伊三路が顔を上げた視線の先――次第に近づく足音は余りにぎこちない。
まだ正体を現さない足音は忙しくバタついているために両足が絡まる勢いで走っていることを察したが、同時に、前提をそうするにしても随分とべったり地面に足の裏をつく走り方だった。
いかにもと語る疲弊に満ち溢れていたのだ。
もしくはよほど運動を嫌っている。今に減速すれば頭部は項垂れ、足をもつれさせながらヘロヘロと蛇行する様が容易に想像出来るくらいである。
それ自体があまりに不規則な騒音であるために一人の人間の動作によって生じるものと祐はとても想像していなかった。
落ち着いて聞けばひとり分ではあるが大層に不規則であったし、かといって複数と思えばあまりに疎らである。結局のところ足音の数に納得できる整合性が取れないのだった。
故にこれは、伊三路が表情を明るくする様子を教室で他人に怪しまれず周囲の騒がしさに警戒すること、つまり正常な警戒行動の裏返し――擬態だと根拠に裏付けて考えていたのだ。
教室という日常を訝ることがその他大勢のこの日常を享受する者たちにとって何を表すのかというそれ即ちを察した彼が、極めて日常の中に溶け込んだ動作でそれを威嚇しているのだと思っていたのである。
そしてこういった伊三路の行動を見るうちに抱く感情として半分は呆れていた。
あまりに一瞬で追いやってしまった先ほどの真剣な表情が、祐の思考にモヤついた感情を残して尾を引こうとしていたのだ。
切り返しが早いというべきか一層のこと感情の薄ぺらさすらあるというべきか、とにかく掴みどころがない。茅間伊三路という人間の、本質であるべきとするものとは僅かに異なる事実として抱く感情が見えないというところが本音である。
これだけを語り、私見に満ちていながらもどこかもっと別の感情を隠しているのではないかと思ってしまうのだ。
拭いきれぬ疑いがある。かといって手放しで信頼できる仲でもない。
この場面で抱くべき正しさを祐は窺い知ることはないが、あっさり引き返して日常に帰った伊三路を大した役者であると白い目で見ているのはただ一つ事実である。
とにかく思考の切り替えが上手いともいうのだろうが、信頼の築けぬこの場面では軽薄さを浮き上がらせるだけであったのだ。
そうして引っ張られる両端に身の振り方を弄ばれるままで、祐だけが中途半端な表情をしている。
「ほらほら、祐!」
 どこか茶化すように粘りけのある甘ったるい声をあげると肘を折り曲げ、尖らせた関節の辺りで伊三路は祐の肩を小突いた。
向かい合っている姿勢からその動作をするには些か無理が生じるが、真正面で向き合っていた身体の向きをわざわざ変えながら動作をするべくとして肘を拙く突き出す様は、ガタついた印象を残す。
どこか不自然をしながら大袈裟な態度をとる横顔は、動作よりもずっとゆったりと笑みを浮かべていた。
先の言動の曖昧に抱いたそれらも消化できぬまま目の前の男を訝り、時には睨めつける角度で見ながらも祐は結局のところ、視線を追いかけて教室の出入り口へ鼻先を向けるのだった。
 最初こそ理解が出来なかったものの、先までの言葉をより遡っては伊三路の態度を合致させるためのいくつかを思い出して大体を察する。
納得を経て確信へ変わった察しは息を与えられるのだ。点在していたそれらが繋がり、線を描いた根拠が途端にいきいきとしだす。
そうなのだ。この集まりには呼び出しもしない客が来る予定であったのである。
いや、正確には己の了承ないところであたかも歓迎するように呼ばれた人物もまた、被害者ではあるのだろうが。
このような思考をしながらも、どこか身体を動かすことで発散したがる苛立ちは足を揺り動かしかける。そこでやっと祐は自身に行儀が悪いと戒めの枷を首へかけ直すのだ。
戒めることにより思考の自由を制限し落ちつかせる感情があるとはいえども、仮に――仮に日野春暦が自身は被害者であると宣ったところでそんなことは知りえぬ。それだけなのだ。
問題点と怒りの根源を兼ねて存在するのは茅間伊三路が昼食を共にすることを取り分けて良しとも言っていないというのに、更に他人を呼んだことである。
だからといって日野春暦が被害者であるかないかなどの問いを、つまり一連における彼の不憫と伊三路の落ち度を、祐が察してどうにかしてやる必要はない。
強いてどれかに善悪の定義を与えるのならば、謝罪をするのも情状酌量を乞うのも茅間伊三路がすべきことだ。
故に、祐の中で測るべく大小の優先は自分が不快か不快ではないか、ただそれだけだと考えていた。
己の干渉する場面を最小限にして生きることを望むこの男にとっては、事実としてそれを強行するとすれば全体を見る必要がないのである。
貫くなれば傍若無人に振舞うべきだと語って過言ですらない。要らぬ諍いに巻き込まれたくないという思考そのものに強い自己防衛が滲んでいた。
義務ではない私生活において、かつ余程の善悪と罪の問答でなければ己の感情に食い込む事象のうち、最低限の事実を並べて判断する。干渉の最低限を望めば望むだけに手段はそれだけしかしようがないのだ。
とにかく、否、かくして、この騒がしさは日野春暦だと思われていた。
 答え合わせが今に迫り、環境の騒がしさが増すことに憂うことをする直前も直前になって急に足音はぱったりと止まっていた。指摘されて察することのできるようになった気配は、教室の前ほどで、ちょうど引き戸である分厚い木板そのものに遮られては身の隠すような構図になっているのだ。
恐らくという前書きを必要とはするものの、極めて聴覚を薄くて鋭いものであると研ぎ澄ませば、日野春暦における手振りに追従する大きなリアクションと気弱な性格には損なほどよく通る中性的な声をこの教室内からでも聞き取ることができるだろう。
彼はやたらと人の関係に巻き込まれる印象のある人間であったために、祐はまた何か声をかけられでもしているのだろうと考えたのだ。
暦と祐に直接の交友関係があるわけではない。
しかし、暦がその気の弱さと人の好さから頼みごとを断れないことと、彼自身が気弱の次には元より明るい性格を有しているためにそこから人と仲良くなることが実は多いということは同じ教室で過ごせば半年もかからないうちにわかることだった。
彼が学校という狭い社会構造において薄汚い優越感のための踏み台に成り下がらない最たる所以である。
学校生活における最低限以外の会話――いわゆる世間話をしたことはほとんどないものの、ふたりは一学年の頃も同じ教室で生活をしていたのだ。
 まるでわかりやすさのアイコンのように砕けた表現であるが、胸筋が肩の筋肉へ収束するあたりを未だにドシドシとつついてくる伊三路の肘を手で軽く押さえて落とした祐は、言葉にせずと嫌な顔で見つめ返した。
少しの沈黙ののちに、再び小突いてくる肘を押しのける力が強くなっていたことに対に提言をした。
「やめてくれるか」
圧のある声色でゆっくりとした語調にしてやるのだ。祐は嫌がったり、怒ったりする負の方向に対する表情に関しては豊かであったが、茅間伊三路という人間に対してそういった意思表示をするためにはよりはっきりと言葉にして、一字一句を明確に言い聞かせて語ってやるのが効果的であった。
彼がそこまで言わないとわからない男にはとても見えないし、本人も『本当に嫌ならばやめる』とすぐ言うことが出来るのだ。
ならば何故わざわざ嫌がらせのような綱渡り半分の言動を繰り返すのか。祐は薄々に、伊三路が結崎祐という自分の中にある何かを探るためにそういった行動を繰り返すことを感づいている。
しかしどの言葉でもそれの理由を明確に指摘することが出来なかったのだ。
そして、祐自身が己の疎んだ部分と向き合うしかなくなる瞬間が来るとしても、己の納得できない知覚の向こう側の世界を知りたいと思っていたのである。
向き合う恐怖に恐れ戦いて足を引き返したくなるまではこの好奇心に突き動かされたいとすら考えていた。
知ってどうこうをしたいだとか何かが変わるだとかを言いたいわけではないが、とにかく現実の逃避に都合が良かったからだ。
何をどう考えようが、常識の通用しない世界のことを考えているだけのうちは現実に何の害もないのだ。
そして何より、ずっと引っかかっている感情に思考を与えたいと考えている。いつだってそのひっかかりへ感ずるものは言いようもなく存在するのに、空であった。
無だ。何もない。存在するのは何かが確かに存在していたという痕跡だけだ。
奪われたように忘れた何かがあると思えて、それが気になって仕方がないのである。
それらは今にするべく思考ではないが、と茅間伊三路という人間に対する疑問を頭の端へ追いやる。
またそうやって捕らわれる間にも、伊三路は祐の肩を指先でつついた。
先ほどのように砕けた態度で無遠慮にコミカルなコミュニケーションを演出するのではなく、意識を向けるためだけにほんの少しと触れるだけのものだった。
「……やめろと言っている」
「眉間にしわが寄っているんだってば。ね、おれをみて」
 伊三路は自らの口端に両の手から突き出した人差し指を宛がい口角を持ち上げると祐に自身の顔をよく見せつけた。
よく表情の変わる顔であるが、口の端を指で持ち上げたことによって作られる薄ら笑いはどこか歪である。
『い』の発音をする口で控えめに歯を覗かせると、指で引っ張っていた頬を解放し、普段のように自然な笑みを見せた。おまけにけたけたと声を上げて一人で笑いだすのだ。
笑わせようとしているのか、笑うことを強要しているのか、祐にはどちらにも思えたが何も楽しくないのに笑えと言うのも無茶な話であると理不尽を覚える。
この男はいつでも楽しそうだった。意味のない会話でも楽しくなると宣ったのは嘘ではなかったのだ。
それだけは祐は彼を見ていて間違いがないと思うことが出来る。
会話の中にある言葉の切れ間や趣味の合う人間であるならばともかく、自分のように如何にもつまらないであろうとする人間にそれが出来るのはなかなかに稀有な感性をしているか、余程に退屈をしてきたのだろうと祐は思考していた。
「きみがこれを嫌うのは十分わかったよ。おれもきっと次は気を付けると約束をする。努力もするさ。『今回ばかりは』と顔を立ててくれとも言わないし、何かあれば暦にはおれからちゃあんと謝るよ。……でもね、きみが暦に思うことがあるからではなくて、今しがたの話題に引っ張られて曇った顔をするならばそれは暦だっていい気分じゃあないよ。きっとね」
「ね」その末尾を繰り返して示す方向へ顔を向ければ、間もなくして慌ただしく乳白色のビニール袋を抱えた暦が慌ただしく教室へ入ってきた。



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