「殺しをしようと思うくらいの熱量を持っていたら、相手から同じものを向けられて文句は言えないだろう」
 絵本の読み聞かせのように大仰なセリフをなぞった抑揚の調子であった。「そんな勝手なことを言う資格があっていいわけがない」
同意を求める言い草をしつつ、直後、己の中で結論づけて譲らない心持ちを國枝は語る。
 実際にこれを机上の題に挙げたところで口だけでは何とだって言える。しかし、いざ銃口を向けられて無抵抗に受け入れる状況など一握りもないだろう。
なぜならば、一部の愛好家(マニア)や存在と無を問う学会一派を除けば、死という概念を生物は本能的に拒絶するためだ。大抵が死に物狂いの抵抗をする。
故に過剰防衛だとか、これは正当な防衛であるだとかといった問答は先に語る題において救済制度のひとつであると語られたならば、色葉は納得して肯くことに違いない。
「そう考えるからこそ、なるたけ君に私と同じことはさせないつもりだ」
 声の抑揚に振れ幅があるわりにその温度は冷たい。
しかしこれは相手を騙すための大袈裟な演技ではなく、彼なりに緊張をする心身を悟られぬよう繕おうとした結果なのだろう。色葉は國枝の姿にほんのわずかだけ、普段より落ち着きがないとに気がついてそう結論つけた。
 例えば、呼吸数が多い。
彼は普段通り黒いジャケットに白衣を羽織る服装ではなかったが、ショルダーホルスターを固定するために上着を脱いだ白シャツ姿が佇む様はさながら幽霊が浮かび上がるかのようだった。
薄暗がりのなか、息を殺す姿勢で次の言葉をじっと待っていると、呼吸で肩がわずかに上下する機微が感じ取れるのだ。
故に普段ならば気が付かなかった可能性のあるそれを色葉は知ることができたのである。
 次に、彼はよく足元の重心である位置を入れ替えた。
ふくらはぎを揺すると言い表す頻度ほどではなかったが、自身の体に一時の安堵も与えぬと課すかの如く、運動性を確かめていた。
時おりその場に留まったまま、爪先立ちで身体を揺り動かしているのだから、これはわかりやすい緊張の部類に入るだろう。
 しかし、会話のために振り返る國枝に泣きはなかった。
"いつものように"柔らかな立ち姿であり、しかし堂々とした眼力がある。
そして人差し指と親指以外を握り込みアルファベットの『L』のような形を指先に作ると、それをゆっくりと傾けた。
今し方の言動から察し得る意味合いを深く理解して色葉は息を呑んだ。
たとえ話のようでありながら、確固たる意思の表明は続いているのである。
「相手も意志ある人間なんだ。こう向かい合ったとき、手に得物、そして明確な殺意。先の覚悟があるならば考えることはひとつだろ?」
「……先に殺さないと殺されるって?」
 よく聞く言葉だ。
先手必勝だの、攻撃こそ最大の防御だの、はたまた西部劇に遡る対面の機の読み合い。そんな場面が想像される。
言葉にすれば月並みなシチュエーションのひとつであるが、事実だ。
 その言葉に目を伏せ、俯く角度からギラリと鋭い切り口で國枝は色葉の首元を睨め付けた。
そして彼らしくも遠慮のない大股で距離を詰めると、ジャケットがずり落ちないように設えられたコスチュームジュエリーである金具を指先で突きあげる。
ぬめる肌の蛇が焦らしながら巻きつき獲物を締めあげるが如くゆっくりと這う圧で顔を寄せられると、色葉は無意識に身体を仰け反らせた。
 國枝が無遠慮な一歩を踏みだしてから、わずかこの数秒がすっぽり抜き取られたかと錯覚するほどだ。
音もなく、所作こそゆっくりとして目に映りながらも、行動は素早かった。
仰け反る姿勢から顎だけをなお引いてその姿を見やる。
チャリン、と金古美のチェーンが揺れる。
指先によって押し上げられたプレート部分が解放され、宝飾のカットが施されたガーネットの赤色が反射で目を焼いた。
 ひどく焼きついて残像を突き抜ける國枝の視線すらもが、もやがかって見える。
数秒後には、きっと先ほどと同じ明らかな欠落でありながらも奇妙な空白を後ろにみるだろう。色葉はすぐにそう確信した。
「祈るのさ。神様、どうか相手の弾は自分に当たらないようにしてくださいってね」
 時間が正常に流れ出したように、はっ、と息を吐く。
思いきり背を逸らしていたせいでよろめいた足に重心は移り、ぐらついた身体を歩数にして二歩ぶん、色葉は後ずさった。
重たい空気が詰まっていた自らの喉元を撫でさすり、発声を忘れたわけではないことを確かめる。
それからやっと、返事をしたのだ。
「過ぎた科学研究は神を暴くこと――すなわち冒涜と言われる世の中ですよね、今は。と、なると本来、相容れない関係では?」
「そうだな。しかし、確かに祈ることと相手より先に引き金を引くことは同義ではないし、かと言って引いたからと弾は必ず当たるわけでもない」
 銃身を模した手のかたちをしたまま、國枝は色葉が後ずさったぶんとそっくり同じ距離を詰める。
そして垂れ下がっては左目を覆い隠す長い前髪を静かに撫でつけて耳元に退けた。
 薄暗がりのなか、色葉のふたつの目玉が國枝を捉える。
その表情は悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。
目眩が空間をねじるが如く、うねる視界のなかで彼の苦悩を見ている。
それでも彼の瞳に反射する景色は美しい色をしていて、この滲む寂寞と苦悩のなかで光を見つけることを諦めはしないのだ。
 眠ったまま、醒めぬ暗闇を覚束ないまま、しかしきちんと光の一点方向へ進んでいる。
「ならば何に命運の糸を委ねろっていうんだ? それとも、それは意志の強さ比べで負けたから掴み取れなかった、とでも宣うかい」
指先からこぼれたひと房が視界の前に影を作る。
前髪を払われ、露出した額に触れるそれがこそばゆく、色葉は下瞼を震わせて眉間にしわを寄せた。
ただ、返事を求められるわけでもなく、自らが何を言いたいわけでもなく、鋭い太陽光の下に引き摺り出されたかのような顔をしているばかりである。
「少なくとも、生死を賭けた機に於いてはナンセンスな問いだろ」
 輪郭を触れ、後れ毛を梳いた指先が離れていく。
それは決して悩ましいものではなく、幼子を慈しむようにやさしく、何人たりと触れて傷をつけないように円を描く手つきだった。
「だからこそだよ。偶然というものの結果がたり得る理由を欲しがることを人間は必然と呼んで、それでも答えが見つからないほどあまりに幸運か、あるいは不幸である空白を人間は"神"の思し召しだの"運命"だのと代入している。私はそう考えているんだ」
 親兄弟が歳の離れた血縁を扱うような態度から一変し、飽いた子どもの素振りで窓へ視線を翻すと國枝は背を向ける。
「だから、私はずっと君に聞きたかったんだ」
「はい」
「私は君の記憶の所在にこだわりはないつもりだ。せめて君が君自身を受け入れることに幸福を理解する心があって欲しいだけである。あくまでね。そのことに誓って変わりはない」
「ええ。そう言ってくれる存在が滅多なことではないことも理解し、私はあなたに感謝をしています」
しんとした中で、ふ、と國枝が弛んだ笑みを浮かべる気配を空気が僅かに震えるさまから感ずる。
「ありがとう。君は――」
 南下する日の射す角度が緩やかに窓から侵食している。薄暗いながらきっぱりと分かれた陽の光がすこしずつ、部屋を飲み込んでいる。
それが明るさの元であれ、くすんだ影であれ、まるでこの先に待ち構える未来がまるでふたつにひとつのみであり、中間めいた曖昧などないと謳っているかのようだった。
「君は、君自身から記憶が失われたという結果に強いて今の言葉を当てるなれば、その"どちら"だと思う?」
 眼球に根を張る神経の奥底で、正確には神経という枝を辿りいずれ行きつく胴元――根幹である脳が、狭窄するようだ。
ぎゅうっと内側に引き込まれて気が遠くなる。
 "どちら"とはなんだ。
いわば、自覚の有無を問わず願望が掴み取ったはずの必然か、それとも見えざる強大な引力に従った運命と考えるのか。
 瞼が重い。正確には瞼ではなく、額の裏側つまり頭蓋を内側をこそぐように撫でられる感覚だ。
血の気が引いて思わず顔を両手で覆う姿は、まるで背骨をゴム質に入れ替えられてしまって波立つ身体を支えるかのようだ。
ぐわん、と膨らんだまるい音が耳の中で何度も跳ね返る。
そんな気がして、前を向いたまま後ろに下がり続けている。
 視線はこちらを捉えているわけではないというのに、じっと見つめ静かに待たれている気がした。
そして己のすぐ後ろには、過去という暗澹たる空白が囁いているのだ。
 きっと、過去の自分は自らそれらすべてを誰かに委ね、届かないことを甘んじていたのではないだろうか――?
 渦巻く不気味の正体を想像し、自らの影を伸ばした身が竦む。足が棒のように役立たずとただ地に縋っている。
身体を流れる血は止まっていると錯覚するほどでありながら、世界の時間は早回しに進んでいくのだ。
「……純粋な恐ろしさに近いものを感じる質問ですね。漠然とした感想ですけれども」
身体はそれらを直視することを心の底から拒絶している。
「考えると、まるで気が遠くなりそう」そう嘲り、わかりやすく作り笑いが口元を溢れる感覚を色葉は自覚をしていた。
ありありとして己の胸中を俯瞰していながらも、新たに芽生えたこの"今の自分(色葉)"という人格においてこの問いは愚問であった。
 國枝がトンネル状の長い暗闇を歩く人なれば、己は海中にもがく泡である。しかし、その境界を目指し行くということは同じだ。
 報われたいのである。
真っ暗闇に落ちたみずみずしい光が、まるで水の上できらめく水面の影のようだ。
 足掻くことの苦しみについて本当に苦悩する現実はは、やさしくも空しいこの家を去った後に訪れる。
そんな気配を察し得ながらも、色葉には確信があった。
ふと靴の踵に固い感覚がぶつかる。佇むオークのサイドボードが揺れ、壁に重い衝撃が響く。
 思わずよろめいた身体を支えるために後ろへ手をつくと、國枝が使っていた文具のいくつかを仮置きするトレイをかすめて大きな音が鳴った。
幸い、ペンを落とすことにはならなかったことへ密やかな安堵を得ると同時に、細身の金属に走る小さな光を見た。
それはただ、室内に存在するないしは窓の外からの陽光を跳ね返したものであったが、今の色葉にとっては抗いようもなく、魅力的に思えた。
安堵も束の間、まさしく迷いを断ち切るための象徴に思えて強烈に感性を惹かれたのだ。
一度は迷い、空を掴みかけた指先が細身で飾り気のない鋏の持ち手を静かに撫でる。
「そうですね。私は私の生において偶然が積み重なって得た総合的な結果を必然と呼ぶか、呼べるほどのことを成し遂げているのか、自信はありません」
 吐いた言葉はなかったことにはできない。
区切りをつけて、息を吸う。
迷いを断ち切るように。
「分岐がどこであったか、などという枝分かれの直前もその現実を生きる己には観測はすることなど到底に出来ないことでありますし」
 開いた刃を後ろ髪に梳かし、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏で流るる血潮を、光る水面の綾を、そして穏やかな青の薄片を。
言葉を注いで、息を吸う。
 身体にみなぎる酸素の感覚を忘れぬよう、膨らむ肺の心地よさを刻みつける。
そして瞼を開くと、國枝の姿をしっかりと捉えた。
「でも、今回の選択をした結果が上位存在に導かれただとか、はたまた積み重ねた必然であるだとかそんな手放しなものとも言いたくは、ないです。全く、そう言いたくはないのです」
 これは今現在の自分自身が、今この瞬間を以てして決めたことなのだ。
 挟み留める質量が減り、滑り落ちた髪飾りが床に落ちる。
金属の音がフローリングに鳴り、國枝が反射の動きで視線を寄越す。それはすぐに驚嘆に染まり、こぼれ落ちそうに見開かれた。
「君、髪を……」
 頭を軽く振りかぶると細かな毛がはらりと落ちる。
飴色の、生活の割には手入れのされていたであろう艶やかな毛束たちだ。
「いいんです。"私"がこれを是としました。そう選んだのです」
人差し指と中指で頬にかかる毛束を摘み、交差する刃を再び差し込む。
「長髪ほどではないですが男にしては他人の印象に残しうる長さでしょう。今後のことには不利をもたらす可能性すらある」
後ろ髪ほど派手な角度ではないが、あとからきちんと整えるには多少の余白をあらかじめ取っておいたほうがよいかもしれない。
國枝をよそに、色葉は場違いな思考と共に小気味よく髪を刻んでいく。
質量を減らすという可視の事実がまるで己の悩みが軽減されていくことのようにもやを払うのだ。
むしろ、気分が良いとすら言えてしまいそうだった。
 反対に、國枝は彼の表情としてごく珍しいことに、凍りついた顔の機微を保ったまま絶句していた。前屈みの上半身に、伸ばしかけた腕は空を彷徨ったまま中途半端に持ち上がっている。
色葉は憑き物が落ちたかの如く心身を濯ぎすっきりとした顔をしていたために、また対比としてよくこの場を追い詰まった状況にしたかのように思えた。
かと思えば、疲れ切った様子で項垂れた國枝は恨めしい目で語る。
「また君は……突拍子もなく思い切ったことをしたな」
物言いだけながら歯切れ悪い言葉に色葉は堪えることもなく、親しげに表情を崩した。
肩を揺らし、小さく笑いながらはにかんだのだ。
「ええ。先生。あなたは私のことをよく理解なさっている。心よりそう思います」
 手繰った指先でシャキンと刃の擦れ合う音がしている。
「この先で計画していることで何があっても、貴方の命は安売りしないでください。そのお話、あとから好きなだけ付き合いますから」
うなじの後ろを掠める毛束を指の背で追い払ってたなびかせ、それから音を立てないように鋏をゆっくりと置く。
普段通りの生活を過ごしてれば常に優位に立って柔和をしている國枝が肌を粟立たせて息を呑み、己の一挙手一投足を窺っている様がどこか面白いことがらのように思えてならなかった。
 仄暗い炎が揺らめく。胸中にそんな心象を抱き、今度は色葉自身から距離を詰める一歩を踏み出した。
革靴の音がやけに大きく響く。互いがそう感じていた。
「この家で。より美しい季節の、花の庭で」
「またここに戻る保証なんてないよ。ビッグネームな名義貸しはもう居ないのだし」
 痩せた木の悲鳴にも似て軋む音を他所に、色葉は気分の良さに余韻を残したまま椅子を引いて座った。
 今ならばうまく語れそうな気がする。
そう考えながら、ごく近い距離である國枝を一瞥し、手振りで窓を指示し語り掛けるのだ。
どこか甘い香りのする古い家屋の暗がりがどこまでも愛しい。
 目が覚めたこの家での生活に対して印象的な記憶を抱くことのひとつも道理を語って矛盾する点はないのだ。
静謐を保ち、眠るように美しく、しかしどこか薄暗い。ここに人の気配が薄ければ、一部の感性ではそれを"不気味"とすることもままあるだろう。
しかし、ここはひっそりと暮らすことに心地がよい小さな世界だった。
 仮に國枝は絶えず追い立てられる感情で灰になりかけた心臓を尚も焦らすように焼かれていたのかもしれないとも考えたが、色葉にとってのこの家の印象はやはりやさしいままだ。
「気に入っているんです。私も、この家を。どれくらい時間がかかってもいい。どうせさきの話題だって簡単な内容でもないのですから」
 共感を求めて手のひらを差し出す。
カサついた指の先に見える國枝の姿を真っ直ぐに見据えていた。彼の求める答えという意味でこそ返答を明確にはしなかったものの、その瞳に迷いはない。
色葉は自らの選択とすることを選んだのである。
「なにより、私はまたここであなたと話がしたい。それだけです」
「ずいぶんとロマンチックな提案で心底ゾッとする」
長い空白に息を飲み込んだあとから肩を竦め、気を散らすかのように指を擦り合わせた國枝に対し、色葉はすかさず言葉で追い詰めた。「茶化さないでください」
 じっとりとした目つきで睨める様に降参したと向き合った國枝を言い含めて続ける。
すべて、目の前の人間である彼自身から学んだ他人との向き合いかたに誠実を見せる術だ。
だからこそ、國枝は口を閉ざし、きちんと背筋の通った姿勢で言葉を待っている。
それは強い緊張が身動きの自由を奪ったのではなく意思疎通を受け入れる姿勢そのものであり、静かな呼吸に合う悠然な瞬きをしていた。
「私もね。学習しないわけじゃあないんですよ。だから理解した気になります。そして、その通りに貴方は、貴方の命を安売りをしないでと言われたことには明確な返事をしなかった」
「はて、それは君の気のせいではないか」
「それならばどれだけ良かったことか。まったく面白くもないたられば話です」
 膝に手のひらをつき、これみよがしと緩慢に色葉は立ち上がる。
 人ひとりぶんが立ち上がる空白を挟んだ椅子はそのままに、そして眺む方向は正反対のまま國枝の隣へ歩を進めた。
 國枝からすれば後ろ向きに飛んでいく声音を追いかけ彼の視線がすい、と横切る様を感ずる。
「私は貴方の指示に従います。このさき何が起きてもおかしくない。だから、大袈裟だと言われても気が済まない」
 固くなる声の調子を悟られぬように意識するあまり、早口になったそれを言い切ると先ほどまで己にぶら下がっていた髪の毛束たちである残骸に寄りそう。
「約束が欲しいのです。今の私にとって、きっとあなたが果たしてくれるであろうと確信できるものを」
 濃いミルクティーのように場違いなほど明るい飴色をした毛束たちの中でむしろ暗澹とした感情を象徴する鈍い金色。
それを手に取り、刻み込まれた装飾の溝をなぞる。アクセントとしてぶら下がるように施された真珠層の球が零れ落ちそうに揺れ、優美な髪留めの曲線を強調する。
細い毛を指先で取り去り、バレッタの金具を閉じると祈るように胸の前で大事に握り込むのだった。
「わかった。最初から叶えるという約束はできかねるが、聞くだけ聞こう」
 すっかり参った調子で折れた國枝から提案を半分受け入れたも同然の答えを引き出すと、色葉はそのしっかりと閉じた拳を彼の前に差し出す。
 ゆっくりと指を開き、手のひらに乗せた一枚羽根の髪留めへ視線を誘導させる。
一見こそシンプルながら細かな仕上がりをする金属面に映りこむ光は柔らかく、そして丸みを帯びていた。
「ありがとうございます。受けいれるならば手に取ってください。これは"自由を掴むお守り"です」
「……よく、知っている」
飲み込むかのような、耳を澄まさねば聞き逃してしまうように押し殺した小さな返事を聞くと、色葉は満足して深く肯く。
「貴方が私へ渡したものですからね。かつての私の持ちものでもあったのでしょうけれども、とても大事に思っています。簡単に手放すことはないでしょう」
「それは光栄だ」
「だから、賭けて差し出してください。貴方の大事なもの」
 互いの表情がうまく読み取れない。
正確には、認めることを進んで知ろうとしたくないのだ。
いよいよ息苦しい空気に臓器を押しつぶされそうであって、物事の終わりというすべてにつきまとう空虚がこの部屋の茫洋たる暗がりには潜んでいた。
 不安でないわけがない。
 漠然とした想像は曖昧に過ぎない。しかし、それがどれだけの現実味を帯びても、結末が物語のハッピーエンドのように帳尻のあうものではないことはよくわかる。
だからこそしがみついてでも生にしがみつく姿を、例え仮初のパフォーマンスであってもその片鱗を感じていたかったのである。
「落ち着いたらお返しします。そうでなければ、跳びかかってむしり取ろうと思えるだけのものを、今だけ私に貸してください」
「どうかお願いします」深々と頭を下げる色葉と横並びに、肩を丸めていた國枝は長く、そして細い息をたっぷりとした時間を使って吐ききった。
すう、と歯の根の僅かを通り過ぎる息遣いが継続される間じゅう不安が常にまとわりつき、まるで見えざる手のように巻き付いているような錯覚に苛まれる。
色葉はそれらを振り切るかのように仕切り直し、もう一度、言葉を重ねた。
「お願いします、國枝先生」
元より良い返事と受け入れてもらえるまで頭を上げることをしないつもりでいた色葉はフローリングの目を見つめたまま、鼻の奥に鼻汁が溜まるような熱を感じていた。無意識に洟をすする水っぽさを掠めた息が鳴り、思わず鼻の下に触れそうになる。
顔の前に空いている手をかざし、わずかに視線が上がった。
「わかった。その意気込みを買ったよ。元より私たちは上下関係の延長を望んだわけでもないはずだった」
 返事がが先か、色葉の言った通り受け入れるならば手に取るのが先か、手のひらが軽くなるとほとんど同時にその言葉は降ってきた。
声が音として先に聞こえ、わずかに遅れて意味を理解する。
 すっかり視線を上げた瞬間、目の前に暗い影が迫り、顔面を庇う仕草で色葉は腕を顔の前に引き寄せた。
ゆるく指先を丸めた空間を狙ったかのように影は手のひらに吸い込まれ、握りこまれる。
 國枝が投げ渡してきたものをよく見ると、アルミ箔の下に錠剤を閉じ込め、連なるシートを輪ゴムで留めた束だった。
手の中でパッキングされた錠剤が空白の住処に揺れる。
ザラザラと潮騒に似た音を聞きながら、錠剤を内包するぷっくりとしたプラスチックシートの凹凸を感じている。
 正に生命線であるものを渡されているのではないか。
大事なものとはいえどもこれに命をかけろというものではない。決してないのだ。
 よもや語弊ある取引に聞こえたのかと可能性を瞬間的に感違った色葉は驚きのままに声を上げて非難をした。
まるで虫を見つけて悲鳴を上げるような勢いであったが、錠剤のシートを取り落とさないようにしっかり持って國枝を詰る。
「ちょっと、これは流石に受け取れませんよ! なにをお考えで⁈」
「逸るな。まず、これは元より渡しておくべきとした君の薬だ」
言われるがまま指示されそのアルミ側に印字された品名を視線で追いかけると、確かに見覚えのある名称である。かつてサプリメントだのと偽られて疑いなく服薬していたものだった。
「まッ、は? もう、紛らわしいことをしないでください!」
「君があまりにも思い詰めているくせにひとりで盛り上がっているからさ。たしかに冷や水のつもりはあったがこんなに驚くとは思わなんだ」
会話の展開から勘違いをしたのは自分であると知ると同時に、とにかくこんな紛らわしい真似をしてくれるな、と言いたくて仕方なくなる。
今にも跳びかかってやりたい気持ちをぐっと抑えながら色葉は、「すまないね」と、心にない謝罪をする彼が本命に何を差し出すのかと促しながら口だけの文句を連ねていた。
 一か所に集めていた少ない荷物の中でもとくに丁重な扱いを受ける物品が収められたトランクケースの脚底がつかないようにテーブルにもち上げる。留め具を外し、蝶番留の合わせふたをゆっくりと開いた國枝は中から分厚く膨らんだ手帳を取り出した。
トランクの中にはあの細工が施された栞やアンデルセン童話集の文庫本、古紙束やメモ書きをクリップで挟んだもの。他の整理用ケースに収められ中身のみえない包みのいくつかがちょうどよく詰められているのが見える。
 そして手に取った手帳のカバーに備え付けたペン挿しから一本の万年筆を取り出すと、名残惜しそうに、あるいはじっくりと目に焼き付けるように眺めてからペンの頭側を色葉に向けて差し出したのだ。
 万年筆の軸を主に構成する樹脂肌は小雨に濡れたかのように淡く微かな光を放つ。
品のある艶のなかで、キャップやパーツごとの縁を彩る金属のラインは切れ味のあるゴールドカラーを取り入れ、ペン筒そのものを引き締まった印象に見せるのだ。
いかにも大事にされていることが窺えるものを簡単に差し出され、発言をしたはずの色葉こそが委縮をしてしまいそうになる。すっかりと目を奪われていた。
「私が君へ預けるものはこの万年筆にしよう」
 指し示して再び惜しみ、視線こそ一度落としたものの迷わず差し出す指先に、國枝がこの万年筆へ見いだす価値がいかに高いかを思い知らされる。
 そう思うと色葉は恐れ多く両手の指先をやわく丸めて差しだし、まるでちいさな生物に触れるかの如く繊細な動きで万年筆を受け取った。
「しかとお預かりします」
角張った声を聞いた國枝が吹き出しそうに笑う。
「ああ、よろしく頼むよ。付き合い長いペンなんだ」
 なめらかなペン筒を指先でなぞる。
一見よく手入れのされてよごれひとつ見当たらない万年筆であるが、じっくりと近い距離で見つめると小さな傷がいくつもあることに気が付く。
 深いワインカラーの樹脂製軸をベースに、切り返す天然木の目が美しいグリップは感触に丸みのある温かさを持ち、不思議と本来の持ち主ではないはずのこの手にもよく馴染むのである。
これこそが人によって長く使われてきたという時間の積み重ねを思わせるのだろう。
重厚な作りがより付加価値を演出し、万年筆を実際よりもずっと重いもののように錯覚をさせるのだ。
 渡された万年筆をやさしく握り込み、手のひらの温度が次第に境界を薄めていくことを静かに受け入れている。
幾分かの不安をその重みで軽減した色葉はしみじみとこの日々を追憶し、そしてその後ろ姿というひとつの概念めいた哀愁を見るのだ。
「……先生はよく、ご自身が居なくなったら、と、いう話をされていましたよね。駄目ですよ、まだ。これは過去の私ではなく、今の私が許せません」
「順当にいけば、どう足掻いても親は子より先に死ぬ。その摂理と似たことを言っているつもりであったが君にはそうではなかったと?」
「やめてください。私は貴方が場合によって無謀といわざるを得ない無茶をするであろうことを見越して言っているのです」
 勿論のこと、それが本当にならなければよい。そう心から願っているのだが、それをみなまで聞きたがらない國枝は飄々としておどけてみせる。
 彼が色葉の言葉を茶化すことをするときのように、こういった扱いを受けることに慣れていないのだ。もしくは後ろめたく思っている。
「ふうん。よく胸に刻んでおこう」
まるで響かぬ言葉を世辞に受け流すかの如く、あっさりとする調子に掴みどころはない。掴ませないのである。
 飴色の瞳で海が揺れる。
色葉はこの言葉をいかにして形容すれば飲み込んでもらえるのかということを必死に考えていた。
 そして無為に過ぎる時を嘆き、乾いた唇を舐める。上手く出ない言葉を掻きむしりたくなり、額と頭皮の境目を何度も指先でこすった。
脂を指ですりあわせ、奥歯を噛み締める。
しまいに踵を僅かに浮かせてまで前のめりに発した言葉は余りに稚拙であり、直球であった。
「貸し付けた側のいうことではないかもしれないですけれども、私にくれた物ならばちゃんと返してください」
 否定としても肯定だとしても、この目で見届けることから逃れたい気持ちがほんの僅かに魔が差す結果となり、色葉は僅かに顔を俯ける。
「絶対に、死なないで。死なないでください」
 國枝は返事をしないだろう。
結果はそう直感した通りであり、色葉もあくまで期待はしないつもりでいたことを押し通した。
彼がこの計画を決死の覚悟といって過言でない姿勢で臨むことはよく知っていたつもりであったからだ。
そして、彼の本当の考えがどんなものであっても、追手が武器と称されるものを手にしている以上は、生死というものを自分だけで完結して決められるわけではないことを知っていたのである。
 ただ、この手のひらに預けられた質量を信じるしかない。それだけだった。



 その夜を暗く、分厚い氷のように塗り替えてしまったたった二発の銃声がこびりついている。
 サイレンサーを締めつけた銃は使わなかったのだろうか。それとも発砲したのは他人であるか。
あるいは、全くの空耳であるのか。
 ざざんと鳴る波の往来のような木々のざわめきをたしかに覚えている。一段と冷え込んで高く見える空は濃い色をしていた。
 肺は悲鳴をあげ、指先は凍え、掻き乱された思考は拒絶をもって吐き気を体現する。それでも片手に取手を握りしめることで事足りる荷物を決して手放さないように斜面を滑り降りる。
土や落ち葉が跳ねる足元。
口の中に飛び込んできた土を唾と共に吐き捨てたあとも残る生臭いにおいと砂利の舌触り。気持ちが悪い。
 シャッターを切るように次々と連想した場面が繋ぎ合い、記憶へ対して鮮明に結びついて褪せることを許さないのだ。
 凍てつく空を引き裂いたそれが空耳であることを願っても真相は知り得ぬまま、焦燥と不安、そして静寂が入り混ざる冷たい夜が色葉のなかではいつだって再生できてしまう一幕になっていた。
 眠りにつく前にふとした瞼の裏側や、厳しい木枯らしと共に宵に追いやられる寒い日や、辺鄙な土地の向こう側に浮かぶ一軒家の明りを見ると、それは前兆もなく忍び寄ってくる。
そして弾けるように耳を劈き、驚きふためいては怯えを滲ませる色葉を嘲笑うのだ。
 もしかしたら、國枝の選択は初めから自分を騙すことだったのかもしれない。
そう思うとやるせない気持ちが胸の内で熱湯のように激しく湧きあがる。
 信頼してもらえなかったと思い込んでしまう被害意識と、あの場面では仕方あるまいことであったと客観視する己にうまく折り合いがつかないのだ。
怒りや悲しみ、憎しみといった単一を示す感情では到底整理できそうにもない複雑がいまも腹の奥底で黒々と澱んでいる。
 彼によって忍ばせられた手紙がどれだけやさしい言葉を連ねても、その真意を問い詰めることが今はできない。確かめる術は極めて脆い一本糸を手繰るほど希薄であり、困難である。
だからこそ、事実に於いてこれが悪夢だとしても、そこから覚めることが何よりも恐ろしいことのように思えたのだった。
 息を吸い込み、悲鳴が如く引き絞った声音と共に目覚めた色葉は、その手に薄っぺらいシーツを握り込んで息を荒くしている。
夢というぬるい水の微睡から自ら引き返すための瞬きを無意識に繰り返すと、ぽろ、と涙が一粒転がり落ちて、これはある日の記憶を再現した夢であるとようやく悟るのだ。