ずたずたに刺さってしまいそうな視線に対して開き直り、茶番に幕は引かれていた。
打って変わって涼しげな表情をしては刃物のような視線がズタズタにしようとする様を簡単に避けてみせた伊三路は首の位置を僅かに低くして、教室を視線だけで見渡す。
昼休みの教室は、購買に赴いたり、教室外の場所で昼食を摂るために席を離れたりしている生徒の分だけ席が空いている。机に身体のほとんどは収めている椅子の背凭れがずっと静かにしていたのだった。
しかしながらそれは一部の話であり、疎らに席を空けながらも声量のある生徒が着席しているあたりからは話し声がこちらまで届いている。
教室には一定騒がしさがあったのだ。
言葉たちを受け流しながら伊三路が風で大きくざざめく木の葉のような瞳を僅かに瞼で伏せる。
言葉を区切ったきりである様子に対して訝る態度を見せた祐が言葉の続きを促そうとすると、むしろ伊三路は自身の唇の前で立てた人差し指で祐を制して周囲へ意識を向けるように微かに顎をしゃくってみせた。
言葉を紡ごうとしていた唇を閉じると素直に促された通りに、目と耳の中間あたりに意識を向けた。鼓膜の厚みを想像するかのように耳を傾けていたのだ。
すると自然と微かに首が傾けられ、祐の伸びた黒い前髪が目尻をくすぐった。
耳を傾ければ、他の生徒たちの会話そのものの内容が洪水のように雪崩れ込んでくる。
その中からいずれかを無作為に選び取って一字一句のすべてを正確に聞き取ることは困難であれども、幾つかの特徴的な単語を拾い上げれば概ねを予想することは容易いことではあった。
例えば、生活及び進路指導の教師に対する愚痴、進路希望に関する自己分析シート課題の内容。数学の課題答案を写させてほしいと懇願する声とそれにおどけた条件付けをする声。四校時目で行った体育の授業のことを話している声もある。その他のなんでもないような言葉たちで満ち溢れていた。
改めて意識をすれば、息苦しくなるくらいに溺れる情報がそこには存在していた。しかも、それらはじっとしているのではなく、応答を求めて飛び交っているものから、ただの独り言のように留まるものまでを様々に意図した感情でここに存在していたのだ。
「人間はさ、他人の陰口を共有すると仲良くなれるのだというらしいよ。後ろめたさという秘密を共有し、保持を続ける二人は一種の信頼関係で結ばれるのだってさ。まあ、元よりほめ言葉ならば秘匿して抱く意味などないものね。いやに晴れ晴れとしなくってむつかしい話だなあ」
この話を自ら語りながらも、落ち着きなく伊三路は机の天板を爪で掻いていた。
緊張や張り詰める感情を誤魔化すためであることは簡単に想像できた。彼にとって短い爪であろうとも自身の皮膚に触れ続けるには些か敏感なものがあったらしい。
経年の劣化で摩耗し、よりつるりとした天板の木目は爪をひっかけることなく滑らかさを往来する。再び始点へ戻って天板に触れる瞬間のみに固いものがぶつかり合う音を鳴らしていたのだ。
「長い前置きは要らない。結論を述べろ」
結論に急く祐を一瞥して伊三路は笑みを浮かべる。
心底面倒くさそうにする表情をにこやかに見つめていたのだ。
「議論するほどの知識がないのだから、乞うたほうが早いだろう。それとも、見当外れを延々としたいのか。先に断っておくが、こちらは御免だからな」
「全く以てきみの言う通りだ。おれは議論もしたいけれどもね。ごめんよ、あまりにも素直にそういうことを言うのは今のうちだけかなあって思っていたんだよ。出来ることは何でも自分でやってしまうきみだから、今のきみはきみのうちの一つとして貴重さね。ふふ、おれも断っておくけれどもね、決してきみのことをばかにしているわけではないんだよ」
その言葉の中でも伊三路自身は目の前の男に結論を述べれば、その間に含む余白のほとんどを己のしている思考とよく似た内容で補完をしてくれるであろうことを知っている。
しかし、伊三路は茅間伊三路なりに結崎祐という人間の思考に影響を与えたいと考えて言葉を発しているのだ。
そしてなにより、言葉を重ねれば重ねるほど、伊三路は茅間伊三路としてこの生活に楽しみを見出しているのである。
ふふふ、と顎を引いて続けていた意味の深いような笑みを潜めると伊三路は人差し指を再び唇へ寄せた。感情の波で声量を変化させるこの会話のうちで二度目の動作であった。
そして声量を一回り小さくしたのだ。
普段から機嫌良く豊かな山の稜線を描く短い眉は、今この瞬間は平坦に距離を寄せて感情を薄めていた。
「もし、特定の人間に悪意を孕む興味を集中させることが出来れば、犠牲者の選定範囲をある程度絞ることが出来るというわけだよ。蝕は元より小さな生き物だから本来ならば人間を丸々捕食するに至らない。基本的に生きるべく場所は違えど、仮にこちらの生物を捕食対象とした際には精力を少し削り取る程度で長く生きることが出来るはずだ。でも、やつらは厄介なことに成長をすると知性を帯びる」
伊三路は肩を軽く持ち上げ、軽く根元から回した後に背凭れへ身体をゆったりと預ける。
 身体の角度を大きく斜めにし殆ど凭れて座った姿に「姿勢が悪い」という祐をものともせず、伊三路は生徒手帳より上掛けのカバーの分僅かに大きい黒革の手帳を内ポケットから取り出した。黒く染めつけた革表紙であるが、何かをこすりつけたり、泥か何かのついた手で触れたりしたことが明らかな汚れ跡のあるくたびれた手帳だ。
伊三路は手帳をいかにも適当に捲っているように見せて、的確にページを示した。
そこには丸っこいものの、微かな粗暴が滲む様から確かな男性性を感じることができる文字が並んでいる。
比較的丁寧に書こうとした意思が見られど、もとより特筆した上手さがあるわけではない。
字形のひとつひとつにおいて末尾へ向かうにしたがって見え透いてくる乱雑さが見てとれたが、全体としての印象はどちらかというと丸ゴシックの丸みに似たものを連想させるものだった。
駅や道すがらにある古い看板に描かれた文字のような親しみのある丸い文字が、どう見ても伊三路の筆跡ではないことを祐は理解していた。
伊三路は座り直し、机のほうへ身を乗り出すと黒革の手帳に用意された幅の狭い罫線を指でなぞる。
「人間から削る精力のほかに、取り込むうちで蝕の本能的な思考が人間に蓄積された賢く生きる術の数々を吸収した。もしくは知性その他、能力と呼ばれる心身の機能そのものを乗っ取り自身のものとして取り入れることが出来るのではないか? という仮説があるんだ。これはそれを記す"誰かほかの人間の手帳"だけれど……手帳のことは改めて話すよ」
言葉を区切ると黒革の手帳をぱったりと閉じて伊三路は胸の内側へ位置するポケットへ大事にしまい込んだ。
手帳の表紙は黒ずんで汚れているように見えていたが、彼が何に包むこともなく生地に触れるところへしまったのだから、それは見た目ほど汚れたものではないらしかった。
祐は言葉を反芻し、伊三路の放つ言葉の一字一句に思考を宿らせた。知識としてしっかりと刻み付けようとしていたのだ。
小さく頷ける顎の動きを、窺うように目の表情を上目遣いにした伊三路は見ていた。
そうすることで祐の理解に区切りがつく瞬間を見極め、あまりに間の良い瞬間をついて言葉を続けるのである。
「とにかく、そうして知性を得て――物事に対する明確な知覚、感情という概念の存在を感じることができるようになると人間が育てた鬱屈した抑圧や悪意、果てにはそれを宿す血肉が美味なことに気付く。憚らず表に出す感情ではなくて、抑え込むべきとした人間の負の熱量……本来そういった感情を別の形に昇華させるにはそれだけに多くの力を必要とするから」
 再び言葉を一度止める。
風が揺らす松葉色は暗がりから見る氷の足元をじっと見つめたが、答えが返ってくることはなかった。
それを認めた松葉の色は夜が降りるように翳り、伏せられる。交わることのない先を確認して言葉を続けた。
まるで息継ぎをするだけの時間の出来事で、誰かがそれに何かを指摘することはない。
小さな時間の中に、心細さが追いやられていくのだった。
「抑圧と昇華の間で行き場を失くしたそれらの幾分かは外側へ押し出される。その匂いに感づいて寄ってくるようになったというわけだ。明確には、群れなどの社会形態を形成する生物において不満や諍いは必ず生まれ得るとして先の手記で書き手は蝕が好んで寄り付くという対象の初手を"思考を持ち合わせて社会に生き、二酸化酸素を排出することの定義で生物と定められた熱源"としている。やがて人間は美味、ということが広く種の知識として行き渡った蝕は今や人間の負の感情を好んで食むというわけさ。さて、一度、話に区切りをつけようかな?」
「……構わない。続けろ」
「承知したよ。……悪意に過剰な反応を示すから、言語によって他者の印象を左右することのできる人間は餌食になりやすいよね。三つの可能性があるのさ。一、波長の合致。これは本当に特筆事項のない偶然だ。二、影響力があるが故に模範を望まれた彼女が抑圧された感情を育てた。もしくは注目されるが故に周囲が育てた感情が集中した結果、蝕にとっての美味に変質したこと。それによるただの悲劇だ。ここまでは事象においてまだ多い例で、とても簡単に、蝕による単独犯だ」
唇を軽く噛んでいる祐が、すっかり考え事をしていて相槌を忘れていることを伊三路は感付いていた。
考える仕草のテンプレートのように顎の付近で暇を持て余す指先のうち、親指のそれが時たまに下唇を掠める。思考の時に生じる癖のらしかった。
だが、それらを見送り、言葉と言葉の間に少しの時間を待っても疑問も聞き返す言葉も返ってこないことから、ある程度に納得と辻褄に矛盾を生じない答えには辿り着いているのだろうと結論付ける。
こうした些細な気遣いと理解によって会話は続けられていたのだ。
「厄介なのは次で、その三だ。それは蝕と人間が既に接触をして利害関係を結んでいること。二の出来事に対して、知能を提供し"そうなる"ように裏で糸を引いている人間がいるかもしれないということだ。まだ知能の低い弱い蝕を人間が利用しているのか、人間を利用して高い知能をつけた蝕が名指しするかのようにして捕食をしているのか。それによっても今後が左右される」
その言葉が一種の区切りを求めると、祐は何度か頷いて「言いたいであろうことは概ね把握した」と呟いた。
伊三路の口ぶりからして、どちらにせよ喜ばしいことではないことに違いはない。どちらが"マシ"かを延々と問いかけるしかないのだ。
後者であれば共犯となる人間はよほど蝕に頼らざるを得ない野望があるか、人間たらしめる秩序に常に怯える、卑怯で姑息な小物だ。
そうでなく人間が利用される側であったとしても、己可愛さに他人を売るくらいには自己愛のあることが自然と浮き上がるのである。
前者であれば人間"が"犠牲者を選定するという、集団心理を盾に簡単に他を好きか嫌いかの基準で振り分けるような選民行為だ。
どちらであれ、まるで思い上がったような行為だと祐は呆れた。同時に、正しさから外れたならば等しくそれは正しくないことなのだろうかと問うた。
情状酌量を最初から求める話ではない。
何が誰のための正しさであるかである。
秩序に則ることの出来ない者を輪から排斥することで得られる利を十分に理解しながらも、どこかでは言い訳をしたいことだってあるはずだ。
どれだけ平等を語れど、生物には等しく形成される美しき三角形の縮図がある。何を嘆いて何を賛美しても人間の数だけ観測地点が増えれば自然と立ち位置には左右が存在し、上下が生まれた。
だからこそ、"思い上がった行為"に共感の出来ないわけではない祐は、後ろめたさに足元を見ていたのだ。
仮に自己愛に満ちた快楽という目的以外で蝕の力を手に取るとき、一般論という普遍の正義と、個とあるが故の悪のどちらに自分は擁護をするだろうか。
欲望を掻きたてる蝕と善悪の選択の二つが揃って世界中の普遍に満ち溢れていたのならば、歴史がこれらを悪魔と呼んだことが納得がいくようだった。
どちらも嫌な生物だ。そして自分もそのひとつだ。祐は自身をそう信じて止まない。
 真剣な思考の処理に飽きとする逃避をして、伊三路の口ぶりではまるで週刊誌に掲載される小説や漫画の世界観を考察しているようだと祐は己の思考を切り替えようとした。
そのあっさりと語る表情は何だと前を見ると、伊三路は俯き、いつの間にか祐の想像以上に深刻な顔をしていた。思わず唾を飲んで次の言葉を待つ。
机に投げ出された拳は手首まで力が入り、ぎゅう、と握り込まれていた。「か」と発した口をどもって紡いだ言葉が震えている。
「……過去に人間と利害関係を結んだものが居てね、甚大な被害をもたらした。いや、あくまでおれの知る記録上の話、だけれども。だからこそしっかり……疑りようのないほど調べなくてはいけない。目に見えない生き物で、追う術がない以上、周囲の言葉を意識するしかないんだ」
 蝕が入り込めないようにするための結界の中で綻びが生じたという時点で、結界を形成する一柱は内側から破壊されたことになる。それ以外に説明がつかないのであるし、伊三路自身が語った言葉である。
その事を考慮すれば、蝕の習性を上手く利用して間接的な殺人を犯している人間が居てもおかしくない。共感の有無を前に事実だけ語ればこれに尽きる。これが問題の本質であるのだ。
伊三路の持つ春の麗らかな日差しが落ちる土色の前髪の向こう側で、彼の瞳は激情に満ちていた。普段より目つきを鋭くしている。
怒りや悲しみといった複雑で瞳が揺れているのだ。
激しい風が吹いて大きくざわめく枝葉を思わせるそれは、感情を表すどんなに繊細な言葉で形容しても適切に表現をすることは敵わないだろうと思える色をしていた。
強いていうならば強い風で大きく揺れる枝葉の隙間に見る遠くの景色だ。明滅することに似て奥そこへ秘めた激情なのだ。
燻った感情には明確な矛先があるようで、暗く強い感情へ引き寄せられるのはゾワゾワと這い寄る澱んだ気配だった。
それはよく感情を周囲へ滲ませたが、害を及ぼす邪悪ではなかったのである。
あの穏やかさから想像できないような表情もするものなのだな、という程度で祐は己の暗がりを薄めて思考していた。
「この土地に入り込んだ蝕……おれの予想では恐らく知能が高いほうだ。常に最悪を想定する必要があるね。そして彼奴が今後、いまから人間へ接触する可能性も捨てきれない。だだ……それを否定しようとするのが"何故今なのか"だ。意図が掴めない。いや、そうであってほしくないと思っているだけで、おれのする想像と異なる個体であることを望んでいるのかもしれない。……ううん、大丈夫。おれが冷静にならなくっちゃね。十中八九は杞憂に終わる話であるのだから」
「……杞憂に過ぎればいいがな」
珍しいほどに思い悩んで抱え出した頭は苦痛を浮かべて机に沈みそうであったが、祐の言葉にはっとしたようだった。
楽天的な言葉を咎めるそれが今はまだ心地が良いのだと力なく笑み、静かに頷いた伊三路はばたばたとした足音に気が付いて顔を上げる。
「ありがとう、祐。きみの慎重さがあるから、おれは『きっと大丈夫さ』って言えるんだね」
その言葉を告げると、足音を歓迎するかのようにすぐに表情を明るくした。
 さっと閉じた生徒手帳を黒革の手帳と同じように慣れた手つきでブレザーの内側にある胸ポケットにしまう。
「そうはならないように、おれはおれの務めを果たすだけだと強く思える」
その際にちら、と美術教材として使用している彫刻用切り出しナイフの木製の柄が覗いていた。
白に近いほど輝いて見える塗装のない木の肌の色をしたそれをはっきりと確認した祐は、やはり先日の獣の蝕はそれなりの相手であったのだと想像した。
どう見ても切り出しナイフはその場凌ぎであるが、そうとわかりながら携帯するならば『急いで必要になったから』である。
それにしても伊三路が他の生徒と対して変わらない立ち姿であるにも関わらず、隠し持った手荷物のあまりの多さに祐は素直に感心した。
まるで、ブレザーの内ポケットからはなんでも取り出せるかのように存在しているのだ。何でも持ち歩いているとも見えるのだった。
半分は取捨選択に渋り甘える伊三路の優柔不断を皮肉るように思考する。
自身にも見られるものである煮え切らなさが、体を表すように伊三路が手荷物の多い様をそう皮肉ったのだ。同時に、己の身軽さをまるで何もないと語る。
それは決して誇らしいものではない。
この手に持って行くべきもののうち、何が必要かもわからないことが一番の恥と思えていたからだ。
 茅間伊三路は勉学を語らせて賢い人間ではなかったが、これらを愚かしさの天秤に乗せた際にどちかへ傾くのか。程度の重さを測るその答えを祐は鮮明に想像することが出来ていた。
馬鹿らしい。
経験をしながらも未だに、目には見えず、かつて知り得もしなかった場所や事実をも受け入れられず、遊びごとであり一種の逃避の産物とする。そんな空想と勝手に決めつけた場所でこそ、本当に知りたくなどなくて目を逸らした事実を――真実を知るのだ。
薄い紙を透過するだけの虚が何かを知る。
全く以ってくだらない話であった。故の愚かしさとすら言えるのだろう。
"結崎祐"という人間がこの世で一番に憎たらしくて、愚かであると恥を覚える。爪の先ほどくらいには縋ってしまいたいと思う愛着さえなければ今にずたずたに打ち破ってなくしてやりたいと思うのだ。祐は自分自身を嫌っている。
弁明をしたい気持ちを漠然として持ちながらも、自らが自らを一番強く、明確に否定していたいのだ。
かくして、今この瞬間も根は深く張り続けている。



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