真っ先に事情を説明しだした暦の方へ手を差し伸べた伊三路は、座り込んだまま唖然としている暦の肩を支えようかと申し出る。
そして自分が選ばなかったほうの――顔を真っ白にして言葉も出ないまま瞳孔の開きかけた瞳でぼんやりとしている暦を横目で一瞥したのだ。
少しばかり気の毒に思うような、哀れに思うような、寂しい目でいまに置き去りにされる暦に、謝罪かの如くの視線を向けていた。
「い、伊三路くん……! ありがとう。信じてくれて」
信じてもらえたことに喜んで涙を流しては応える暦が左手を出したために、先に手を差し出したはずの伊三路は自分が左手を差し出していた――つまりは触れ合うに不便な手を差し出していたことに気付いてから左手を引っ込めて、そして右手を差し出し直した。
暦を見ると小首を傾げたために、伊三路は少しばかりの気まずさを知って己の上唇を無意識に舌で舐めていた。引っ込めた左手を後ろ手にして、握ったり開いたりすることを繰り返している。
その気も知らぬ暦の心から安堵をした指先が、ゆっくりと伊三路の少し温い指先と触れ合っていた。
一方で置いてけぼりにされていた暦のほうはもはやそれを見るわけでもなく、背を丸めていた。
へたりこんで、項垂れている。その言葉から想像する、少々に大袈裟なイメージがそのまま彼の状況に当てはめて言い過ぎという表現ではない。
あまりの痛々しさに思わず視線を逸らしたくなる。その通りだった。
この世の終わりのように乱雑に、そして力任せに蹴散らされた雑草として這いつくばっている暦をよそに、しっかりと手を握りあって、二人は立ち上がる。
伊三路の間の抜けた笑みが、それでもどこか冷たさを思わせるように感情を突き抜けない曖昧な唇の半開きが、安堵を誘うが如く存在している。ごくありふれた日常の通り、少しだけ言葉尻の捉えかたを相手に任せてぼやかし、特別どうしても必要ではない言葉をつい話したくなる感情を知らず知らずと引き出すかのように首を傾げていたのだ。
それを遠くで見るばかりだった。
「僕が僕を意識やらなかったから、大事にしてこなかったから、だから、僕は……そんな」
過ぎた後悔に気持ちの整理をつけることができないまま涙を拭った暦が言葉を漏らす。
それから先は、まさに一瞬のことだった。
伊三路は暦からみた偽物の、その手を思い切り自身のほうへ引き、よろけた暦の持ち合わせた勢いを胸で一度受け止めたあと、すぐに首の後ろを掴んだ。そして後頭部を覆うように改めて手のひらを宛がうと、顔から花壇のレンガへ目掛けて叩きつけたのだ。
鈍い音がする。
砂の粒か、血液か一瞬では判断のつかない暗色の粒が飛んでいた。
不自然なほど前のめりになっている選ばれたはずの暦の目には、よくある赤茶けたレンガとその継ぎに存在するセメント、そして経年の劣化でレンガの身が欠けて生じた窪みが視界いっぱいに映っている。
二度目の強い衝撃と鈍い音。
ひしゃげた息が喉を震わせ、汚く潰れた声音を吐き出させていた。
蛙が潰れる音にも聞こえるし、水気を含む果実が叩きつけられた時の無言なる悲鳴にも聞こえた。
それを聞き届けたか聞き届けぬかの「あ、」とこの場の誰かが声を出す間もなく、すぐにぬるま湯のような血がセメントの地色を食って広がりだす。
追いかけてきて、人肌に温まっていた血液からいやな臭いが立ち上がった。
重たく、身体の表面を薄く削り粟を立たせる温かくて、冷たくて、すぐ近くで滴るような嫌な匂いだ。
一瞬にして鼻腔を満たし、たちまち思考や身体の機能を麻痺させる。そんな感覚に似ていた。
ぞうっとした恐怖が肌をかけ抜け、叩きつけられた顔面がどうなっているか、などということを想像すれば今に吐き気に見舞われそうである。
伊三路との会話の後、このやりとりを黙って見ていた祐は思わず口元を手で覆っては足を半歩分引き、絶望していた暦は選ばれたはずの日野春暦の現状に驚きを隠せずにいて、それをみてようやく意識が――正確には焦点を正しく結んで正気に戻ったようだった。
レンガ造りを滴り、土を濡らしている。温かな生命の模倣が漂っている。臭い、湿度、色――人間の内側を模倣したそれらすべてが急速に色褪せ、乾いた泥がこびりついたかのようになってゆく。まるで土くれの様相がそこに存在しているのだ。
「いっ、伊三路くん?!」
明らかに暦ではない暦を抑えつける伊三路は、驚きの声を上げるもう一人の暦に事情を理解できるだけの精神が戻っていることを理解すると声を張り上げた。
「暦! 祐も! 離れていて! こいつが偽物の日野春暦――影法師の蝕だ!!」
暦は咄嗟のことに動けず、それでも発せられた言葉の意味に応えようとしては、震える四肢をバラバラに動かして這う。祐が伊三路の言葉に従い動こうとする後を追おうとしているのだ。
するとそこに、身体を横たえたままの弥彦が居る。触れようと思えば触れることのできる距離だ。しかし、この状況で、二人では、庇いながらでは逃げることが出来ないことは目に見えている。
凍り付くようだった。
死との天秤にかけて、こんなに力の出ない身体で、自分には何ができる?
過る考えはそればかりで、複雑な輪を描いている。
暦の身体は急速に冷める。これが自分にとって迫られた本当の『すべきを強いられる選択』だ。
自分は間違いなく、今この瞬間のためにここに存在していた。そうではないか?
思わずそう問いかけて、どこからか「そうだよ」と言われた気がしていた。
「いたいよお。伊三路くうん。いたいよお」
虚ろな声が響いている。間延びした声音はどうにも甘ったるいというのに無感情だ。
合成音声ほどの継ぎはいだような雑音を含まないものの、その抑揚のない声は人間離れして恐怖を煽り立てている。
空間を支配する恐怖が囁くように、広い場所で、そしてすぐ耳元の近くで声は聞こえるのだ。
耳の後ろ側を触れるか触れないかの距離でそうっと撫で上げては不快を誘う様子だ。肌に走る背を逸らしたくなるような怖気が大分に冷静を欠いた面々の精神を大きく削り出していく。
「くるしい。たすけて、いたいよ。やひこくうん。ぼく、しんじゃうよお。あたまをすりつぶされてころされちゃうよう」
「おれの名ならまだしも、暦の大事なものたちを好き勝手に語るな……!」
偽物の暦の独壇場と化していた場に伊三路の鋭い怒鳴り声がする。幼さを思わせる顔をしているがきちんと声変わりを経て、男にしてはやや高いものととれる表情をする普段より掠れて怒りを滲ませた声は、その様相よりもずっと重い圧として響いている。
この場を制するものの声だ。まとわりつく髪の一本にも目をくれてやらず、圧し与える緊張に誰もが驚きに開きかけた唇を、改めた努力をして閉じたのである。
すると、泣きすがって助けを求めていた声はふと止む。頭を押さえつけられて花壇へ突っ伏している偽物の暦における視線がどこへ向いているかなど伊三路からでも目視はできもしないというのに、伊三路には彼が目の動きだけで己を捉えようとしていることがぞっとするほど実感できていた。触れている手の感触から温い怖気が広がり、心臓を愛撫したのだ。
「ね、どうしてわかったの?」
耳鳴りのような恐怖が止んで、やけに鮮明に聞こえる囁き声だった。
伊三路は怒りと、少なからずの恐怖を抱いている己を鼓舞するように下唇を噛みつけると、じんとした痛みが残るまま答える。
「暦は……右利きだ。普段から右手でものに触れることが多い。それがほとんどだ。だからきみもそれを真似ようとしたはずだ。だけれども、その延長さ。きみは弥彦伸司を殴っている。本来のきみには右も左もなかったはずが、咄嗟に弥彦伸司を右手で殴りつけたんじゃあないかい」
うつ伏せにさせられたままの偽物の暦が、投げ出されていたままの指を反射的に動かした。何をしようとしたわけでもなく、思考に引っ張られた脳が錯覚をしたのである。
「ふうん。それで?」
「しかし、きみは人間の常識や癖に倣って初めて知ったはずだよ。脆さを、例えば、人を殴ると自分も痛いということをね。だから暦を煽り、言葉の応酬へより意識を向けさせた。だけれども見分けもつかないほど上手に真似を続けてきたきみは雑念がよぎってはぼろを出すことになる。選ばれた際に腫れた右手を見られることを恐れて左手を差し出したんだ」
囁くような声色だ。伊三路は背中を丸めると暦の耳元へ向かって身体を「く」の字のようにしてより折り曲げる。
形勢逆転だ。この場で悪魔のような囁きをしているのがどちらかなど一瞬では判断のできないほどに、恐ろしく優しい様子で、そして柔らかく声は感覚器官に触れ続けている。
「きみはおれが本当の暦を選ぶと、どこかでは思っていたんじゃあない? だから咄嗟に反応をせざるを得なくなった。真似事を続けることのなかで、怪我をした手を庇うことに悩みかけた。人間ならばどうするか? というようにね。いや――そもそも、暦をそっくり真似るには洞察力が足りなかったね。だって、彼は先日の授業で、左手を怪我していたもの。それともその頃には、すでに影を切り取っては独立して動いていただろうから、知らなかった?」
己のブレザーの内ポケットに隠し持っている切り出しナイフへ手を伸ばしながら続ける。
「人間の身体の脆さは実感したよね。じゃあ、次の話の答えは簡単さ。そんなふうな状況で、おれが先に左手を差し出したと理解をしながら、ご丁寧に怪我をしている手を差し出すかな? しかも、人間が顔を正面に突き合わせて触れ合うには些かやりづらいようなほうの手を」
偽物の暦が唾を呑む音がすぐ傍で聞こえると、伊三路は昂った精神で瞳孔が緩く開いていた。
悠々を偽る語調の端々に滲み出る緊張と興奮が内側をひどく乱しているのだ。
そして、いや、そうでありながらも、伊三路の指先が辿り着いた先で切り出しナイフの持つ木の目が生きた柄の肌に触れることはなかったし、その先で行われるであろう脈を穿つ刃が血に濡れては命を胡乱にしたまま煌めくこともなかった。
「は、」と緊張が極まった息が漏れる間に、次に仰向けのまま地面に押し付けられるのは伊三路のほうだった。
骨ごと割れかけた額を前髪の細かな隙間から覗かせ、顔を滴る血を長い舌で舐めとった彼は親指と人差し指で伊三路が探していたはずの切り出しナイフを摘まんでいる。
それを認識した伊三路が目を見開くことと反対に、三日月のように愉悦の感情そのままに目元や口の形を細めていたのだ。
「探し物はこれかな? 伊三路くん。なんて、ね。なァーんだ、ただの馬鹿じゃないと思いかけたけど、やっぱマヌケじゃんよ」
舌なめずりに血の筋が伸びる。
絶えず流れる血が暦として奪った影から生成した姿かたちを離れ、伊三路の顔へ滴り落ちるとたちまち泥が乾いた染みのように褪せていく。
無意識に拭う動作をする指先に対して細かな砂の粒子に近い感触を覚える伊三路が未だ呆然としていると、恍惚として偽物の暦――伊三路が能力を指して影法師とも呼ばれる怪異とした蝕は、己の下で目を丸くする伊三路を見つめ続けていた。
「"い、伊三路くん、こそ……! 怪我……僕の意地で、君を傷つけてない?"」
まるで演劇のようだ。肩を縮こまらせては身体をくねらせ、大仰な演技で面白おかしく気弱な台詞を語る影法師の言葉を理解すると共に、つい一○分を満たすか否かほど前のやりとりを思い出す。
怪我をしていないかを互いに確認をした際に、暦が返した言葉である。そして伊三路の答えが気に食わなかったのか、行き過ぎた心配か、暦たちは二人分の手で触れて無事を確認した。
つまり――。
「狡猾な……! 暦と入れ替わることが目的なのではなくて、最初から誰一人として帰す気はないってこと」
「僕はそれでもいいけどォ? お前が僕を殺そうとするってことが確実だから優先順位が入れ変わっただけさ」
摘まんでいた切り出しナイフに一本ずつ指を絡ませ、逆手にナイフをすっかり抱え込んだ影法師の蝕は、鋭い刃先を伊三路へ滑らせようと勿体ぶったフリをして恐怖を煽る。
「さよなら、他人には説教しながらも自分には無関心な、おバカさん。いや……伊三路くん?」
影法師の蝕が暦へ擬態したうち、目だけがギョロリと怪しくなっていた。
切っ先の鋭さに光が反射して、伊三路は思わず思わず目を瞑る。
恐怖が全くないわけではないものの、それは逃れたい気持ちというよりは視界に走る光のあまりの眩しさだった。
故に、次の瞬間にうめき声をあげるのは自分のほうだと思っていたのだ。少なくとも、大小をした痛みに抉られることだけは確かと覚悟をしていたのである。
しかしながら、伊三路の思うその数分後は予想だにしない方向へ分岐をした。
想像した恐ろしさの種類のうち、どれにも当てはまることはなかったのだ。
自分の上に掛けられていた重さが一瞬にして消えたことに、伊三路は唇をゆるくしたまま、目を開く。
そこでは先のように、今に取っ組み合いをする二人の暦が居たのである。
本物である暦が影法師の蝕の腕に組みついて、切り出しナイフを手から落とさせようとしていたのだ。
「させない、させないから! ナイフを離して!!」
腕を振り払い、あっさりと暦を転がした影法師は足を折り曲げてなんども暦を蹴りつける。深く噎せ、吐き出しそうな水気を時たまに漏らす暦の様を、影法師の蝕は笑顔で見て、そして思い出したようにそれを辞める。
伊三路は不足の事態に驚きがすぎてすぐには動けず、祐は身体を横たえたまま知らぬ存ぜぬをする弥彦を静かに見下ろしている。
歪に凍り付いた空間だ。
影法師は欲望のままに突き動かされていた歪んだものから、ごく穏やかな表情へ皮を一枚ばかり剥いだように切り替えると、意気揚々と暦の声で、言葉で、語りだす。
「僕は……ずっと弥彦くんの尻拭いさせられてたんだ。ムカつくから、弥彦くんのことは惨く食ってやろうと思うんだ。そしたら、僕が僕になるとき邪魔者もいなくなるしね。日野春暦も少しくらい清々すれば、わりと僕たちの利益はトントンじゃないかって、そう思ってた。まあ、本物の日野春暦も死ぬんだけどね」
口元へ手をやり歪に口元を歪めると如何に暴力的であり、本能へ忠実に屠り貪るかということを企てていたことを口にするのだ。いかに残酷なことを並べても、最後には柔い肉を抉り、血にまみれてはらわたを食むという話だ。
「わ、あ、ああ! そんな、ひどいことを……!」
「ひどいこと? なんで? 弥彦くんがしてきた数々の積み重ねが一個に集約されてきただけじゃん。小出しか、そうじゃないか。きみだって多少なりそう思ってたじゃん。つまんなーい。それとも、ああ、そうか。優越感満載の良いひと気取り? 強欲だね。弥彦くんも言ってたでしょ。嫌いだって。ほうら、加害者はだれ? 被害者の風上にも置けないじゃん」
途端に興味がなくなったような表情へ戻ると、暦に背を向けた影法師は指先で切り出しナイフを弄びながら、伊三路を殺めようとすることへ戻りはじめていた。
強く押された後に尻もちをつき、そのまま座り込んで拳を握りこんでいた暦は半開きになっていた口を噛み締めると、痛みも恐怖も忘れたことにした。そして勢いよく立ち上がると影法師の背中へ飛びつく。
「僕、ぼく、そんなこと思ってないよ! 弥彦くんが心配だっただけだ‼」
暦が刃物をも臆せず取り上げようとする手に、ブレザーの袖に、鋭い刃先が掠める。
蹴りつけられても何度も起き上がって組み付く暦は、身体を振り子のようにして蝕が振り払おうとする己の姿に必死に縋りつこうとしているのだ。
「ああ、どこまでもきれいごとばっかなヤツ! うざったい! なんで僕ばかりこんな目に合わなくちゃいけないのって言ってたのは誰だよ。だったらそんなやついないほうがいい! 姿ももらうわけだし、せっかく最期くらい気分よく死ねるように殺してやろうと思ったのに! ああ、ああ! 今から興奮が止まないよ! お前ら全員を殺して僕は日野春暦に成り、ヒトに擬態してヒトを食らい続ける。ヒトとして個では生きていけないって顔しながらヒトが食糧であることには変わりない。この僕のことさ。最高だよ。いまからゾクゾクする!」
「ぼく……僕は! 弥彦くんと絶対仲直りする! したい、したいんだ! 今まで勝手をされてきたみたいに、僕だって嫌がられてもまとわりついてやるんだッ!」
唇を戦慄かせ、歯を打ち鳴らしながら暦は腕を伸ばし、親指の付け根の皮膚を裂かれながらも切り出しナイフの姿をつかみ取る。温情で力加減をしていた蝕が抵抗することで鋭い影の刃が暦にいくつもの切り傷をつけていた。
しかし臆することのない暦の気迫に対し、この場では誰もが圧倒されていた。
「だから、死ねない。死なない! 伊三路くんもだ。結崎くんも。僕の友達を傷つけさせたくない! 返して。かえせ! かえせ!」
大きく舌打ちをした影法師は暦の身体を模したまま、肘を大きく動かしてしがみつく暦の頭部を殴打した。
「最初からでも、マイナスからでもいいんだ! 僕は……僕は弥彦くんと、友達に、なりたいから!」
唾を呑み込むこともままならず地面に吐き出し、呻き声を抑えることもなく、暦は獲物を離さない獣のように、自らを庇うこともなく切り出しナイフを奪うことだけに夢中になっていた。
互いの息が大きく乱れている。まるで長い時間をそうしているかのように思えていたが、状況を呑み込むことが出来なかった伊三路の思考が回りだすまでの、短い出来事だった。
されど確と流れた時間も存在する。
振り払われて地面に転がった暦はぼろぼろになっていた。組み付く姿勢の都合上、顔や露出する手や足首に大きな傷やあざはなかったが、右の頬は内出血の色をしている範囲が大きく占めていた。
切り傷も多い。関節は今に外れても疑問に思わない外側の痛みをしているし、些細な切り傷がひとつずつ小さな熱をもつと、やがて身体は燃えるように痛んだ。
そして、それでも、人間を止めるが如く怒涛の組み付きと諦めの悪さを繰り返していた暦の両手に、最後に大事に守られていたものは、奪い取った切り出しナイフだった。
伊三路がようやく立ち上がり、暦の元へ駆ける。
「どうして!」なぜ自分を守るような真似をしたのだと問い詰めるような言葉が感謝より先に飛び出す伊三路をみて、暦は笑みを浮かべている。
この空間でのけ者にされた影法師が怒りを溢れさせて拳を握っていた。
同じくしてその意味では同じく外側に存在する祐は、弥彦のうちに意識が宿り、暦の言葉を聞きながらも指一本動かせない様を軽蔑していた。
常日頃を弥彦を見て、暦の持ち合わせない暴力性を抱えては生かすことのできる場面でもあると言えたところで意味のない弱さに身体を丸めていることしかできない彼が、暦の覚悟が語る"友達"が釣り合うとはとても思えなかったのだ。
だからこそ、暦の勝ち取ったものを蔑ろにしてまで、祐はこの言葉で確認をしたいと思ったのだ。同時にそれが突破口でもあると思えたからだ。
この場面において、そして二人の関係において、流れを変える一言だったのだ。
同時に流れを変えてやろうというほどまでは恩着せがましく思わないが、祐にとっても極めて純粋な疑問だった。
「その言葉で、本当に今までの散々を水に流せるのか。一切の恨みを消し去って? ……このどさくさならば、弥彦を見殺しにすることもできる。すべてお前次第でもある。日野春。その選択は、本当に正しいのか」
伊三路に肩を支えられた暦は切り出しナイフを本来の持ち主にしっかり手渡すと、力なく笑うのだ。
「それは……もう友達なんて綺麗な言葉じゃ言えなくなるかもしれないけど、僕は絶対文句を言ってやらないと気が済まないんだよね。僕が僕の勝手で気が済まないの。だから、選ぶよ。大丈夫だよ、僕は。結崎くんがそんな言葉を言わなくても大丈夫だよ。きっと」
その言葉を聞き届けた祐は弥彦の腕を無理やり引き、立つように促すと己のブレザーへ手を突っ込んだ。そして伊三路から預かったはずのお守りを、無遠慮な動作で弥彦に押し付けるのだ。
「死にたくないなら日野春を連れて走れ。そして相手の視線を離れてから身を隠していろ。……断っておくが、それは茅間の私物だ。失くすなよ」
すれ違い様に語る言葉に弥彦は眉を潜める。
確かに知らぬ存ぜぬをして、結果として己の身に降りかかろうとした危険や、暦の覚悟を前に恥じる自分があったものの、祐の言葉は弥彦にとって聞き捨てならなかった。
さも平然に他人のものを横流しすることだ。
「……お前、自分のモンじゃねえのかよ」
一理はあるが、このお守りが何を示すかわからないのでは仕方あるまい。
しかし、この場面でわざわざ語る言葉がそれか、と率直な感想として抱きながら祐は割愛して、弥彦を急かした。
珍しくまともに成立した会話を、会話が成立している間にこのあとすべきことを伝えるために続ける。
「今この場で起きていることを遠ざける細工がされている。茅間と俺の"ともだち"は一応ながら、曰く堅実な利害関係だ。つまり、取捨選択が必要なほど危険になればあいつはお前たちを見捨てざるを得ない。精々幼馴染と自分の身を守ることだけに注力しろ」
「はあ? 意味わかんねー。俺の話は無視かよ。ウッゼェ」
影法師の名の通り持ち合わせる影から幾つにも分岐して伸びる先端が揺らめく。
祐の言葉の数々を聞き届けてから、呆れを感情のうちの一つに孕みながらも目を見開き嫌悪の言葉を吐き捨てた弥彦と、暦の活躍あって武器を取り戻した伊三路の行く先が交差するように駆け出す。
言葉だけでいつもの棘を口にする弥彦の肩が僅かに震えていることや、唇の色が褪めているのを祐は静かに見つめていたのだ。
それらをかき消すかのように付近で、どっ、と地を蹴るつま先が砂を微かに巻き上げると、どこか遠くで光がチラつくようだった。
雲の多くなった時間に隠れていた日が雲間から微かな夕日として姿を現す。
帯のようになった光が地上を照らし始めていたのである。