「最初の話に少しだけ、戻ってもいい? きみは何も変わらない教室を見てさ、何を思ったの」
 喧騒に身を委ねる生活へ戻ることは簡単だった。
中庭へ出入りする簡素なアルミサッシを跨げば、雑音が雪崩れ込んで聴覚へ訴える。
それをものともせず後頭部で手のひらを組んではぶらぶらと一定の距離を保って歩く伊三路は、相変わらず険しい顔ばかりしている祐に話を振る。
「意図がわからない」
「きみだけ置いて行かれたような顔をしていたから、すこしばかり気になって聞いただけだよ。もしかしたら不服なんじゃあないかってね」
言い当てられたように目を見開いた祐に伊三路は慌てて首を振った。
先まで後頭部で己の指同士を絡め、長さを持て余した腕を軽く曲げていた際の剽軽な様子からは一転している。
解いた手は胸の前あたりで否定を表すために左右を行ったり来たりと振られているのだ。
「咎めようだとか、なんとか言ってやろうとか、そんなことではないって」
反対に目を大きく開いたのち、伊三路の言葉に自らこそが過剰な反応をしていることを自覚した祐は、気持ちのぶつける先もなく惑いを見せてから静かに視線を逸らす。
逃げるともまた異なって、意味の先を失って仕方なく否定も肯定もしなかったということに近いのである。
「まじないが気の持ちようだと言われて、その気になればまじないもむなしく日常というなかにあまりにも簡単に願いの撚りを解いてしまうこともある。反対に強い念がいつまでも残って人間を脅かすこともあるでしょう。のろいだ祟りだっていう、それさ。でもね、難しいことでもないんでない?」
 廊下を歩く足取りは祐の抱く感情に引きずられることに伴い、伊三路も速度を落としていた。
靴底が僅かに廊下にチリ、とした摩擦を生む。重い足が表面を掠めて過行くのだ。
「今回はその秤における重さのすべてが暦と伸司に託されただけで、彼らが気にしないならば第三者が納得してもしなくても同じじゃないかと思うんだ。少なくともおれの考え方ではね」
「先の説教だけでは語るに退屈だとでもいいたいのか」
「まさか。心配をしているんだ。少しだけね。許すことが全てじゃないなら、許さないことも全てじゃない。生真面目に途方もなく行く先を求めたら、きっときみの心臓は潰れちゃうよ」
 最後まで言い切らないうちに、全く知らない生徒の、事情を全く知らない伊三路と祐から聞いても動揺を露わにして興奮をしているような声が廊下に響き渡った。
「え! あいつ、あのあと家に帰ってねえの?」
家に帰っていない。
親の庇護下にて暮らしている高校生程度の年齢であることからすると少々の問題行動ともとれる結果に驚く声だ。
意図して盗み聞こうと思ったわけでもないが、"無断外泊"という言葉が返ってきたのを確実に耳にしたのは伊三路と祐が声の方向へ振り返ったちょうどそのころだった。
新学期で浮足立つころに発覚した女子生徒が逆さ吊りで見つかった事件は重大なニュースであったが、すでに日常の膨大な情報量に流されかけていた。
しかし、今しがた家に帰らなかったという言葉を聞いては、どこか冷たい廊下に緊張が走る。
視線の先で大声の会話を続けている男子生徒たちに気付かれないようにより歩みを遅くした伊三路は耳を傾ける。祐はそれを悪趣味であるとしつつも、だからといって置いて先に行くというようなことはしなかった。
「帰りに弥彦と会って夜遊び火遊びでもしてるんじゃねえの? んで、どっかで寝落ちて起きれねえって話じゃね? そろそろ丸七堂の早すぎる手持ち花火の陳列が始まる頃だろ」
「確かになあ。ウチの町、夏に花火入荷しようと思うと品薄すぎて入ってこないらしいからな。あのばーさん結構読みがいいらしいぜ。ま、ばーさんの自称だけど……」
どっ、と詰まったような笑いが背後をだらだらと歩く男子生徒二人組から放たれる。はっきりと言葉を聞き取れる声量だ。
「俺のときは東京に行った孫が優秀だからって聞いたけど。でも、あそこさ、孫なんていなくねえ? ばーさんと、スゲーたまにだけど居るおっさんしか見たことないよなあ」
「そのレアキャラのおっさんが孫なんじゃね? どうみてもおっさんだけど……ばーさんも俺の父ちゃんが若いころには既にオニバンバって言われてたらしいぜ。ばーさん長生きなんかな」
「はあ? 俺たちが小坊の頃はボサツばあって呼ばれてたじゃん! ボサツって菩薩だろ? ぜってえ別人だって。おっさんだの孫だのも正体は普段は他所に住んでる親戚かなんかの見間違いってオチじゃねーかな」
だらだらと進む歩幅だ。
しかし勢いづいて"おっさん"と"ばーさん"、そして"孫"のいるいないを語り続けている。
その物事の勢いをはかる速度としての概念を相反したまま同居するように備える男子生徒たちは会話を盛り上げながら、ついに様子を窺っては自然を装って足を止めていた伊三路と祐を追い越していった。
「てかおっさんに興味ないわ。帰ろうぜ」
「ンー。まあ、あいつも騒ぎになれば出てきにくいだろうしな。俺らの知ってるあいつの普段の行いってのもあるけどさ、結局ケーサツへの届け出は親の判断だろ」
 少しばかりの間が空く。
誰が何を言うまでもなく、新学期が始まったばかりの頃の事件が頭を過ったのだろう。
引きつった笑いが「だよなー」と間延びした言葉で返した。その母音が伸び続けている息遣いが僅かに恐れを抱いて、そそくさと会話を終わらせていた。
「まさかな」そう言葉にすることはなかったが、伊三路と祐が盗み見る男子生徒たちが廊下を曲がる前に見た顔は複雑な表情で顔を見合わせる様だったのである。
呼吸を止めていたわけでもないというのに、止めていた呼吸からまた酸素を求めるかのような忙しい沈黙が過ぎゆく。
"帰っていない"ということに目を鋭くした伊三路が、祐との会話を再開しながらも後ろ髪をひかれるように尾を引いて薄暗い表情をしている。
「……これから駄菓子屋にでも行く? いや、今日は真偽を確かめるつもりじゃないって。おれはまだきみを笑わせるほどその場所には詳しくないけれども、行けばきっと楽しいよ」
その話題で思い出したように小気味よい足取りに変わっていく伊三路は、笑みを浮かべながらも内緒話のように耳打ちの姿勢を取って口元を隠すための手を自らに宛がう。
「じつは、今度の水曜日に弥彦――そう、伸司がさ、三○○円以内でこすぱのいいらいんなっぷ? というものを教えてくれるのだというんだ」
 密やかに囁きじみた声でとっておきの内緒話を打ち明けられるも、『コスパのいいラインナップ』の意味を理解していない伊三路が弥彦の発言を真似て語る文字列は、イントネーションがめちゃくちゃだ。
弥彦の持つ方言混じりの音も原因ではあるが、それを更にうろ覚えで真似る伊三路の言葉は、祐にとっては異国語にも聞こえてしまいそうだったのだ。
故に、理解をするまで一瞬の間が空く。
駄菓子のことを知らないのかと勘繰った伊三路がいくつか説明を付け足すことで、いわゆる三〇〇円で購入することが出来るもののなかでも満足度の高い商品の定番をリスト化して教えてくれるということだ、と線が繋がって理解する。
それまでのほんのわずかな間を二人は目を丸くして見やっていた。
伊三路はとにもかくにもまだあまり経験のない駄菓子屋の話にはいつも目を楽しげにしていたのである。
祐が理解のための時間を要して空っぽに視線を合わせていた状況の中での伊三路といえば口をゆるく開いたままきょとんとしていたが、弥彦の語るそれが悪事ではないならば些末なことだとでもいったような様子だった。
「きみの眉間にしわが寄るとき、ふと思い出して笑えるようなたのしいことをたくさんしよう」
「行くとは一言も言っていないし、そんなことをすると約束はできない」
「うん、おれがこんなことを考えているって先に言いたかっただけさ」
 自分に付きまとう男の語る言葉は理想を美しく語るものが多いが、時に正論を口にする。
故に我関せずとしていたい利己を優先して時に少々の非効率を選択することを指摘された祐が丸め込まれることすらもあるのだ。
そうやってうまく付きまとわれることを許していることが、"ともだち"然としてることに奇妙さも覚えていた。
自覚のあることを指摘されていいようにされている以上、うまく跳ねのけることもできず、なあなあと絆されているのである。
無理に関係を終わらせるにしても、それなりの道筋を通さねば簡単なことではない。
今すぐにそれをできるか、ということまでを考えると既に思考のいくつかを放棄したくなるのだ。
それらを隠さず表情に浮かべて疲れている様子である祐の普段より稚拙とも感ぜられるような言葉にしても、やはり伊三路は満足そうにしているばかりだった。