複雑に絡み合った配線を力任せに引き抜いたような音だ。
もっと日常に近そうなところで言うならば貼り合わせたガムテープを無理やりに剥がした音にも似ているが、もっと呼吸を寄せる刹那を思わせる。それでいて、呆気ないという虚しさも感じることない極めて機械的な作業だ。
地続きの何かを引きちぎって遮断する感覚に近い。
つまり、重きは配線を引き抜くことではない。嫌な音にひずんで途切れる電子の画面だ。
もしくは引きちぎれたテグスから解放されたビーズたちが固い天板で弾ける不規則な音を聞く様子だ。
それらによく似た感覚ととも握り込んでいた雑草が茎の中腹からちぎれた。
引き抜こうとしていた力の方向へ浮き上がった身体は慣性の勢いが死ぬにつれてふわりと余白をもった揺り返しをしていたが、落ちるのは想像よりずっと早かった。
浮き上がった髪が余った力で逆立つほど大きく仰け反り、しりもちをつくには至らずとも身体は安定を欠いて情けない恰好を晒していた。
栄養のすっかり抜けた園芸用の土に、いつかの固形肥料のかすが小さく残っている。粒の立つ黒っぽい土に咄嗟についた手のひらが焦れる熱を持っていた。
その摩擦熱とざりりとした感覚で手が地面に擦りつけられていることを自覚する。左手で支えた身体は転んでしまう一歩手前であり、誰が見ているわけでもないはずの自身の体勢に恥を覚えた。身体でアルファベットを表現する遊びや四肢をバラバラに動かして色を踏むゲームを一人きりで行う姿に似ている。
転ぶにしても、一人遊びにしても図体がそれなりに育ってしまった大人がそれをするにはあまりに滑稽で、言葉をやっと選んでも『間抜け』であると色葉は感じていた。
茹だる夏の熱はすっかり息を潜めて時たまのものになったというのに、先に肌寒さだって這い寄っている感覚を知ったというのに、耳まで煮えたぎる血が集まっているようだ。
急いで身体を起こし、手のひらについた土を払う。
 右手に持っていたままの雑草は根元に近い茎が繊維に沿ってちぎれ、不揃いな断面に水分を滲ませている。
植物は光合成をしているが意思を語らないし表情もないので感傷も擬人法による感情移入もなく、ただ維管束が運んでいた水分が滲んでいるだけだなあ、と考えていた。
もっと言うならば先ほど雑草のことを國枝に聞いて恥を知ったばかりであった色葉は「ざまあみろ」と八つ当たりのままに汚い罵りを口にしたくなっているくらいだ。
視線の先にはまだ残った茎が残りの身体を土へ潜り込ませるように立っていた。その下にはふてぶてしい根が残っており、忌々しくも、きっと根をうんと広げて得意げな顔をしているのだろう。
口汚いついでに「なよなよしていると見せかけておいて、さぞかし横幅を広げた陰湿なひげ根の植物なんだろうな」と言いたくなってやめた。
生憎のところであるが、今の自分は機嫌が悪いのだ。
抜け落ちた記憶への焦りと、"國枝"と"先生"を同時に名乗る男に対しての己の以前の行いが気になって仕方ない。
自己嫌悪で忙しいのである。
それから「なよなよしていると見せかけて陰湿」と言いたかった言葉が回り巡ってここにいる。自分自身によく刺さる言葉だと漠然に思っているのだ。
決めつけはよくないな、というとってつけた反省は文字通りどこからかとってつけたものだった。思考の正当化のために一番最後に免罪符としてぶら下げている。
自身の手に握られている雑草の死んだ身体の一部を数秒見つめる。思い切り地面に叩きつけてやれば気の一つでも晴れるかもしれなかったが、そこまでの情熱を費やす気力もなかった。
叩きつけたって痛いとも言わない相手であるし、色葉自身も、それらに一々気配を荒げるほど気が短くもなかったからだ。
ぱっと手を開いた際に、呆気なく落ちていくくらいが互いの体裁によかった。
体温が伝導していたことも手伝って足元で萎えた雑草たちを一瞥した色葉は手のひらに付着した黒い土を丁寧に落とすことを再開する。
数日前に降ったらしいぬるいばかりの小雨の名残りか、湿りけを持った土が張り付くことが気持ち悪かった。払ったはずの土がまだ肌にしがみついているように感じられて仕方がなかったのだ。
ぺったりと感覚を残す手を大きく上下に振り払っている。
「抜くだなんてしなくても全て刈ってしまえばいいのに」
 どうせ抜けども抜けども生えてくるものだ。
だからこそ根まで回収するべきなのかもしれないが、だとしたらスコップだの草刈り鎌だのを揃えてからの方が良くないだろうか。さらに言えば機械技術が進んだ現代において円形の刃物に簡単な電動の機構が付いたものなどスコップと草刈り鎌をふたつずつ揃える金と同等か、少し色を付けたくらいで買えるはずの安価なものであるじゃないか。
それも、"ホームセンターにて最安値で買える"スコップと草刈り鎌のふたつずつで十分なくらいである。
手に入れやすくて手放しやすいのだから、逃亡の身とはいえ、ちょっとくらい眩みやしないのだろうか。少なくとも、庭に構うほど腰を据えることができる環境である様子なのに。
別に雑草にだって名前がついているだのと綺麗ごとをいうわけでもないが――いや、寧ろ、この点においては意外にも國枝は冷静であった。
「学術分類上での雑草というものは存在しないだけで、庭造りの観点においては意図しない草木および花は実を結ぼうがなんだろうが押し並べて雑草だと私は思うが」
質問の答えとして、「はあ」と一番最初に國枝が発した感嘆詞には『ちょっと何を言っているかわからない』と言いたげな意図が滲んでいたために色葉は悔しい気持ちになったことを思い出した。
とにもかくにも、都合のいいだけの手入れをしてやりたいのだそうだった。暇つぶしとも言うのかもしれないが、気まぐれな人だった。
 ぶすくれた表情で唇をよく曲げた色葉は、生命力にみなぎって地表を覆う草花を恨めしく見渡す。
多種多様ではある。葉だの根だの、胴の這いかた伸ばしかたは一見で理解できる特徴もある。
学術に則って観察に値するだけの価値はあるだろう。だが興味も知識もない人間から見ればどう見ても雑草ばかりだ。
花実を付けようが、丸いだけではない葉をしていようが、要るか要らないかで言えば色葉にとってはすべて抜いてしまっても問題ないものだ。必要ないのである。
その価値の違いを知ってか知らずか、雑草抜きを決行にするにあたって一度はおろしていた袖を再び捲り上げた國枝曰く、この価値を左右させるのは「君が観賞用であると考えたものは残しておいてくれないかな」。
わかるわけがない。そう反論したかったが、言葉にすれば恐らく國枝は手伝わせる気はなかっただろう。
実際、自分が國枝の立場だったのなら身体のことも気にして休むべきだと遠回しに追い払ったと思うのだ。
そして気遣い半々の返答が冷たい選択だと思いもしない。
現にこんなにも植物の繁茂した庭であれを抜くなこれを抜くなとご丁寧なリスト化をすればそれだけで半日は過ぎるし、記憶の欠落を焦る己は思考の出処に確信が持てないままリストと植物との睨めっこをするのが確実である。
ただでさえ浪費した時間に浪費を重ねるだろう。最終的には付箋を片手に書斎でポケット版の植物図鑑でも探しているかもしれない。
先回ってそれを避けた彼の言動の振れ幅から平均を見極めようとしたとき、その言葉は別の場面の言動よりかはずっと曖昧な物言いだった。
つまりは彼なりのコミュニケーションの提案だったのだと思う。不器用な『もっと話をしよう』だったのかもしれないのだ。
それに加えて己としても、彼に取り分けて心を許したわけでもないがいまリビングに一人きりで残されて呑気に紅茶を啜っているのはなんだか違う気がしていた。
否、漠然とした不安に吞み込まれてはあっという間に胃の中で正体を失くしそうだったのだ。
そうこうして今現在、ここにいる。夏を通り過ぎ、僅かに色相を赤黄に傾けた植物が繁茂する混沌の庭である。どこか煩わしさを覚える人ごみのなかのような庭だ。
 もっと正直なことを言うなれば、少し気が抜けたようにここにいる。
國枝は自ら"國枝"と"色葉"は研究者と被検体の関係であり、観測者と研究対象である、と自称した。
"色葉"はかつてそれに悲観したのかもしれないが、新しい"色葉"である己は都合よくすべてを忘れたためにむしろ、少しくらいは関係に胸が躍ったのだ。
すべて己の知り得ぬ他人のことで、当事者ではなかったから。今の"色葉(わたし)"は逃亡の末に僅かな安寧を得てたどり着いたらしいこの家と、優しそうな先生しか知らないからだ。
 故に、簡単な食事の後、さっさと片づけをする國枝がカップを洗っているとき、目を伏せて語った言葉に期待をしたのだろう。それもそうだ。
サイエンス・フィクションのような奇妙な関係が安っぽい映画ですらやりつくされたほど陳腐であると逆にこの先の展開で裏切ってくれるであろうという期待があるように、人の集中力の単位のひとつとされる十五分の延命に掛けたフィクション上の見せ場が楽しみになるのだ。
「さて。もし暇を持て余しているのなれば手伝ってほしいことがあるのだが、どうかな?」
濡れた手を拭きながらキッチンから戻ってきた彼の後ろめたさを孕む言葉に期待せずにいられるだろうか。
 現実感がないからこその愚かしさである。
何かに驕った期待をすることは必ずしも悪いことではないし、すべてを正直に言語化をすればきっと彼は彼自身の期待との妥協か中間地点かでそれを叶えてくれるだろう。
それこそがそうあって欲しい期待か、この身体の経験による記憶かの正確な意思の出処は知らない。
大事なことを忘れたことは大変申し訳なく思うが、あの男は"私という存在を害すことはない"という根拠のない自信がなんとなく、そして根っこには確信としてあった。
それが己の培った信用でないことも重々に理解している。
だからこそ胡坐をかく観測者としての愚かしさは早々に捨てた方がよさそうだと庭で色葉は己を戒めている。
 そもそも、「どうかな?」という曖昧に甘いだけ、余白たっぷりの言葉にホイホイついて来たものの、玄関を出て景観のアプローチとして存在する階段を二、三段降りたあたりで色葉は現実の質素さを薄々に察していたのだ。
途中で一度、顔だけで振り返ってから庭に入ると今度は身体ごとこちらへ向けた國枝は、親指で肩より後ろの混沌とした庭を示す。
色葉は素直に肩越しの景色を見ていた。
目は確かに平坦の色をして、先ほど薄々に察したとした想像の先が解として恐らく当たるであろうことを憂いていたのだった。
「雑草を抜くのを手伝ってほしくてね」

From the garden where the zion blooms.