茅間伊三路が――どこにでも居て普遍を多く持ち合わせる何の変哲もないようなたったひとりの男が目の前に現れてからというものの、祐の中ではただでさえ間延びしていた時間の概念が垂れ下がる力を大きくしていた。よくしなっていた日常の概念が元の質量から想定しうる曲線を限界まで膨らませ、見てくれの形ばかりを豊かにしていたのだ。
その自覚の通り体感の上ではずっと長い時間のように思えていたが、事実、流れた時間としては登校日だけを数えて一週間経った程度である。
疲労にまみれながらカレンダーの休日が色分けされている様を眺める。指折り数えて、ようやくといった様子だった。
元より新学期が始まったばかりで制服の在庫があったことも手伝ってはいるものの、なるほどジャージ登校の日々も早々に終えるわけである。
まだ生地の硬い袖口が、肘を曲げることに寛容にならないままよく手首を掠めているのを思い出している。今も手首の目下で隆起した尺骨の先あたりに袖がすれており、表皮は敏感にくすぐったさと痛みに至らぬもどかしい感覚を訴えているのだ。
己の感性をひっくり返されることが立て続けに身の周りで起きたせいか、ついぞ退屈の定義を見誤ってしまった祐は、学校生活における時間の過ごし方の何が有意義であるか自らに問いかけることを辞めていた。
その思考がどのような答えを弾き出したとしても、茅間伊三路がそれに対し、態度を変えるか否かというものは祐が指さしで決められたものではなかったからだ。
 あの日以来、伊三路が"怪異"であると気取って形容したようなどこか不可解な事件が起きることはない。それどころか、窃盗や交通事故といった時たまに新聞の地方版欄において見出しを誇張して飾る比較的小さな事件すら耳に入ってくることはなかったのだ。
むしろ、稀に発生していた明らかに刃物傷を受けた野良の犬猫やその他小動物の遺骸が見つかるという自己主張と残虐性の誇示、そしてストレスのはけ口のような事件が、口を閉ざしたかのようにぱたりと止まったくらいである。
"稀に"という言葉のようにかつては一定の期間を空けて複数を継続して行われていたのだ。
それが継続している故に問題なのであって、飽きて事件を起こすことを辞めたのならばまだいい。
この先のいずれかの間をはかって再開されることがあれば茅之間町管轄の警察は、刃物傷を負った動物の遺骸が見つかるということが本当に人間が起こしている事件であることをより鮮明に突き付けられるのである。
 野生動物の仕業であれば人間の都合を気にしたような自粛を行わないはずであるからだ。
もし人間の都合に合わせて実行の有無を選択する知能のある生き物の犯行ということになれば、事実を踏まえてなおも人間の犯行ではないと考える方が難しいだろう。
刃物を使用して明確な傷を負わせる時点で大体を察するものではあると祐は考えるが、それを確認していれどもこの町の警察は、今までそれを咎めることに必死になる程には積極性を見出さなかったのである。
どちらにせよ、再びこの後味が悪くなるような出来事が日常へ再浮上すれば、長らく住民を不安に陥れた事件の解明に警察は奔走を強いられることになるだろう。
それも秩序に従事する者の仕事の一つであるが、実際に人間に対する傷害事件が起きていないだけに優先度は下がりやすく、それがまた不安を呼ぶ。
結託が強く一部の地域ではまだ田舎特有ともいえる文化を残す土地柄ゆえに、捜査の難航と止まぬ非難が轟々とする様が今に目に浮かぶようだった。
見え透いた――ある意味においては想像に易い憂鬱の連鎖にも見えるが、それが露呈する程度には茅之間町の日常は"なあなあ"を是としていたのだ。
長い時間をかけて自ら蒔き続けた種が一斉に発芽しただけである。
あろうことか、その後の世話を想定せずに不安や不穏といった町をいずれ脅かすであろう小さな種を未だに蒔いている。
種の正体を大なり小なりの理解をして尚も撒き続けたのだから、因果応報に過ぎない。これに尽きる。
この町への愛着がないだけに、手入れする義理もない祐はひどく冷たく俯瞰しているのだ。
あわよくば、残り一年だけでも静かに生活が出来れば文句はないと考えているのである。
 嵐の前の静けさ。静寂が抱えた余白を示してそういった言葉が存在することを強く認識している。
それでもこの日々はあまりに凪いでいた。
穏やかさも一定以上を満たすのならば、過ぎただんまりが生活の現実味を欠くのだ。
挙句の果てにこの薄気味悪いほどの無風は己を平穏の象徴でもあると宣おうとするせいで、怪異が次々と起こると言った伊三路の言葉は、祐にとって『出まかせだったのではないか?』という疑問と微かな苛立ちに姿を変えていた。
間違っても三日に一遍はそういった怪異が発生することを強いるような退屈凌ぎのための思考ではない。
この唇の内側を噛み締めたくなるような苛立ちは、嵐の前の静けさであると言い聞かせて胸を宥める幼稚さは、この平和を享受するうちにも"ともだち"であることを伊三路へ許す時間が祐にとっての浪費だと思えたからなのである。
 今現在、この瞬間も目の前で机を抱えて移動させている伊三路は学校机の長辺同士を向かい合わせようとしている。
口端はご機嫌に持ち上がり、今にでも口を開けば止まることのない"楽しい話"が暴力のように降り注ぎそうだった。
反対に、祐は目頭が痙攣をするようにうっすらと、それでも衝動的に皮膚が持ち上がるのを感じていた。どうやら彼は今日も他人へ絡むことへ飽きを見なかったらしい。
「何をしている」
問いかけるその言葉に最早と疑問符をつけることはなかったが、苛立ちと昨日まで行ったやり取りの記憶を思い起こさせるようにゆっくりとした語調で語気を強める。
それに対して唇を薄く開いて話を聞いていた伊三路はぬけぬけと答えるのだ。まるで至極当然であるとでも言いたいが如く、言葉は零れ落ちるという表現がよく似合う。
しっかりと両の手のひらで机を抱えるところから伸びる腕の途中で引っかかる乳白色のビニールは揺れていた。
「んん? ご飯を一緒に食べようと思って」
空気の抜けたように締まりのない笑顔を見せた伊三路は両手で机を腰の高さまで持ち上げ、これ見よがしとした。そしてこちらの机にも寄せるように言葉を迫る。
 昼休みという時間が訪れるたびに行われるやり取りは片手では僅かに数え足りなくなっていた。一週間ほど経つのだから、当然だ。
同時に編入とそのやり取りの回数が一致する事実は、彼が編入してきてこのかた如何にして祐以外と昼食を摂るということをしなかったかということを雄弁としてよく語る。
確かに、今もなお茅間伊三路と言う人間はクラス――二年C組によく馴染み、変わらず中心にいるような人間であった。
そうすることと同時にクラスのはみ出し者である結崎祐と仲良くするような一種の変わり者でもあったのだ。
周囲からぼんやりながらもいわゆる"ニコイチ"のように扱われつつあることに不服と、伊三路の変わらない態度に辟易を覚えている。
 "ニコイチ"といった単語が似合うような括りかたをするクラスメイト達に断っておくが、こちらは随分と丁寧に言い続けたもので嫌気がさしているのだ。
体裁よく面倒事を押し付けられることにはうんざりする。どうせクラスメイトだって茅間伊三路という存在を扱いかねているところがあるだろうに。
祐はそう思いながら、持参したカロリーブロックの箱と玄米茶のボトルを机に置く。その動作が意図せず荒々しいものとなり、ペットボトルの底は硬い机の天板を大きく殴りつけることに似た鈍い音を立てた。
静けさを保つことに努める祐の不機嫌な様に伊三路は目を丸くする。
そして、あろうことか心から心配したような目つきで下から覗き込む動作で伺いを立てるのだった。
「……毎度言うが、茅間。お前を取り分けて贔屓する気はない。静かに食事をしたいと何度言えば理解をする?」
「うーん、そうかあ。ええと、今日こそ静かにすることに努めてみるよ。ねえ? いいでしょう? それとも、やっぱり、だめかな?」
 位置を微調整をするたびにガタガタと鳴る机が、伊三路の駄々をこねるように甘ったれた声音を助長している。
それに対して半分呆れを含む氷のような視線で、表情を作る目元より僅かに下のほうの表皮を睨めつけた祐は未だ封を切っていないペットボトルの蓋をねじ切った。
黒い手袋を身に着けていると力の方向へ対するいくらかは摩擦へ分散して、働きは空回りをする。
強い力でねじりきった手元からきりりとした音を鳴るのを見送って、蓋を片手に握り込んだまま飲み口を口元へ寄せた。
「静かにしたためしがないが故に言っている」
その言葉の後にボトルを傾けて口に含んだ。
煎茶特有の渋みの中には爆ぜた米の香ばしさと微かな甘みがある。
玄米の名を冠しながらも米をはじめとするいくつかの穀物を炒ったものを含んで茶を抽出していることも手伝って、どこか米菓の後味に似た香りを引き摺っているのだ。
燻ったようにも思える芳しい草葉の――茶本来の香りは強くは感じられず、まろやかに角をとった渋みがあるそれは白米や脂のある食事に良く似合う味である。
すっきりとした清涼の風味が強い種類の茶よりも華々しいながらに自然な甘みのある香りは、暑くなりかけるこの時期の食欲を誘うだろう。そう思っていたし、事実として玄米茶が味覚にもたらす芳しさ確かに胃から空腹を引き出した。
勉強によってエネルギーを消費したことで身体が欲しているものたちを自覚しながら祐は渇きを覚えていた喉を潤すのだった。
冷たさを腹へ落とし込むように喉を上下させ、飲み口を離すと蓋を握り込んでいた手の甲を向けて前後へ払う。
目を細め、明確に伊三路へ向けられた祐の動作は、餌付けを期待して歩み寄る野良猫を追い払う仕草を真似るようだった。
そういったことをしながらも、祐は伊三路と初めて昼食を共にした際に『断ったところで無意味』であると思考したこと、そしてそれを口にしたことを心から後悔していた。
確かに言葉自体は煙のように曖昧でこれに関して嫌な感情を持っていることは伝えども結局のところ、文字として書き出した際の言い様としては選択肢を伊三路に委ねているのだ。
 だからこそ、はっきり断れば良かったとこぼしてはひっくり返った水を見たように思考するのである。
肺にいやな靄がたなびく。
 何故自分などに構うのだ?
見下しているのか、気にかけてやっている自分が好きなのかは知りたくもないし、興味もない。
ただ、踏み台にされているとすれば気分が良くないのは確かである。
疑問は募るばかりで、気が付けば奥歯を噛み締めていた。劣等感かなにかの仄暗さが渦を巻いている。
明確な出処を自覚できないからこそこの感情が時に恐ろしくなり、そして捨てざるを得なかった幼稚さがまだここにいることを恥じた。
このようなことに割いてやる思考の割合などあっていいはずがないのだ。
脳はそうやって要らないと思うものほど消し去ることでは出来ないのだ。拒絶を受け入れることが出来ない。
薄暗さが身を焼く嫉妬にはなってほしくない。それでも、どこか、水底で光る石ほど小さく見失ってしまいそうに沈めた幼稚さが残るうちに、"ずるい"と思う醜いだけの感情は存在するのである。
自覚をしている。
『次は楽しい時間にしよう』
 ふんわりとした言葉が浮かび上がる。
祐が口に出してまで無意味と表現した言葉に対して伊三路が返した言葉だ。
この言葉自体のどこにもおかしいところはないが、まさかその"次"が毎日という頻度を叩きだすとは露にも思うまい。
日々達成できない"次"の再現を行っているにしてもはた迷惑な挑戦者でしかない。
並大抵の人間はなかなかに程度を弁えるものである。
祐はそれを常識として弁えるが、伊三路からしてみるならばそうではなかったのだ。
ならば、どう伝えれば目の前で口を半開きにしている男に正確な言葉を伝えることができるだろうか。
出来るだけ簡単な言葉にかみ砕こうとして思考する。
言葉を探すことは水を掻くことに似ていた。祐はそっと目を伏せて、碧の滲んだ氷のように透き通る青い瞳を俯けている。
文字の海は深くなるにつれてインクの黒のように濁り、深い底では曖昧な渦が螺旋の輪を描いている。
澱に混じった細かな"かす"たちが踊るように舞っていた。息が苦しくなる。
底抜けに明るい言葉に、意思の疎通を難しくする思考の差異、それにわざわざ浮かぶ苛立ち。
全てが水に味覚を見出すことを強要するようなのだ。
無味を、つまり、何かを形作る意味に成り得ないことを享受する日常だ。
平坦になるように感情を抑えつけながらも、この世の生に自主性を見出せない循環が存在する。
鉛になっていく肺に反して加速していく脳が、空回る思考の速さが、すり切れることに近くなるほど、美しい円環の姿へ形を寄せていく。
追い付けなぞしないと諦めを抱ける速度であるならば、考えることを放棄するほど望まれるままであれば、それは立体の正円ひいて球体――この世界で最も美しく、意味のある形として存在することがようやく許されるのだ。
あまりに美しいものなど、一層のこと恐ろしくなるだけだろうに。
祐は己の思考に対してそう思いながらこの加速を正しいものとして甘んじ、同時に憂鬱に対して斜に構えることで僅かに残った自我を主張していた。
手の甲に這う管の中で血液が温まり、指先の感覚が鋭くなっている。
暗がりに光が当たって、漂う塵が強調される。
 気付けばこの一週間ほどで被害者のような顔をしたがる夢想が頻度を多くして、身体の半分はどっぷりと嫌な気に浸り続けている。
まるで現状が自らの望みではないかのように、小さな自分の糸くずを丸めたように不定形な様相はこれ見よがしに可哀想な様を見せつけようとしてくるのだ。
「じゃあ、祐は何の話がしたい? きみの楽しいと思うことを聞かせてよ」
 は、と顔を上げればそこは騒がしさの混沌を極める教室だ。
先ほどまで駄々をこねていた伊三路は涼しい顔でぴったりとくっついた机に寄せた椅子へ腰を掛けて、楽しげに目を細めていた。
肘をついて立てた手のひらに顔の半分を預けて人懐こい笑みを浮かべている。
澄んだ瞳が窓際の光を丸め、めいっぱいに取り込んでは日常を透過していた。
教室の騒がしさが己をこの椅子に引き戻していたことを、少し遅れて自覚する。自他共の言動の端々から己に覚える攻撃的なまでの不快が、いつの間にか後ろめたさとなって祐の瞼を重くしていた。
「今日の、そう。毎日の瞬間を生きている祐がさ、おれと話をする前じゃあなくて休み時間の終わりにそれ言ってくれたのならば、明日のおれはきっときみのところへ行かないよ。だって、おれと話をしたすぐ後の祐は『明日は来るな』と言わないもの」
「……馬鹿にしているのか?」
まるで言わないことをわかっているとでも言いたげである。
だからこそその条件を提示していると訝られても弁解のできはしない態度に対し、嫌な表情を隠さず敵意として感じ取った祐は静かに言葉を返していた。
それをものともせず飄々としている彼の手にはやはりおにぎりのパッケージが握られているのだ。
日々パッケージの文字を変える具の内容は、購買で取り扱っているものを一巡したのか、相変わらず掠れた筆文字の風体をした字が『鮭』を表している。
大々的な文字の脇に注釈された売り文句によると、よくある加工として食感を重視してはよく空気を含んだ柔らかいほぐし身ではなく、丁寧に焼き上げた鮭の身を大胆に切り出した岩の塊のような具が自慢らしい。
伊三路がそれを暗記するより早く、二度見たパッケージの文字を祐は覚えている。
それが今この瞬間において会話を左右するほどの特別な意味はないように思えていた。そうでありながらも、深いところへわざわざ降りてきて会話をしようとする伊三路の意図が理解できず、また、祐の脳は理解をしたがりもしなかったのである。
だからこそ視覚から得た情報に意識を向けて、思考を少しずつ回り道へ逸らしているのだ。
「いいや? きみのことを嫌な意味で見透かして言っているのではないよ。明日の祐がおれと話すときの印象は、明日から見たときの昨日――そう、今日のことだね。このあと時間が経ってから祐の気持ちのうちに歪められてしまうけれど、もしこれっぽっちも楽しくないのなら、その日のうちに心からの言葉で『明日は来るな』と言うよね」
『きみなら、そういうひとだもの』とでも言いたげな表情である。
 理解している風を装うのが上手いのだ。
ただしこれは決して己の傲慢さでも、想像し得る彼の傲慢でない。
どういうことか、これは茅間伊三路という人間が誰彼に構わずやることではなかった。
結崎祐という人間に対して、茅間伊三路はわかった風な口をきくのである。
便宜上でいう"裏側の世界"で触れた一端を忘れなどはしていないぞ、というアピールなのかどうかは知れていないが彼が祐との距離を、他人と向かい合う際よりも縮めているのは明確であった。
 互いにそれを甘んじている。
祐は少なくとも、伊三路のことは自分を構うことで踏み台を上がる優越感を抱きたがっているのだと信じてやまなかった。そして祐は対比する表象に己の恥を識ってより自己を殺すことに努めることができる。
"結崎祐"であるべくとして不要なものを自覚できる点に関しては、この交流は全くのデメリットではなかったのだ。
そして伊三路もまた、祐と関わることで己の思う己のやるべきことを効率よく果たそうとしている。
やるべきことという正しさのうちに、必要であるか己の判断に曖昧である学校生活や"ともだち"という関係を育みたいという自我をうまく紛れ込ませることが出来るのだった。
結局のところ『怪異から身を守ってやる』という舌触りの良さは伊三路を優位に仕立て上げたが、怪異に目を付けられた可能性がある祐の周りで起こる事件を追っていけば自ずと伊三路の求めるものの答えに近づけるのだ。
"撒き餌"を手放してしまったところで、人間の知覚の及ばないものを追いかけるのは余りにも愚かな行為である。
目の前の人間は言葉を巧みに操るが、自分たちの関係は極めて分かりやすく、利己性に特化した"利害の一致"なのだ。
祐は伊三路の腹のうちの全てを知ることは出来ないでいたが、そういった思考をして察していた。
これは"ともだち"という美化された関係に当てはめるにはあまりにも薄汚い自己都合で構成されている。
「はあ。お前には楽しんでいるように見えるというわけか」
 利害の一致であるにしても、これほどまでに舌触りと耳触りが気持ちよくなる言葉をわざわざ選んで馴れ馴れしくする理由を祐が想像することは出来なかった。
最低限であったとしても、双方にメリットがある。そうならば辛うじての関係が継続できるはずであるのだ。
 何がしたいのかがわからない。それが素直な感想であった。
伊三路はそんなことを露も知らず祐の言葉を正面から嫌味なく受け取る。そして待ってましたとばかりに顔を頷けたのだった。
「このくらいはね。みて。おれの爪の、白いところくらい!」
そういって半分ほど身を乗り出してきた伊三路は小指の爪を見せつけてきた。
深爪には至らないが真正面からおおよその長さを切り取り、申し訳適度に左右を丸めて短く切りそろえられた四角い爪の先端一・五ミリほどの半透明を反対の手の人差し指で示している。
 言葉選びに失敗した。
祐は素直にそう思うと同時に、ついに呆れかえってペットボトルの蓋を一度閉じる。
反対にじっとりとした視線で言葉の続きを促されていることに一切の気も留めない伊三路は、極めて楽しそうに身体を揺らしては今に覚えている最中の校歌におけるワンフレーズを口ずさみそうになっていた。
「ところでね、暦も祐と仲良くしたいんだって。今は席を外しているけれど、後で来るって。いいかな? 妙案だときみは思わない?」
「妙案だと? どのあたりに何の根拠を以てして? 聞くほどならば先に勝手な了承をするな。前提がおかしいと思わないのか。本当に何度も言わせられるのも飽き飽きするが、意思の疎通を不要として互い尊重を成り立たせないならばただのごっこ遊びだ。独り善がりは壁にでも向かってやれ」
「生憎そんな暇は持ち合わせない」続けて吐き捨てる言葉に妙案と言ったばかりの伊三路はあからさまに悲しい顔をした。
そして頬杖をついていた顔は掠れた笑みの声を浮かべながら窓の外へ視線を動かす。
「……おれは賢くはないけれども、次からこそ気をつけるよ。きみがそんな顔をしなくても済むように」
 切り取り線の入っているパッケージを開封する祐の手元で、切り離されゆくボール紙が簡潔な音を立てる。わかりやすいくらいいやに嫌味な意味を孕んでは二人の空間を切り分ける音だ。
ボール紙を剥く祐を横目で僅かな間だけ視界へ捉えた伊三路はそっと呟くように続けている。
再び厚い硝子窓の向こう側へ向いた視線が細かに動いていることから、窓の外で何かを見つめているようだった。
「おれはね、祐がみんなと仲良くなってくれたらうれしいな、と思っていたんだ。ううん、今も思っている。きみはそうではないようだけれどもね」
「そうだと飽くほどに言っている。三回ずつ言わないと理解できないのか? 押し付けてくれるなと毎回言わされるのも辟易する」
強い言葉を浴びせられて上唇を突き出して下唇を微かに覆う。そういったように子供が拗ねる表情をした伊三路は何度か頷いた。
そして反省の言葉を再び口にしてから己の眉間を指さし、眉を吊り上げて見せるのだった。「ごめんよ。ふふ、見た目の取っつきにくさよりわかりやすいんだねえ、きみは。……ね、怖いかお」
丸みを帯びた指先越しに見る瞳はキッとした鋭さを祐に似せてみせたがっていたが、元より大きい瞳と人懐こい顔つきがその表情を真似た様はどこか境界をぼんやりとしていた。
鋭い感情になりきれないでいるのだ。間を漂って下手くそな表情は今に眠りに落ちそうなところでしがみついているようにも見える。
その身動ぎをしたくなるような表情に耳の奥がつられ、眠気に似た感覚でくすぐったくなるのだ。あくびが出る前のもぞついた感覚が耳の中に詰まっている。
そうやっておどけた伊三路が眉間を皺から解放しヘラりと眉を下げて笑って見せる頃には、祐はすっかりペースに呑まれて半分くらいはキリのいいところまで付き合ってやるつもりでいた。
言葉をどこかで投げやりにしておくのは気が引けたし、後から思い出したように続きを語られることを許せばこの関係はなあなあに堕落するだけだからだ。
「でも良かったよ。少なくともきみがきみの中に持つ"ともだち"という間柄に在るべきと考えているものって至極まともだよ。この前は道具だとか、踏み台だとかと言っていたから。ちょっぴり配をしていたの」
「……ただの一般論だ。それも理想に過ぎない上澄みでしかない」
 購買部で買ったものを雑に突っ込んだ乳白色のビニールをどっかりと学校机に置くと、伊三路はブレザーの内側に位置する胸ポケットから生徒手帳とボールペンを取り出していた。
伊三路は食事とかけ離れた動作で手のひらに収まる程度の手帳を開く。
しかし最初こそ何かメモを取ろうと手を泳がせて、どちらを優先するか今更になって迷いだす。
ペンを持った手を上下させて、ノックを押し込んで芯を出したり引っ込めたりしているのだ。そして上唇のふっくらした中心だけを舌で一度触れた後に唇を内側へ巻き込んで食んだ。
しばらくそれを繰り返したが、結局のところ机の端へきっちり並べて手帳たちは置かれている。
手をしっかり拭いてから両の手のひらを合わせて、食前の挨拶をすればすっかり食欲に煽られたようでフィルムを剥きながら目を輝かせていたのだ。
よく手元を見ると未だに微かと未練がましく惑ってビヨビヨとした挙動不審と指先の怪しさを見せていた。
「おれのさあ、今日のおにぎりの中身は何だと思う?」
口を開いて会話を試みることを再開したと思えば極めて拙い内容である。
初めてそれを教えてやったときのように数字を追いかけて発音しながら伊三路はフィルム包装を剥くことを続けているのだった。
祐はごく率直に「何だと思う?」もなにも、剥がしたフィルムに鮭と書いてあるではないか、とも思った。
この男は昼休みの度におにぎりを二つ食べるために、抜け落ちた主語はおそらく『二個目のおにぎりの』である。茶番だ。
どちらに転んでも何かしらへ繋げる会話の準備がある。
つまり、道すがらで出会った知り合いに二言目に話す――『今日は天気がいいですね』と同等の会話であるのだ。ちなみに、その後に雨が降ろうが、カンカン照りが続こうが、続く言葉は『最近どう?』であるだろうと窺えた。
こういう会話こそが心底どうでもいいと言っているのだ、と祐は思う。
かといってどこか説教じみたような、個人の美学ばかりを押し付けるような話をされても困る。
 返ってくるであろう答えを気にかけては鼻息を荒らくして目を輝かせる伊三路を前に、祐はため息をついた。
返事をすることにも手馴れてきたものだ。
繕う必要もないし、こうも行動を起こされて覚える感情に胡坐をかいているわけでもない。
本心からの言葉を客観視した際に疎まれることの一切をそのままにして答えても非難されることはないのである。むしろ、茅間伊三路はそれを望んでいる。
故に、つまらないと言われるような言葉を返すのだ。
目の前でわくわくしてみせるかたちが彼自身の想定しているであろうものから最も早く会話を打ち切るものだ。そして少々突き放す物言いながらに祐自身の本心からもさほど乖離のしない言葉でもある。
「全くもって興味がない」



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