ブランド化をされていても大した特徴を一見では見出せないような極めた質素で飾り気もない急須から注がれる茶は、器の印象から一転し華やかな芳しい香りを立てている。
なるほど茶器が極めてシンプルなことで調和がとれているのだと気付くと、器に関する知識がない祐にはそれらがとてつもなく高価なものではないかという思考がよぎった。
緊張の反面、柔らかな湯気が素肌を撫でたかと思うとそのか細く白いすじはあっという間に冷たい外気に溶けていった。
 喜一郎手ずから玄米茶を注いだ湯呑みを促されて口にすると、その味の濃さと、粉末が多いが故の渋さが広がる。茶が思いがけず熱かったことよりもいえぐみとも言える濃さに顔を顰めるのだ。
 その表情と静かに湯呑みを茶たくに戻す姿を見て、喜一郎は不思議そうな顔をしたが、自身の湯呑みに口をつけるとすぐに同じ顔をした。
自ら作り出したものにも関わらず、信じられないという茫然の表情で湯呑みをぼうっと覗き込んでいる。
「濃すぎるな。薄いならまだしも、これでは亭主関白を疑われて否定もできん。いや、それは確かにそういう時期は時代(とき)にして往々にしてあったが」
渋い顔をしてから「急須に残っているものに白い湯を足そうか。器も変えよう」といって再び立ち上がろうとする。
さっさと行動へ移そうとして膝を抑えた喜一郎を止めかけて、祐は前屈みに腕を伸ばした。
「お気遣いなく。驚いただけで、飲めないわけではありませんから」
ハッと言葉呑み、わずかに言い淀んで続ける。「……不躾な言いかたで申し訳ありません。しかしご馳走になっている身で申し上げることはたとえ不平不満でもございません。いただきます」
「いやはや、謙虚か? だが、これをいかにもの様子で出されたら美味い茶であると騙されたと思う。私もそうだ。気にしないでくれ」
漫才のように勢いある言葉を突きつけ、ふたりは示し合わせることなくとも中途半端な姿勢を再び落ち着ける。
「はあ」
結局のところ、茶たくを取り合う無言の牽制で湯呑みを勝ち取ったのは祐だった。
 沈黙は時に美しく、人の空白を埋めるが、同時に意図も知らされず留まることを強制させられることは退屈でもある。
この季節の美しさすべてを少しずつ持ち寄った庭で梢のささやきを耳にしながら、人間同士の会話はなく縁側へ座らされていたのだ。
そして呼び止められたことの意味を考えていたのである。
 玄米茶を舐めるように口に含み、短く息を吐く。特有の甘みのあとにじっとりと重苦しく残る苦味や渋みが舌を引っ込めたくなる衝動へ誘うのだ。
 やたら騒がしい二人組の印象に引っ張られてすでに偏った対比をしたのか、余計に口の効くことができない存在に見えてしまったのだろうか。
なぜならば祐にとって不快には思っても、元気がなくなるほどのことに覚えははないのだ。
少なくとも鶴間喜一郎という人間から先ほどのような理由で呼び止められることが理解できなかったのだ。
初対面の人間の顔色から体調を読み取るなど不自然とすら思う。むしろ、不快の感情のほう露わにしていたことから怒りのせいで不機嫌に思われる方が自然であるとすら自覚があった。
つまり、鶴間喜一郎からほとんど出まかせの理由をでっちあげられた上で呼び止められたの感じられたのである。
 事実、体調不良と見受けてわざわざ呼び止めたのちに想定されるような一般的なやり取りは一切ない。
ひとつの語弊も弁解もなく、事実としてただ茶をすすっているばかりなのだ。
 困惑している。それが最も自身の中に自覚できる現状であった。
相手が何を考えているか、これが何の状況なのかということは茶をすするだけでは到底に察せられることではなかった。
 住宅地として拓かれた土地にしてはしんと澄んだ空気が流れている。鳥の声をかき消しては農耕用の車が田畑を均すエンジン音が遠くに聞こえることがアンバランスに思えて仕方がない。冷たい水面すぐそばの内側で外界の音を聞く想像が浮かぶ。
水の泡が境界に触れ、弾ける。時間の流れが遅くなっているような風景が広がっていたが、理由も知れず呼び止められることの緊張は少なからず心臓の音を早めた。
しまいにとうとう時間の流れる感覚が人間の感性に触れてしまって狂っていくようだとすら思えている。
ただ、いやに渋い茶だけが正気にしがみついて昼下がりは続いていく。
それほどに長い沈黙であった。
「何故、自分だけを呼び止めたのですか」
 声は胡乱に膨らんだ。そのはずが澄んだ空間では高く昇っていくかのような、奇妙な空間だった。
背筋がむず痒い気がして、祐は視線の置きどころに悩む。結局は手の中の、実在する渋くちいさな水面を見つめていた。
細かな茶葉の澱に対して何を感じることもなく、やり過ごすためだけに覗き込んでいたのだ。
「顔色だと言った気がするが、はて? 私は答えたぞ。つぎは君の意図を聞こうか」
「髪は見慣れた色かもしれませんが、本当に、目や肌の外見はいわゆる海外の血が混ざる由縁なので偽りなく、先に申し上げた通りです。色素の都合はある程度理解にうけいれていただけるか存じておりましたが、ほかにもなにか気に障りましたか」
庭を眺めたまま口を開く。口ぶりはしっかりとしていた。
互いに互いの表情を窺い見ることはないまま、苔の姿を見つめている。
「誤魔化しを聞く気はないというわけか。うん。ならば、失礼を承知で聞くが、君の祖父は、狛田銀次という名前ではないか?」
その言葉を聞き届け、祐は繕い切れぬ平静を装って茶たくに湯呑みをおいた。
 手を離す瞬間の指先が動揺に跳ね、漆塗り風の茶たくに湯呑みが叩きつけられる。
手袋越しの指先に溢れた茶がわずかに触れ、ハッとした祐が湯呑みの無事を確認しようとしたが身体はそれよりも早く己の足で立ち上がった。
「……帰ります。ごちそうさまでした」
「待ちたまえ。君に害を加えようとしているわけではない。私は彼に世話になったただの後輩だ。それこそ身分もなく、むしろ私が君の祖父の小間使いだったくらいのな」
 口早に礼を言い、靴を履く間に、急ぐことはしないながら語気を強めて語る喜一郎を次に見た祐は眉間に皺を寄せることを憚らず、先より冷えた声色で聞き返した。
「何が言いたいのです」
「君の祖父は自分より釣りのへたな奴は全部目下と思っている稀有なひとだったよ。私の家柄が偉いだけのことも気にせず等しくパンを買ってこさせたし、ジュース代は私からぶんどった。都度に彼の母は平謝りをしに来たが、そのころすでに彼に思い知らされた私にとってはそっちのほうが可笑しいのではないかと思ったのさ」
満足するまで言い切って、そしてわざわざ仕切り直すのだ。
 半分背を向けたままの祐を捕まえてまでは引き留めなかったが、留まってほしくて言葉を重ねている、または重ねられているという事実は何を言わずともそれぞれの意図と感性に変換されて双方の中にあった。
「いいや、昔話はいいんだ。すまんな、老人はすぐこうなる。君に敵意がないことを伝えたかったのだが」
 撫で付けた髪のかたちが崩れないためか、喜一郎が気まずそうに手をやったのは首の後ろだった。
言葉を探すはずが唇は無意識に内側に巻き込まれ、乾いてめくれた皮膚を口の中で噛む。
 うって変わって冷たい温度から嘘の体面を取り繕わなくなった祐と向かい合うと、喜一郎は一瞬だけ言葉に惑う。
恐ろしいわけでも気押されるわけでもなかったが、過去に一度見た姿の本質が変わることなくそのまま成長したのかと思うとやるせなかったのだ。かと言って、ここでさらに誤魔化せば彼が町で生きるための酸素は薄くなるばかりだ。
そう思考しては、半ば義務を背負わされた気になって喜一郎は言葉の形を整えた。
「本題だ。覚えてはいないだろうが君に会ったことがある。だから声をかけたかったんだ。幼い頃にな。確かに長い間の出来事ではないが、知った顔とすぐわかった。彼の娘――君の母によく似ていたから」
「申し訳ありませんが、覚えていません。幼少の記憶は……その、あまり覚えがなくて」
 微かに、しかし確かにまつ毛をふるわせた祐は曖昧に答える。言い淀んで空白の上辺をさらったのは誰が見ても明らかな仕草だった。
そして、記憶を辿ろうと無意識に動いた視線が何かを掴むことができなかったこともまた、わかりやすいことであったのだ。
祐の眉間にはますます深い皺が刻まれる。他人を隔てる途方もない谷を上空からなぞったような暗闇が目の動線を描いていたのである。
「無理もない。君が米粒くらいのときの話だ。それに、仕方あるまいに」
含みのあるとも聞こえる言い分を知って、祐はかかとを滑り込ませるために広げていたローファーのふちから指を離した。
それはひとつの諦めにも似ている。靴を履いたまま、縁側に腰をかけている。
なにより危うい線の上に居残るように、いつでもそのどちらへも身の振れる境界を踏んでいた。
 おどけた喜一郎が幼い様子を米粒にたとえたことに肯くこともなければにこりともしないため、彼が親指と人差し指を触れ合わせた右手は迷い続けている。
「それは、見苦しいところを」
まずひとつ返ってきた言葉に喜一郎は喜んで次の言葉を投げる。
「そうでもないさ。ああ、彼奴も町にいたか? あちらの住まいのほうは疎くてなあ。あの辺はこちらの商店まででずとも買い物に困らぬことも手伝ってなおさらに」
「祖父は生家を手放しました。今は祖母と一迫市に。しかし、住むまで町と縁のなかった自分のような者が進学とともに単身住まいを求めているとなればすぐに候補を絞ることができるくらいには今でもこの町にはご縁をいただいています。おかげさまで祖父母共に健在です」
 いかにも素知らぬ会話を続けながら喜一郎は立ち上がり、手水鉢の陰になるように設置された外水道の受け皿に飲みかけていた濃すぎる茶を捨てる。
そして鹿おどしが鳴ってさまになるはずの庭園風にはそぐわない銀色のコックをひねり、受け皿の上で苔色にすら近づいた濃茶の色を洗い流した。
ざあざあと鳴る音が流水か梢の音かの問答が空間に囁く。
「不在の彼については残念であるが、健康でなによりだ。それより、あれが君の単身を許しているのか。暮らしはどうだ」
 喜一郎は振り返る。表情を見なくてはならないと考えたのだ。
しかし、かちあった視線から先に逃げたのは祐だった。
目頭から鼻梁の付近までおよぶしわで顔を顰めて、前髪は表情をつくる筋肉の動きでわずかに浮き上がる。
喜一郎が見たのは間違いなく極いやそうな顔であったが、今日一番に人間味のある結崎祐の表情であると感じていた。
「一年経ちますが、鬱陶しいほど騒がしいのはここ最近になってからです」
 人間の感情エネルギーを曲線で表した際に、その頂点というものは数秒と続かない。そして、エネルギーは伸びきったあとはゼロに収束していくだけである。
その表情は実に瞬きの間に失われてしまったが、打って変わって喜一郎は彼の表情に面白みを見出して悦楽を覚えた。それは歓喜だった。
目の前の人間が人間であることを知ったかのように手を打って喜びたいほどであったのだ。
「能面のようと見せかけておいて、その手の話題には健康そうな顔がみられてなによりだ。よかったな。この町や君の友は君を歓迎するぞ」
 年の功で落ち着いた様を演出した喜一郎であったが、他人を信用しない祐はやはりそれに容易く絆されることはなく、無感情に、まるでそうプログラムを組み込まれた機械のように呟くだけだった。「そうですか」
平坦な声色に対し、喜一郎は息を吐く姿ままに出会った瞬間と同じく挑発じみていて、掠れた笑みをする。
「それ以外の感想は卒業式の機会まであずけよう。こりゃあ、祝電にとどまらず顔を見に行かねばならん。きっと寂しいくらいになるぞ。もし生活や環境について困ったらいつでも頼りなさい」
「期待に沿えるよう努めます」
 再びどんどん表情がなくなる祐を前に喜一郎はもう一つの湯呑みを勝手にさらっていく。
それは間違いなく祐に与えられた湯呑みであったが、奪われてもなにも言わなかった。
逆さまにされた口から茶が捨てられていく。空席の茶たくにおいて湯呑みが収まるに適切な窪み――その漆塗りの底に金色のうつくしい桜の絵柄が描かれていることがよく窺えた。
右半分にひと塗りした金色のラインが高級感を演出するも、湯呑みを持ち上げると桜に気づくという和みある漆塗り仕上げの艶やかな茶たくだ。
湯呑みが去ると豪奢にも見えるそれが、いまは寂しそうに見えるのだ。
「最も響く言葉はほこりを被ったじじいの言葉よりも、価値の近い友からのものになるだろう。私のことは便利な手段と思えばいい。通過地点に情など要らぬと思えばよいのだ。もちろん、交流ができれば私は願ったりであるがね」
「そういう聞こえはよそ者の立場上よくいただきます。ありがとうございます。ご心配なく」
 びたびたと派手に打ち付ける濃すぎる玄米茶が、石の肌を真似て色つきの粒子を混ぜ込んだ耐候製プラスチックの受け皿を汚す。
同時に解放したままのコックから細く流れる水がそれらを薄め、渦を描きながら小さな排水溝の穴へ吸い込まれていくのだ。
 祐は湯呑みがなくなったぶんだけ空白を得てしまった手の中で緩く拳を作った。
瞼を閉じると脳裏には締まりなく底抜けに明るい顔をした飄々とする伊三路と、おどおどした態度こそ現在に続くものの幾ぶんか内側に肩を巻き込む癖が改善されて覇気を帯びるようになった暦の姿が浮かぶ。
「……差し出がましい言い分ですが、つまらない人間である自分よりも茅間や日野春によくしてやってください」
 足元を飛んで着地した言葉に、本来であれば挟むはずであった話題の内容を勘ぐる。しかし、最後に喜一郎が導いたのは比喩でも何でもなく、祐の要望を額面通りに跳ね返しただけの返答だった。
「じじいからすれば若者はみな面白いものだがね」
「謙りでもなく、贔屓を勧めるわけでもありません。事実として、いずれこの町へ利益をもたらすのは間違いなく彼らです」
薄弱な言葉が幽かな点と線で、半ば宙ぶらりんに繋がっている。
脳内で考えることと、疑る思考、事実として発せられた言葉の応酬がないまぜになって話の節を時たまに飛ばして内容は進む。
「ふむ。君は会話が苦痛なのか。いいだろう、さっさと話を終わらせて掃除に参加しよう」
 空の湯呑みを盆に乗せ、薄い茶たくは隅で重ねられていた。
祐の求める距離を察し充分に間を取った喜一郎は空白の隣にある胡乱な表情をする横顔、その鼻筋に視線をくれてから言葉を言い直した。
「安心しなさい。旧知の孫として生活が気になるのは事実だ。しかし君の現状を含めて旧知にあれこれと言うつもりは最初からない。逆も然りだ」
 まつ毛が瞬かれ、氷の瞳は開いた。そして波を平静に帰すことを努めて、ふっと伏せられる。
互いの中で曖昧ながら隔てるものが、今も存在するという確信を得る。
しかし、それは溝を深めるのではなく、"知っている"という事実によって奇妙な縁というつながりを帯び始めていた。
信用できないと突き返した先の態度を訝しむ間もなく、どこか賭すもののない取引に近いかたちをしているからこそ、互いの行動で示すべく視線は探り合う。
しかし、祐がどれだけ探る視線の鋭さを研ぎ澄ませても、返ってくるのは静寂の中に古びた慈しみだった。
「事情のあらましは知っている、と。そういうことで間違いないですね」
 祐の言葉で、しん、と、空気が震えた。
この瞬間、周囲の音の一切はぶつ切りにしたかのごとく消え、人間の気配は無くなった。
まるで深い山のなかでやっと春が芽吹くようなまばらの緑に、鳥の声が聞こえたのだ。
呼吸ひとつ、衣擦れひとつが全てを現実に返してしまうほど静かだった。
ただ言葉の先がこの空気にひびを入れるまで、体裁を保っている。
現実でも、空想と見紛う静寂の中でも、庭はただ美しく存在するだけだった。
「上辺だけだ。幼いころの君が極端に無口だった理由を直接やつに聞いた程度で」
 祐は唇を引き結んだのちに、縁側の床板の上で居住まいを正した。
そしてもう一度と靴を脱ぐと、指をついて丁寧に頭を下げたのだ。
「杞憂になろう回答がくると信じたいのですが、きちんと言葉で断っておきます。"余計なこと"は言わないでください」
 前髪が垂れ下がる。かつての生活の名残りと、今も営まれる日常の往来で滑らかになった床の温度を人工皮革を纏う指先でなぞりながらより深く答えを乞うた。
「お願いします」
深い木目を眺めている。無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
 誰に、ということを指さずと告げられた喜一郎は、祐の肩を優しく叩いた。「いまの君は流暢だろう。ならば話す場面にも直面しないとは思わないか」
 ささめく息遣いが少しずつ日常を取り戻す。
風は動きだし、稚拙なエンジン音が駆動する。
鳥の声はやはり生活音に警戒をしていた。
すぐ横の道路を子どもが駆けているのか、先を急かす声がいくつか響いていく。
祐はまだ頭を下げたままで間近にあった木目の行くさきを見つめていた。
「さあ、ほら。顔をあげなさい。どうだ、実は戸棚にとっておきのどら焼きがある。食うかね。みなに内緒でな。茶の仕切り直しも、まあ、それくらいはばあさんにはバレんだろう」
 恐る恐る顔をあげると、喜一郎はすっかり祐のほうへ身体を向けていた。そしていたずらを思いついたような顔でいまの提案をしたのだ。
「……結構です」
頭を下げていた痛切な態度を投げ出し、今し方の質問だけに極めて簡素な返答をする祐の嫌な顔を見ると、一層に喜んでみせる。
そして色白い額を人差し指で優しく小突くと、出会ってからまだ見たこともない速さで喜一郎は立ち上がったのだ。
「結構、という言葉は広いものだぞ、若造よ。いじわるじじいだからな、いますぐに用意してやろうな」
ははは、という同音の三文字で簡単に言い表せてしまいそうな高笑いと共に喜一郎は急須を引っ掴んではすり足に似た捌きで足音も立てず家の奥に下がっていく。
 一気に力の抜けた祐は取り残された場所で項垂れた。
床に腕の側面をつき、頭部はまるで重力に逆らえず倦怠を知るのだ。
先ほど眺めたばかりの木目を同じ動作でなぞる。床板の節は蛾の翅に棲む眼状紋のようにねばついた目玉に似た渦を描く。
どっとした疲れが押し寄せ、変に力の入っていたふくらはぎの裏側で妙な痛みが張り詰めていた。
 満たされている風にはこと欠かさない現実を思い知らされるたびに、ならば一体誰が悪いのだと問答する。
底の抜けかけた容器に水を注いだ感想をわざわざ聞くなど、価値が異なって当然だ。何より他の人間にはひとりひとりがもつ容器の瑕疵を知る術はない。
この町の酸素は自分にとっては極めて不完全だ。と、祐は感じていた。
そうでなければこんな息苦しさを知るはずがない。
 満たされているのだ。間違いなく恵まれている。
底抜けの器では実感を認められないだけで、第三者から見れば一目瞭然なのだろう。
 空間を俯瞰して眺む乖離しかけた感性が訴えるたび、今この瞬間だけは四方の壁に突き当たりがすぐに見えてあつらえたものに不必要はない――つまり、血の繋がりさえ証明できればだれでもよくて、正確にはだれのためかもわからぬ馬鹿げた部屋に帰りたくなったのだ。
あの部屋の机には正しい呼吸の仕方があらかじめ用意されている。
全くもっておかしな言い分であるというのにも関わらず、植え付けられた確信を飲み込む方がずっと早く楽になることができるということを結崎祐は知っていた。