「伊三路くん、結崎くーん! も、もしかして、お昼ごはんもう食べ終わっちゃった? まだ? まだだったら、その、おすそ分けにどうかな。貰ってくれない?」
 額に薄らと汗を滲ませ、肩で息をする暦はよろりと足をもつれさせながら祐の机に近寄る。
まさに祐が想像をしたような、今に蛇行をしてへろへろと怪しい足取りになる寸前の様相であった。
そしてようやくたどり着いて手の甲で額の汗を拭うと伊三路にビニール袋を預けては窓際の壁と机の間の僅かなスペースにへたりこんだのだった。
「す、好きなものを持っていってね、伊三路くん。ほら、机に広げてみて」
購買部で購入してきたらしいパンやおにぎりの入ったビニール袋を抱えさせられた伊三路はそれらを覗き込んだのちに促されるままに袋へ手を突っ込み、カサカサとした音を鳴らしながらも丁寧な動作で一度は食事を終えた机に食品たちを並べた。
 見慣れたパッケージのおにぎりは鮭や梅といった至って無難といえる具の名前が書かれた普遍的なものであるが、パンはいかにも手作りの感性があふれた食品用のラップ巻きに成分表示のシールが貼られたものだった。
よく見れば商店街に位置するパン屋の陽気なロゴがシールに描かれている。それ自体が紙製の特徴が強いことも手伝って一層に手作りの風合いを醸し出していたのだ。
パンを前に感嘆の声を上げる伊三路曰く、商店街に位置するパン屋はいつも昼の購買部用に商品を卸していて、そのうちの幾つかの商品はすぐに売り切れるほど人気らしい。
しかし、町のパン屋であることに特別な意味があるのではなく単に慣れ親しんだ味ともいえるのだろうという証明に、ラインナップは一部を除いては突飛さのあるものではないようであった。
『一部を除いて』という言葉を付け足す必要があるのは焼きそばパンやメロンパンの他に、漬物チーズといったような聞くだけには斬新なものまでが存在していたからだ。
こういった類の具の内容を全く聞いたことがないというわけではないが、特にそれが地元産で集客の期待ができるほど有名なものを使っているわけでもなければ個人経営であるパン屋でそれを量産するのであるのだからよほど自信があるらしいことがありありと窺える。
まだ腹の容量に空きがあるかように食べ物を語る様に対して己の目を疑るような祐の視線をよそに、伊三路はパンについている手作りの感性にあふれるパン屋のパッケージに明るい声を上げていた。
「あ! 漬物の"ぱん"だ! 通と呼べるくらいの愛好者がいるほどおいしいものだって購買部勤めのひとからこの前聞いたんだよ。いつも売り切れているからてっきりこれはまぼろしの食べものなのか、もしくはおれの聞き間違いさね、と思っていたのだけど本当に存在していたんだあ」
「ああ、それはね、店主さんがテレビでみかけたお総菜パンに触発されて作ってるんだけれど、まだ開発途中なのかよく中身の漬物が変わるんだよ。買い手の大抵は成分表を見ないし、パンの見た目も大きく変わらないから運試しみたいで面白いって流行っているのもあるけど、僕も味は一定の品質でおいしいほうだと思うよ。よかったら食べてみて!」
キャッキャッと会話に花を咲かせている様を横目に祐は、並べられていた食品たちが本来は弥彦に食事をさせるために購入してきたものであると推測をしながら眺める。
どう好意的に考えても一人分の食事量を超えているのだ。
それに暦が弥彦伸司に手を焼いているのはこの教室ではよく見られる光景であった。
一歩を踏み違えればいじめ紛いのその光景を当事者として受け入れながらも世話を焼くのは何故かという疑問を持たないわけではないし、傍目にそれを見せられていい気分もしないが祐は己の不干渉を貫いている。目を閉じているのいうのが近い表現であった。
周囲がこれを日常としているからではない。不快感はある。しかし結崎祐の日常に彼らふたりの存在が必ずしも必要ではないのである。
故に干渉を望まないのだ。
「伊三路くんはおにぎりが好きだろうから今はそっちが食べたい! って感じだったらどうぞ持ち帰っておやつにしてね。下校する頃には小腹がすくでしょ。それに僕も君の感想を聞いてみたいからさ」
 根っからの世話好きか放っておけはしないのか。どちらにせよ、過ぎた好意は害悪である。
少なくとも祐が教室の風景として知る日野春暦と弥彦伸司の関係はそういったものだった。
表情に出しこそはしないが意図が不明な親切心に対する理解の出来なさと不信感を頭の隅へ追いやろうとする。
やろうとする、と表現をするようにどこか引き摺れらる思考を悶々と循環させる祐に対して、暦は横目で様子を窺うと声をかけるためにブレザーの肘辺りをつつこうとした。
 そうっとした指先があと二センチほどで触れそうになると、視線だけがギッとした効果音が付きそうな勢いで暦を見た。
視界を僅かに遮りながら今もやや伸びたままの前髪から覗く青い瞳が鋭く欠け、いずれは新月へ向かう月のようになっていた。
周囲とはどこか異なる明るい色素がいやに冷たく、そしてクラスメイトのほとんどか共通して持ち合わせる暗褐色の瞳より目立つ瞳孔が仄暗いように微かな不気味を漂わせている。
切り口が鋭く静かな刃物のような性格をどこか怖いと表現して思考する暦は、祐のそういった一面に対して異様に細くなった月の翳りを想像させては己の身を震わせた。
色素の都合上で碧の滲む虹彩において瞳孔の色がより強調される祐の瞳は、そういった意味では暦の知り得る周囲の人間よりはどこか冷たく高貴であるイメージがあって、同時に威嚇をする猫のような視線だと思っていたのである。
月や氷の気高さと触れられないような美しさを持ち合わせながらも、暗がりの一面を持ち合わせて曇る表象が良く似合うのだ。
純粋な恐怖というよりは、身の縮こまる思いをしている。それにじっと睨めつけられた暦はより一回り小さくなり、尾てい骨までの背筋一直線をよく恐怖に陥れて挙動の不審を呼んだ。
視線はよく泳ぎ、折り返し地点で進行方向の前後を翻した。暦自身が視線の意図をよくわからなくして、視界の目まぐるしさが気持ちが悪いと思っている。
「……なにか」
もはや疑問符もつけずに視線の意図を問いただされると「あ、と、えっと」といった意味もない母音で間を繋いでしまう。
用意していたはずの言葉たちは一瞬にして吹き飛ばされてしまっていたのだ。
無言を経たのちに喉を通って思い出した言葉を口腔内に呼び込むと、暦は伊三路が机に並べたもののうちからひとつを祐に差し出した。
一瞬きょと、と気の抜けたような表情をした祐が視線が落とした先には紙パックのドリンク飲料が握られ、真っ直ぐに、どう見ても己に向けて差し出されていたのである。
それは『飲みやすいヨーグルト飲料ナンバーワン!』と自信に満ち溢れたポップな字体で描かれたパッケージだ。おまけに、購買意欲を呷るアピ―ルとしてわざわざ陽気な雲型の吹き出しを描き、『日常で不足しがちな鉄分をプラス! いきいき健康サポート』などと明るい色の文字が並んでいる。
「あのね、毎日同じもの食べてるって聞いてたからさ、その、身体に悪くないのかなあ? とか、思って。その、どうかな。よかったら飲まない?」
「習慣を気にかけられるいわれはない。必要な栄養ならば十分に摂取している。むしろ脂質が多いくらいだ」
これに限らず、日野春暦はこういった世話焼きが多かった。
 伊三路と接することが多い以上、暦と接する機会が少なからず存在する祐であるが、毎回のように世話焼きに対して己は自己管理を自分なりにしているのだと意思表示をするのはもはや"お約束"であった。
そして毎回のように暦は言葉に詰まって、そして勝手に気まずくなっていたのだ。
祐はそれらに明確な嫌悪を表すことはしなかったが、なぜ学習をしないのかは引っかかっていた。
繰り返すだけの愚かしさを恥じない姿勢だけは粘り強いのである。
二、三度突き放して学習をしてくれればいいものの、それをしない様は既に気質だった。故にこのやり取りは毎度行われ、その度に祐は複雑になるのだった。
受け入れられないことを理解をしていて毎度きずついたような反応をすることの苛立ちや、理解が出来ないうえに結末がわかっていることを繰り返す思考及び行動への呆れがある。
おまけに気の弱さで感極まるのか今に泣き出しそうな表情で見られるとごく僅かも僅かながらに悪いことをしている気分になるのだった。
そして散々に胸焼けのような嫌悪を覚えた後に、苛立ちへと少しずつ変わることの毎回を思い出してどんどん苛立ちは募っていくのである。
本人の気の弱さからしてそれを武器として思い描いていることを通そうとしているわけではないことを重々に承知しながらも、"かわいそう"という情に訴えかけてどうにかなると思わせる構図が祐は嫌いだったからだ。
 気付けばまたすぐ傍で己の像が語り掛けてくるように辟易をした。
ついぞいたたまれなくなって元よりハの字に下がりがちになる暦が不安を表すかのように眉をぐっと下げる様を見て祐はわかりやすくため息をついた。
そちらがそれを気質とするなれば、祐の意固地なまでの孤独を望む様も気質として受け入れられるべきだったのだ。
そうやって他人との関りを望まないからこそ、今現在も向けられている他人の機嫌を損ねまいと過剰なまでに下から窺う曖昧な笑みに好感を持てないのである。
少なくとも、弥彦伸司や自分は日野春暦に対して良い言葉を放っているようには思えないのだから、彼も暴言の一つや二つで返せばいいのだ。
だというのにも彼は言いなりに委縮し、ヘコヘコと頭を下げながら曖昧に笑みを浮かべる。
恐らく、その態度に対して己は腹が立っているだと祐は考えていた。
腹に沈めた存在を意識もしたくない澱ばかりが、やはりそこに存在していることを色濃く主張をするのだ。
「そ、そうだよね~! 結崎くんってやっぱりそういうところきちっとしてそうだし……ご、ごめんね。勝手に」
最初は明るいやりとりを繕おうとした声の中で言葉尻の勢いが死んでいく。
 潤滑油が切れたパーツ同士が擦れ合うままに摩耗する音を鳴らすふたりのやり取りを露知らずの顔で一方の伊三路はおにぎりを選んでいたのだった。
最初は悩みながら手を迷わせていたが、すぐにツナマヨネーズと縦書きの長い文字列を圧縮したものに決めたらしかった。
そしてふたりの沈黙を割いて、額に緊張の汗を滲ませた暦の横っ面に伊三路はきらきらとした視線を向けた。
「わ、暦! おれ、このおにぎりの名前も初めてみたよ! これは本当に購買部で売っているの?」
「え? う、うん、そうだよ。ツナマヨ、人気だからね。今日は購買部の手違いで一部の商品の納入が遅れたからかまだあってラッキーだったんだ。伊三路くんはまだ食べたことなかったんだねえ」
「すごいよ。きみたちはおれの知らないものをたくさん教えてくれる。おれは今日だけで知りも想像もしなかったものの存在をふたつも知ることができたし、よもやこれを味わうことまでできるだなんて感激だよ!」
少なからず伊三路の言葉に間を救われた暦は何度も頷いた。
伊三路は目に見えて喉を上下させて唾を呑んでから愛しげにパッケージを撫でる指先で「本当にもらっていいの? 暦もたくさん迷ってこんなに買ったのかな。だったのならば、なんだか悪いよ」と呟く。
下瞼を膨らませて細められた目の形が大きな虹彩をきらめかせて強調する。締まりのない口元を見せられているうちにその表情へ引っ張られるとつられる口元で暦は答えるのだ。
「もちろんさ、もらってよ。弥彦くんが気分屋だから、何を食べるかわからなくてたくさん買ったんだよ。僕のことをパシりに使うけどお金はきちんと返してくれるんだよ、彼。近頃は機嫌も悪かったし、選択肢があれば一つくらいは気に入るかなーって。余ったら僕の朝ごはんとか、昼ご飯にもなるし。でも、本当に本当に遠慮しないでね。最近暑くなってきて日持ちは期待できないから。二つでも三つでも食べてくれたら、僕、とっても助かるよ」
「ええ! 嬉しいけれども……! でも、一人でこんなに食べたらばちが当たっちゃうよ」
身体を逸らして恐れ多いようなポーズをとっていた伊三路であるが、暦に上手く言いくるめられると結局のところ恐る恐ると手を合わせていた。食事の合図だ。
 フィルム包装は相変わらずたどたどしい手付きで下手くそに剥かれて、海苔の端をフィルム包装に巻き込まれては奪われている。
未だ知り得ぬ味を想像して既に頬をふっくらとさせてはホクホクとする表情の前でまだ一口分も欠けてはいないおにぎりが大事に手のひらに抱えられているのだ。
様々な角度からおにぎりを眺め、どんな味がするのかを十分に想像をする伊三路は暦との会話を唐突に思い出して、はっとするとそれを再開した。
「体育で球蹴りの後に購買に行くために走っていったのだものね。あちこちへ走っていたのに暦って想像よりずーっと体力があるんだ」
祐が拒否したヨーグルト飲料の行き場に迷った暦が自分で飲むためにストローを開封していたところで発せられた言葉に吹き出す。
そして『体力がある? 僕が?』と言いたいであろうことがありありと想像できる表情を浮かべて笑い飛ばしてから顔の前で大袈裟に手を振りだすのだった。
伊三路の中でかけ離れていく自己像を想像しては追い討ちの面白おかしさに襲われてついに咽込んだ暦は否定の意でぶんぶんと振っていた手で己の胸元をよく撫でた。
おにぎりを片手に心配をし上半身を屈める伊三路へ気遣いに対する感謝の言葉を伝えながら、ようやく呼吸を取り戻し、続けるのだ。
「まさか! 僕なんてなよなよしてダメだってよく言われるよ。さっきもボールを追いかける群れの後尾についていくのに精いっぱいだし、他にもチーム制の球技なんかした日には放課後までチーム組んだ人に笑われるし、たまに怒られるし……。今日なんかは転んで左手の指を痛めちゃったし、体力もなければ運動神経もないんだ、僕。ペンを持つのが右手で良かったあ、って思うくらいには運動も得意ではないしね」
落ち着きがない様を咎める祐の視線から逃れるように口元にハンカチを宛がった暦は誰に対してなのかよくわからない謝罪を何度かしていた。
そうこうとやり取りの間を曖昧にしているうちに伊三路はおにぎりを咀嚼している。
逆に言えば伊三路が黙っているのは咀嚼をしている瞬間だけであり、その間は暦と祐の間にごく気まずい空気が流れるのだ。
どこか肌を刺す柔い針の中でこうしているのだから暦は存外図太いと祐は考えている。
しかし、思考は思考のままに極めて無言を貫いていた。
会話をする義務もなければ、話したい話題もないからである。
「なんて……そうじゃなくって、人間は後がないって思うと結構力でるものらしいって案外本当だよね。今日は弥彦くんのお昼を買わなくっちゃって思って。そう思えば下駄箱まですぐだったし、廊下も本当は走っちゃだめだけど、いつもより短く感じちゃった。それだけだよ」
 しっかりと味わってから大きめの一口でぎゅっと握られた白米をかじりとるものの、食事を始める前にきゅっと握られたすがたを眺めた時間と比較してもずっと早く平らげてしまったおにぎりへ思いを馳せながら伊三路は言葉を返す。
更に相手からの返答を待つ間にも椅子に座ったままフィルム包装を片付け、机を拭くのだった。
「あれ? そういえば彼は今日出席していたんだ? おれはまだ姿を見てはいないけれども……」
「う、うん。弥彦くんに出してもらいたい書類があるらしいんだけど連絡つかないって最上先生が泣きついてきてさ……。絶対演技だってわかるけど、でも弥彦くんも悪さしてるから先生が気の毒だなって思って連絡とってみたんだ。そしたら来てくれるって言ってて。さっき屋上で会ったよ」
より鮮明に思い出したがって視線を僅かに上の方へ向けて暦は耳から直線で距離を下ろしたように己の首の側面へ触れていた。
眉を潜めて首を傾げながら鮮明に会話を思い出そうとするものの、大したことは話してもいないなと思い直して「そうだなあ、確か……」と呟く。
 何を聞かれたわけでもないが、暦の中では少しでも弥彦伸司がこのクラスメイト達に受け入れられたのならばうれしいと思う気持ちがあったのだ。
故にどこかいいところを伝えたかったのだが、捏造するわけにもいくまいとすればただの状況説明のみになるのだった。
「もうお昼食べてたから食べてたんだねって言ったら、彼曰く僕が持ってきたんだって。絶対おかしな話なんだけど自分で買ったならそう言うし不思議だなあって持って帰ってきたの。実際彼の足元にも購買のビニールはあって、パンを食べながら携帯をいじっていたよ」
状況を思い出して憂鬱を浮かべた暦は一気にやつれたようになって深くため息を吐いた。
目頭に疲労のしわを浮かべているその様を伊三路が山の稜線を描くような眉を心細く下げていることに気付くと、慌ててただした。
「いや、本当にここにいる誰かが悪いわけでもないし、ごめん、半分愚痴みたいだったよねえ! 『辛気臭い顔を何度も見せに来るんじゃねえよ』、なーんて言われちゃってさ。そりゃあ、ちょっとくらい思うことあるよ。うん……でも、本当に彼のそれは何の話だったんだろ」
いつも自信のないようにしている暦がめいいっぱいに意識をして眉をもちあげ、弥彦の声を真似するように喉を広げて声音を低くする。
眉間にしわを寄せた彼本人の思う精いっぱいの怖い顔は、そこまでしてようやくにそこら中にいるクラスメイト達が無表情でいるときのような表情だった。
元から人の好い様子で、少し気が弱そうなところがにじみ出ている。しかもその通りの性格をしているのだから、どうしてもこれでやっと周囲にとっての"普通の顔"になるのだった。
どうしても普段の立ち振る舞いに脳が騙されたのだ。
つまるところ、大抵の人間は日野春暦を善人だと認識している。それは祐にとっても言えることだった。
気が弱い、お人よし、世話焼き、の三項目で満点を取る日野春暦がそういうイメージとして染みついているということは、祐本人が思う以上に祐に染みついていたのである。
そしてまた、彼の友達である弥彦伸司について回るイメージもよく自覚している。
故に、祐は彼らを理解できないし、険悪である様としてどちらかと言えば賢くはない選択肢ばかりを選び取ってすると思っていた。
「暦、本当に一度しか行っていないんだよね?」
手持無沙汰になった伊三路は机に肘を付き、自身の頬を両手で包み込みながら首を傾げる。
 不思議であると語る様に目をピカリと鋭く光らせる様は、先の子供じみた言動にそぐわず暦の様子を窺っていた。
表情によって見せる様々な角度が移り変わる自然の色を思わせる伊三路の瞳は、じっと見据えながら日常の些細を疑っている。
「ええ? もちろんだよ。最近弥彦くんも変なこと言うから疲れてるのかも。今回みたいなことを毎回言われたら僕も非がある自覚がないし、どうしたらいいか迷うけども……」
「そうなんだ。……ねえ、いやならば無理に話すことなどなくていいけど、暦が辛いのはおれもいやだから聞くね。暦と弥彦伸司はどういう関係なの?」
静かに立ち上がり、わざわざ彼の席から椅子を持ってきて座ることを促した伊三路の言葉対し、ようやく自身が床に座りっぱなしであったと気付いた暦は椅子に座るために一度立ち上がる。そうしてじっと立ち竦み、床を見て呟いたのだ。
その表情は明るいものではなく、暦は視線を伏せていた。何度か口を開いたり閉じたりして、極めて落ち着きのない様子である。
「ぼ、僕と弥彦くんは友達……だよ。いや、だった、なのかなあ。もう兄弟って言ったほうが早いんじゃないかっていうくらい昔からの仲でさ。幼馴染なんだ。え、と。だった、なのかもしれないけれど……」
 間が生まれて、少しずつ余裕がなくなっていた。気付けば暦はすっかりしょぼくれて小さくなってしまっていた。
全ての言葉に自信もなければ、そもそも今しがたの質問をされるまで自信を得ていた発言の根拠は何なのだ?
そう自問したくなるかのように否定をして、言葉を過去の形に言い直した。とても今がそうだとは――今も関係がそうであるとは言えなかったのだ。
弥彦伸司が自分に対してあたる態度からも、そして自分自身が彼に対して少なからず思う理不尽の行きどころがないまま暴力的に育った感情も、綺麗な言葉ではとても表現できなかった。
字面ばかりの美しさに眩んでいる。暦はそれらのように気付きを得てしまった思考に思わず息を呑んだ。
こうして黙る息遣いのままに沈黙はこの空気を圧迫していて、どこかで切り返す言葉を待っていた。
誰がそれを口にするわけでも、促すわけでもなかったが、それをよく汲み取って椅子に座った暦は背に凭れさせた身体をゆったりとさせて浅く座り直すのだった。
こうして教室の一角だけ切り離された冷たさを横に、昼の教室は目を眠らせたまま騒がしさを継続している。



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