「ごちそうさまでした」
 甘辛く炊いた昆布は細切れにされ、ふんわりとした空気を含せるために底からほぐして天地を返されている。
白米によく合わせるために風味への含みを持たせながらも、濃く味付けされた昆布の上で黄金とも見紛う輝きをもつ胡麻が揺らぎの立つような芳しい香を与えていた。
唾液腺を刺激しては食欲を唆る塩味に、豊かな甘み。そして煮出せば良い出汁となるであろう渋みが後引くうま味としての尾を引く。
深煎りの胡麻の香りがそれぞれを一つのかたちにまとめあげてこれを調和としていたのだ。
冷めた一粒ひとつぶたちが僅かな硬さをもってしまっても全体の旨みを損なわないよう炊き方の工夫された白米に包まれ、これまた美味とさりげない手間の象徴を盛り込んで炙り焼いた海苔でおにぎりはきゅう、と結ばれていた。
機械の手ながらに実現された安価の中にもこだわりが見られたらしく、伊三路は満足げな笑みを浮かべていたのだった。
目元をふくふくとさせながらも普段の溌剌とした様子や大きな口から想像するよりもずっと丁寧におにぎりを頬張り、平らげた彼は感謝をするように食後の挨拶をする。
指紋同士を重ね合わせるほどの気真面目さでぴったりと両手を合わせていた。
それを終えると、購入した際のビニール袋に同封されていたと思われる手拭き用のウェットシートで丁寧に手を拭く。ビニール袋へごみをまとめ、最後に持ち手を交差させて結ぶと机の端へ置いたのだった。
 しっかりと清潔にした指紋の間に這う水分量の調子を指先をこすり合わせることで確認した伊三路は、机に砕けた海苔が落ちていないか目をよく細めては丁寧に見渡してから腹を休ませることもそこそこに手帳へ書き物をすることを始めた。
生徒手帳の末尾に備えられた罫線引きのメモ欄を改めて開き、デザインが極めて簡素なボールペンの先を走らせるのだ。
 天井へ向かって張る糸で吊るされたかのように背の正しい姿勢でペンを走らせる伊三路をよそに、祐は栄養補助を謳うカロリーブロックをぼんやりとしながら口へ運んでいた。
かじり取る甘味がぼそぼそとしていて常食するにはとても美味とはいえない。
特に味を気に掛けるほど食事に興味を持たない祐であったが、それでも微かな塩味と生地のダマが砂利のように粒が立っていると感じられることが頻度として目立つと思うのだ。
固めた土くれのようだとも表現できるそれが噛みあう歯の感覚を嫌な方向へ騙していた。
粉っぽさのせいで水分の奪われる口腔内が過剰な演出をして、食感がどこかぎこちない気がしているのだった。いつしかそれが"普通"になっている。
そういったように文句を垂れたくなる気持ちもあるが、やはり語るほどの情熱はないのだ。
食事は義務なのである。胃が騒がない程度に固形物をくれてやればいい。
身体を健康として表す数値の範囲で維持できれば問題はないのだ。
代わりに何を食べようだとか食に悦楽を見出すだとかいったような選択肢を選択肢として勘定しないのは、少なくともそういった理由で偏った食事をするよりかは目に見えた数字として得られるものが既にあるからだった。
 栄養素が体内で吸収されるうちに曖昧な個体差が出るとしても、――これに限らず何かを訝る他人を、そして誰よりも己を疑る自分自身を何よりも納得させるのは統計学上で明確なものを示す数字であるのだ。
一種の生き易さを求め、物事をはかる際に目盛として切り分けたものから基準を打ち出す記号が数字なのだ。そしてその統計に参考とする数を多く含めば客観性を得て水準という姿かたちにもなる。
口先の小難しさで騙す必要すらなく、中央の値と己の現在地を示せば誰もが納得をするのだ。
唯一ではないとはいえども揺らぎなく、曖昧をもなく、目に見えて理解が出来る確実性のひとつだった。
同時に肺に循環させるための酸素に喘ぐばかりの生物にその定義を押し付けるのも、数字から割り出した中央の値である。いわゆる、一般論というものだった。
 閑話休題。いつの間にか窓枠をなぞっていた視線は伊三路へ移り、頭の上のほうでよく跳ねている毛先が寝ぐせかわざわざそういうスタイルとして癖づけたものなのか判断の付け難いもの見た。
一瞬だけどちらなのだと考えるが、すぐにどうでもよくなって意識は散っていく。興味が薄紙の一枚にも満たなくなって祐は手元に持っていた銀色の個包装から一口を奪っていった。
そして咀嚼をしながら、手元は銀色のアルミ箔を模したビニール包装を畳んでいるのである。
粉っぽさとざらついた塩味がいつまでも舌に残って水分を吸っていることがどこか気持ち悪く、祐は幽霊のように居残るクッキー生地の後味を玄米茶によって底まで流し込んだ。
その頃になると一度手を止めた伊三路が、極めて簡素な食事を続けて飽きはしないのだろうかと疑問を浮かべて、机の上に畳んで置かれているボール紙で出来たカロリーブロックのパッケージを眺めていた。
栄養素を短縮して表示するアルファベッドを眺めながら発音を想像して唇を尖らせている伊三路の手元を、祐もまた見つめ返していること気付きはしていない。
 手元を眺める氷の瞳に映っていたのは手帳に並ぶ文字たちだ。
崩されてとめやはねの勢いが繋がった癖の強い文字が罫線の上下に収まるように並んでいるのだ。特有の癖は縦書きばかりを私生活に近付けていることがよく推測され、この文字たちが罫線の方向へ従っては横書きに記されてあることが手伝って非常に読み辛い。
書き手が書き手自身しか見ないことを想定した走り書きのためであることは想像できたが、祐は普段からも伊三路が記述をした課題を回収し、評価をしなくてはならない教師たちに少しばかりの同情をした。
言葉にして指摘するほど字が汚いというわけではなく、かといって解読のしやすさには欠く。注意をするべくかの境界において、なかなかに判断しがたい場所に存在する筆致であったのだ。
達筆。
そういった表現はもちろんとして美しい筆致を示して形容する言葉でもあるが、伊三路の文字は敢えてそういったような曖昧な範囲で呼称される類である。
その癖の強い文字たちが祐から見る視界では逆さまであるのだから、なかなかどうして解読に時間がかかっていた。
目を細めてじっと手元のピントを合わせようとする無意識の様にようやく祐が何を見ていたのか理解をした伊三路が、ノック式であるボールペンの頭を自らの唇のすぐ下に押し付けながら呟く。
「この前の事件のことを書いていたんだよ。被害にあった女子生徒の鷺沼という姓は、この土地において広く顔が効いて優位に立てるものの一つだからね。様々な憶測ばっかりだ。人々の仲も長いから情報収集はもちろん、その中から真偽を分けるにも一苦労なんだ。閉鎖した土地の善し悪し、どちらもを兼ねている」
 被害者は鷺沼紗、十七歳。高校三年生。そういったような基本的な情報が、手帳の後半に向かうへしたがって罫線からはみ出しつつある文字たちで記載されている。
事件を紐解くものというよりは、むしろ、大したヒントになるとはとても思えないごく普通にありふれた基本情報だ。
どちらかといえば伊三路は事件に関係のありそうな経緯よりも、鷺沼紗という個人の生活態度や思考に重きを置いた情報に興味があるようであった。
所属する部活動から簡単な家族構成まで、何処から仕入れてくるのだと祐は呆れる。
見慣れてきた癖字の逆さまを読み解いているうちに、祐はその中でも雑な二重の円に囲まれた情報が紙面の中で際立っていることに気付く。
"父親・昨年死去、叔父・土地を離れて以来勘当状態。弟とは年齢が離れており、実質は鷺沼紗とよそ者と呼ばれる母親が当主代行であった"
正に"よそ者"が想像する田舎らしさの親密における善し悪しを凝縮したような記述の如何にもに祐は背が浮き上がる嫌悪を覚える。雨の気配はすぐ傍まで近づいていないというのにどこかじとりと肺を重たくする湿度と、それらをよく蒸しあげる日差しを照りつける様によく似た感覚は、年を跨いでからはまだ見ぬ梅雨と夏の間で訪れた束の間の晴天というに相応しかった。
一見の矛盾と、今に黴を生やして這う怖気だ。率直な偏見ばかりに一括りとすれば、それは貶めるという表現になるほど聞こえは良くなかったのだ。
 祐の視線に対する説明をするために伊三路は微かに声を潜めて注釈を語りだした。そして、それは大方として想像し得る事情と似たものであったのである。
曰く、恐らく父方の鷺沼姓に他の有力者がおらず他県から嫁いだ母親と鷺沼紗が代行として一時に家を守っていたのだろう、という話だ。
二人の選択は決して姓を守るためではなく、慎まやかながらでも生活を続けたかっただけだと推測できるが――この土地に限らず独自の歴史を長く持つ場所における一部の保守派からの風当たりを想像すると胸焼けがする。
 特に、本来この土地よりも人口密度の高い場所で、他人との距離を最低限以上に近くして関わり合うこと自体と無縁に暮らしていた時期の方が長い祐にとっては、どうにもその一種の固執は言いようのない感情を刺激する。
長く所属していた環境におけるパーソナルスペースの基礎値が異なるために仕方がないとしかいいようもなかったが、少なくとも結崎祐という個としては不快よりも理解ができないということが勝っていたのだ。
同時にそれは"普通とは何を以て定義をするのか?"という問いに近いものがあるために、その固執自体を気味悪がることはあれど、直接的な害がない限り土地や人間自体を忌避することはなかった。
直接的な害がない限り。それを強調するように、そこへ自ら交わって染まるかどうかによって意識は変わるのだろう。
可変の値は含みを持ち、環境を扱き下ろすこともあれば、まるで楽園と歓喜することもある。
正確に言えば可変の値は己自身の価値観だ。
環境自体は殆どが、凡そ多くの思考から割り出した水準という客観の値であり、ひとつの概念である。
つまるところ、容易に動かせる数値ではない。
故に他人が他人であり、他所が他所である以上、祐にとっては『そういった人間や社会形態も存在する』と納得せざるを得ないに留まるだけのものだったのだ。
「遺体はまるで内側から突き破られて内臓が損壊していた。服に覆われて一目には外傷が少なく見えるけれど、腹のあたりなんかは皮一枚でぶらんと繋がっていたと言っても過言ではないそうだよ。被害者の質量から考え得る一部の内臓と肉片は未だ回収できず……このあたりの情報はさすがに厳重な報道規制が効いているみたいだけれど、君は見てしまったんだものね。災難だった、と言うと同情的でなんだか感じが悪く聞こえるかもしれないけれども」
獣の姿をした蝕という生物ばかりに気を取られていたが、今更になってテラテラとして脂と混ざり合う血や本来であれば内包しているはずの体液にまみれた内臓、そして肉片は、もともと人間であったことを強く自覚させられる。ゆうるりとしてじっとりと、まるで知覚を惑わすかのような速度で地を舐める血液を想像すれば、その広がりは空虚として言いようのない不安ともするのだろう。あるいは胸の穴とも表現する。
季節よりも冷たい風がひゅるひゅると抜けるに易いものであった。
 数日前までは――正確には失踪をする前には、当たり前の日常を当たり前として享受していたはずなのだ。
あれは確かに、蝋人形のように固くなっていた。血液が通うことを辞めた肌はどこかジオラマの人形だった。
正に、過去の人類史や博物学のために無機物として再現された人間の模型のように見えていたのだ。
数日前には現実を生きていたことなどあの瞬間、想像だにしなかった。恐れたのは既にそこで継続をするしかない進行形の"死"そのものだけだったのである。
しかし、触れればまだ生物の体裁を保っていたのだとすれば。
胸の内で多足の虫たちが蠢くような気持ちの悪さがこみ上げてくる。ぞわりと粟立つ感覚と、多足の構造にしてはあまりに滑らかすぎる虫の動きを強調して見せつけられるような不快があった。
傷口から玉のように浮かび、滲み出る血液の不安を眺めることにも似ている。
小さく覚える不快な感覚が折り重なって空嘔きを催していたのだ。
喉にこみ上げるそれを飲み下すと酸素が胃を押し広げるようであった。
理解の出来ないことに対して欲としては異常な探究心に燻っていたのは、本能的に死する生命の概念を知覚させたくはなかったからなのかもしれない。
祐は初めて己があの日の出来事に恐怖を感じていたことを自覚するのだった。今も心臓は掴まれたようにドキッとして身体は冷たくなっていたのだ。
しかし、整合性はある。
そうだ。異常であり不可解な事態"だけ"に目を向ければ、その概念はまるで理不尽なクローズドサークルを主な環境とするミステリーの序章における"最初に何者かに襲われて死んだ不運な命の現場、もとい明確に常識との乖離をした環境の明示"というシナリオフックに成り下がれたからだ。
片付けるために指先へ手繰り寄せていたボール紙に力が加わって中に詰め込んだ空のビニールの個包装が握り込まれると、グシャ、と乾いた音を立てた。
唇に手の甲を寄せ、視線を逸らす。怖気を感じて冷たくなった身体のうちでも特に首の後ろが冷たくなって、背骨として通る身体の一本線が強調された恐怖を知る。
底なしから逃げる先がなくなって、ついに居心地が悪くなるとその目は理不尽にも伊三路を睨んだのだった。
 せめてもの救いは彼が食事中にこの話をしなかったことである。
食後という胃に内容物が投下された後のこれもなかなかの不快であるが、食前にされたものならば昼食はもとより通りの悪い質量を重苦しくしただろう。受け付けなくなった身体と、水気で重くなりゆくだけのクッキー生地にすっかり憂鬱を抱いて食い逸れたのは確実だったはずだ。
空腹を満たすためとしての食事を逃すことに不満はなくとも、脳を動かすための栄養が摂取できないことは己に言い訳の余地を与えるために好ましくない。
下を見て"マシ"の理論を繰り広げるのもどうかしたものであるが、そう考えるしかなかった。
どう見てもこの場面でする話ではなかったのだから――正確には、残虐なパニック映画などの愛好家である場合を除いてはなかなかに日常でする話ではなかったのだから、である。
気持ちを切り替えるために口に含んだものが玄米茶ではなくて、よりえぐみのあるものであればよかったのに。そうすれば気持ちの一つでもどうにか逸らせただろうに。
そういうように祐はどうにもならないことをどうにかすればよかったとばかり考えている。
空想だ。"たられば"と下を見て"マシ"だと言うことで、今は幾らかの冷静を保っている。
とにかく気分の良い話題ではなかった。
「……それで? 事件は解決できそうか、ヒーロー?」
 けろりとひとりすっきりしている伊三路もまた自身が購買部で購入してきた烏龍茶で喉を湿らせてから口を開く。
軽く咳ばらいをしてからインクの装填されたペン先をひっこめ、ブレザーの内ポケットではなく表の飾りのようなポケットのふちへボールペンを挿した。
「犠牲者が出てしまったのは悼むべきだ。何度と繰り返していいことではないね。でも、おれのやるべきことは過ぎた事件の解決ではなくて、今現在も草派の影で蠢くような蝕がこの土地を侵すことを阻止することだ。故に、彼女を手に掛けた犯人ではなくて彼女にまつわる因果を知る必要がある」
この正義感に満ち溢れたような様相に反してしっかりと現実が見えている言葉に祐は感心した。同時に退屈をもしている。
茅間伊三路は、正義感だけに突き動かされるだけの英雄たるための傀儡ではないのだ。身体に詰まった脳や臓器は思考をすることが出来る。
この言動からしても少なくともスカスカと空気ばかり含んでいるものではなく、彼なりの考えは確固たるものとして存在しているのだった。
つまるところ、ただの馬鹿ではない。
その率直な感性は生来の明るさとして持ち合わせているのか、はたまた後天的に"そう"見せるために演じているのかは知れない。
だが、時たまにとはいえ核心に掠ったような言葉を放つのは確かであった。
この男には物事を照らしだすための判断力がしっかりと培われている。ただの理想論を力技半分で実行しようとする並大抵の英雄願望に似た薄っぺらさとは異なるらしかった。
まるで全知全能とは言えはしない。だが確固たる芯を持つ者へは、その背景を知らずとも苛立ちを覚えるというものが人間である。
祐も苛立つ側の人間として、目の前の男の正しさには無意識の嫌悪を感じているのだ。
 退屈と抑圧、そして時たま手を引く鬱が掻き乱す。ただ、今現在は極めて冷静を保つ祐は、それを稚拙と理解し始めていた。
故に、ふと伊三路の言動の端々に気が掛かかることを己の感性のうちに知ることが出来るのである。
鷺沼紗は無作為に選出された不運な被害者として蝕に捕食されたのではなかったのか?
正確には捕食などとは程遠く遊び食いのように弄ばれたわけであるが、彼女が引き込まれた理由に他の要因が存在するのだろうか。
「犯行は人間には不可能である。元よりそう言葉にしたのはお前だろう。理論の構築ができるほどの痕跡は見つからないだろうということにも同意する。あまりに目撃が少なすぎることも手伝うだろう。だが、連続性の危険があるということ、それすなわち"小さいものは自然の流れの一部のようなものである生物"が知性及び事象の関連性を紐づける程度思考を持ち合わせているということか? それとも、深いところに主として共有のするような心理・思想概念が存在する……?」
「物語として上手くいくように出来たものではないからね。きっと人間の納得がいく落としどころとしての犯人は見つからない。そもそも罪を犯しているのも"人"ではないしね。残念だけどこの事件の表向きの結末は『迷宮入り』さね。でも、わざわざそれを見せしめる意図を考えたとき……これには『人間の知覚の及ばないところで起きた』ということに意味があると思える。それから、祐の言った言葉は概ねその通りだとおれは考えるよ」
小さく頷いた伊三路は自身の親指と人差し指をそれぞれの口角の延長へ置き、顎を手で覆いこんで思考をしていた。
「既に本能といってよい根幹だろうね。一定には共通する知識や心理や、思想が存在していると言っていいと思うんだよ。奴らも生物としての側面を持ち合わせる。蝕同士に特有の意思疎通があってもなんらおかしくはない」
 伊三路はあの日に偶然のように重なった裏側の町のことについて語ることを渋っている。
聞き出そうと試みたことがないわけではないのだ。むしろ、説明を祐はよく求めていた。
しかしこういった局面で説明を必要に迫られない限りは、内容によっては眉根を寄せてはすっかりと口を閉ざすのである。
率直に抱く苛立ちが無いわけでもないが、祐自身も深入りを好ましくは思わないために――正確にはその行為が己に返ってくることを恐れたために、伊三路がそこを最低限の不可侵領域としている限り無理に聞き出すことはなかった。ここまでの頑なを見る限りにも、強引さで迫ったところで割る口があるとはあまりに思えないことも確かに手伝っていた。
己の生命を脅かす、いわば敵勢生物に関する知識の有無が生存率を左右するのであれば、それは語らせるために言葉を引き出す努力をするべきである。一層のこと、知る努力をしないのであれば怠慢とも言えるだろう。
それらの事柄と、すべき努力の難航を不服に思わなかったと言えばやはり嘘になるが、だからといって一々腹を立てるのも意味がないと思えた。思うしかなかったのだ。
再三に意味のないことだと思わされて仕方がないのだった。かといって辞めれば怠慢になるのだから理不尽極まりない。
如何にして苦労するも得ることの出来なかったそれらを口にして茅間伊三路の非を並べ、語らないのであれば義務を果たしていないではないかと詰ってやりたいものである。
紛れもない事実だ。
祐が何者に目を付けられているのかを己で理解しなければ、伊三路は言葉巧みに祐を誘導し良いように扱うこともできるのがこの"利害の一致"による"ともだち"の関係であるのだ。
逆もまた然りで、祐にも"ともだち"の言葉を盾に無知の側面を持つ伊三路をどうとでも利用することができた。
故に、十二分に互いには互いへの説明を求める権利があるのである。
では、なぜそれをしないのか。
それは祐が"ともだち"としての時間を売り出してやっているとは言えども心からのものではなかったからだ。付き合ってやっているという自らの傲慢さは、伊三路の要求する"ともだち"ではないと思えているのだ。
だからこそ、彼に情報開示を義務と求めながらも、程度の基準を身勝手に変えることは『少々』という言葉がつくくらいには許されるべく範疇と考えるのである。
そうであるように、この尊重すべく"利害の一致"において求める本質に最も近しい事実のひとつである場面で、皮肉なことにもふたりは最低限をわざわざ選んでいるのだ。
極めて意図の不明な関係だ。頭のどこかでは確かに自覚している。
ぬるま湯の底に、互いが互いのために暴かれたくはない臆病が存在するのである。
他に要求するだけでは平等ではなく、かといって自らの抱える臆病を差し出すことや暴かれることを好ましく思わなかった。故に条件から一番歪んだ姿かたちを甘んじている。
利己性に富んだふたりの立つ場所のそれぞれが、ふたりにとってはずっと遠くにあるように思えていた。その事実をどこかでは理解しながらもふたりともがそれを見て見ぬふりをしていたのだ。
それは誰にも理解されなくてもいいから、と自分で自分の弱いところをかわいがっているだけの、ハリボテの関係そのものだった。
「その話にも触れる続きで話題はすこしだけ遡るけれども、鷺沼紗があの日の祐のように"波長の合致によって無作為に捕食網に引き込まれた不運の犠牲者"なのか"間接的とはいえ選ばれるべくして選ばれた犠牲者"なのかで事は大きく変わってくるのさ。それこそ姓が関わっていて……町で顔の利く鷺沼姓の人間の死は方々に大きな影響があるでしょう?」
 学生鞄から替えの手袋を取り出していた祐は屈めた上半身の動きを止める。片方の眉だけを顰め、俯けていた顔の向きを変えないまま目尻に瞳を寄せた。
引っかかりを見せる言葉の続きを伊三路は語る。
祐もまた、手袋を取り出すための動作を再開していた。
他人の目に触れない己の学生机の下における足の間で今まで着用していたそれを取り払う。
清潔なウェットティッシュで素の手を丁寧に拭っていた。
腿のあたりに一度立て掛けられてだらんとしている人工皮革の肌目が返す赤みを持った弱い光はいかにも優れていると傲るであろう技術を用いて動物のものに似せられた紛いものだった。
とりわけてデザイン性を重視するわけでもないが、変に通気性の良いメッシュなどを選ぶと着用した姿が日常からは僅かに距離を置くのだ。
グローブを必要とするスポーツをするわけでもないし、そういった面で妙にフレンドリーな生徒のそれから変に話題の広がらないものといえばよりファッションに近い種類であっただけである。
手の甲に浅黒く這い蠢く色が、触れる指先に自ら近寄ってくるかのように思えていた。
「見せしめとしての効果もそれなりに期待できる。人間同士は疑心暗鬼になるし、そもそも利を求めればどこかに不利益は生じる。権力があるが故に標的になりやすかった可能性は十二分にあったというわけさ。恐らく――いや、既に。この町には高い知能を持ち合わせた蝕が紛れ込んでいる可能性が極めて高い」
 ウェットティッシュがもたらす水気が居残っているうちから乾く間を置くために手持ち無沙汰になった祐は先日のうちで獣の蝕を惹きつけるために傷つけた己の肌を覆っている新たな皮膚をなぞっていた。
長く表皮の役割をしているものよりもずっとなよなよとして白い、真新しい皮膚だ。
その上を通過する浅黒い色が重なると、そのずっと奥である骨により近い場所でツキンと痛む熱がある。
まるで知覚し得ぬところで見聞きした山吹の色がそこに在るのだ。
それは中心に近づくほど燃える色をした、瞳と虹彩の構造に似ている。そこには渦巻くように燃える熱と冷たいばかりの感情、阿鼻叫喚から逃れられぬ声があった。
記憶には全くないはずのそれがどこからか感ぜられて思考を支配しようとしていたのである。
気味が悪い。気付けばそれに気圧されて正気が揺らいでしまいそうであった。
うなじに常温でぬかるんだ水が滴下するようだ。
祐はそれを、被害妄想とあの町の色が見せた恐怖の概念だと思い込んでいる。それくらいには裏側の世界は印象的であり言うならばまさに、そういったフィクションで用いる異世界という言葉そのものなのだ。
「理由はその通りだろうとしか言いようのないほど申し分ない思考と人選だろうが……『選ばれるべくして』といい『標的になりやすい』といい、また説明をしていない話を前提知識のように話をしているだろう」
水が気化したと感ぜられた。
手の甲に乾燥を覚えてから新たな手袋を着用する。
指先をしっかりと手袋の先端までに収めると、微調整をしながら手首を抑えた祐は、今しがた脱いだ手袋を書類用のクリアファイルに似た素材で出来ている簡素で薄いケースへしまい、学生鞄へ戻した。
そういった一連の流れをしながら呆れたようにこれ見よがしのため息を吐いた祐に対し、はっとして居心地が悪くなった伊三路は頬を人差し指の先で引っ掻いていた。
「……へへ!」わざとらしく、そして意味のない愛想笑いをする。白々しさを蔑んでスーッと細くなった瞼に睨めつけられてついに極限まで居心地を悪くした伊三路が、『そんなことなど気になりませんよ、負けませんよ』とでも言いたいかのように目を大きく開きながら、これまた白々しく己の頬を人差し指で掻くことを続けていたのだ。
故に、祐はぐっさりとした言葉を向けるのである。「説明を要求する。所望ではなく、要求だ」



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