先を行く二人の少々後ろをついて歩く祐は、コートの中でキーケースの存在を指でなぞっていた。
「休日にこうして会えるのもたのしいね。今度はきちんと約束をして遊びに行こうよ」
「そうだねえ。山と川が解禁したらけっこう幅が広がるね」
本当に平日のようだ。
なんだかんだで日常になりつつある光景に続く自分が己のことながらどこか不思議でならない。
そんな感覚を覚えながら、しかし確実に、祐はつづく一歩を踏み出す。
「いや、それにしてもよかったあ。僕ひとりじゃあ先方をがっかりさせないか心配だったんだ」
「そうかな。あくまで親睦を深めて楽しみたかったのだと考えたほうが自然だと思うのだけれども、違うの?」
普段よりも卑屈めいた物言いに伊三路が片眉をあげる。
暦は決して過ぎた卑屈ではないと繰り返すように言葉を継ぎ足す。向けられる言葉に頷いてしまいたい気持ちはあるものの、やはり、素直に受け取るにはいまひとつ押しが足りないようだ、と、表現するのが相応しくも思えた。
「そうかなあ? 相手はかなり年上の人だから僕では取るな足らないと言うか……せめて若さを買われてるのかなあって」
「なにせ行く側からすれば――ええと、おれみたいな側からすれば、報酬を対価にしているわけであるし、下心ではある。だけれども、暦のきいた宝探しと土産物の話がそのとおりならば、そこはどちらかというと裕福なおうちだよね。業者を入れるのが普通じゃない。ちょっとばかり品のない言いかたになってしまうけれどもさ。これから行く家のひとはそれほどの大物なの?」
あまりの物言いに対し、暦が本当に利用価値だけで呼ばれているならばもしものときは自分が前に出る、と、鼻を鳴らした伊三路を前にして暦は両のてのひらを今度は下へ向けて興奮をなだめた。
「ほんとに古いだけじゃなくて大きい家だよ。その、地主さんで……しかも鶴間家ってきいたら僕じゃなくても萎縮してひねくれたことを言うと思うよ。この町じゃあ御三家って有名で、今でこそ権力は放棄したに等しいから土地持ちの家って認識だけど歴史的にはありがたい発展の証だったって地域学習で習うんだ。知ってる?」
「……御三、家」
その言葉を聞いて伊三路の顔が目に見えて強張る。
まるで石造りの壁に一閃のひびが入った姿だ。衝撃が走ったことに間違いはない。
会話をしつつ歩いていたはずが途端に足を止めてしまった伊三路を、暦はうっかり置き去りにした。
さらに後ろを歩いていた祐がぶつかりかけて「おい、急に止まるな」と危険を前に潜めた声で後ろ姿を咎める。
普段通り――まるで平日のようだと思う流れでもなかなかにない出来事に、何かがずれていく感覚が、暦と祐の双方の無意識のより深い場所で走る。
反応がすぐに返ってこない様子にふたりが顔を覗き込むと、歪んだ口元を指先で隠そうとしていた伊三路の動揺が見てとれた。
覗き込む二人の存在に焦点が定まってハッとした伊三路は表情を取り繕って歩き出す。
そして三歩ほど先回りをすると二人を振り返って腕を広げた。
「びっくりした。ごめん、急に」
「伊三路くん、どうかした?」
暦の恐る恐るとした語り出しに対しあっけらかんとして答える口元はいつも通りの穏やを浮かべ、キュッと端を持ち上げる。
「いや、むかし……なにかで関わったことがあったかと思って。記憶をさらっていたのだけど、御三家であれば特別なにがあったわけでもないのかもしれないね。と、いうか、分家もあるからさ、一概に記憶の中で引っかかりのある気がしたものとは異なるかもしれないなって思っていたんだ。そしたら急に安心してさ。でも間が悪くて挙動不審になっちゃったなって」
訝ることをやめない二人に対して『きちんと鶴間家というものを知っているぞ』とでもいうかのように高々とした様子でひとさし指を立てた。そして雄弁に語るのである。
「鶴間、鶴間ね。茅之間町の発展に最も貢献したとされる豪商だ。当時の養蚕業はこの土地の外では珍しいものでもなかったけれども、地方では名を聞く品質であったといわれている、あの。そこから伸ばした手で得たものでひたむきに町へ貢献する様は美しく、山神との逸話に縁もあるとか。れっきとした家柄さね。なるほど訂正するよ。緊張しちゃうのも無理ない話だ」
「でしょ!? 鶴間喜一郎さんは現当主で、すごく……えっと、フ、フレンドリーなひとだよ。僕みたいなそのへんの高校生にも声かけるくらいだし……」
「ふれんどりい」
伊三路の舌足らずめいた言葉に暦の目が泳ぐ。直前には身を乗り出してまで同意を求めていたというのに、打って変わって風が吹いてどんどん雲が流される様に似ていた。
さんざめく梢のきらめくような瞳から逃げたがっている。
つまり、その形容には裏がある。祐はそう直感した。
答えがすぐに返ってこないことに首を傾げた伊三路が今度は彼を見たことで、その事実はしかと言語化を余儀なくされるのだ。
「祐。ふれんどりいって、友好的であるということでしょう? 暦はどうしてあんな顔をしているのさ」
名指しされた祐はあくまで自身が鶴間家の偉業も町への貢献がどれだけ素晴らしいことかも知らぬのだと第三者の知らん顔を貫いて答える。
「日野春はよく言えばそうであると形容するが、多くは変人であるという印象を受けるということだろう」
観念した暦は大きくため息を吐いて伊三路の両肩を掴む。そして顔を近づけて言い聞かせた。
「伊三路くん……確かに結崎くんの言う通りだけど、失礼はダメだからね」
「眉間のしわ」
にへ、と伊三路が眉間を指さして笑うと、気の抜けた膝を内またにした暦であったがダメ押しに「ダメだからね!」と、同じ言葉を繰り返した。
「川開きの催しでさかなのつかみどりがあるの? おれもやってみたいな。たのしそうだ」
「うん。年齢制限はないし、伸司くんも毎年ちびっ子に混ざることもはばからずはりきってるよ」
「じゃあ、今年は暦も一緒にやってみようよ!」と、先ほどとは打って変わって元気を取り戻した伊三路が目を輝かせ、反対に暦は遠くを見て自信のなさそうな顔をした。
前方で繰り広げられる会話に意識の端っこでぶら下がりながら、祐はちょうど通りかかったスーパーの立て看板を目で追っている。
タイムセールの案内が帰宅時に被らないように気に留めておこうと考えていたのだ。
「ね、祐もいい考えと思わない?」
振り返った顔に名指しされることに促されては、意識を前方に向き直して前をみる。
自分に該当しない話を話半分に聞いていた程度の祐であるが、伊三路の語る『いいと思わない?』という問いかけに対して生半可な認識で答えると大抵のところは面倒ごとに巻き込まれると祐はよく知っている。つまり、答えは決まりきっているのだ。
「思わない」
見慣れた面々と足取りがさも自然な流れで商店街へ進んでいく。
幅のある通りに延々と連なるかのように長く並んだ店から、各々の宣伝文句が行き交っては賑わいを見せていた。
昼を過ぎたために足が早かったり、繊細だったりする商品に値引シールを貼り始めた惣菜屋には、皮肉なことにも今更になって狙い目と言わんばかりと釣られた客が集まっている。
まさに老若男女――というにはわずかに揃う顔がたりず、主婦層や連れ合いの子どもが多く見られるのだ。
女性特有の音域をする話し声や、子どもが戯れあいながら駆けていく際の笑い声。雑踏。かと思えば、男性店主の張りのある声が鼓膜にやわく爪を立てる。
または負けじとして強気ないかにも母親らしい女性店主でもある。
ともかく商店街の通りは生活に満ち溢れて生命が行き交っていた。
先導して伊三路や祐の前を行く暦は時間を気にしつつも、急く足取りを進める。
まるで寄り道をあらかじめ決めていたかのように、勢いのある歩幅のまま、商店街のなかでもよりこぢんまりとした店へ入っていった。
用がない伊三路と祐は出入り口に対して邪魔にならぬ位置で看板を見上げる。
頭上には焼き加工のされた木板に、豪快ながら上品さのある太さと、掠れの筆致を忠実に模した"辻原屋秋月"という文字が金色の塗料で描かれていた。
堂々とした佇まいは風格ある老舗として不思議はない。
腰の高さまでは半透明の目隠しがされていたが、窓自体は商店街に面した部分を大きく切り開いている。
光を取り入れつつ、店の様子を確認しやすくしているのだ。また、一部をディスプレイウィンドウとして見せるために、季節に縁のある姿で度々に表現される上生菓子や、ゼリーや砂糖菓子の姿にも似た干錦玉をはじめとする半生菓子が並ぶケースを窓際に寄せていた。
和菓子屋であると認識すると確かに甘い香りや、豆を茹でる独特の渋みとくすんだ匂いを嗅覚に感じ取ることができる。
待ち時間の退屈をどうやり過ごすか思案しながら伊三路は窓越しの菓子たちをまるでたからもののように眺めていた。
「祐、みて。あれはさかなが泳いでいるみたいだねえ。寒氷は一度だけ食べたことがあるけれども、つやつやの、きん、きん……きんぎょくかん? は食べたことがないや。かわいい」
目を輝かせる横顔を祐は尻目に一瞥する。
確かに土産物として用意するイメージこそあれども自ら食べるためには購入することは、よほど好きでなければなかなかにないことだ。
そんな想像は簡単にできる。
しかし、伊三路の憧れに似たまなざしが熱く熱く注いでいる様を見ると、まるで砂糖が高級品だった時代の羨望にすらと思えるのだ。
純粋というべきか、これをまた彼の異様な部分とも評価できる――常識のなかの一部を欠落しているところというべきであるのか、祐はもどかしい気持ちになる。
あまりにも素直に目を輝かせる相手に、なにと言葉を返すか知れぬまま、「硝子に触るなよ」と、祐はいまに触れてしまいそうな指先に警告をした。
先の"御三家"という言葉に強い動揺を持ってみせた表情が記憶の中に残像として焼き付いている。その様と、言葉に反応をして鼻先をわずかにあげてから祐を振り返る顔の角度が重なった。
喉に息が詰まるような感覚から背けるように、祐は店の景観を重視して配置された観葉植物のちいさな植栽のわきで携帯画面の時計を確認する。
そして機微を感じ取った丸い瞳がいつまでも自分の言葉を待っていることを直に知る。
切り出す言葉が重たくつり下がって連なると思うと、この場でやりとりをするのは厄介であったが、この手の話が次の機会に恵まれることが滅多なことでもないのも事実だ。
逡巡の末、その判断のために有した時間など初めからなかったかのように淀みない声音で祐は切り出す。
「俺たちの関係が利害の一致からより共生であるとして傾くとき、まだ相利であると言い張るならばお前はお前がチラつかせた餌はやらねばならない」
「共生? 面白い言葉を使うね」
伊三路は硝子に反射した自身の顔をながめているような恰好で目を細めた。
一瞬だけ意味合いを持った瞳が向けられる。
五月雨の隙間に鮮烈な色を持つ、生きた自然の象徴をする煌めいた目だ。
同時におなじ情景が雨粒の叩きつく勢いで白んで霞む足元の石畳を思わせる。
かすみ沈む、鮮やかさという矛盾が濡れた石の肌に乱雑に跳ね返っているのだった。
心臓のもっとも外側の薄皮を捲られるような気分になる。
――自分のことは話したくないというくせに?
と、問いかけられたかと感じられた。視界の先で引き結んでいるはずの唇が蠢いたとすら錯覚できたのである。
恨みがましいものではない。自身の後ろめたさからその視線が刺さったのだ。
仮に、そこで息を呑む圧倒が強制力や暗黙の了解を強いる枷になり得ても、そもそも自分の出自など関係は最初から関係ないのは事実である。
反対に、茅間伊三路の存在は出自から私生活の全てまでが異様に秘匿されているのである。
結果的には本来の生活では知ることすらないものの存在を知り、役職を与えられる生まれであることには変わりない。
問い詰めて違うならば違うと言える人間性も加味し、祐は怯むことなく本来、自分達の間に存在する前提を強調して言葉を用意した。
「茶化すな。つまり、努めるべくはより強くなる。……先ほど、何を誤魔化した?」
「気にしてくれていたの? おれが変だって?」
祐の内心で渦巻いていたしがらみが無意味という結末に帰すことを証明するように伊三路はカラッとした態度で目を細める。
「これは至極、ただ個人的に、御三家という家柄と仕組みに思うことがあるだけさ。今の当主がだれなのかも知りやしない。でもね、だれであろうとその人に現在の当主という責任があり、だれであろうと個を尊重されるべく権利があることには変わらない」
「もし仮に家柄に罪はあっても、根元以外はただ血の繋がりに過ぎない。これらは当然のことであろうが、人の感情がそれを許さないのは歴史という記録で証明されている」
「無知もまた罪だ、と言い出すってやつ? そりゃあ、被害者は憎まずにはいられないものじゃないかな。そういうものは人間から切り離せないんでない、おれにはまだわからないことだけれどもさ」
祐の視線に伊三路が否定の意をもって左右に手を振る。
初めは会話の流れとして受け入れかけるものの、いよいよ持ち合わせる常識が摺りあわない存在に可能性の察しを見出すと、先回って伊三路が得意げにした。
舐め上げる視線で祐を見上げ、ふふん、と笑うのだ。「おれのことをまるで人間じゃないような目で見たでしょう。残念ながら感情を理解できないのではなくって、まだそんな経験はないってことだってばね」
そばの硝子に写り込む同じ顔がひとしきり息をしゃくらせた後に、祐は静かに続ける言葉を聞いている。
思わず二度、と、その姿を見つめ直した実に数秒前からかわらず、ただ犬のように人懐こいことだけが特筆して人物を言い表すことができるであろう茅間伊三路という人間が穏やかにしている。
「いいよ。おれの考えや知っているものごとは同級生の認識たちとおおきく異なっているしね。ただ、いまのきみが、おれたちをとりまく事象に鶴間家のことと絡めて憂うことがあっても、全て当てはまることはないときっぱり言える」
窓際に寄せた陳列ケースの中で贈答用の仕切り箱に丁寧に詰められた干錦玉を指さす。
それは扇形をした黄金の寒天に鶴の文様を切り抜いた白い生地を乗せ、結晶の荒い砂糖をふんだんに振りかけた半生菓子である。
祐の氷柱のような冷たい色をした瞳が誘導に素直に従って、干錦玉を見遣った。
「先に言った通り、あの系譜は元は農家だけれども養蚕による商業開拓で成功し、この土地へ多大なる文化形成の促進と整備を行った。消長遷移と人の生命に永遠はないものだ。暦の言う通り、現在は地主の名残り程度であったとしても、かつて頭一つぶん飛び抜けたとして町に最も貢献した家柄の一つ。そして三家のなかでは最も良心ある派閥だった」
それから指さすのは丸く型抜きした寒天に葦と鷺を描く型抜きを乗せ、粉砂糖を振ったものだ。側面に不透明の練り生地を巻いた姿は金太郎あめの断面にも似ている。
美しい水面を模すらしい薄青の寒天は涼しげであり、これからの季節によく映える。
よく見れば、春夏秋冬を表す折箱には鳥の意匠がよく組み込まれているのだ。
祐はじっとそれを見つめる。それからものいいたげな緑の瞳へ視線を合わせた。
「鶴間、鷺沼、そして鷹取。この土地をかつてとりまとめていた三家だ。正確には、その他おおくの平民の民意として御三家に発言のできる別の家があるけれども、大抵は民意として発言するから、はっきりと家の名が語られることはまずない」
ゆっくりと紐をほどくかの如く言葉を紡ぐ音の速さと共に指先は最後に松と鷹を施した干錦玉へと視線を導く。
そして最後に折詰の中心である、ありふれた桜のすがたかたちをした菓子を指した。
「かつて御三家の力が及んだうち、今もおれたちが踏んでいる土地である烏丸地区は鷺沼家が中心に興した土地と呼ばれるも、その家系図をたどると鷺沼家自体が鶴間家と縁も深い。鷹取家はよく悪者の噛ませいぬのように誇張されるけれども、もし関わりの深い鶴間と鷺沼が結託して悪事を働くようなことがあれば唯一の強い抑止力になる。損な役回りに見えても誇りある一族だよ」
両手を擦り合わせて手を打ち、その音で我に返った祐に伊三路は手振りを交えながら説明の締めにかかる。
解かれた糸は再び固く結ばれるように、簡単な土地の構造を示し、鶴間家の功績として語られるいくつかの逸話を表題程度に示して聞かせる。
「かつて豊穣の儀式から近代化としての技術誘致、と、その資金源提供。そのように、つまり、記録と影響の範囲が膨大にあるということだね。だからこの町では鶴間家の存在にはみな内容は異なれど、なにかしらの反応を示す人間が多いのさ。損をしただとか、救われただとか幅広くね。おれもまたそのひとりであっただけであり、おれの役目とは関係なく個人的なものなんだ」
「なにか心配させたのなら、ごめん」付け足された言葉に祐は淡々と答える。
半分は仕方なしに聞いているものであると理解している。
しかし、それが避けられぬ事情であっても、どこかで目の前の人物を追い詰め、同時に自身が責められているような気になるのだ。
一線を踏み越えようとしているのではないか、と、嫌な気になる。
「……こちらもなにがどう事態に関係しているか把握していないし、お前には権利もある。言いたくないことは元より言わない性質(たち)だろうとして断られるつもりだが、不快にさせるなら言わなくていい」
「いいや。気遣い無用だよ、理由と納得にはおれもきちんと考えたうえの理解があるつもりであるし。それにこれはただの地域学習の範疇だね。だから暦もいつもの心配性をつよく見せなかったことが納得できるでしょ」
問いかける言葉が淡々としていれば、答える伊三路もまた淡々と多くの言葉を繋げていた。
区切りの際についた衣擦れにも満たない呼吸の息遣いが無言の隙間を広げる。間延びをしたようだった。
気付けば伊三路は再び陳列された和菓子に目をやるばかりになっている。
これらはいやな沈黙ではないが、満たせぬ余白が広がり続ける時間の経過というものは言い難い退屈をもたらすのだ。
「ごめん! お待たせしました! それも結構に! 手土産は決めてたんだけど、つい目移りしちゃって」
引戸に手を掛けていた暦が大声を上げていたと思いきや、声を出していたはずの自らが驚いて後退る。
それから伊三路を見て、次に祐を見た。意図せず沈黙の間を割って入ったことに肩を縮こまらせたのだ。
「い、いったい何が……?」
繁華街には寄り付きもしないほど似合わない沈黙がのさばっていることに疑問を呈しては、不思議そうな目で二人を見やり、答えを求めたのだ。
けろりとした伊三路は再び硝子の向こうにある陳列棚を見ては曇りなく答える。
「待っただなんて、とんでもないことさ。祐に地域のことを教えていたことのきりが良かったからぴったりなくらい。それに、もう少しお菓子を見ていたって暦もおれたちも意味のある時間に違いなかったね。おれも今度は中に入ってみたいなあ」
陳列棚の上品な和菓子を指さす伊三路が頬をふっくらとさせた。
その様子を受け、暦はまるで自身が褒められたかのように得意げになってうっとりと目を細めた。手元に提げた紙袋が揺れる。
「ここらへんで手土産っていったら辻原屋って言われるくらいには町ではいい老舗なんだよ。アルバイトをしていない学生が自分用にしょっちゅうとはちょっと買いにくいお値段だけどね……僕のおすすめはぎゅうひ入りのどらやきかな」
見た目の愛らしさや人好きのする丸いシルエットに対して伴う評価が十分であることに、なるほど間違いないと思うことこそ間違いではない。と、言いたげに伊三路は上唇を舌でなぞり、唾を飲んだ。
花が咲くようにほどけるも慎まやかな甘味を想像し、甘ったるく目を細めるのだ。
「ふうん。おれは寒氷が気になるな。あのじゃりじゃりのやつ。それから少し奥まっているところに見える、たぶん、豆大福。おいしそうだね」
「うんうん、こいのぼりのかたちのねりきりもあってさあ、なんか季節感だねー。もうすこししたら鮎のかたちをしたモナカが出回るよ」
最中の大きさを手振りで表しながら、中にたっぷりと盛られた豊かなうぐいす餡の鮮やかさを思い浮かべる。
鮮やかな緑と季節の象徴から連想する答えを導きだし、「川開き!」と、声を揃えては先ほどの話題を掘り返しながら声を重ねて伊三路と暦は笑い合う。
蹴り飛ばす小石が緩やかな坂をくだりつづけるようなカラカラとした笑い声が響いていく。
それに合わせて手に提げた紙袋が大袈裟に揺れ、まるで会話に参加するかのごとくに鳴った。
「ふふん」という得意げとも「うふふ」という微笑ましさに浮かぶ息遣いともとれぬささやきが、目を細めた暦の唇から紡がれる。
「僕も今年は掴み取り、やってみようかなあ」
伊三路が目を丸くしたあとから、鼻を鳴らして語る。
「いいねえ! でも、おれも負けないよ!」
緩やかに歩き出してはやはり黙ったままで話を聞いている祐は、競うものでもあるまいに、と、やたら張り切る言葉を聞いていた。
まるで平日のような騒がしさが、祐にとって当たり前に感じることについて抵抗が薄まりつつある昼下がりのことである。