来たる放課後、一体何に付き合わされるのだと思っていた祐は拍子抜けをすることにも極めて"いつも通り"に帰路の最中にいた。
強いて日常からひとつ異なることを挙げるならば、隣に学生鞄を大事そうに抱えては普段より静かな表情をしている茅間伊三路が居ることである。
特に会話を交わすことなく、学校から南へ――正確には南西へ下っているのだ。
人の声が行き交う商店街はとっくに抜けて、今やどこからか聞こえる生活音と微かな静寂の傍にそびえるブロック塀に囲まれた道を進んでいるのだった。
足元を見ればよく磨かれた革のローファーがつるつると輝いている。鋭い西日を照らし返す光で目が眩むようだった。
これに目を細めるように、ある意味では荒んでいる。
ささくれた皮膚を逆さむきに撫でつけるようだ。ぴりぴりとした痛みが肌を撫でつけることに苛立つ様によく似ている。
つまり現状を不本意であると思うような感情を、あの日の非日常に期待している自分がいるのではないのだろうかと嫌でも思わされて自己嫌悪をしていたのだ。
少し前に女子生徒が猟奇的に弄ばれた遺体で見つかった事件の暗がりを幾らか姿を隠して息を潜める町で未だに己だけが胸の内を濁される様は、まるで己こそが一番に非日常を欲しているのだと思わされた。
それらが健全という一つの正しさに立って眺めた際に歪んでいることの自覚を強いられることはまるで尚も渇く様を一層に強調されるかのようだ。
渇きはいずれ炎の揺らぎとなり身を焼くかのように思えて、それはそれとして恐ろしくも思える健全との乖離であった。
しかし、健全が全ての正しさではない。それが正しさとして何より優先されるものならばこの世に悪行は一つたりと存在しないはずであるからだ。
 故に。だから。己は間違いではないのだ。人間は人間を正しく否定することなどできまい。
ただ一つ、結崎祐という個を結崎祐とたらしめる外側の定義をする赤の他人が仕切った枠という客観性から外れるだけである。
紙一枚切れでも表と裏と呼べるものが在るように、すべてのものは多くの面で構成されているのである。
自分がどこからそれを見て、どこから光が当たっているのか――自身の感性と対象の中で目について見える部分の一致と不一致でしか物事を判断することは出来ない。
傾倒して語る言葉をくだらないとせず何が"歪んでいる"だの"正しくない"だのと貶める言葉があるのだ。祐は頭のどこかではそう思い続けていたのだった。
 求められる『在るべく定義』と自我とする『そう在りたい』が乖離している。
そう思ったところで、あの油膜に似たくどさと本能に強烈な嫌悪を植え付ける濃い血液の色をどこか遠いところで思い出していた。
力の働く中心からナメクジの這う速度のように色がるそれに反して、急速といっても過言でないように平静を翻しては保てなくなった胸が焼けだして、肺の底から嫌な空嘔きが押し出される。
 祐はそれを吐き出しこそしないものの、思わず手袋をした手のひらで口元を覆った。焚いた煙が渦を描くが如く、熱く湿ったものが巻き上がる。まるで肺が焼けていた。
喉元が熱気を吸い込んだように湿気を伴った錯覚をしているのだ。そうして、呼吸をすることが苦しいものと思え始める。
 目には見えない嫌な湿気が身体に詰まることに似た感覚へ僅かに背を丸めていると、その動作に呼応して隣で流暢に他愛のない話をしていた伊三路が髪の毛を揺らした。
顔を見合わせていると、僅かな沈黙の後に彼は首を傾げては遠方に見える山の稜線とよく似た短い三角眉を大きく歪めた。
ぎゅっと眉根が寄ることで眉山までの角度が異なると途端に表情を強調する。訝しさとして抱いた感情を等身大で訴えるのだ。
彼は感じ取ったものを率直なままに口にしようとするものの気遣いをするべきかもしれないと多くの言葉を探した唇は、普段であれば言葉を多く語るそれから発するものに惑ってすぼめられた。
思考を巡らせようとする際に無意識に平時よりも僅かに唇が突き出されるのが伊三路の癖らしく、どうにも締まりのない顔つきは継続されて祐のことを凝視している。
「不躾な言い方かもしれないけれども、祐。どうかした? 今日は一段と難しいことでも考えているのかな。ずっとやつれた顔をしている」
「……それはお前の憶測に過ぎないだろう」
 暗に勘違いだとか理解をした気で語るなだとかいったように心の距離へ拒絶と壁を生み出すための言葉であったが、伊三路は呑気に「まあ、でも、祐の顔色はいつもよい方だとは思わないけれどもねえ」と語尾を伸ばして呟いていた。ついに退屈になった表情をして伊三路は鞄を握り込んだ手ともう一方の手も頭の高さまで上げると、後頭部のあたりへ回した。
うなじの根を支えるようにして、顔を上げると流れる雲を眺めるが如く遠くへ視線を投げていたのだ。
 歩は止まることなく普段よりもゆっくりとした足取りで進む。そうやって道路を悠然と進む足と足の往来に間延びした言葉がどこまでも続くせいか、語尾は切れ切れになり、思い出したように会話を再開することもある。
足元で自ら進んでいるはずの距離に反してゆっくりゆっくりと歩がゆく感覚は、一歩進むたびに一つの考え事が完結するかのような、つまり、気の遠くなるほどの時間に思えた。
率直な言葉として時間の経過をいやに遅く感じる祐は、伊三路に一瞥もくれないまま答える。
「普段から良い方だとは言えない? あいにく体調に困っていない。ならばそれが地なのだろう。意味が分からないし、俺はこれを言う以上は配慮の一切も必要としていない」
決めつけるなという牽制のつもりであった。じっと見る祐の瞳は氷の色でも暗がりの方を選び取っており、底の碧が狭まると不機嫌な態度のようにも見えた。
しかし、察してほしいわけではないのだ。これを常とする思っている身としては本当に必要としないだけであって、その疑りと気遣いの深読みを心地よく浴びようとして含んだ言葉を言っているのでは決してない。
否定をするのだから責任は己で完結するつもりでいるのだ。
「そうかい? ふうん。まあ、きみがそうではないと言うのならばおれも安心して連れ回せるものだよ。でも、もしこれからの時間でしんどくなったならばきっと教えてね。伝えてくれるならばきみの言うおれたちの都合にとってより合理的な判断というものができるはずだからさ」
「くどい」
横目で様子を窺い探ってくる伊三路へ向かって一瞥もやらぬままぴしゃりと言い放つとそれきりになる。
 普段ならば祐が下宿先のアパートへ帰るために折れる道を直進して烏丸三丁目の大通りを進んでいるふたりは、砂利を踏みつける音と大通りとしながらも疎らな車通りに伴うエンジン音ばかりを聞いていた。
この町に整備されている道路の数々や学校、住宅地の配置、そして凡その人口を参考に割り出して適切に設置しているであろう信号であるがこの中途半端な時間であると待ち時間がどうにも煩わしい。
夕飯時の買い物を概ね終えたであろう時間帯なのだ。時たまに小学生が駆け足で横を通り過ぎていくことはあれど、大抵の道往くものたちは巣へ帰る途中に思い出したかのようにエサ探しに勤しむカラスか、気ままな散歩をしている無愛想な顔をした家猫である。
それらに追い抜かれたり追い抜いたりしながら今この瞬間ではアスファルト上の塗装がよく剥げた白線の前で往来のほとんどない中、赤く点灯する歩行者信号が青色に変わるのを待っていた。
足を止めて無言でいる。
 特に必要とする会話もないままでいたが、祐は微かな緊張をこの瞬間に知る。この先には伊三路と祐が初めて出会った通りがあるのだ。
血生臭い薄暗がりと獣の気配だ。尤も、当時の冷静を欠いた状態では獣の気配も感じることは出来ていなかったが、今思えば産毛を触れるか触れないかの距離で逆なでにしようとするようなぞわりとした気持ちの悪さがあったように思う。
そしてそのようなことが確かにあった最初の場所だと伊三路も気づいていて、だからといってどちらからともなく語るということもなかったのである。
引きずり回された後の血痕に濡れた古い道路も不気味なほど鮮やかに黄昏れる空も、目の前の男が今この場所に存在して生活の一部を共にしていなければまるで夢のようだった。今でもそう思ってやまないのだが、茅間伊三路という人間の浮世離れと良くも悪くも存在する非常識がよくそれを自覚させていたのだ。
己の生きてきた価値でだけあり得ないと言い続けたことに未だに縋りながらも、そろそろ、ようやっとに、抗うことに諦めがつきそうだった。
すべては現実に起こり得たことだった。そう受け入れることが自然になつつあるのも事実として存在しているのである。
「それで、これから何処へ向かうというつもりだ。どう見ても日野春暦の言い分へ関連する場所へ向かっているとは到底思えないが」
「うん、鋭いね。この後から暦の語ったさくら川の河川敷ヘは向かうつもりだけれども、元よりこの先のごみ集積所を調査するつもりだったんだ。きみが獣の蝕を誘導したあの場所へね」
「全くの反対方向だが。いや、この時間にはまだ学生向けの運行ダイヤがあるか……? いい、さっさと回って終わらせるぞ」
 伊三路の語るさくら川と呼ばれる河川の位置をぼんやりと思い出す。あまり積極的に足の向く場所ではないが何度か付近を訪れたことがあると脳裏に周囲の景色を思い浮かべるのだ。
学校を起点とした際に北北東向きから町を縦に横断するように流れる河川であったはずだ。長く続く河川敷は整地しただけのような簡易運動場や、水道と炊事場を用意してやっただけの炊き出し場がある。
祐が時たまにそちらの方角へ足を運ぶのは個人経営の古書店への用事であった。そこそこに専門性のあったり、絶版になっている本がどこからともなく集まってくるが万人受けのしない場所である。
そこまで思い浮かべて毎回のように絶妙な距離のある道程にもどかしくなることを思い出す。
まさに徒歩圏内で行くことのできない場所ではないが、町内バスの運行ダイヤでは思うようなタイミングで赴くことは難しいのだ。
途端に憂鬱のように思われて祐は長く息を吐く。
それほどの移動距離があるならば先に宣言しておいてほしいものだと祐は頭が痛くなっていたのである。
当然のことだ。岐路のうちでもほとんど下宿先に着いたといっても過言ではない場所に来てからさらに連れ出されるということは少なくとも気持ちの上では二倍疲れるような気になる。
それと同時に、彼に情報の開示を求める以上にはどれだけの"ともだち"という関係を提供するべきであろうかと対価の支払い方法としての適切さを考えていた。
伊三路の言葉はわかりやすい。それは情報の切り売りであるためである。
しかし自分は何を返せるというのだ。何を以て"ともだち"の関係を提供したとする? その基準は誰が決めるのだろうか?
まるで主導権を持っていかれている。
だが嘘をつかれたわけではないし、蝕が気配を感じることの難しい生物であればこの現場検証の優先順位も適切であることになる。つまり、下宿先付近での調査で終わるのかもしれないと思っていたのは己の思考の浅はかさだ。愚かしさで、恥だった。
そう思いながら少しばかりの面倒くさいという形容で湧き出る思考がスパイスのように味の割合を占めていた。決して目の前でケロリとする伊三路を狡猾だと糾弾できる程度でもないのだ。
最終的にぐるりと思考が一周し、普段からこの利害の一致関係に際して提供すべきを不履行として主に働くのは茅間伊三路である。
己が面倒くさいと考えながら付き合うことに罪はない。彼もまたしぶしぶにこちらへ情報開示をしているのだ。
強いて言えばお互い様であって、誠実さに欠く感情を互いに持っているならば対価を支払っているという事実に揺らぎはない。
この関係の立場には上も下もない。ただ、しぶしぶという態度のせいで利害関係を続行することにおけるクリーンなイメージからふたり揃って一段降りただけだ。
 意味のない言い訳を自分に重ねていた祐の横でずっと近くでしていた足音が止まったように思えて振り返る。そこへは制服姿の伊三路がぽつりと立っているだけであった。
振り返ったまま、祐の足も止まっていた。視線が交わって、意図を測りかねている。
目の前の人間は表情を窺うことが困難になるほど薄い表情でいて、何かを考えているのだろうか? 何を考えている?
訝しさがゆっくりと姿を現す祐の前で、首を傾げてから横を明るい土の色をした頭が通り抜ける。伊三路は前を向いたまま脈絡が繋がっているのか繋がっていないのか曖昧な言葉を続けていた。おかげでその後姿に対して「何を見ていた?」と聞き返せないままの祐が足を止めたまま置いて行かれる番になるのだった。
「退屈そうな顔をしているね。じゃあ、おれの先払いにしようかな。さあ、話をしよう。祐。知っている? 例のごみ集積所は昨日の夕方に崩落したんだ。その瞬間を見たものは居ないけれど、事故らしき形跡もなし。まるで何か強い力が一定方向から加わったようにひしゃげていたそうだよ。人々はみな口々に車が突っ込んだんだ、と言うけれどもね」
冷たい風が吹き抜けた気がした。特徴的な髪型に付随するもみあげの毛量のせいで己の角度から窺い知れない横顔の表情に息を呑む。
「確かにあそこは通り抜けになる道がもう一本あるけれど、基本的には袋小路に近い形の住宅区画だ。あまり通りがないようだけれども、住宅地内で明らかに事故車と思われるものもなく、お馴染みのだれだれがどうこうという噂にもなっていない。おかしい話だね。きみはさ、どうしてだと思う?」
 靴が地面を踏みしめる度に微かに上下する頭部を見つめている。一気に心臓が掴まれたようになって、動けなくなったかのように思えた。
その感覚は正確には肺を締め上げるようなもので、緊張が強く周囲を覆ったのだ。
急激に温度は冷めて、暮れゆく町の温度までもが失われることを知る。それらが宵の色へ変わりゆく最中に、あのべったりと塗った黄昏が間に挟まるのではないかと思うとずくりと胸が騒めき立つ。天上で白く色の飛ぶ太陽だけが便宜上で表と称する人間の住む世界を証明しているのである。
午後になってからは雨模様に至らずとも時たまにその光が厚い雲で遮られることが続いているのならば、意識上の境界は薄められていくのだと思えるのだった。



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