次第に眠気にも似た停滞と倦怠が、感情が大きく動いた後の身体に重く圧し掛かっていたのだ。
廊下を進む歩を速めながら、水分の不足で乾き、窮屈になった指先を握り、そして開くことを繰り返している。
唇を噛んでことに気付き、そして歯の当たっていた下唇を舐めた。
カサついて捲れた皮がふやけていく。
思考が自覚をする。
水分が圧倒的に足りていない。
無意識に緩急をつける拳の動作に正体を見て、唐突に時間の経過を正確には知らないことを思い出す。
祐は一つ一つの部屋――教室すべてに一つとして欠くことなく丁寧に配置されている時計たちと同じくして刻む針を手元で眺めた。
今思えば、たくさんの部屋に区切られている箱の連続に人間は見られない。
極めて静かであることは既に理解していたが、あまりにも誰一人いないのである。そして明確な答え合わせは時計示す時刻によってもたらされるのだ。
ざっくりとして正午前。つまり、この時間において学校に所属する人間は一部例外を除いて全員が体育館にいるのである。
そして、生徒の何割が真面目に聞いているのかもわからないレクリエーションを延々と聞かされているということだ。
祐は前髪を掻き上げてから壁に寄り掛かる。
ブレザーのポケットをまさぐってコインケースの存在を確かめると、祐はその中でケースを握り直して前を向いた。
はあ、と漏らした息すらもが掠れて体を成すことを曖昧にしたまま、重たくなっていた足取りを再開する。
頭がぼんやりとして茹っている。途端に水分が欲しくてたまらなくなっていた。
頭は鮮明な思考をしているというのに、祐にはいつでも湿気に満ちた狭い部屋に閉じ込められているように思えているのだ。
ガシャン、と金属の箱の中で購入した飲料のパッケージが転がる音がして、下るように音が近づいてくる。
それから硬貨がすっかり底まで自動販売機に飲み込まれていったことが窺えた。
思考が僅かに飛んで、中庭に赴いた足は自販機の前にいる。
重い金属音がすると同時に、祐は空嘔吐きをしかけて足元に膝をつく。
そして伏せた目の先で気付くのだ。
スポーツドリンクを購入しようとしていたつもりが、習慣めいて購入することが多いコーヒーを選んでいたのである。
パッケージを飾るシックな明朝体はスポーツのイメージとは正反対に、小綺麗ながらにどこか高級感のある演出を求め、"無糖"の文字を飾っていた。
確かに簡単に購入することのできる飲料の選択肢として好ましいほうではあったものの、特別に気に入っていたわけではない。
コインケースをポケットにしまいながらため息を吐く。もはや息を吐けば気だるいそれはすべてため息に分類されるかというほどのものだった。
自動販売機の足元で屈み、下を向いたまま反対のポケットに缶コーヒーをねじ込んだ。
ポケットに半ば手を突っ込んだまま、プルタブを軽く引っ掻いている。焦りにも似て逸る感情が苛立ちに似たものとなって胸を占めているのだ。
先の会話のことを思い出している。
しかし、同時に伊三路の口にすることが、人間が親しい間柄に対してすることであれば、共感は出来ずとも理解はできる。
遠ざけて生きていくことに葛藤を思うことがある。
どうみても与えることと受け取ることのつり合いが取れていないのだ。
何故自分に構うのかという疑問が恐怖とすら思えている。
同時に、これが善意だの好意だのというのならばそれを踏み躙っていることに等しい自分を客観的に見て正しいわけがない。
秤が揺れず水平にある際に、己がすべきことは何か祐には理解が出来なかった。
机に向かうことは得意でも、他人と向かい合って言葉がとんと思い浮かばなくなる。
何が自分にとって大事であり、何が求められる正しいことであるのかが自覚できないのだ。すると途端に凍り付いたようになる。
稀に見る幻覚じみた幼い己が戒めるように座り込む自分を見ていて、音を掠めることもないまま語り掛ける唇が動く様をぼんやり見ていた。それを祐は憔悴しただけの表情で見てるばかりだった
空中の酸素は不可視であるが、その空に穴の存在を認めているのだ。その矛盾を自覚できている。
それがこの世の何よりも恐ろしいものに思えて仕方がないのだ。
「――おまえ、」
幻覚として認識している己のさらに背後を示す向こうに立つ姿に気付くと、祐は大きく目を見開いた。
「まるで自ら現世との鎹を断つかのようだの、その態度。よおく見させてもらったわ」
けたけたと笑う声が二重、三重として聞こえる。足元に転がる毬の焦点はただひとつに定まっていると、たちまち脳は混乱を起こして平衡を欠く。目と耳が異なる情報を受け取るまま自由勝手に持ち運んでくるのだ。
後ろから抱きしめるかのように覆い被る形になる少女は自動販売機の前から立ち上がれないままでいる祐の肩をしっかりと抱く。
長く靡く着物姿を他の角度から見れば、それはしがみついているとも見てとれた。
丁寧に紅を塗った爪が肩に食い込み、甘やかな息遣いが耳元で愛しく言葉を紡いだ。
「この場所はなあ、住処にするには常日頃に見て回るに最もつまらぬ場所だと妾は思うが、おかげでよいものが見れたわ」
囁きはきゃあ、と語尾の音を跳ね上げ、そして悦楽に喜ぶ様は鼻を抜けて高く通り抜ける。
ラバータイルの目を睨みつけたままの祐は、視線を合わせないまま、脳にこれらの存在を認識させないことを務めていた。
「そうであろう? なあ。よい、よい、これは後の楽しみじゃ。ただ弁えよ、今の妾はこの瞬間、その気になれば其方の名前を呼べるようになったのだぞ」
地面に対して平行にした手のひらを上下に動かすことで、場に静止を齎しながらも少女は仰ぎ見る顔の角度から愉快極まりない表情で祐を見下ろす。値踏みをするようにねっとりとした視線で姿を頭の先から足の指先までを舐る。
その目と視線が合うと、圧倒され、一瞬の間で呼吸が止まったようにも思えた。
ハッタリかもしれない。そう思いつつも、この生活で識別の固有名詞でもある名前は腐るほど使用されるのだ。
もしその口から自分の名を出されたら? どうなるのか?
その想像をしただけで怖気がする。
まるで動かなくなった表情がまさに凍り付くの表現よろしく貼りついてただただ屈んだままの姿勢で少女の姿を振り返ることに近い体勢でで見ていた。
「重畳! その表情、悪くない。聞こえぬとはもう言わせぬわ。さて、思わぬか? 今の其方が消えてもだあれも気づかぬ。そうであろう? 自らすべてを拒み、破滅するその愚かしさ、愛い」
抱きしめられる温度があるはずだというのにまるで氷点下に晒された如くに指一本動かないのだ。そのまま柔らかな肌を押し付けられてゆっくりと頬ずりをされている。
熱の足しにもならない温度が囁く。
「さあ、今度は妾と遊んでたもれ。好奇心は猫を殺す。だがな、退屈もまた、賢しい生命を脅かす。老けるということは誰しもに疎ましく響くものじゃろうて」
「これを言いたいならば、まあ、其方は元より現実(ここ)に生きることに向いてすらいないか」そう付け足して少女は一層楽しげに声を高くする。女性特有に癖のあるしゃくりをするのだ。
言葉が毒のように広がっている。唇が痺れていた。
祐には地面が歪んでいるように見えていた。
瞬きをするたびに地面は一度は正しい有様の姿として輪郭を取り戻すが、目を開いている時間が長くなるほど空間が捩じりこむような歪みは何度でも生じていた。
平衡感覚がなくなって、地面が回っていたのだということに気付いている。
「秩序は枷に過ぎぬ。其方の性質は我らの知る気配と幾分近かろうと思うておったぞ」
甘ったるいは沁みて落ちて、痩せて渇いた土地に長くどす黒い染みが残るかのようだった。
「望めば其方を生かして小姓にでもしてやろうて。故に、妾に退屈を指せぬ術を見せつけよ。その身すべてを使い、尽くしてみせよ」
瞬きの三つで、視界は明瞭を取り戻す。祐の目が薄い暗闇に慣れてくるとこの場所は自分の所属する教室だった。
混沌の黄昏を浴びながら、机の天板に伏せて眠っていたことに気付く。
周囲を確認しようとすれば、すぐに教室の後方出入り口で手毬をつく少女の声が聞こえた。
子供が着用するにはやや着丈の長い袖が時たまに暴れることも惜しむことなく、手は楽しげに、遊ぶことだけを最も追及していた。
それ以外は何一つ気にすることなく、頭の花飾りから生花のようにひとひらが零れても、装飾の紐が解けても構うことはない。
吸い付くように手元へ戻ってきた毬を手のひらで押し返すたびに揺れる頭部に飾られた花が、それを眺めている側にはやけに鮮やかなものに思えていた。
反対に、それ以外の色が急速に冷めているように思えるのだ。
鈴の転がるように無邪気に数え歌を歌っていた少女は祐の視線に気づくと手を止めて静かに視線を上げた。
てんてん、と鳴り物を内部に含ませた毬が転がっている。その動きにはたと視線を奪われる一瞬で、その少女は窓際に移動していた。
「妾の言葉の意味が分かったか? 其方にはこの空気こそが生き易くなりつつあるのではないかと思うのじゃ。後に、人間が正しいと宣う場所こそ、お前には猛毒になるぞ」
「戯言だ。ここがお前の縄張り――無秩序のなかでも特に領分とするならば圧として与える気を操作できないわけがない」
ぷす、と艶やかな色をした爪が祐の頬をつついて触れた。
つつかれてからの行動では反射と呼ぶには不格好であるが、脊椎反射としてその場から勢いよく飛び退く。
椅子の倒れる騒がしい音が伸びよく鳴り響いたが、祐の行動に追いかけて響く音はこの距離を決定的に理解できないものと位置づけた。
目の前に少女は居ない。今度はごく背後から声が飛んでくるのだ。
遊ばれている。
そのことに気付きながらも、視線だけは少女のいる方向へ常に意識をして祐は胸ポケットの中身を思い出していた。
「生憎、いざここへ来て怯え惑う姿は見飽きた。よい、加点としてやろう。仏の顔も三度までとな。三度は見逃してやる。しかしこの世には帳尻を合わせねばならぬ。鬼事の開始は四半刻後じゃ」
「フフン」と鼻で笑う声が背をなぞる。
得意げは爪の先に鋭利なカーブを思い描く。それがブレザーの上からそれが感ぜられた。
「そのような顔をするでない。あくまで遊戯の規則には忠実じゃ。捕まる前に其方から来い。したらばとくと溜め込んだ保存食と共に解放をしてやろう」
指先が首の側面に触れる。
祐の肩が揺れた。
「縁がなければ以降は出会うこともあるまい。乗らねば死ぬ、負ければ飼い殺し。しかし、勝てば生きて出ることが出来るぞ。生きて出るまでは保証してやる」
読み聞かせの絵本に登場する役になりきるかのようにあまりに甘ったるく作った笑いを漏らす声音の悍ましさを前に、祐は鼻を鳴らす。
これに本能で感じ恐怖はあれどそれが漠然としているせいで理解できないならば、恐怖は恐怖であれど故に度を過ぎて怯えるものではないのだ。
「それ以降は命運だ、諦めろ、とでも言いたいのか」
「不可視に証明は出来ぬ。未然の出来ごとにもな。あるいは運命の赤い糸、それか蟻のつけて歩く道しるべ。蜘蛛の糸ように容易に切れぬ執着やもしれぬぞ。誰しも心躍るじゃろうて、この偶然は運命だって、そんな戯れごとに胸が高鳴る生き物ではないのか? 人間というものは」
肯定を促してつい、と触れる指先に祐は否定の意を表して語調を強める。
「触れるな、反吐が出る」
「これが後の従順と思うと悪くない、その減らず口がいつまで続くか見ものじゃ。どれ、妾は戻るぞ。四半刻経つまで精々逃げまどえ」
恍惚とした声色だけが耳に残っていたがいつのまにか少女の姿は消え失せる。
ひとりきりで残された祐は緊張から解放される。
思わずよろけるも、しかし"四半刻"という自由に動ける時間制限を思い出すとすぐに立ち上がった。