釦をつまみ上げ、手のひらに乗せる。
瞬間、甘ったるい部屋の中に微かな清涼な風を引き込む感覚がした。
前髪を揺らす感覚を知っている気がする。
すべては錯覚には過ぎないが、まるで砂浜で気紛れに拾った足元の貝殻が気に入るような感覚だった。
今この瞬間だけは爪の先ほどの淡い輝きを宝物に思うほどに、それは自分だけに囁いてくれるのだ。
いずれ囁きが聞こえなくなれば何気ないものになる。ずっと先の未来から振り返ったときにはじめて、少しの心寂しさを知るのだ。
今はまだ、豊かに織りなす真珠層の光沢にうっとりと目を細めてこみ上げる拙い感情のままにくふくふとした笑みを隠す情景を見ている。
郷愁という言葉はきっとこういった感情のためにある。
 そうっと風が閉じる感覚で我に返ると、実際に手の中にいるのはこんなにもただのプラスチックである。
セルロイド樹脂で再現できる真珠層に似た鮮やかで美しい模様もなければ、欠けを起こした箇所が白くなっており力任せに抉ったようにもみえる。いかにも安っぽいものだ。
量産品でありファッション性を重視しないシャツには充分な簡素な釦を指先で弄ぶ。
何かを語るまでもなく、しんとしている釦を何かの拍子に転がしてしまわぬように、腕を伸ばして届く距離のサイドテーブル上にあった浅い小物トレイの上に置き直した。
そしてまだ身体の一部を覆うように被さっている布団を緩慢な動きで押しのける。
羽根を閉じ込んで包んだ柔らかな生地の衣擦れは耳によく触れた。
男はずっと眠っていたと言っていたが、夢も見ないくらいに眠り続けていただなんて変な気分だ。
自分自身の感情としても靄がかった焦りを感じる。
昨日と地続きで存在しているはずの今の自分は、昨日までの自分がどうやって生きていたのか何一つ知ることも、思い出すこともできていない。
じっとりとしている首の後ろに触れながら色葉は思考している。表に出ないずっと底の方で焦っているのだ。
長い髪が手に絡まっている。よく見たら枝分かれしてる髪の毛はか細く、痛んでいる。
本当に私のすがたかたちなのだろうか?
元より毛髪を短くしていたほうではないが、これなら切った方がいいだろうに、と率直に思う。
気を紛らわせるようにあくびが出る。手で口元を覆いながら筋肉の凝り固まった身体を起こすように左右に揺らしている。
着替える前にシャワーを浴びてしまいたいが、グラス一杯分の水くらいは口にしないとそれどころではない。
何度も着替えるのは手間であるが、人前に出る恰好でもない己の胸のあたりを見下ろすと服には何かをこぼした後に拭き取ったような跡がある。
だが、水分が蒸発したせいで乾いて軋む感覚はあれどどこかにとても苦痛があるわけでもないのだ。
病気である気もしない。怪我もない。では、どうして?
自分が数日眠っていたらしい原因も知れないまま、色葉はベッドを降りた。
踏み出した足は異様に機嫌よく持ち上がり、踏みしめた地は良く沈んだ。その後に反動としてそうっと浮き上がる。
地面がふわふわしている感覚だった。身体は不思議と軽く、すっきりとしている気がするのだから眠る前はとても疲れていたのかもしれない。
本当に泥として眠っていただけなのかもなあ、と呑気を浮かべている。最後に食事を摂ったのはいつだろうか。
今日という日は不思議と淡々と脈絡のない言葉がたくさん浮かんでくる。おまけに付け加えるのなれば、よく考えたら自分はこの部屋を知らない。
 己の身長を僅かに超えるが、横幅は極めてコンパクトな観音開きのクローゼットの前に立つ。
息を吐いてから繊細な彫り物のされた真鍮の引き手に手をかけてそっと引く。痩せた木が鳴って、途中で引っかるも扉をあけ放つことは難しいことではなかった。
ハンガーにかける衣類の長さを想定して縦幅の大部分を大きく占める最上部が目に入る。下部は間隔を狭めた棚板が三枚差し込まれていて、棚を作っている。
これは本当にプライベートの部屋用で、ロングコートや女性もののワンピースなどは余り向いていないようだ。尤も、先ほどの男が来ていたシャツだとか、スラックスにウェストコートだとかいうようにシンプルな服には十分すぎる。
この部屋は建物において奥まった位置にある部屋なのかもしれないと想像しながらクローゼットの中身を一瞥する。
クローゼットの中はスカスカしている。圧倒的に服が少ないのだ。生活感を感じることはできず、辛うじてかかっている服も同じものばかりだ。選択肢がない。
迷わない点は助かるが。そう思いながら色葉は微かに眉の根を低くした。
生活感のないクローゼットや知らない男。見知らぬ部屋。自分はどこからか連れてこられたのかもしれない。
そう思いながらもプラスチックの釦が見せた真珠層の美しい錯覚が自身を思い留まらせている。
自分は何か大事なことを忘れてしまっているのだろうか。
不安というよりは胸に空いてしまった穴をひゅうひゅうとした風ばかりが過ぎる気持ちの悪さや、心細さを感じている。
 肩の部分の木製から金属が伸びたハンガーからシャツを引き抜く。
三着しかないシャツのデザインはどちらも同じもので、襟に金色の糸で刺繍が施されている。
蔦の意匠かと疑問に思った色葉は目を細めてじっと観察したが、それらに何かの法則やデザインを感じることはできなかった。
ただ、左右対称であるから、それらを合わせてみたら模様にみえるファッションなのかもしれないとぼんやり思う。振り返った際に本来の意図が失われていたり、共感を得られないものにかわっていたりすることは流行り廃りのあるものにはよくあることだ。
とにもかくにも、目覚めたばかりであるが故に見知らぬ部屋が気になれるだけだ。普段ならきっと気にも留めないだろうと色葉は頭を振る。
他には襟のないアッシュブラウンに寄った色のウェストコートと、微かにくたびれたジャケットがそれぞれハンガーにかけられている。
棚にはジャケットと揃いの色をしたスラックスがきっちり畳んで置かれて、更に隣には思い出したような灰色の靴下が左右をぴったり重ねていていた。
それらが離れ合わないように冷たい金属のクリップが束ねている。
上部における底板に置いてあるスラックスや靴下の下は棚板を隔てて僅かな私物をしまっているらしいビニールバッグがある。また、トレイの上ではワインカラーよりもずんと暗いボルドーのリボンタイと、真鍮のパーツと赤い石をチェーンで繋いだアクセサリーが行儀よく並んでいた。
並べて置いた際に、アクセサリーと長さがぴったり揃うように折りたたまれたリボンタイや、二つがきっちりとした平行を保つあたり、先ほどの男の几帳面がよく覗いている。
遠慮なくアクセサリーの留め具をつまむと視線の高さまで持ち上げる。
クローゼットの中にあるものが身につけるものの中でも服でしかないこと、それから中心についたプレート状のパーツから推測するに恐らくシャツのカラーの下か、開襟時にジャケットの前を留める装飾品だろう。
すべてを広げてなんとなく眺めてから色葉は自身のシャツの釦に手をかける。
自身が身に着けていた糊が剥がれてすっかりくたびれていたシャツは、それ以外にも生地が摩耗して薄くなり、微かに毛が立っていた。
まだ覚醒しきらない頭で服を脱ぎ、新しいシャツに袖を通す。
それは糊がまだ微かに残っている。新品ではないが、まだあまり着慣れられていないようであった。
袖の長さが僅かに短いことをしながら袖元の釦と胸の前を留める。
最後に襟に施された刺繍を人差し指と中指でそっとなぞると、どこかで見たような気がしている。
鏡が手元にないために実際はどうであるのかは不明だが、この服は見るのはきっと初めてではない。
水溜まりに景色が反射しているだけのように些末で気にならない感覚と記憶だ。
日常的に纏っていた衣服なのだろうと結論付け、色葉は靴下を履き、靴に足を通す。
ドアを鳴らして狭い部屋を出ると、打ち付けられたフックに掛けられたまま置き去りにされているサシェが部屋の側で揺れた。
 部屋は特別広いと思えるものではなかったが、この家は想像より広い面積を有するようだった。
廊下を歩けば左手に二つのドアを通り過ぎる。
歩を進めれば本当に小ぢんまりとしたものではあるがエントランスホールの造りになっている場所へ出る。
こういった建物は左右対称になっていることも多いということをふと思い出した色葉は、その向こう側にも部屋が二、三あるのだと推測して視線を上げる。
廊下を基準とした際に奥側だけにドアを――つまり部屋の分だけの奥行を備えるために、エントランスホールの二階部分は大きく凸の字を描く空間があったのだ。
色葉の背をも優に超え、壁面と天井を隔てるギリギリまで見栄を張った大きな飾り窓が光を取り込んでいる。
柔らかな光を目一杯とりこんで微睡のための庭を形成する凸部分の奥行は簡易的な談話スペースとなっており、背の低い椅子と横に長いテーブルがある。傍にはすこしつまむための食事の皿か花瓶を置くであろう脚の長いミニテーブルまでもがどっしりと控えていた。
応接セットに似ているが、エントランスホールという場所の都合や家具たちのデザインが質素なものであることから、家の中の人間やごく親しい間柄の者だけで談話を楽しむためのスペースの意味合いが強いのだろう。
今はだんまりを決め込む空間に光が落ちている。
この家の日あたりを知りはしないが、影の伸びる具合から日の傾き始めた午後であることがよくわかる。もう少し家自体が温まっていたならば、今にもうとうととできそうな場所だった。
踵を返し、階段へつま先を向ける。古い木材ではあるが人と長く寄り添ってきたからこその丸みを帯びて淡い艶を持つ手すりに導かれて階段を降りる。
踏面に靴底が触れるたびに微かに覚えていた緊張が掻き出され、一一階の床を踏むころにはずるりと日に晒されていた。強張った肩の、正確には僧帽筋のあたりの筋肉が攣ったようにぴんとした痛みを主張している。
頭を振り、肩を揉む。
男が指定した部屋の前に立つとエントランスホールの階段を回り込むように裏手へつながる廊下の存在に気付く。確かに、奥側ばかりに部屋を備える家だからな、とも思っていた。
身の回りの世話をするための部屋や物置なんかを配置するに賢い。それなりには、人をもてなす準備のある家だ。
廊下の折れ曲がる壁面に鏡を見つけた色葉はそうっと前に立つ。するとちょうどリビングルームの扉を開けた際に姿見と向かい合う形になる。
確かに後ろから襲われることがあればそれがわかる形にはなるが、そうだとしたらこの家は本来何のために建てられたのだ?
色葉が抱く訝しみは膨らんでいく。
古い家であるようではあるから、家主が何人も入れ替わっているだろう。故に、本来の意図は薄れているはずではあるが、随分と警戒をしている臆病な作りだなとずっと考えている。
もんやりとしたものを抱えながら家を出る前の身だしなみ確認のためにある姿見を前に、映し出された自身の立ち姿を見てまるで時代錯誤と感じる。
これでも電子機器が世を豊かにして、ミニマルな服装の好まれる時代を経ている。今でこそ多様性を求められてその形容は鳴りを潜めるが、普段着にしてはあまりにも"古臭い"と言われるくらいのものだ。
この家の亡霊と名乗っても恥ずかしくないくらいには極めてフォーマルで、殆どスリーピースのしっかりしたスーツだ。
着心地が悪いわけではないが、シャツに軽く締めたループタイとウェストコート、スラックス姿であった男の服装よりはずっと堅苦しいものに見える。尤も、彼の服装も今の時代でいうなれば堅い分類ではあるが。
意味もなく型崩れも起こしていない襟のカラー部分を正す。乱れている髪をそれらしく分けて、目元に触れた。
ひどい寝ぐせこそないが、飴色のなよなよした細い髪は耳にかけてもはらりと落ちてくる。
眠っていても内臓たちは正常に動いていたらしい。頭皮からは汗や脂が出るものだ。微かにべたついた髪に対して指が逃げる。
確かに清潔ではないかもしれないと自覚するとともに口を曲げ、触れるのをやめた。
反対のまだきれいなままの手でジャケットのポケットをまさぐる。恐らく服を飾るためのものだと判断まではしたが結局行き場を失くしたアクセサリーの存在をカサついた指先で確認していた。
振り返り、息を吸うとドアを指の背で軽く叩いた。
「どうぞ」
 クスクスと密やかな笑みを孕んだ声にドアをゆっくり開くと芳しくはあるが気取らない、端を華やかさで丸めた匂いが廊下へ流れ出した。紅茶の匂いだ。
男はオープンキッチンの向こう側に立っていて、まだ使用前であるらしいテフロンの黒い面が見えるミルクパンを片手にしていた。
クッキングヒーターの上にパンを置いた後に袖口の釦を外し袖を捲りながら、色葉から十分に己が認識できるように身体を傾けて表情をにこやかにしていた。
「あの」
「どうした? そこのダイニングに座ってくれて構わないよ。もうすぐに温かいものと簡単ではあるが食べられるものを出せる」
「せめて顔、顔を洗いたいのですが。もっと言えばシャワーを浴びたいです」
きょとん、とする。鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにこのことで、男は開口一番がそれだとは思いはしなかったようである。
喜んで上がっていた口角をそのままに勢いだけ薄れて閉じられかけていた。
色葉が訝みと不安を綯い交ぜにした表情で、警戒をするように顎を引く。唾を呑み込む喉仏がうねるように上下した。
遠ざかっていた沈黙はすぐにやってきて、二人を顔を順番に覗き込んでいた。じっとりのぞき込んでくるそれを払うように男は控えめな声を上げる。
引き攣ったようにも聞こえる息遣いは少しずつ声量を増して、肺から押し出された二酸化炭素を"笑う"という感情表現に昇華した。
掠れた笑い声がダイニングを兼ねたリビングルームで響く。細かく肩を揺らし、猫の目を楽しげにした男は最後に首を僅かに傾げ、こちらを窺う目で息を吐いた。
ゆったりと力が抜けたはずの肩が思い出し笑いをするように時たまに揺れる。
「いや、失敬。許してくれ。それはそうだ、私も同じことを言うと思うよ。バスルームは扉を開けたままでいるから廊下を奥に進めばすぐわかるはずだ。案内が必要かい?」
「平気です」
出戻ろうとする色葉は顔に不機嫌を浮かべたつもりはなかった。
ただ、ほんの少しは苛立ちを覚えた気もする。
人に会うのならば身綺麗までとはいかずとも清潔は保つべきだからだ。そして今の自分は清潔に該当しないと考えている。
想像できないわけがない。尤も、この状況を配慮すれば必ずしも則るべきではないが、どこか胸をもどかしく引っかかれるようだと感じている。
「うん。すまない。君が最初からそれを申し出るつもりであったというのにきちんと着替えて……人前に出る姿で来てくれたことが嬉しかったり寂しかったりしただけさ。せめて水でもなんでも口にしてから行きなさい」
今しがた洗ったばかりで水が滴っていたグラスを一拭きすると男は水を注ぐ。
ドアの前でぼんやり佇む色葉に手渡すためにキッチンから出て、そして思い出した表情をしてからもう一度キッチンへ戻った。
「水、と……これは?」
グラスを持つ手と反対に握らされた拳を開くところりとした塊が転がった。セロファンに似た輝きのある赤いフィルムと銀紙を重ね、両端で捩じったいくつかの菓子を眺める。
捩じったことで生まれた襞に沿ってフィルムの両端に施された金色の印刷が波打っていた。
「塩キャラメルというソフトキャンディの仲間さ。咀嚼せずとも口腔内の温度でいつか溶けるし、ただ水を飲んで湯を浴びるよりかはいいだろうと思ってね」
自身より少し背の低い男がにこやかに語る様を下から睨めつけるように色葉は見やっていたが、グラスの中身が水であると認識した脳はそれを欲しがっていた。
「それと、バスルームだけれど。タオルだとか石鹸だとかは置いていた気がするので、適当に使って洗濯カゴに突っ込んでおいてくれ」
人の好い笑みに騙されたわけでもなく、かといって己を害する可能性を完璧に捨て去ったわけでもない。
だが、気付けば生存のための欲求に素直に従って色葉はグラスを傾け喉を潤していた。そして無味無色を流し込んだ喉を大げさに鳴らして下すと喉の奥で咳ばらいをして口を開いた。
「……ありがとうございます。感謝とともに前後して申し訳ないですけれども、あなたは?」
「國枝、だ。民、領土、主権、そして他と相互の認識・外交能力を有して形成された人間のための場所、または秩序。――その"国"を表す漢字を旧字で書く。それから植物の枝葉における枝のほうだ。自称するのもこそばゆいが、色葉は私のことを"先生"と呼んでいたよ」
言い聞かせる語尾ではなく、淡々と告げる口調のこだわりのなさからして男は色葉と上下関係で結ばれた"先生"ではないようだ。
師として呼び教示を乞うていたのではなく、親しみのそれなのだろうか。
少なくとも色葉はそのように察したが、今の自分がそう呼んでいいのかは惑い、憚られた。
自身が彼に対して訝しむ心を持っていることの後ろめたさなのかもしれないとさえも感じている。
「國枝、さん」
國枝と名乗った男は緩やかに口角を上げている。
どことなく猫の気紛れを思わせる瞳をよく見れば暗褐色に青みを帯びた灰色が滲んでいるようにも思えた。
彼が自称する"先生"としての姿に説得力を与える言葉遣いや略式のものとはいえフォーマルの部類である服装、そして容姿から少なくとも成人はしていると推測する。
だというのに首を傾げて窺ったり、何かを促したりする身体の動作や気紛れに喜ぶ涼やかな目の表情はどこか幼さを感じさせる。
不思議な雰囲気の人だ。彼の名の響きは薄い羽根の毛先で心臓のふちをぞわり撫でる。
そのぞっとするくすぐったさに思わず背を逸らしたくなる。逃げたい気持ちになるのだ。
色葉の血色が悪い唇が押し出した響きと微かな息遣いに対して、國枝はすっかり目を伏せてしまっていた。
次の言葉を口にするより早く、湯が沸騰して水面をで泡が弾けると彼は静かに背を向けた。そのまま穏やかに続ける。
「……さて。君のための食事だが。簡素と極めているとはいえ、半分くらい用意は終わっているんだ。こうしていると既に具を乗せたクラッカーが湿気るのが先かもしれないな」
「はあ」
「君を心配したつもりだが、故に君のしたいことを通り過ぎてしまっていたね。数日ぶりの食事が湿気っていたって胃には優しいくらいさ。紅茶の支度はきちんと君に合わせよう。折角の香気も失せればえぐみだけ残った色水だからね。さあ、いってらっしゃい」
穏やかな声色に対し、返す言葉が極端に少なくなってしまうことをほんの少しだけ心苦しく思いながら色葉はリビングを後にした。

 この家の大体は年代物である。
だが、この世の中で貸家としても、売地としても求められるものは利便だ。
最新の洒落た浴室までとはいかないが、やはり色葉の想像を微かに上回る程度には小綺麗な水回りをしている。
祖国でいう風呂場と洗面場が同居している少し暗い部屋だ。素足が水はけのいい床材をぺたりと踏みしめている。
目覚めた場所へ戻って持ってきた自身の私物と思われる下着や櫛を並べていた。身体や髪を洗う石鹸がない。
「……固形、石鹸」
辺りを見渡すと水切り台の上に固形石鹸が一つだけ置きっぱなしになっていた。
確かに固形石鹸は髪か身体のどちらかに特化したものではなく全身に使えるものが多いが、これを共用しているのかと疑問に思う。
衛生を置いておくにも物の少なさはまるでいつでもこの家を出ていけるみたいな身軽さだ。
現に、そうなのかもしれないという気持ちが大きくなっている。
そもそもを言ってしまえば二人で住むにはとても大きいこの家に住む特別な理由はないし、借り手の欲しい古い家であれば多少のわがままが通る。
廊下から眺めることのできる窓の向こうですぐに民家を見つけることもできない。
それは、つまり、"そういうこと"なのではないだろうか。
勝手な想像を一つに束ねる。
「まさか、ね」
唇だけで笑う薄暗い顔の映る鏡前で色葉は心のうちだけで國枝に謝罪をする。そしてまだ惑いを見せる指先で水切り台から固形石鹸を拝借した。
 髪を濡らす前に痩せた髪の毛を丁寧に櫛で梳けば眠っている間に抜けて、辛うじて他の髪と絡まっていただけものが足元に落ちる。
髪の毛をよく梳いた後に櫛を置き、シャワーカーテンを備えることなく頭上を通っているだけのバーを無言で眺める。
不満ではないが、不便ではないだろうか。単純に疑問だ。
鼻からゆっくりと息を吐くと空の浴槽を跨ぎ、シャワーの温度を確認してからコックを僅かにひねる。
さわさわとした音を立てて水が滴りだしていた。
温まる前の温度を想像して少しだけ出したはずの水は落下の速度を加速させ、固い浴槽でその輪郭をひしゃげる頃には跳ね返りをみせるほどの勢いを得ていた。
跳ねた水の粒子が服を脱いだ素肌によく当たって冷たさに誘う。
手で水の勢いを逃がしたり、道筋を変えたりしている。徐々に温まってきたころで色葉は空の浴槽の中で膝を折る。
そして縦に長い身体をちんまりと屈め、泡立てた固形石鹸で髪と身体を洗った。
泡が立つとともにレモンに似たさっぱりとした匂いの中に草葉の匂いが微かに混じって漂い始める。
レモンバーベナの匂いだろうか。熱された湯から立ち上る湿度の高い空気の中できりりとした香りの輪郭がぼやける。
朝に冷たい水を撒いた小さな庭で感ぜられる匂いがこの湿気の中でするのは脳の認識をよく歪めて茹だらせた。
香りが悪いとは思わないが。そう思いながら色葉は温度調整のコックを手前にひねる。
水圧が強くなりざあざあと耳元で鳴る湯は、湯というには少し温度が低いのかもしれない。身体が驚かないようなぬくさが泥沼のように続いている。
春泥を往く心地だ。離れ難い人肌をすぐ傍に置きながらも身体がずっと汚れている。
先ほどの熱さよりもずっと冷たくなっていく温度でべたついた汚れが取り去られる感覚は、泥だけ洗い流されたような気分になれる。頭がしゃっきりと目覚めていた。
最後に足元と浴槽を金属のコックを捻り切った冷たい水で流すとレモンバーベナの香りはようやく自身の望んだ切り口の形になっている。
とにかく気分がいい。
浴槽から這い上がった色葉の瞼は軽かった。
 身体を適当にタオルで拭い、新しい下着に替える。
長く着ていた感覚に対して気分がよくないために、先に身に着けていたものは紙に包んで処分用のごみ箱へ入れた。あとできちんとゴミ袋を用意して始末をするつもりでいる。
そして襟に刺繍のあるシャツを再び纏い、スラックスを履く。
國枝から預かったドライヤーで髪をしっかりと乾かし、言われたとおりに指先で掬った油を毛先に入念に塗った。
いわゆるトリートメントというものだ。
記憶をなくす前の"色葉"は髪を伸ばしたりこれ以上に切ったりせず、この長さをずっと保っていたらしい。
取り分けて容姿に気を使っていたわけでもないが、石鹸だと猫毛の髪が軋むことを気にしているらしかった。
そう語った國枝の配慮で持ち出された手入れ品だが、既に先の枝毛を見つけている色葉は何も言えず曖昧に笑みを浮かべて受け取っておいたのだ。
馴染ませたのちに冷風を当てるとくったりしていた髪の毛に艶が宿り、僅かに健康を演出し始めていた。
抜け毛を拾い集め、ペーパータオルに挟み、それを何度か折りたたむ。ゴミ箱に入れながら色葉は自身の前髪を気にしていた。
どう見ても長い。そして視界の前に垂れ下がって揺れる様が気になって仕方がないのだ。
以前は左に寄せられていたようで、髪を濡らす前は何もしなくても左側に寄る癖がついていた。
左側が毛髪に覆われた顔を鏡にじっと寄せて自身を眺める。そのままそっと右目を瞑ると、左目だけの視界になる。
そこに髪の隙間から得る光が細かに差し込むことはあれど、ずっと暗いままだ。
実際のところ、どれだけ視力に偏りが出ているのであろうか。
生え際のあたりを中指で触れると色葉はそっと前髪をかき分けた。
広くなった視界は良好で、認識できる範囲が広がったことが明確に理解できる。以前のままでは半分ほどの確信でしか世界を見ることはできない。
別に顔に傷があるなどといった理由もなく、今の自分は左側を隠したいわけでもないし、このままでいいのではないだろうか。
そう考えながら鏡の存在を思い出す。視界の端には広くなった視野に心躍ったまま口角を上げている自分の姿に気付く。その薄暗い表情に。
鏡に向き直ると、霞んだ瞳孔がこちらを見ている。
見慣れた自分の顔だ。少し疲れた顔をして、骨格に沿って刻まれた彫りか、疲れて落窪んだかわからないような眼窩の向こうでくすんだ色をしている。
この世界は豊かであるかもしれない。だが、何かが欠落している。そう語りかけてきそうな憂いだけがこびりついた顔だ。
ぞわっと肌が粟立って、思わず後ずさる。
プラスチック製の簡易的な棚が踵に思い切り当たると、借り物のドライヤーが大袈裟な音を立てて落ちた。
穴となっていたはずの胸の中に何かがどっかりと座り込んでいる。
己を形成する像に罅が入り、たちまち亀裂として身体を走る。
塵を立てながらずれていく感覚に対して色葉は雑に前髪を顔の左側を覆うように整えると、ドライヤーを拾うことも、靴をきちんと履くこともなく逃げる足早でバスルームを出る。
言いようのない恐ろしさが向こう側から出向いて自分を見ていた。鼓動が早くなる。大して長くもない廊下が延々とあるような錯覚に陥って今に駆け出しそうになっていた。
後ろに空間を切り取って生じた黒の二つ目が迫っていないだろうか?
まとまらない思考のあちこちをつまみ食いしたがるものの尾を掴んで引き寄せる。
視線の先にいつの間にか目の前に國枝が立っていて、今出した足が踏み込んで体重を移動すればぶつかりそうな距離に驚く。身体が大袈裟にビクついて、大きく逸らした背で体勢を崩す。
つんのめる身体に働く反対方向の力に引かれないように何度か同じ床を踏んで色葉はハッと短い息を吐いた。
國枝もまた、僅かに目を見開いて落ち着きのない顔をしている。底を見せない色の中で瞳孔が広がっていた。
「何があった? 物音といい、君の顔色といい」
「あ、あ、いや。なんでもないんです。なんでも、なんとも」
姿勢を低くして気配を探っていた國枝の鋭い線が少しずつ緩む。目配せがじっとりと影を伝っている。
色葉が思わず呼吸を止めていると國枝は次第に目尻を丸くし、圧をかけてしまわないように警戒していた表情をほどいて見せた。
冷たい廊下で呼吸を落ち着けた二人の行く場所なく緊張に取り残されてしまっていた。手だけが今も警戒して惑っている。
怯える肩越しのバスルームを見た國枝は扉まで向かい、色葉の靴を取り戻すと冷静な足取りで戻ってきた。そっと足元に靴を並べている。
色葉の中で激しく脈打っていた心臓がぬるま湯の不気味さで麻痺している。そこだけが自分のものではないようだった。
「やけに遅いと思っていたら大きな物音がしたから、倒れたかネズミに噛まれたかとでも思ったよ。それがなんだい、悪魔でも見たような顔で。私の想像した最悪の事態にするにはあまりに杞憂であるようだよ。いかにも君の身体は元気なようだし。しかし、君の不安はどうだった? また顔が白くなっている」
 顔を青くしたままの色葉を迎えた國枝は色葉の前髪がひどく乱れていることを指摘する。
顔の左手側を大きく覆う前髪の存在に何度も指先で触れ、よく確認をする色葉は憔悴している。
國枝が「それがなんだい」と想像より大事ではないと表現した事柄の"それだけ"でげっそりとしてしまっていた。
これこそ反論すべきところに言葉もなく立っている姿を不憫に思い眉を下げた國枝は、立ち上がるとすぐ傍に立つ。
力の入ったまま固まっていた色葉の指をすくいあげて、自身の手の熱で温めた。すると水と湯の境界を曖昧にしたものを浴び続けて温度の感覚を失っていた色葉に伝導した熱が通い始める。
ざらついた指先が触れる人肌の温度にゆっくりとした呼吸を取り戻している。
まだ平静の水面は風に微かな紋を立てているが、するりと離れた手はリズムをとるように色葉の肩に優しく触れ、まるで歌うように言葉を繋げた。
「寝て起きたら記憶を失くしていたのだから仕方あるまいさ。自分が自分ではないように感じる恐怖は実に身近なもので、まぶたの裏に灯る蠟燭の火を吹けばいつだってそこに在る。揺らめく火の光源が及ばない場所にいつもそいつは居る。己を己たらしめるものが何であるか即答できる人間などいない。私だって"そう"だ」
「く、にえだ、せんせい……さん」
「君が遠慮する必要など何一つとてないさ。"國枝"でも"先生"でも、はたまた全く異なる名前でも。好きに呼んでくれ。さあ、おいで。食欲がなくても、生活の香りで気持ちは落ち着くだろう」
気難しい小さな生き物をあやす声色が言葉を紡いでいる。
 言葉を見送った色葉は踵を返した國枝の後頭部の丸みを見つめていた。
エントランスホールから微かに差し込む光で、この廊下は明るくなっている。
言葉に導かれるまま、安堵の鱗片を知った足はその先をより鮮明な形で享受したがって促されるままに扉をくぐっている。
國枝がドアノブを引く様を振り返ると、縦に細い飾りガラスのはめ込まれたドア板に廊下の景色が閉じられていく。
鏡の中でドア板に半分遮られたような國枝の後頭部を、また見ている。そこには鏡をまっすぐに見つめる色葉そのものの姿もまた、存在していた。
暗い立ち姿だ。鏡に映る己と書いて誘惑と読むのかもしれない。
故に、いつもその境界に悪魔は映るのだろう。