先の通り、この烏丸清水高等学校の部活動は盛んだ。
しかし年々流出するばかりで人口が減っている町のちょっとした学校でもあるのだ。底が知れているものがある。
おまけにいうならば、厳しいようで緩い校則とインターネットの普及、動画サイトの流行りが程よく絡み合っては多種多様とした趣味の延長ともとれるものの愛好会が乱立しているのだ。
部であろうが愛好会であろうが、顧問として率いる教師を得られない活動者たちは部室を与えられることはない。
教師の数も限られるのでは今や部活棟よりも本校舎で活動を行う生徒が多いということは言うまでもないことである。
元より最盛期と比べても生徒が少ないこともあり、部活棟では教科準備室という名の物置にもなっている教室が散見されていた。
これらの事実から大方を予想していた祐であるが、やはり清掃の行き届いていないが故で生じる特有の埃っぽさに思わず眉を寄せる。
本校舎よりも静かで、息遣いすらが背後から反響してしまいそうだ。そんなところで埃が舞い上がるのであれば特筆して綺麗好きでなくとも嫌気がさすわけである。
同じ造りをした箱の建造物であるというのに、冷たい温度がそれを助長しているとも思える。
生活の形跡が薄いせいか、劣化の具合は足並みを揃えているというのに本校舎よりもずっと無機質なのだ。
祐は体感温度に不快を感じるわけでもなく、はたまた圧迫されるような息苦しさのある場所でもないというのに思わず肺からほうっと苦し紛れの息が押し出されるのを感じた。
 つま先の向く方角へ進み、階段を降りた先の一階はすぐに校庭の脇へ出られるような造りであり、列を作るように並んだサッカー部や野球部の部室がある。
本校舎の一階とは異なり土足で出入りする可能性も考慮した打ちっぱなしの床面が多く、また各区画で出入りに適した大きな扉が各々施錠できる造りで窓際の壁面を覆っているのだ。
重厚な鉄扉とも、シャッターともとれるような無愛想で大きな扉が多く存在するのである。
かつては現在より栄えていたはずの町が次世代を担うであろう子どもたちに期待した豊かさを体現して今なおここに存在しているのだった。
それらを垣間見た伊三路は楽しそうに階段の踏面を小気味よく降りていく。
 一階に降りていざ打ちっぱなしの床面を上履き越しに感じると鼻の奥がむずりとして反射を誘うようだ。祐は率直に、包み隠さずそういった感想を抱いた。
伊三路はもはや大型の倉庫といった方が想像に易い廊下を大股でぐんぐんと進んでいく。
打ちっぱなしの床、壁。思い出したかのように時たまに配置される窓、そして換気口のカバー。建造物として運営をするために欠かすことの出来ない安全設備として消火器具の位置を示す赤いランプがぼうっと浮かび上がる。
これでも倉庫のような場所を想像するよりはずっと明るい光源を持ち、最低限の清潔というものは保たれているために健全な学び舎の延長ではあった。
冷たく表情のない扉たちが並ぶ場所で、伊三路は各教室の引き戸に提げられた手書きのプレートを眺めていた。
サッカー部の所有する教室であることを示すプレートを探していているのだ。
二階よりも硬い床材――ほとんど打ちっぱなしのそれを往く足音はさらに大きく二つ分が存在していたが、生活感と扉一枚向こうで部活動を擦る気配が感ぜられる。
屋外との往来を容易くするこの造りであるが故に砂埃の気配が濃いことを除けばやはりこの学校の延長線にあるということを疑う必要もないほどだ。廊下を構成する素材の見てくれは異なりながらも雰囲気はよく再現されていたのである。
それらを眺め、埃っぽさと避けられぬ暗がりが呼ぶむず痒さに祐は心を無にしていた。再現のしきれなさに存在する散らかっている要素が美しくないのだ。
ある意味では心ここに在らずとしていた視界に明るい土色の髪が揺れる。祐から認めることのできるそれは背後の姿であったが、何かを見つけて表情を明るくしたとするにわかりやすい反応であった。
それは茅間伊三路という人間の持つ明るさやコミカルな感情表現の側面であったし、なにより祐はこの先にサッカー部の部室が配置されていることをぼんやりと知っていた。
興味はないとはいえど校庭から見える出入りを教室の窓から何度も見ている。加えてこの学校生活においては、少なくとも新入りである伊三路よりは知っているのだ。
斜め前方を歩いていた伊三路は胸の内ポケットからサッと手帳とボールペンを取り出して、見るからの喜々を浮かべて足を速めるのだった。
 部室の前に立つと、この場に漂っていた砂と埃っぽい臭いの中に微かに汗に由来するものが滲む。
見るからの嫌悪を示しては部活に所属する生徒と対峙する敵意まではない祐であるが、思わず真新しい制服の袖口で鼻を覆いかける。ほとんど無意識であった。
それを祐を咎める意ではなく純粋にきょとんとして見送った伊三路が、意を決するかのように唾を呑み込んでから引き戸の板目を叩く。
やはり金属製の特性を多く含む重い扉にノックの音が反響する。ぐわんぐわんと響く様がより金属の冷たさと音や熱の伝導を思わせるのだった。
感覚上で反響が消える頃、伊三路は再び指の背でノックをした。
一度目ほど待たされることはなく、今度は扉がすぐに開く。
「ウヌ? ああ、やはり生徒がいたか! 余りにか弱くて羽虫か蛾でも扉に当たったかと思っていた。しかしこの重たい扉に張り切ってノックしてくれたのならば指を痛めたかもわからんな。どうだ少年? 手は無事か?」
開け放たれた部室からヌウッとしては音に隙目のないように静かに姿を現したのは縦にも横にも大きい、塗りかべのようなサッカー部員だった。
いかにも運動部らしい坊主頭は坊主頭ながらに年齢なりに見てくれを気にしてか洒落た角刈りの様相を僅かに持ち合わている。そして微かながらに日焼けした肌、少し厚くて大きな唇。
不器用の体現をする圧のある生徒は、顰め面をしたままの祐を眺めて首を傾げる。
「そんな顔をしてどうした? 入部希望ではないのか?」
入部希望の後輩であると信じてやまない塗りかべのような部員の言葉が続く。「大丈夫だぞ、遠慮はするな。もやしのようでもこれから伸びるさ。すぐに体力もつく」
要件を告げようとした伊三路が口を開いたまま、「ふひっ」というような息を引き込んだ笑いをする。勢いよく引き込んだ息に絡まった唾液が喉に引っ込んでは噎せるのだった。
身体を大きく「く」の字にして伊三路は腹を抱えて肩を震わせる。そして時たまにせき込んでは呼吸を喘ぎ求めた。
苦しんでいるとも見れる息遣いは確実に笑っていて、その姿を前に塗りかべのような立ち姿の部員はあたふたとしているのだ。
ゴールキーパー用の分厚いグローブを外しユニフォームの尻ポケットに突っ込むと、伊三路に駆け寄って曲がる背中をさすった。そして部室の中に入るように促すのだった。
「おちついたか? いや、よかった。さて、そちらの君には失礼をしたな。詫びよう。立ち話もなんだし、そうだな……スポーツドリンクでも飲むか?」
長机に合わせて配置されたパイプ椅子に座らされた伊三路の前に部員はプラスチック製のグラスを置く。乳白のような半透明の液体は塗りかべのような部員が語るに同じくスポーツドリンクだ。
 彼は一見、そこらの高校生には似ても似つかない風貌である。よく恵まれた体格をしていて、とにかく身長が高い。
しかし天性の要素を持ち合わせる身長以外でこの壁のような体躯を成形しているのは立派な努力の上である。いかにもゴールキーパーに向いているのではなく、ゴールキーパー足り得るプライドを以てその体格を目指しているのだ。
その圧のある見た目とは反して丁寧な部員は彼が持つとちょこりとしているようにも見えるグラスを大事に扱って、客人としてもてなすように盆を小脇に抱えていた。
「結構です。お構いなく」
祐の返答に空気が淀む。しょぼくれる部員が己の内側へ向けて失言をしたことを叱責しているのは目に見えることであったが、しかし当の祐自身は本当に気にしてはいないのだ。
運動部の、しかも祐よりも縦にも横にも大きい部員からしてみれば祐どころか大抵の人間が"もやし"である。
それを理解しているし、彼が"もやし"と表現した身体は祐にとっての日常生活を送るうえで何にも身体能力としては困りはしないのだ。
この場面において強いて問題点を挙げるならば伊三路が噴き出すように笑ってしまったことだ。何よりもそのせいで見た目よりもずっと和やかで人の好いサッカー部員を自責の念に追い込んでいるのである。
眉を下げては小さくなったようになり――正確にはそれでも十分に大きい体を肩身を狭く縮こまらせて彼は改めて頭を下げた。
「体力を付けたい者は歓迎するが、そうでないものを下に見るわけでもない。早とちりとは言えども気にしたのなら申し訳なかったな」
ひいひいと肩で息をしていた伊三路がなみなみと注がれたスポーツドリンクのグラスを呷ってから、すっかり静かになって部員に向き合った。
「大丈夫だよ。彼は元より物静かで、一時の感情に大きく乱されはしないからね。あの涼やかな顔はさ、きっと本当に気にしていないんだ。でもきみが思うより健康には気を付けているみたいだから……彼の言葉通り気にかけないで構わないと思うよ」
「そうか? ならば掘り返すも悪いなあ。それで、君たちは我々サッカー部にどんな用事があるのかな」
パイプ椅子に腕をかけては半身で振り返る伊三路は肩をゆったりさせてから笑みを浮かべた。
その笑みにつられては丁寧で、繊細なぬりかべのような部員はほっくりとした笑みを同じく浮かべる。まるで小動物を観察して癒されるかのように、とにかく見た目に反してかわいいものが好きそうな部員は屈んで伊三路の話を頷きながら聞いている。
共に訪れた祐が無愛想である様からも対比の差を大きくすかのように伊三路の人懐こさは武器になるのだ。
意識して取り入ろうとするあざとさがないが故に部員も好感を持って接してるようである。
呆れたような、なんだか気の抜けた祐は特に自分のやることもあるまいと部室内を見渡した。
 引戸が開いた際に、屋外との中間であるかのように砂埃やくすんだむず痒さを誘発する臭いはその勢いを強くしたものの、同時に柔らかな柔軟剤が香る。
よく見れば室内のさりげない場所にいくつかの無香消臭剤が置かれているのだ。
廊下よりも一定の水準を高く見積もって清潔が存在している部室と汗くさいようなぬりかべの部員はどうにもちぐはぐに見えるのだった。
「うん。まずひとつ。失礼を承知で言うよ。きみは本当にサッカー部員かな? 皆は外で練習をしているように見えるのだけれど」
失礼ならばこちらも同じであるとでも言いたそうに「フム」と相槌と息遣いの中間を漏らした部員は腰に手を当てて答えた。
「いかにもサッカー部員だ。オレは部長がなくした書類を探す手伝いをしたついでに部室の片づけをしていた。練習も大事であるが、それを支えるこの場所を蔑ろにしてはいかん」
「少なからず雑務も必要であるしな。見ての通り汗くさいうちにはマネージャーが一人もおらんのだ」そう付け足してから部員はため息を吐く。
曰く、他の部員は部室をすぐに散らかすのが悩みだと言う。大方これらの清潔もこの部員が支えているのだろうと祐は想像する。
人を見た目で判断してはいけないとは正にこのことである。
出会い頭のやりとりを思い返せばマイナスがゼロになった程度ではあるものの、武道のように高い志と協議に対する尊敬を持つ口ぶりを少なからず好ましく思うのだった。
「そっか、そっか! 疑ってごめんなさい。おれはえっと……三石、という男子生徒にどうしても確認したいことがあって尋ねに来たのさ」
「宗吾に? ご足労いただいたところに申し訳ないが、奴がその部長であり、今しがた部活動の定例報告会に行ったのだ。戻ってくるのは……そうだなあ、三○分くらいはかかるだろうか。一時間はかからん」
「え!」落胆を押し出しはしないものの、祐から見るならば明らかに落胆した様子の伊三路が短く声を上げた。
そして少し離れたところで電柱のようにツンと突っ立ったままの姿を勢いよく見る。
「報告会ってなあに? どんなことをするか祐は知っている? 流石に部活動をしていない人間にはわからないことなのかな?」
なぜその『部活動に属している人間』が居る前で自分に話題を振るのだ。
祐は一切の悪意や面倒ごとを疎む気持ちもなく純粋にそう思いながら、持て余しては組んでいた腕を解いて答える。
「率いる教師なしに存在する部活動もどき――愛好会を自称するそれらと部活動では扱いが異なる。教師を言いくるめて幽霊部員ならぬ幽霊顧問をさせては甘い汁を啜る輩もいないとは言い切れないからな。扱いの区分をつける以上、活動実績や経費参照をしろというわけだ」
「な、なるほどお……」
目をぱちくりさせては「厳しいのだなあ」とでも言いたそうして絶妙に知り得ぬ感覚に覚束ない語調になった伊三路は頷いた。
親指と人差し指でつまむような形を作っては唇を撫でる。思考に落としどころがなくて居心地が悪そうにしたまま、ふたりのやり取りにゆとりを持たせるために黙っていた塗り壁の部員に伊三路は向き直った。
「うーん、うん。じゃあ、おれはまた出直すよ。この前の模擬試合に参加したらしい助っ人のことを聞きたかったんだ」
「それは確かに。助っ人を引っ張ってきた奴にしか詳細はわからんだろうなあ。宗吾がギリギリになって連れてきたものでな、だれもその助っ人と大した会話をしてなかったように思う。伝えておこう」
部長である三石の行動や不在をどこか礼節を欠くとでも考えているのか、恥を知るかのように居心地悪く後頭部を掻く部員は謝罪ばかりしていたのだ。
「ありがとう。よろしく頼むよ」伊三路にそういわれると部員は途端に使命感に目を輝かせ始めて力強く頷く。
どこかどっしりとして強い圧を感じさせるようないで立ちをしている部員が極めて丁寧に伊三路と約束を交わす様は、絵本や童話のように平和な世界で出くわした熊と狸が仲良く会話をしているところを見せつけられるようだった。
祐は少しばかり肩の力が抜けた様子でそれら眺めているのである。あまりに和やかな様に瞼が重くなりそうだ。
「……それにしても、そっかあ。会話はしなくても、彼がどこへ帰っていったかとかも、わからないの?」
「うーん、あまり意識をしなかっただけやもしれぬが、暗くなって解散する頃には居なかったような。一応わが校では規模のある部活でもあるし、気付かなかっただけの可能性もあるのでオレからはなんとも……」
膝に手を着いては大袈裟にパイプ椅子から立ち上がった伊三路は、背伸びをして猫のように喉を鳴らす。
そしてグラスの底に薄く残っていたスポーツドリンクをすっかり飲み干すと静かに長机に置いたのだ。
「承知した。やはり三石宗吾の話が聞きたいから、また来るよ。重ね重ねありがとう。あと、飲み物もごちそうさまでした」
 部室を後にする際に伊三路が胸の高さで小さく手を振ると、部員も同じく大きな手のひらを広げて振り返した。
まるで蒸かした芋でも分け合ったかのように仲がよさそうにして、その中にも僅かに企みを楽しんでいるようなフランクな様相もある笑みだ。
縦にも横にも大きな体躯からは想像できないほど気遣いの行き届いた丁寧と、和やかな様子は伊三路にとって好ましかったらしく彼への印象が対面時よりも柔らかくなっていることは明白だった。
正に塗りかべのようにきゅっと目鼻が中心へ寄ってみえる顔が圧のようにも思えたが、今となってはテレビで時たまに映るようなテーマパークに居るきぐるみのようにも思えたのだ。
小さきものを愛でる姿勢もそれを助長した。それくらいには、無愛想でごつごつした男と汗くさい運動部の印象よりは親しみのあるものだった。
人の見た目に左右されるという点で弥彦伸司を美化するなと言ったばかりであるというのに己もまた、大衆のくだらなさに染まっているのだと祐は反省する。
見た目で判断するなというのは紛うことなき綺麗ごとの一種である――しかし人間と関わらないことで毒されないわけではないのだ。
直接関わらずとも見聞きする物事が己を脅かしたわけでもないというのに対象の印象を貶める。それを汚れていると嫌悪するのだった。
己の中の変化は一見に喜ばしいことである。実際に関わった際に受けた印象でレッテルとして勝手に貼り付けたものを上書きできることを知ったからだ。
しかし、己が汚れていると思うことに、想像以上に曖昧な噂と見聞きしただけの真実伴わぬ言葉たちに毒されていることに胸が淀む。
次第に鉛を投げ込んだように重くなり、その重りは糸に吊るされるかのように落下の距離を延ばすほどより重いもののように感じられている。
 不意に己の手のひらを見る。
動物の持ち合わせる表皮に染付をした皮を模した人口皮革の手袋が染料を分解して生じ得る三原色を改めて複雑にしてはじっとりとした色を返している様だ。
素肌は覆われて、見せかけに守られた厚みが隔てている。
ひとりきりでは生きていけないし、真っ新ではいられない。
それでもこのわがままは嘘偽りも偏見もない、静かで美しいだけのところへ昇華されたいと思わざるを得ないのだ。
思考をしていることそのものに意味はあるのだというかのように、それが生きているということを嫌に強調して知らしめるだけであった。
 はっとした。部室棟はひたりとした静寂と遠いところで、はしゃぐ声を浮かび上がる。
人の気配を少し離れたところで感じながら、二階へ続く階段を上がっているのだ。
足音や呟きほどの声音もよく響かせたが、それらは同時に簡単に廊下の隅へ吸い込まれるばかりであった。
長く尾を引かない音が響く様はまるでこの場所にいる実際の数よりも多くの人が居るかのようにも思わせる。
伊三路がどこへ向かっているのかも知らぬまま、ボールペンを握り込む様を少し後ろで祐は眺ていた。
はっとして、現状を理解したのだ。
「おれはね、先日助っ人にきたらしい暦も暦ではないと思うんだ。昨日の"彼"のようにね。祐を送った後、おれはさくら川へ行ったよ。だけれども、暦の姿はどこにもなかった」
静かな声だ。普段の伊三路が見せる様々な表情や、手振り身振り、そして言葉遣いの抑揚から考えても平べったく抑えつけたもののように思えるのだ。
祐は返事をすることはない。あくまで次の言葉を待っていた。
ひんやりと冷めた階段を上っている足音だけが間を繋いでいる。苦痛ではないが、確と存在する静けさの伸びしろを考えるとこの階段はまるで延々と続くように錯覚が出来た。
「多分、おれたちのことを全く知らないわけでもないで、つまり、それらしき発言をしながらおれたちを引き離して順番に手に掛けようとした。きっと間違いない。でも、祐とおれが僅かに違和感のある行動をしたと判断して疑われているという感覚を得た偽物の暦は手にかける機会を見送ったのではないか? とおれは考えたんだよね」
「助っ人の件もあくまで善意の塊ではないだろうな。日野春暦の情報で何者かを攪乱させることに意味があった、か――騒がしくなった後に平穏をちらつかせて日野春本人を油断させるためか」
「そう考えられるだろうね。おれの知る暦――日野春暦は、認識された以上、少なくとも黙って居なくなる人間じゃあない。仮に急いで帰らざるを得ない事情があったにしても、三石宗吾とかなり近い関係に居る先の彼が気付かないほど黙っていなくなるような人間ではないよ。暦は」
その言葉の後に押し黙る姿がある。複雑に思うことがあるようで、ふつりと途切れた会話の糸がゆるゆると降下し始めていた。
反対に階段を上がり切った足取りはそのまま、むしろ加速をして先を急いでいることが窺える。
「三石宗吾に聞こうと思っていたことの一部は暦への直接的な確認でも根拠に成れる要素がある。暦にも聞こうと思うよ」
一階のよりも開放感のあるように腰の高さほどから頭上へ向かって硝子張りの窓が続く廊下はひどく明るい。
昨日と同じく幾分か流れのはやい雲にどんどんと押し流される様が見られて、今も西日が射している。
しかし、伸びる影は押し流され続けるばかりの雲で時たまに翳りを見せ、伊三路と祐が廊下を進む間にもその曖昧は見られた。
境界が極めて薄くなっている。
日光が注ぐことが視覚的に得られなくなると途端に肌寒いようにも思えるが、初夏に差し掛かる頃の気温は確かに漂っているために、日が出れば陰影はより強く存在を主張していた。
今だけが影を薄らいで存在させているのだ。
「……蝕とやらについてなにか得るものはあったのか」
振り返らないままであるが、確かに頭が頷く形に沈む様を見る。
「あれは過去にも見られたと記録のある能力を持っている。同一個体ではないようだけれども……おそらく影の病――影法師とも呼ばれるものだ。書物で見たことがある。十分に詳しいわけではないよ」
 影に取り入って精気とその宿主の生活を把握した後に蓄えた力で影を写し取って自立をするものだと伊三路は歩きながら説明をする。
その言葉を聞いてすぐには思いつくものもなかったが、祐はふと納得する。
よく似たもうひとりの自分が知らないところで生活をしている――などという話はオカルトに詳しくなくても知っているメジャーな話だ。
都市伝説なんかでよくある、ドッペルゲンガーというものに似ているのだ。
もちろん、世界は広く、遺伝子の大本では人間の顔が似通った脈絡になることもある。
他人の空似というのもあるものであるが、もう一人の自分に合うと殺されるなど、そういった与太話がまことしやかに面白おかしく存在することも知っている。
もしかしたら、日野春暦にとってはそれらを信じること似たような、己が脅かされるのではないかという不安がつきまとっているのかもしれない。
仮にそういった都市伝説上のものたちが蝕という生き物に干渉されて大きく姿を変えてしまった様々であるのならば、この世の不可思議全てが説明できてしまうとすら思えた。
 あまりに大きい話のスケールである。
しかし、この世には国境を越えて無意識化に共有すると言われている概念も存在するというのだから、本当に『与太話である』と笑い飛ばせるだけの話ではないのかもしれない。
沢山のそれらを知ることが出来るならば、この世界の秘密を知るなれば、何かを許せるだろうか――? すべてに静寂を見出して平穏を臨むだろうか。
浮かぶ漠然とした疑問を振り払うように祐は頭を振った。
危うく伊三路にぶつかりかける。
祐が一歩後ろへ下がると、また真剣な声音が祐の心臓の下へ潜り込んで、どこかで死んでいたそれの鼓動を促す。
ひっくり返されるような嫌な感覚とじっとりとした深淵の暗がりが凍り付いた心臓におどろおどろしい蘇生をもたらし、不謹慎を糧に食らっては呼吸を思い出すのだ。
「影に憑りついて、しかももう暦から自立して行動できるとまで育っているのならば危険だ。そうじゃなくても空腹の蝕は本能に由来する欲求のままに食事をしたがるはずだ。精気を搾り取る前に暦自身や他の存在に捕食を試みるかもしれない。のんびりはしてられないさね」
言葉を紡いでいるその瞬間にも絶えず表情を変える雲間に光が差し始める。