過ぎる夏の残滓に火が付き、季節は燃え往く秋になる。
相も変わらず。私の視界に映るもののすべては光の温度を奪われ、春も冬も、昼も夜も大差はない。緑はもうずっとくぐもった色をしている。
想像以上に虚ろいでいた。
そのように季節が巡り続け数字ばかり重ねても、葉の散り具合でしか判断できない。
時に赤道を跨いで半球を往来することもあれば、次第にそれも自信がなくなってきた。この季節ですら、巡ることで時間の経過を錯覚させるだけのまやかしものなのかもしれない。
疑うと切れ目なく、結局、この世のすべては空白をやり過ごすための創造物になった。信じていた理は積み木を重ねるように、崩すように、いたずらに書き換えられる。
だが、私の読みがまだ正しければ、やがてこの場所も春を待つための眠りにつくはずだ。冬が来る。
尤も、記録としての注釈をいれるなれば、これは現在地を北半球としての話である。
時差を跨ぐ身体がだるい。目が霞む。
疲れ目からの起こる眼振の症状が酷く苛んでいる。もはや紙の上で蠢く文字たちが愛しくなっていた。
掴んだと思えばすり抜ける輪郭は死ぬほど嫌いな晩夏に焦れる蜃気楼に似ている。
とにかく、最近の私は思考がまとまっていない。
夢の中みたいだ。大事なこのペンも取り落とすことが多くなった。
ペン先を損傷していないことだけを感謝する日々だ。
実を言うまでもなく、今も握っている感覚はあまりない。
睡眠時間を確保することを務めるか。

 私が喉から手が出るほど欲し、喜んで心臓を差し出してまで傍に繋ぎとめていたはずの地獄を引き連れた存在は、乾き始めた風と共に笑っていた。
目元に深く不健康を刻んで生気を薄めているが、それでも時にごうごうと唸る風のようだ。そうかと思えばまた、紅葉を前に力尽きて枝から落ちた葉をすくう弱い旋風になっている。
傍で季節を語り、私の代わりに巡った回数を静かに記録する眼窩の向こうにある色を怖くて見ることができない。
きっと、あの目は私を憎んでいるに違いない。
ずっと寒い場所にいるのに寄り添うこともせず互いを見ているだけだ。
嘘だ。私だけが、視線すらを逸らし続けている。
もうすでにぼろ布であるのに、尚すり切れるようだ。
 夏の幻と背を追いあうのはもう疲れた。その背中が、知覚する空間を歪めた際に生じるただの光の屈折だと認めてしまったからだ。
しかし陽炎は構わず囁いている。甘美な誘惑が頬を撫でるとき、誘惑の手を握りしめ、引き寄せ、捕まえることの意思を惑わせるように引っかかることがひとつだけある。
一人残されるあの子はどうなる? 心残りだ。
とても私の言えたことではないが、不憫で仕方ない。
この地獄を、美しい布で飾り立て覆った舞台の吊り糸を、共に切って落としてやろうと言ったら頷いてくれるだろうか?
最期だけは、もう一度この手をとろうと思ってくれるだろうか? 穏やかに目を伏せてくれるだろうか?
祈るべく対象の神はその座からとうに堕とした。
だが、もし、死後の世界という概念があるならば、私は何を捨てたっていい。あの日のあなたに会いたいのだ。
きっと今も天秤は揺れている。我ながら煮え切らない。兎が捕まらないのはもうずっと前から知っているのに。
本当にすまないと思っている。もうほとんど見分けもつかないというのに意識のずっと奥で二重にぶれるかたちは明確に異なる存在であり――
だからこそ地獄を閉じるための幕を下ろすのは他の誰でもなく、この私でなくてはならない。
精神的快楽の夢を見せる地獄を泥濘として被害者面を是する私に奪われることを悪くないと頷いてくれはしないか。
私のそれはとうにくれたやったから、お前にとっての"不滅の魂"を私のためだけに消費してくれないか。
信頼を放棄してきたわりに舌触りばかりいい言葉だ。
それでも、重ならず乖離して存在しているものを要らないと言える私はもういない。
私は確かに一六八を愛している。

kissing the decaying anemone.

 誰もが忘れ去った場所で目を眠らせる植物たちの声を聞くようにしんと身体を空にしている。
囁きを求めていた睫毛は微かに揺れて、下瞼の薄い皮膚に暗がりを落とした。
金属で出来た柔らかく繊細なペン先が繊維質を圧縮した滑らかな紙を掻いている。
充填されたインクが滑りよく文字を描ていた。
細かな方眼紙をあまり活用はしていない。文字を書く程度であれば、文字列に統一を持たせる補助線になればいいだけだ。
微かに青に属する色素を含んだ黒インクを遡れば、綴った文字の一部をよく塗りつぶしている。
上質なインクは透かしても、裏から見ても依然そこにあったとする文字を読み取ることはできない。便利なものだな、と思う。
綴り手によって編まれる文字たちは補助線とした線の上をしゃんと並んでいたり、時にそっぽを向いていたりする。
今に細かな手の震えが文字を歪めて、丸く、小さくあるはずの文字は体裁を崩した。
 ワインカラーの樹脂軸を主とし、手への馴染みと親しみを求めて一部が金属製のリングを隔てて木目地が強く残る木材へと切り替わった万年筆を強く握り直す。
決してペン先を自らの力で歪めてしまわないように、震える右手を左手で強く握り込んで支えを作ると筆記を続ける。
犬歯のあたりで強く噛み締めた歯の隙間から短く漏れる息のせいで、もう植物たちが小さく笑いあう声は聞こえないのだろう。
この場所はもうすっかり古いだけの家の、甘ったるい月日と経年で積もった埃が時たま鼻腔をくすぐるようなくすんだ匂いだけだ。
感情の振れ幅を脳が興奮と見誤って瞳孔を開いている。
もう見たくもないことばかりだ。そう思考する脳が歪な笑みをかたちづくる。
大きく揺れる手のひらと酸素を求めた肩が揺れ動くほど不安定になった身体でどうにか筆記を終える。そして万年筆のキャップを手に取りペン先にキャップを被せようとした。
キャップをつまむ手が、樹脂のワインカラーが幾つも重なっている。震えている。
狙いを定めて被せたつもりが人差し指の脇腹にペン先が掠める鋭い痛みを覚える。
焦ってはいない。焦ってはいないが、手元が乱れるうちに短い呼吸が唾液を気管に引き込み男は大きく咽込む。
反射的に身体を大きく屈める。身体がくの字になると、きゅう、と喉が締まって呼吸が絶たれる。
かひゅ、と詰まった嫌な音がする。喉でも肺でもない場所――普段意識の欠片にもない気管支がカッと熱くなる。
固い音を立てて絨毯を敷いた柔らかな床をキャップが跳ねた。
ペン先のためのキャップが、跳ね返りで距離を稼いだ先の少し離れた場所で繊細な模様を全面に施した絨毯の上を空しく転がっている。
ワインカラーの樹脂を艶めかしく反射させる午後の微睡が時間をゆっくりと進めていた。繊維の塵が微かに埃の積もった部屋を漂っている。
それが窓から取り込む光でキラキラと輝いていた。
膝をつき、サイドテーブルの足元で身体を小さくしている男はまるで隠れて嗚咽をあげるような格好で背中を小さく揺らしてシャツの衿元を引っ掻いている。
明確な意思を以て呼吸をしている者は自分以外いない。
誰が自分を助けてくれようか。そんなの自分しかいない。
気休めであろうが呼吸を少しでも多く取り込みたいと本能的な思考をする脳が指先に掻かせていた衿元で、それを縛るループタイがあるのだと認識すとるカメオ装飾のパーツの裏側へ指を押し込んでいた。
調節金具を兼ねるパーツの裏でタイを緩めるために手前に引き寄せようとしていたのだ。
くたびれた喉の内側に血の味が滲んでいる。
それが錯覚かどうか正常に判断するほどの冷静を欠いた脳で、男は自分は死ぬのかもしれないと思っていた。
 激しい咳を長く繰り返したのちに指先はぐったりとしていた。
正座した足の腿に上半身がぴったりとつくほど屈みこんでいる。それでもキャップを手のうちに取り戻そうと伸ばした指先が投げ出されたままでいた。
呼吸はようやく静けさを取り戻し、煤けて濁った瞳に再び光が反射し始める。気付けばシャツの第一釦は無くなっていた。
酸素が上手く取り込めなかったせいか頭がぼうっとする。身体を巡る血の温度を感じるようだ。
頭を僅かに動かしただけでもざあっとした血液の往来による熱があって、目の奥に鉛をぶら下げたような思考の低下がある。
瞬きだけをしばらく繰り返し、ぼんやりしている脳からの指示がやっと行き届いた指がピクリと跳ねて浮き上がった。
 男は身体を折り曲げたまま、指先ほどの距離を残して届かなかった万年筆の樹脂キャップへ手を伸ばす。
大事に握り込むと緩慢とした動きで立ち上がる。そしてすぐにサイドテーブルとデザインを統一して佇んでいた椅子に力なく座りこんだ。
糸を切ったようにという表現がよく似合っている。固い椅子にどっかりと座り込んだためか、尾てい骨がじんじんとしている。
血の気が引いて冷たくなっていた唇を無意識のうちで舌でなぞり、そしてあたたかい舌がかさついた唇の皮を押し上げる感覚に安堵していた。
息をついてからキャップをペン先にはめ込む。
 万年筆はきちんと手入れをすれば人生の友となるだろう。
下手をすれば、属する場所を違えるたびに距離を遠のかせる人間関係よりかずっと長い付き合いになる。だが、形あるものである以上、壊れることもある。
ただ、それが経年の劣化ではなく自身の手によってもたらされることにならなくてよかった。
そう安堵しながら枯茶色というにはやや赤みの強い髪を揺らすと、手帳が勝手に開かないように掛けるバンドに備えられたペンホルダーに万年筆を収めた。
その手でメモや付箋紙が大量に挟まれて分厚くなっている革表紙の手帳を撫でる。
すっかり柔らかくなってよく手に吸い付く上質なダークブラウンの革だ。
クリーム色の方眼紙が連なるページのうち、筆記を終えたものはインクの調子や体温で歪み、一部がかたくなっている。
時たまに乱雑に破ったりべったりとした色で塗りつぶしたりした形跡のある手帳の文字たちに伏せた目を這わせていた男であったが、先ほど筆記していたページに戻ると静かに閉じる。そしてゴムバンドをかけるとサイドテーブルへ置いた。
 木製椅子の背にゆったりと身体のすべてを預けると首だけを窓際へ傾けた。
繊細なレース編みが施された日よけのための薄カーテンが隅に追いやられている。秋という季節のうちでも中途半端としか言いようのない具合で晴れた今日の日差しを少しでも多く取り込みたがったためにレールの端でカーテンタッセルに縛られていた。
世辞にも広いとは言えない部屋ではあるが、背を預けている椅子やサイドテーブルを含め、設置してある家具や調度品には葉や蔦をモチーフとした装飾が施されている。いわゆるアンティーク品と呼ばれる時代物だろう。
清潔感よりもどこか古い時代を思わるような重厚を滲ませている。
豪華絢爛とは程遠く、より日常を歩く友であるように。つまり、素朴に寄ったものである。
一目見て感嘆を上げるほど派手なデザインではないが確かに経年の美しさを窺い知ることができる様は、今やヴィンテージだのアンティークだのという形容が使わるようになった古いビーズのガラスが多面的に見えるように施されたカットを眺めることによく似ていた。
熟れすぎて落ちる前の、花の名残も果実の輪郭も失いかけた甘い匂いが微かに漂っている。
 男は窓際へ視線を戻し窓ガラス一枚隔てた向こう側にある庭を椅子から動かずに見つめた。
傍に佇む窓は大きいが、男が座る視線の低さでは窓を囲う下框が邪魔で庭の一部しか視界に入れることができなかった。それでも敷地のうち、それなりを占める大きな庭だ。
庭は家主を急に失って以来は長らく放置されいたらしい。
だが自然に増え、好き勝手伸びた植物たちからもかつては美しい庭であったことを、今この瞬間でも感じることができる。恐らく、当時はよく手入れされた自慢の庭だったのだろう。
二階に位置するこの場所からよく見える庭を、ガラスの内側にある黒い格子窓の枠が切り取る様はまるで額装を施したようだ。
光の屈折や空気の質から微かに霞む景色は絵画によくある景色そのものだ。
ただ、その中で雨風に晒された白いガーデンテーブルが計算外の印象を与えている。
放置され、痛んでもなお、光るほど白く、冷たい佇まいが無秩序のような庭から異様に浮いており、不安を強調しているのだ。
そこに芸術を見出すのはもはや感性に依存する。もしくは作品が何を比喩として表現するかだろう。
そう評価しながらも枯茶色の髪を持つ男には、そのうちのどれほどが人の手がかつて加えられたもので、どれほどが"雑草"と呼ばれる勝手に生えてきた草花であるのか判断がつかなかった。
感性は知識によって得られるもでもある。だが、これは何かの意図を以て作られたものではない。
寄せられた"かつて"を束ねて男は色彩が訴えるものに独りごちた。目に見えるものだけを上辺になぞるだけでいい。「きれいだ」
微かに上ずった声色が、微睡に眠気を傾けている。
心寂しげに猫の目を細めると降りる瞼によって像を結ぶ力が圧縮されたようになる。滲む視界を大事にしてそっと閉じていた。
 瞼の裏側に淡く透過する光は水面を貫き、屈折を繰り返して底をぼんやりと照らす。
緩やかに明滅をする光ごと揺らがせる水の織り重なりが心地がいい。
ずっとここにいたい。微睡はオーロラのように揺られながらやがて黄金になる。
手を伸ばせばそこにはとっくに捧げてしまった心臓以外の欲しいものすべてがある。
再び瞼を開けばしばらく――もしくは永遠にこの多幸に浸るのは難しくなるのではないだろうか。
偶然訪れた、久方ぶりの安穏が離れていくことを今から想像して憂鬱になっている。
本末転倒ではないかという思考をするより早く、これは決断を迫られているのだという思考にたどり着いている。拳の内側に立てた爪が肉に食い込んで熱を滲ませていた。
水面のずっと下の方だ。泥のように甘くて暗い地の底から泡が立ち上っている。
光はいつの間にか離れて、分厚いガラスの向こう側へ導いた。
ゆらゆらと揺れて、暮れて落ちていく。溶けた砂糖の色だ。
それは甘美な蜜を思わせながら晩夏に沈む哀愁と燃え尽きた生命の灰を照らす太陽に似ている。
もう少しで指が触れる。ガラスの向こう側で目が合う。
ガラスが正体をなくして、微かにざらついた皮膚が触れ合うのではないかと期待する。
期待はいつも空しい。弾きあうばかりである。
触れ合いそうな指先の反対側に働く引力で瞼は弾きあがった。
はっとしてから、意識が内側に向いていたことを改めて自覚する。
まだ昼間であるというのに早くも冬へ向かって落ちるばかりの太陽をじっとり睨めつけてから室内を振り返った。
 ブラックウォルナットの上では樹木の脂が滲んでいる。しっとりとした落ち着きのあるベッドに身体を横たえる存在が、まるで深い森のような場所で静かに呼吸をしていた。
胸の高さまで柔らかな羽ふとんをかけて微動だにしないままの白い鼻先を視線でなぞっていた。その生白い肌は清潔なシーツの色に負けずにいる。
下手をすれば肌の下で這う血管の色が生白い皮膚をより不健康に見せて、目が錯覚を起こすだろう。その人物は本当に生きているだろうか?
身体の重みで沈むシーツが細かに波打つ。
枕という丘陵で飴細工のような髪が無造作に投げ出されていた。
砂糖を煮詰めた猫毛に、肩より少し下の位置まで伸びるやや長い髪をもつ。そう形容すると風に髪を揺らすような穏やかな女性像が浮かび上がるが、横たわるかたちは聞いて想像する日本人らしさよりもしっかりとした凹凸のある骨格を持つ男性だ。
生も死も感じさせない静謐と憂いがしっかりと彫り込まれており、顔を見ただけでも性別を間違えることはまずないような容姿をしている。
皮膚の下に這う血管を想像させながらも生物としての中身を感じさせない生白い肌、落ちる影の憂鬱を恣にする彫りのある骨格。柔らかく、舌に残る甘味を知覚として想像させるような飴色の毛髪。それらが午後の微睡が及ばない隅で眠る様はまるで芸術そのもののようだ。
ブラックウォルナット地の上に装飾された植物の意匠と清潔なシーツがそれらを過剰に演出している。
掛けられたふとんが呼吸に合わせて微かに上下することで、辛うじて生を繋ぐ一本の線が見えるようだった。
それはとても柔らかく、脆い糸で出来ていて、触れればたちまちほどけて切れてしまうに違いない。事実、よく魘されていた声も今はずっとなくなっている。
 枯茶色の髪を持つ男は一度目を瞑る。
その手で糸に触れるイメージをしながら、再びテーブルに手を這わせた。
手帳ではなくそのすぐ傍で鈍い色で身体を横たえ、重い油のように沈んでいるコルトガバメントを手に取った。
木下闇を透過した光のを孕んだ茶褐色の瞳が淀んだ表情をしている。
銃弾の込められた弾倉を手に取り、無言のままで銃把の下へ添えていた。手のひらでゆっくり押し上げて挿入する。最奥まで当たる感覚と金属の音で思考は冴え冴えとする。
細かな凹凸の中で光の当たる場所が変わると重くひるがえるような鈍色が、ひっそりとした呼吸を芸術品として納められたベッドを微かに映り込ませている。
引いた遊底を離すと弾かれたようにバネの力で押し戻る。同時に撃鉄が起こされていた。
此処には何もない。瞼の下の薄い皮膚に身体の水分が行き渡らないまま萎びている。
焦点を絞り切れず虚空を見つめている視線が回りだしそうだ。精神的な高ぶりはあれど、疲労もまた背におぶってくれとまだこの身体に縋っている。
安全装置を解除しようと親指を微かに動かした。
手が触れて温まっていた金属から少し逸れた冷たい場所に後悔は滲まなかった。
 瞬間、呼吸以外に労力を割かなかった身体が小さく身じろぐ。見間違いなどではない。
その姿にひどく動揺した男は、糸に手繰り寄せられるように意思のないところでサイドテーブルにコルトガバメントを置いた。
そして革靴を鳴らしてベッドサイドに近づき、両膝を付く。遅れて着いてきた身体に髪の毛が僅かに浮いた。
飴色の髪の男の青白い手に縋る。
彫刻だ芸術だと揶揄した病的な肌の下には確かに血が通っている。
「……私には、とても無理だ。こんなの。だからこそ、ここは地獄だ。地獄でしかない。これからもずっと」
肩を微かにあげ、力ない様相で感極まり、首を左右に振った男は、包み込んだ手に祈るように身を屈める。
ゆるゆると虹彩の色を歪め睫毛を瞬かせた際、ついに瞼の縁に縋れなくなった涙は頬を滑り落ちた。
周囲の光を取り込んで淡く輝いている。波打ちながら不定形になり過去を懐かしむ遠い声を思い起こさせる。
そして――縋った生白い手の甲で最も輝く。瞬間、呆気なく昇華された力は光となり弾けた。
皮膚の上に打ち付けられた勢いで再び小さな粒になる。空間を飛んで、大して距離も稼ぐことはないままやがて一滴の質量分の水たまりになった。
水面を揺らすほどの力もなく、それきり静かなままだ。
秒針がこの時を細かく刻んでいく。
次々に手の甲を濡らす水を見下ろしている。
つんと鼻腔を湿らせる洟を啜る。
思い出したように親指で目元を拭うと、じっとりとした水分と、血が集まって熱を持つ目元をこする指先が生み出す摩擦の距離を覚える。
片手で目頭を軽く押さえた後に、落ちた涙を皮膚の上で弾いた生白さを確かめるように優しく撫でると、筋張った指先がびくっと強張った。
ハッとして顔を上げると枕の上で顔だけこちらを向いた男が気恥ずかしそうに、かつどこか困惑を浮かべた表情で視線を逸らしている。
思考が追い付かないままの波打った感情にぽろりと涙が落ちるのとほぼ同時に時間は進んでいく。
否、最初から止まってなどはいなかったことを思い出している。
意思のある生命がこの部屋にいることを思い出している。心が打ち震えた。
男に芸術とまで言わしめた人物は観念したように瞼を閉じると咳ばらいをしていた。
羞恥に似た感情でようやく青白い肌に対して血の通った色を見せている。
そこまで時間を送ってやっと言葉が出てくるのだ。
「せっ……あ、ああ! い、意識が?」
「……あの、大変心苦しいのですが。おそらく、感動の再会? なの、でしょうか?」
そのあまりに淡白な言葉に対して「は、」と声か、小さくはきだした息か曖昧なものが口から飛び出た。次いで何を冗談を、とでも言いたげな乾いた笑いが喉から絞り出る。
引き出したい言葉がたくさんある。だというのに、糸のようになったそれが複雑に絡まっていて、喉奥に触れる反射の空嘔が邪魔をしてちっとも出てこない。
申し訳なさそうにシーツと揃いのピローケースに頬を埋める男は、微かに怯えのような物言いえぬ恐怖を浮かべて押し黙っていた。
手に力が入っていたが、飴色の男は痛いともいわずに手を緩く握り返した。涙を流す男の表情を見ていられないかったからだ。
立ち上がりかけて浮いた腰を落とす。身体的な行動が止まっているうちに、枯茶色の男は涙が引っ込んで冷静になっていた。
期待や喜びからかけ離れて静かになっていく脳が導き出すには、彼にどれだけひどい言葉を投げつけることも、逆に熱した蜜のような言葉でどろどろに溶かすこともできるようだった。
唾を呑む。
「……すまない。怖がらせたね。ええと、君は……冗談を言っているのでは、ないよな。だよな。そんな冗談をいう人間ではなかったから」
 言葉の出だしが震える。両手で包んでいた手をそっと離れると左の手で自身の顔を覆う。
健康とは遠い肌に不安を浮かべ、肩につくほどの髪を鬱陶しそうに手の甲で払った男は、頭頂部のあたりで髪が乱れていないか少し気にしながら上半身を起こす。
周囲を見渡して、ここがなんてことない部屋で、目の前の男以外に誰もいないことを理解する。
肩を竦めて、身を縮めていた。
止まりかけた涙が再び流れ出したようで、顔を覆い、さめざめとする嗚咽を漏らさんと務める男を眺めている。
「そうだ、そうだよなあ」さみしげであるが、自身を戒めたがった自嘲の声音だった。
揺れた指の間が光って見える。彼の涙はまだ止まないらしい。
「泣かないで」
驚くほどか弱い衣擦れのような囁きだ。
目の前で人が鳴いていたら心配する。それだけ。
それだけの言葉で左手に覆われた向こう側の彼が目を大きく開いて、強く唇を噛むのがわかった。
声をかけてもかけなくてもなんだか悪いことをした気になってしまって居心地が悪くなっている。
やっぱりもう少し羽布団を被っておけばよかったかもなあ、と飴色の男は考えている。
ずれた布団に覆われてないシャツ一枚が少しだけ肌寒いなと呑気な思考を続けていた。
「ごめん」謝罪を何度もその言葉を繰り返した枯茶色の旋毛が少し上がる。
何を言われてもこれ以上の言葉は出てこないと逃げるように目を失せている飴色に、顔を上げた枯茶色の髪を持つ男は濡れた指先を寄せる。
 小さく許可を得ると男は血の気をまだ失っている手首や首元に触れて脈を図ったり、目に見える脳の異常がないかを確かめるように瞼を押し広げて飴色の中でもよく焦がした色をしている瞳孔を見た。
「少なくとも、言語にはいかにも。すぐにわかるような脳の重大な問題はないと見受けられる。君は、君自身や……私の名前がわかるかな」
その言葉で砂糖の色はじっと溶けだした。正体を失くして漂っているのかもしれない。
時間が雫の形をしているのであれば、それはきっと重力に従うどころか逆らっていて、ゆっくりと逆さに流れ出す。そんな心象を表した感覚がする。
「……ごめんなさい。本当にわかりません。ただ、詳細がわからないままに思う言葉はあります」
雫が酸素の中に浮かぶと、何に依存することなくかたちを作る。丸くなっていた水滴たちは突然に重力を思い出す。
すると魔法は解け、この世の理に一斉に引き寄せられた。地に落ちるときにざあざあと鳴く様がまるで雨だ。
ささめくなんて優しさは全くなく、バケツをひっくり返したようにあっという間にあたりを濡らす雨だ。そして素知らぬ顔で通り過ぎていくだけ。
一滴ばかりに縋ったことを嘲笑うように希望を覆った感情の雨は、今や地を濡らして覆いつくしていた。
雨上がりの草に這う露が重力に垂れ下がっている。そんな緊張がやがて葉を傾むけすぎて自滅する。
「それは、どんな?」
 問いかけた言葉に対して焦りが大きくなっている。
汗が背中を伝う。いつの間にか飲み込むことを忘れていた唾を呑み込んだ。
そういえば、第一釦はどこへ転がっていったのかな、と遠くで考えている。
どこかでは聞きたくもない名前な気がしているからだ。ほとんどの確信を裏切ってほしいから。
「――"色葉"。光の波長が見せる視覚情報の"いろ"と、光合成をする植物が多くの受容体を有する、そう、葉っぱの"は"で色葉」
 風が止んでいる。凪いだ麦畑で、まだ青い穂が完全に鳴きやんだ際に訪れる静寂だ。翻す色がない。
ただずっと無感情に続いている。
心臓を凍り付いた手でやわく掴まれている。息が詰まって言葉はもう芯まで冷たい。
激しく打ち付ける心臓の脈が身体を逸らせてばかりで、無駄な酸素が消費されている。
腹の底にある粘りけのあるどろどろした塊を吐き出したい。
すぐ近くにある飴色が上目遣いで見つめている。
それを無感情に見つめ返している。見つめ返すなどいった意思の疎通がないのだから、正確には眺めているだけだ。
自分が自分ではないような感覚が伝播して、枯茶色の髪を揺らした男は光の明滅に酔いそうになりながら瞬きをしていた。
「これだけ大事な響きですから、きっと私の名前ではないでしょうか? 根拠もない想像ですが、どうですか」
その名を口にして不安な顔をしている。この空間に二人きりの男の、どちらもがそんな顔をしている。
涙声を続けていた男に、再び問うた。「どうですか」
答えを求められた男は何度も頷く。眉が平行になっていた。膝に手をつくとすくっと立ち上がる。
「……私と君の関係はあとから語ろう。あたたかいものでもどうかな。ずっと眠っていたんだ、空腹だろう。栄養は後回しでも多少融通が利くが、水分不足は深刻なものだ。クローゼットの中にある服に着替えなさい。それから階段を降り、右手の部屋に来てくれ。ノックはいらないよ。ただのリビングルームだからね。わかったかい」
言葉の間にたっぷり間はある。それでも最初よりかはずっと早口になって繰る言葉は頭に思い浮かんだ言葉をただ事務的に並べている。
ベッドの上で起き上がった男は抑揚のない勢いを聞いてすっかり不安を張り付けた顔で首を傾げた。
返答の言葉になっていないじゃないか、という文句より、すっかり前髪の影が落ちた男の様子が気になっている。
「え? はい。あの、ごめんなさい。きっと心配させましたよね。そして今の私の態度はきっと適切ではなかったのでしょう」
「いいや、君の気にすることではないよ。すまないね。私も少なからず動揺しているようだ。できるだけ、ゆっくり準備しなさい。急に動けば身体に障る」
床に視線を落としている視線はすっかり交わらなくなっている。
枯茶色の男はサイドテーブルの前に立つと後ろ手でコルトガバメントと手帳を掴む。
「それに、君の不安を加速させたくはないんだ。だから、一分でも多く状況を理解して整理する時間をくれないか。"色葉"、私は君の言葉すべてに応えられる私で居たい」
色葉の顔を懐かしむように一瞥すると、返事も待たないで部屋を出る。
古いアロマワックスのサシェがドアにつけられたフックに下げられて、揺れているのを色葉はぼんやりと見送った。
そして彼が自分に語り掛けていたあたりでまだ温まっているであろう絨毯へ視線を下ろす。近くに揃えておいてある革靴はどうやら自分のものらしい。
続けて近くに僅かに透けた色をした白い釦が落ちているのを見つめていた。