引き込まれていて、だからこそ物質としての損傷を受けたまま返ってきたのかもしれない。もし完全に裏側へ取り込まれていたらあのあたりの一帯は今頃ばっくり無くなっていただろうね。もちろん、人間ごと。反対に狭間のうちでも形成されて時間が経っていないうちに同じことが起きれば損傷は物質に影響がなかったものとして無傷で表側に返ってくるかもしれない。これは要検証だろうけれど」
「なるほど。根拠として脆弱な表現がないわけではないが、ややこじつけでもそういった言葉で補完をすれば説得力は確かにあるだろう。追求すればいずれ何か大きなことがわかるかもしれない」
「そう。半分くらいこのひとの受け売りでもあるけれど、まあ、縄張りのことはおれも少し思っていた。少しだけ肌に覚える空気や匂いが異なるからね。もしかしたら空間としての基礎はあれど、裏側に景色があることそれ自体が裏側すべてが何者かの縄張りに該当すると示しているのかもしれない。あの場所は無秩序であるけれどそこへ生態系が存在する以上、力だけでその地位へついた天下人のような存在が居てもおかしくない」
何度か頷いた伊三路は冷静に語っていた表情のうちから唐突に真っ新なアルミホイルをくしゃりと握り込んだような顔をする。中心へ向けて引っ張られたように顰められた顔の皺に憂慮が深々と刻まれているのだ。
「あくまで敵将がいる過程で進めたいらしいな」
祐の言葉に対しても未だ複雑にしたままの顔を浮かべて視線を返すだけであった。
黙秘なのか、決定打に掛けるだけなのか推測することのできるほどのひっかかりを見せない伊三路であるが、どうにも表情を顰めることを辞めないでいる。
「とにかくにも、まずはこの手帳本来の持ち主が敵勢力でないことだけを祈るばかりだよ。あまり言いたくはないけれども、彼が誰なのかも生きているかもわからないのが現状さ」
 吐き捨てる声色に祐は預かったままの手帳へ再び視線を落とす。ボールペン特有のインク溜まりをところどころに滲ませてはだんまりをする黒い紙の肌に手書きの文字が薄らと浮いているものだ。
目を細める。文字を這う上でどこか甘ったるさでごまかすような匂いが鼻腔を掠めていた。
うんざりするほどの燻(くゆ)る気配が空気に混ざり合いながらうねりを上げるのだ。
こういうのを生理的に受け付けないとでもいうのだろうか。
祐はそう思っていた。嫌な気配がしている。
「どちらにせよ、この"裏表"を探ればこのノートの持ち主のことも知ることになるだろう。頭に入れておくべきだろう」
 青色信号を待っていたはずが、信号を点灯するための光はいつの間にか赤と青を往来して何度目かの赤信号になっていた。
黒革の手帳を閉じて伊三路に突き返す。伊三路はそれをブレザーの胸部内ポケットへしまうと極めて薄い表情で「そうだね」と返事をしていた。
「さあ、散々に見送っておいてなんだろうけど信号が何度目かの青に変わったよ。行こうか」
青信号の先へ身を乗り出した伊三路の足元が白線とアスファルト道路の境界を踏んでいる。風が吹いて背を押すと、時間が動き出すかのように思えるのだった。
よく映える緑のさざめきに似た瞳が涼しげに視線を奪って、先を進んでいく。
「肩が凝るような話でしょう。それにきっときみはおれがこのあとさくら川に行くって言った時に憂いた。段々と憂鬱は増しているだろうけれども、大丈夫だよ。きみが一等にそうなったら面倒だなと思っている雨は今日に降らない」
「は、」
 先の会話のやり取りがまだ思考にしっかりと染みついている祐の脳は伊三路の言葉に対して無意識のうちで裏を探した。
"雨"というものが憂いの象徴に思えて納得がいったのだ。
不意のそれに思わず肺から押し出されただけの間の抜けた声が音になっていた。先を歩いていたはずの伊三路はいつのまにか歩調を合わせて祐の横に並んでおり、尚も歩を進めている。
そして人差し指の先を天に向けては歌うように語るのだ。
「なんの裏読みもない天気のことさ。雨の匂いはしないし、雲と風の流れからもね。きみは今日の間、何度か外を気にして見ていたでしょう。室内の温湿度計もね。傘でも忘れてしまったの?」
祐の眉根がぐぐっと眉間に寄った。
見透かされたまでということはなくとも、幾らかの割合で意図は言い当てられていた。
一度は晴れ間を見せながらも、再びぐずつきそうに潤む雲に憂いていたのだ。
何故ならば外に洗濯物を干してきたからである。普段であれば室内に干すものを、気まぐれにやるべきではなかったと思い続けていたのだった。
計測して発表される降水確率は半分の数値を切っているものの、山沿いの地域ということもあり確率の上でも天気雨という形で予想外に降るというそこそこにあり得る数字だ。そして何より、そういったメディアから縁遠そうな伊三路が断言する形で「雨は降らない」と語るのがあまりに適当ではないと思えていたのだ。
「なぜわかるんだ? とでも言いたい顔だね。答えは至極かんたんだよ。万物に魂は宿るからさ。なあんて、ね。これらは結構にこの国の特徴的な神秘の考え方なのだと暦が言っていたよ」
憂い訝る祐の反応を認めている伊三路はその反応すらも知り得ていたかのように語る。「ええと、"かたかな"というやつだと難しい名前だった。あ、あみ、あに……? 汎霊説だよ」
その語り口に自信が優位にある情報を持っていることを自覚しながらも、鼻につく嫌味はない。これを環境や経験の差であると理解をしているからだ。
 現に茅間伊三路という人間が知らないことの多くは結崎祐にとっては常識であるということが成り立つ事実は、その逆も然りということである。
伊三路にとっての常識であったり、生活によくにじみ出る思考だったりする数々は祐に馴染みのないものであることに何の不思議もないということなのだ。
単純に自分の知らないことをたくさん知っている男が『根拠の提示もないのに何が言いたいのだ』と言いたげにしている表情を見るとどこか面白くなるのである。
彼もまた一人の腕に抱えきれない知識や感情が存在していて、それを詰めるために己と会話をしてくれる。そしてその一挙一動で彼足り得る反応をしてくれるのが人間らしさが愛しいのだ。
沢山のものを与えてくれる人間がただの人間に過ぎないことに喜びを得て伊三路は「ふふん」と得意げに鼻歌のように抜けた息で喉を鳴らした。
生活のうちでよく見る笑みの種類のうちでも特に楽しいという感情を顕著に浮かべている。
「神秘……そこまでは言わなくとも植物の香りや、季節の持ち得る湿度。人間や犬猫、熊、たぬき……きつね? まあ、そういったようにとにかく多くの生き物の活動に付随する副産物の発するものから感じることのできる様々は、命ないものとして扱われる概念のようなものに表情を与える。どうかな。案外にずっとおれたちの生活にそれらは存在するよね」
 伊三路の語る言葉の数々は実に空想的で、目には見えなどしないものである。しかし、それらのどれもをまるで見てきたもののように語る様を祐は聞いていた。
己の信じる物事の根拠としては余りに抽象的に過ぎない。
率直に祐は、それらを明示できないのであれば意味がないと思えた。万人に理解されるのはやはり統計してある程度の理解を得ることのできる基準だ。
あまりにふわふわと掴みどころのないそれらは、まるで無いものと同じだ。思想を分け与えて概念に魂を吹き込むことに過ぎないのである。
目の前の男がお構いなしに持論を展開し続けるのならば、こちらは目には見えないものを易々と信じまいと言ってやるべきだと祐は言葉の方向へ身体ごと向けてやった。その時に、光は瞳の角膜を伝う。
 風が吹き込むように錯覚をしたのだ。伊三路の瞳の中で、緑の色は――まるで風が渡るとざざんと丈のある草の波が翻り、光の粒が僅かに冷たい空気を輝かせる様を思わせた。
決して強すぎはしない柔らかな木漏れ日の境界が眠気に似た愛しさを誘っては煌めき、優しく目を焼く。
文字の通り、視界から得るその黄金が身体の中に存在する寂しさの邪を焼いていくために、腹の底が照らし出される感覚が恐ろしくは思うものの頭はすっきりとするのだ。
それがまるで錯覚ではないかのようにあった。茅間伊三路のどこかそこらの人間とは一線を引いて俗世からは離れた価値観を思わせる様そのものだった。
少なくとも今この瞬間においてこの男には嘘偽りや、斜に構えて見るひねくれた思想もきれいごととして上滑りする建前もなかった。
在るがままに清い様である。祐は圧倒されたままに思わず息を呑んだ。
「それらがくるくると巡る様相はまるで生きているといって過言ではないと思わない? 人間の意識、記憶の中でたくさんの表情を持っている。変わり続ける。おれにとっての世界はこの町がほとんどなのだけれども、おれはそれを生命だとか魂だとかが宿っていると思うよ。人間と共にこの町も生きている」
「……擬人法によって得た親近感を拡大解釈して錯覚しているに過ぎない。もういい、説教じみた茶番は結構だ。それなら雨が降らない科学的と思える根拠の一つでも語られた方が有意義ですらある」
はっとして、ならばと己の考え方を変える術を語る祐に対し、小石を投げられたかのようにきょとんとした顔をした伊三路は間を置いてから穏やかな笑みを再び浮かべた。
絶やすことなく言葉を続ける。
「おれの考えていることを知ってほしいと思うとついそういった話になってしまうね。悪癖として肝に銘じるよ。そうさね、根拠かあ。うむ、みて、あそこに雲と雲の切れ目があるでしょう」
 天を示す指先をなぞり見上げる高さには語る通りに雲と雲の間に切れ目があった。首を傾けることなく視線を今この場所よりも遠くへ投げればよく見ることのできるものだ。
ネズミの肌といって想像するような暗く薄汚れたようにも思える色の雲が浮かんでいる。しかし、伊三路の指摘によく視線を向けるとその輪郭に近い部分がべっ甲を透かして輝く色をしていることに気が付く。
つまり、雲は重苦しく雨粒かこのあとそれに成り得る水分を抱えてそこらを漂っているのだとずっと思いこんでいたが、存外に太陽の光に近いようであったのだ。
切れ目の間からは惜しみなく降り注ぐ太陽光が微かに透過して射し、雲間から美しい薄絹の幕を下ろすかのようにそれは地上へ落ちていた。
「きみは雨が降らないかと憂いていたけれども、むしろこの後わずかながらに日が射すとすら予測しうるよ。これは。まあ、ここまでは目に見える情報そのままだけれども、このまま風向きと強さが変わらなければ四半刻からもうすこし足が出るくらいの経過であれがここらの頭上を過ぎるころさね。先に語った空気の匂いからも明日もきっと雨までは降らないと予想する。賭けてもいいくらいには自信があるよ」
「風速や湿気の感覚があるのか」
歩を辞めないままに続く会話で伊三路は機嫌がよくなっていた。
相も変わらずに歌いだしてしまいそうな機嫌のよさを窺う祐は僅かに顎を引き、訝しんで見ている。お構いなしでいる彼の横顔を少し後ろから見ていたのだった。
「ここがかつてより山を見ることで天候を読んできた場所で、今も人々が田舎町というような場所だから――いいや、きっとどんな環境の場所でも。より退屈を極めると周囲に目が行くから感覚が鋭くなるのさ。そして日常の愛しさにも気付ける。雨が降る少し前には"雨の匂い"がするんだよ。きみがこの日常を要らぬと思わなければいずれわかるようになる。きっとね」



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