職員室の扉を後ろ手に閉めると、ペンライトを携えた祐はゆっくりと歩を進めた。
糸を跨ぎ、静かに廊下を進む。そして端で折り返して半ばに戻ると、ポケットに持ち合わせていたコインケースを糸に向かって放る。
それが触れてから五秒と経たずとして何もなかったはずの天井に蜘蛛女は現れ、そこにかかった獲物が何かを確認せず食いにかかった。
人間の質量を捉えることなく、ドッ、と音を立てて空振り床に飛びついた蜘蛛がどこから現れたかなど考えることすらなく祐は走り出すのだ。
「見縊られたものだな。しかし同じ手を食うことはないぞ。それとも気が触れて命知らずの遊戯に興じることに悦楽を見出したか?」
背後では高笑いを上げながら壁伝いに蜘蛛女が迫っており、祐の頭上に埃や微かに抉れた校舎を構成する材質の塵たちが落ちる。
コの字型に展開し、それぞれ上階と階下へ向かい階段が伸びる踊り場でぐっと距離が縮められていく。
その最短の内側をなぞり、駆ける。駆ける、駆ける。
天井から迫る過程で壁へ移り、まるで人間と異なって壁も床も天井もお構いなしに迫る状況でなぜ祐が捕まらないのかという事実が意味するのはただ一つの事柄だ。
相手にとってすれば、これはただの余興に過ぎないのである。
踊り場から一階へ向かう最後の階段を中ほどで、視界の端に迫った影を最も大きく感じた祐は残りの六段をそのまま飛び降りた。
派手な音を立てて着地し、膝を曲げつつそのまま前のめりに衝撃を逃そうとした身体は、想像より大きな衝撃を殺しきれず吹き飛ばされるように転がる。
咄嗟に頭部を抱えるように腕で囲うことしか出来ず、肘を強く打つ。
やっと止まり、肘以外にも至る所に軽微の範疇である痛みを感じながら腕を抑え、素早く立ち上がった姿に蜘蛛女の影が覆う。
眼前に広がった影だ。暗がりから覗くジュクジュクと熟れ滴るかのような赤い眼が無数にある。
合わせ鏡に映る姿のようにそのいくつもの眼に振り返っている最中の祐の姿が写っていた。
蜘蛛女はいまこの瞬間こそ人の姿の特徴を成さぬが、愉悦ここに極まれりといった歪な快楽をありありと浴びることのできる勢いを放ち飛び掛かる。
上肢の二対を広げ、捕食するために顎に備え付いた鋏角を広げたのだ。
ぐわりと迫り、それだけでも肉食の獣のような威圧感を持つ鋏角をギリギリまで引きつけた祐は、腕を庇いながら立ち上がっていると見せた死角に潜ませていた缶コーヒーを蜘蛛女の口元に放る。
四肢のいずれかを噛みちぎり、動けぬところを少しずつ毒してやろうと考えていた蜘蛛女であったが、目の前に投げつけられた缶コーヒーの影を認識することはできても避けることはできず反射的に噛み潰していた。
まるで書き損じの紙を適当に丸めるが如くいとも容易く缶を潰し、ぐしゃぐしゃにしたそれを振り落とす。
遠くではからんと響く軽やかな音を聞いていた。
同時に缶から噴き出していた後にばたばたと落ちる黒々しい飲料は、蜘蛛女の口を濡らし、また床に滴った。
蜘蛛女が呆然としている。その間に祐はすぐさま昇降口へ向かって駆け出したのだ。
「……歯ごたえのある食い物のほうが好きじゃ。草は食んでも青臭いばかりで、面白くもない」
口の周辺の細かな毛をコーヒーで濡らした蜘蛛は震え声で呟く。
そして燃え盛る火の勢いが如く激しい癇癪を起こすと周辺に当たり散らし、四肢を振り乱した動きで祐の後を追いかけた。
「特に恐怖で硬直し絶望に染まった肉のなんと甘美なることか! 獣肉ですらそうなのだぞ。して、ようやっと人間を食らうに困らぬ力を手に入れたのだ。通りがかりに腐った獣の死肉を奪い、啜ることも! 泥臭いネズミを仕方なく食うこともない!」
蜘蛛の特徴が強い口元がぐわ、と大口で奮い立たせる笑みをすると、裂けた暗闇にヒト科の特徴がよく出た平たい前歯と犬歯、続く臼歯の列が覗く。
その有様は正真正銘にして化け物といってそのものである。
そうであるとしか言いようがなかった。
「さあ、命乞いをしろ! 恐怖しろ! 恐怖で存分に熟れてから四肢を捥いで血肉が溶ける恐怖の中じわじわと食ろうてやるわァ!」
もはや慎ましい花であるとはかけ離れ太くくぐもった声が昇降口のガラスを揺らし、周囲の痩せた木材が痛めつけられてギイギイと鳴き出す。
総毛立つほど静かな空間から一転して禍々しいほどの音が耳に流れ込むのだ。
甲高い金属音やギイギイと悲鳴をあげる木材たちはまるで女の悲鳴のように響き、足を止めては耳を塞ぎたくなるような不快に襲われる。
それでも足を止めればあっという間に頭から喰われてしまうという本能からの恐怖で今に気が触れてしまいそうだったのだ。
ゾッと開いて感覚の鋭くなった皮膚がそのまま閉じることなく五感で得る全てを過剰に受け取る。
祐自身もシューズロッカーに身体の一部をぶつけながら慌ただしく昇降口の大きな扉の前に立った。
「目眩しなど意味もない!」
人間の身体を引き裂こうと追い掛けていた蜘蛛女がその脚を振り上げていたが、目測を誤り、勢いのままに昇降口に激突した。
強化ガラスは揺れる程度に留まっていたが、地が僅かに揺れたことで鍵のかかっていないロッカーから一部の靴がこぼれ落ちる。
騒々しい音の中で上半身をひしゃげ、つんのめった脚先をしたままの蜘蛛女が人間のものとしか思えない歯を覗かせてわざとらしい歯軋りをした。奥歯がみしりと音を立てる。
それから再び引き裂こうとした引き上げた鎌先をも、また不発にして地へ下ろしたのだ。
「地が……回っている? 貴様、何をした!」
口角がピクリとも笑みのための弧を描くことはない。しかし祐は背後の傘立てへ後ろ手にした指先を忍ばせながら嘲笑の声音を浮かべていた。
適当な傘の柄をしっかりと握り込んで、姿勢をわずかに低くする。
「カフェインは人間以外に対しては大抵のところ、毒だ。蜘蛛の場合、中枢神経を麻痺させる」
「なんだと?」
聞きなれない単語に問いを返していた蜘蛛女であるが、酩酊に似た感覚で渦巻く砂地のように歪む地面を前にしては何かを言う気力もなく項垂れている。
大事にとっておいたご馳走を前にまさに手も足も出ない状態で伸びかけているのだ。
「曲がりなりに蜘蛛をしているだけ効くらしいな」
「きっ、貴様だけは最も惨たらしく食い殺してやる! 生きていることを後悔して懺悔して、殺してくれと縋りついたところに溶解して啜ってやるわ! 生きながら地肉を啜ってやる!」
既に祐に向ける焦点はその像を正確に結ぶに至らないまま、ギョロリと眼のいくつもがそれぞれ異なる視線を向けて視界を回していた。
裏返った声が傲る態度を辞めないまま悔し紛れに叫び声をあげる。
その間にも酩酊は加速し、立ち上がっていることすらもが蜘蛛女にとっては苦痛であるはずだった。
「いずれにしてもこの箱は妾のもの! 何もかもが妾のもので、妾は最も貴い! 今に見ていろ、いまに見ていろッ!」
蜘蛛の姿から、脚が人間の四肢を模したり、熟れた目玉が皮膚の切れ目から覗きまつ毛に彩られた目の輪郭を得たりする。
いずれも人間と蜘蛛の特徴をする境目はどろどろとした粘土の高い泥が糸を引く。
形が曖昧になっていたのだ。
人間の頭部が形成されたと思えばこめかみから毛の生え揃った蜘蛛の節が飛び出る。ぼうっと開いた口に、潰れた目だ。
思わず視線を逸らした祐の隙にも気付かず、一見するにはひしゃげた方向に曲がった人間の手を彷徨わせている。そしてやっとのことで壁に触れるとそのまま壁の中に逃げ込んでいった。
ひとり残された祐は廊下を全力疾走したり、精神を揺さぶられるような光景を見せられたりしたことの疲労をどっと背負わされてへたり込んだ。
そして這うようにしてシューズロッカーのそばに寄り、背中を預けるとやっと落ち着いて呼吸をすることを思い出すことができたのである。
ネクタイを僅かに緩めシャツの第一ボタンを外したことで喉元を寛げる。それだけで随分と気が楽になれた。
相手の様子を察するにこれは時間稼ぎになるはずだ。
あとはその間に上手いこと茅間と合流できれば――。
頼ることに抵抗のある出来事はあったものの、これを合図に計画していたことも事実なのだ。
勝手であるとは理解をしながらも、それに縋ることしかできないのも確かである。
身体が痛いことよりも疲労による眠気が僅かに誘いを見せていた。
この状況でもまだ気は抜けない。一人で打破するための手段をいくつかは考えなくては。
敵の動きを制限することは出来たが出られないことに変わりはないと、これからのことを考えていると昇降口の扉の方で大きな音がした。本来の用途通りにして開くことがなければ蜘蛛女の巨体が激突しても破損しなかった昇降口が、いまこの瞬間に素知らぬ顔で解放されようとしているのだ。
反射的に傘立てに掛けてある傘の持ち手を引っ掴み、構える。
うなじのあたりで筋肉が引き攣る痛みを覚えながら息を潜め続けていた。