食事ための時間を主とし、生徒たちの気分転換を兼ねた昼休みの時間ははたっぷりと余裕を設けられている。
簡素な食事を極める祐にとっては他の休み時間の扱いと大して変わることはなかった。そこにあるのは意味があるかないかだ。余裕か、余白かの違いだ。
他の生徒たちにとっては延々とした授業が待ち構えているのだからと六〇分を僅かに満たない昼休みは正に「あっ」という間に終わっているのでいるのだそうだった。
余裕というにはそれに退屈しない生徒たちには満ち足りないものであったし、余白であるのならばこれを文字で埋めた時間が授業を退屈にするのだから祐には長いものと感じられた。
じゃれ合う声、おどけてみせて笑いを誘う声。内緒話を共有するための密やかなささやき声。はたまた、変哲もないただの話し声。
それらが複雑に混ざり合うと一つのみを拾うことはできない。
そういったものからひとつだけを拾ってどうこうしてやろうとする意図ではなく、ただの騒がしさという一点に収束した雑音は認識のしようがない、ということである。
時たまに机を引きずる音がいやに鈍くそして大きく響いたり、どこかの教室で勢い余った引き戸式のドアがレールを跳ね返る悲鳴を上げたりして生活はより肌に近いものになっていた。
 漏れ出した騒がしさが漂う場所で尚もどこか隔絶された空間である廊下から教室に入る瞬間、祐は腕時計に視線を落とした。
本鈴の時間までまだ三〇分弱ある。
一度は足を止めていたことも手伝い、伊三路と話していた時間は祐にとって長いもののようにも思えていた。
しかし四校時目の終鈴を見送ってすぐに席を立ち、済ませた用事は大して時間の要するものではなかったらしい。印象的な会話だけがいつまでも残っているだけだ。
一見する分には明るい雰囲気を漂わせる教室に似合わず、薄暗い顔をしている祐は迷わず歩を進めて自身に与えられた席に着く。
そして学生鞄から持参していた固形栄養食と、丸くゆったりとした字形でほうじ茶と書かれたパッケージのペットボトル飲料を取り出す。机にそれらを並べてから書店名の印刷された紙製のブックカバーの掛かる文庫本を机の中から取り出し、机の角に対し平行に合わせて静かに置いた。
伊三路と言えば、無事に教室へ辿り着けたことに心からの安堵をしているようだった。
身を固めているだとか、言葉数が極端に増えたり減ったりだとかいう目に見えた不安の表れはなかったが、ようやくありつける食事へ思いを馳せるばかりに今にも踊りだしそうな足取りで古い木目調の床の同じ場所を踏みしめている。
そして浮つく心のままに席に着いたかと思えば、すぐに上半身を翻して椅子の背凭れを掴んだ。
「ありがとう、祐! きみが居なかったらさ、おれは廊下での食事を憚らないにしても迷子だった。授業が始まれば間違えても部屋に入れはしないし。何度も出入りを続けたらもう呼び出しをくらってこの場所から追い出されるのではないかというところまで空想が先走ったよ。よかった! 安心をした!」
安堵からか妙に高揚したまま冷めやらぬ興奮で伊三路は語り、前を向かないまま机に置いたビニールに同梱された手拭きのウェットシートを取り出そうとして乳白の色をまさぐっていた。
空振る指先がつるつるとした表面をなぞってはカサついた音を鳴らし、下へ向けた手のひらを腕ごと上下して大きな動作を繰り返している。
 どう考えても残りの三〇分と余り数分の全てを消費して尚も彷徨える方が異常だろう。
そう言いかけて祐は口を噤む。
また伊三路の疑問に火が付けばいよいよ焼野原になって、周辺が荒みきっても枯渇しない好奇心に求められるまま答えを続ける羽目になるためである。
昼の休みくらいは静かに過ごさせてくれはしないのか。
いや、編入初日くらいは許してやるべきなのだろうか。
ぴったりと体積を並べて浮かぶふたつの思考が拮抗していた。
その浮かれる調子に特別な共感ができるわけではないがこの町のことをよく知る茅間にとっても、彼の言葉に嘘偽りがないのであれば新しい環境には変わりないのだ。
慣れない環境に対する緊張や浮かれる複雑な感情は少なからず存在するものであるし、皮膚の下の無意識には苛む不安も少しくらいはあるのかもしれない。
簡単な想像の延長線にある感情には理解ができる。今に口数の増えた茅間にもきっと"そういう"ところが無自覚のうちにあるのだ。
それに対して親切を分け与えることはなくとも、いや、その気持ちはあまり前向きにはないが――とにかく、茅間伊三路にとってこれは未だ日常ではないのだ。
つまるところこの男は、新しい生活における"当然のこと"を知らない。勝手を知らないところに放り込まれ、揉まれ、かと思えば叱責されるのはあまりにも理不尽で不憫だ。
既にこの環境に組み込まれた者としても、個人の価値に依存した考えからも、これを傍目に見ていて気分の良いものでもない。
常識の範囲と己の中にある踏みいられたくはない線を超えない限りの言動は多少は目を瞑ってやる必要はあるだろう。
親切にする気はないが責め立てることだけはする、というのはどうにも己の中で嫌うものの傾向に近く、どうにも這い寄る自他への嫌悪の気配を祐はなるべく宥め、言い聞かせて納得させている。
編入生である茅間にとってはどれもこれも同じ形の迷路に見えて当然であるし、この生活の勝手は八、九時間も学校という箱に押し込められればよほど鈍感でない限り察するであろう。
数日過ごして周囲に甘えることを是するならば自分が突き放せばいいだけだ。それくらい時間が経てばその甘えは茅間伊三路というキャラクターの一面になる。
その一面が他人にどう思われるか、というのは既に己の責任でも何でもないだけだ。
立ち上がりかける己の暗がりへそう静かに言い聞かせていた。
彼が編入学ではなく転入学であったのらば、祐は己を納得させることはできなかった自信がある。
言葉の持ち得る含みや浮世離れした風を纏いながらも人当たりの良い茅間伊三路の存在自体が、彼において圧倒的に不足する常識に仕方がないと思わせる想像の余地をいくらでも与えたからだ。
その感情のうちの半分ほどは呆れが占めているが、なんとも都合のいいものである。
寧ろ、バランスよく成立していることが不可思議なことではないだろうかと思うくらいにはちぐはぐだ。偏った知識をしている。
ただ、そうやって仕方がないから目を瞑ってやるといった"今日"はいつまで続くのだろうか。繰り返す毎日の感覚と矛盾している。
茅間伊三路にとってこれが日常になるまでという期間は、己にとっても"そう"だ。
あの裏側の色彩を記憶から消し去ることに納得するか、「天文学的確率そういうこともあるかもしれない」と限りなく色を薄く、不信を日常に希釈するために与えられた猶予だ。また何もない日々に戻るための、隙間の時間だ。どれだけ希釈すれど純な無味には戻れないというのに。
 ため息を押し殺して祐は視線を上げた。
目の前では伊三路が椅子を抱えていて、机を挟んだ向かい側で向かい合うようにゆっくりと置いた。
ビニール袋を腕に提げている。「昼食、一緒に食べようよ」
「五分もしないうちに会話を忘れたのか。吐いた言葉を都合のいいように撤回させてやるのは一度きりだ。それで? 目的は。あれほどの言葉を言っておきながら我侭で崩壊させるほど粗末な頭の作りではないないんだろう」
ビニール袋を自身の机に置こうとする様をわざとらしい嫌な言葉でギロリと睨めつけると伊三路は少しだけ居心地を悪く肩を縮こまらせた。
密やかに瞳を強調し、瞬きを繰り返しては許しの言葉を窺っていたが、祐が「断る」とはっきりと発言するとしょぼくれて椅子に座った。
向かい合わせにした椅子はそのままで膝にビニール袋を大事に匿っている。
まるで「断る」という言葉を理解できいないように見えるがこれは極めて正しかった。祐の机は祐に与えられたものであるが、その机の面積を侵すことなければここは他を排斥できる場所ではない。
ただの教室の面積だ。この教室に所属する以上、その広さのうちでどこで食事をしても誰か一人が一人の感情で責め立てる権利は強くはない。小賢しい話ではあるが、屁理屈が通るならばそういうものである。
「祐と話をしたいのはもちろんだよ。別にその口実というわけでもないのだけれども。ねえ、この透明な袋はどうやって取り払うのかな。破壊して開けるわけにはいかないでしょう。飢えの感覚はあまり好きじゃないんだ。助けてほしい」
ビニール袋から大事にとりだしたおにぎりを伊三路は両手で持っている。しっかりとした指先の全てを使って優しく持ち上げられたおにぎりはちょっこりと手のひらに居た。
筆で書かれた文字を想起させる字体で"鮭"と書かれたシールを見せつけている。その向こう側では伊三路が三角形に近い形をした太い眉をすっかり下げていた。
これもまた珍しいことに、縋るような言葉尻に向かって言葉は少なくなっている。
「普段から何を食べていればそんなことが言えるんだ」
「え? 山菜の汁物と漬けものかなあ。たまに干した大根と豆を煮たものだとか、きのこをどうにかしたものだとか。あとはねえ、雑穀のごはん! 漬けものが好き! 蕪のやつとねえ、大根が好きだよ。大根は何で漬けてもおいしいからね。米によく合うしね。祐は? 祐は何が好き!?」
思わず口を出た失言を自ら咎めようとする祐をも前に嬉しそうに答える伊三路は自身の好きな食べ物の味を思い出しながら語る様に思わず熱が入り、顔の近くで握り込んだ拳を嬉しそうに上下に振っている。片手にはしっかりとおにぎりとフィルムに書かれた塊を大事にして、それはもう楽しい気分になっているようだった。
「もう少ししたら、うめ漬けをつくる時期でしょ? おれはね、うめのへたを取るのはみなが想像するよりずっと得意なんだ」そう自慢げに語り、ついに椅子の座面から腰を浮かせて身を乗り出そうとした伊三路を祐は下へ向けた手のひらを上下させて落ち着かせた。
「……わかった、もういい。数字が読めないわけではないのだろう。1の切れ目から順にフィルム包装のツマミを引けばいい。1は下へ、2と3はそれぞれ外側へ引くだけだ」
「え! つまり、本当にこの薄紙を剝がさないと食べられないの? そうなんだ……そっかあ」
悩ましげな調子を滲ませて、惑いをみせた伊三路は唇を曲げていた。
一度は膝へ手放し、おどおどとした様子で葉あったが丁寧に手を合わせてから彼は瞼を伏せた。きちんとした品のある仕草はどこか祈るようにも似ている。
「じゃあ、いただきます」という言葉を祐は聞いていた。この世の中で食を前にして習慣化した言葉だけではないのは珍しいな、と思っていたのだ。
祐は自分自身ならば今のように他人と居る時は言葉はなぞっても丁寧にはしないし、この教室にも圧倒的にそういう人間が多い。かといって、家にいるときはどうかといえばやはりただの習慣化した言葉だった。
知りうる狭い世界の中では、少なくとも茅間伊三路は一番といっても過言ではない丁寧さだった。わざとらしい感謝の言葉を付け足すよりもずっと簡潔で美しい所作だったとすら言える。
 取り戻したおにぎりのフィルム包装を剥がす伊三路の不器用な手つきでフィルムによって湿気とは隔たれた海苔の端が破れていた。
フィルムが取り去られることと同時に巻かれていく仕組みを察して目を輝かせ、先ほどの静けさをすっかり追いやると手にしたおにぎりのを掲げては自身の顔の方を動かして多方面から黒く光る海苔の姿を見つめている。
「薄紙の一度きりは儚いものと憂いたけれども立派な務めだったね。すごい! すごいよ! ねえ見て! さかなのおにぎり、おいしそうだねえ」
 頬を緩めてふっくらと笑みを浮かべる茅間伊三路に対して生命に寄り添うのが上手いのだろうなと祐はぼんやり思考している。
わざわざ嫌な言い方をすれば、他人に取り入るのが上手い。引き出した言葉の余白を感じ取るのが上手いのだ。
近しい共感を伴わなくとも、理解を示して共存するのに向いている。人懐こいという形容に容姿共に甘んじているだけではないらしい。
一口を大きくして白米を食んでいる伊三路はようやくありついた食事に打ち震えていた。
ばっと、音が聞こえてきそうな勢いで顔を上げると目尻をうんと下げた。顔が溶けだしてしまうほど豊かに笑みを浮かべている。感動を伝えたいらしかった。
反対に祐の表情は少しずつ曇っていた。彼から嫌な言葉や視線を投げられたり、暴力を振るわれたりしたわけでもない。
故に、どこかもやりとした煙の存在を認知せざるを得ない自己への嫌悪だ。中途半端に介入してくるせいで、庇のない眩しい場所へ放りだされたような気分だった。
茅間伊三路という人間のうち、祐が知り得る多くの面は薄ら氷に落ちる陽光であった。
生命の芽吹く季節における柔らかな光だ。さぞ目映い光だろう。そう表せば何とも心地がいいだろうか。
事実としても、その日永は確かによく眠気を誘った。
だが、微睡は泥濘だ。それは地表を等しく照らす害のある光だ。
季節は流れるように過ぎるものである。等しく芽吹き、命を燃やし、残滓は散って眠りにつく。すべてがその冬へ帰結するように存在する。
だが、春だけは目に見えて冬を殺して往く。
行くのではない。これには終わりがなくて、また開始地点に戻るだけだ。片道に行き着いて終わる場所はないのだ。
薄らいだ氷はその陽光の毒気に侵されてはぬるい水になる。グズグズとした春泥として足元を汚し、気付けば蒸発して何もなくなっている。
巡る春は残酷だ。
目に見えて殺されていく冬よりも、雪を貫き生える植物の芽吹きばかりが喜ばしいものになる。
人々はまだ息をする氷には目もくれずやっと春が来たと大手を振って喜んでいる。早くもっと暖かい日がくればいいと宣っているのだ。
祐は暗がりから春のうららかを見るように、疎ましげに、生という感情を限りなく薄くした仄暗さを孕んだ色の目を細めている。
やがてその光と自身の感情、そのどちらにも嫌気がさして視線を逸らした。
誰も悪くないという事実だけがある。これが世界の流れだともいう。
在るべくして在るだけと光が差すことで、いかに自分が愚かであるかを知ってしまうのだ。
どうにも受け入れがたい感情の塊である茅間伊三路を"そうである"という勝手な解釈の枠に押し込めないと気が触れそうだった。
そうでなければいかにもまるで惨めであったのだ。自覚のある愚かさが憎くて仕方なくなる。
口の中で自ら食い破った皮膚から触れた血が滲んでいる。
 思い出したようにペットボトルの封を切った祐はほうじ茶を呷った。
鼻というよりは鼻腔と喉の間を抜ける血の臭いの生温さと思わず舌が逃げたくなるような鉄錆の感覚をどこかへ追いやってしまいたかった。
喉を下っていく冷たさと幾分か打ち消し合った熱は身を潜める。残った水気で希釈されたものが腹の底で口を閉じている。
息を吐き、そして固形栄養食――栄養素のいくつかをクッキー生地に練り込んだカロリーブロックの封を切る。予め切り取り線の入ったボール紙のつまみを裂いていた。
その姿に伊三路は不思議そうな表情をする。
「祐はそれを食べるの? 好き? 箱にかいてある絵図はおれのあまり見たことがない姿形だ」
「必要な要素が練り込まれた栄養補助食だ。要素だけでも必要最低限を摂取していると認識させることが出来ればこれに限らない」
好き嫌いを語らない祐に対して取り分けて自身の質問の意図にそぐわないことを指摘はしなかった伊三路は固められた白米をかじり取り、よく咀嚼をしてから飲み込む。そして続けた。
「ふうん。きみの言葉っておれにはすこおしだけ難しいよ。少しじゃなくてすこーしね。小さい「お」が入るくらいだけだから、きちんと理解のできるところもあるよ。じゃあ、料理はしないんだ?」
「自室に居る際には自炊する。もういいか。食事くらいは静かにしたい」
げっそりと疲労を滲ませた祐の目頭の様子を敏感に感じ取った伊三路は口を閉じ、祐に教わった通りに二つ目のおにぎりのフィルムを剥いだ。
「そっかあ。おれはもっと学校や祐のことを聞きたいなと思うけれども、別に今日これ限りっていうわけでもないものねえ。おれの言葉にひとつひとつ返事をくれてありがとう」
頬骨の高さを盛り上げては密やかに声を潜め、それでも十分にふっくらと笑っていた。
「俺は名指しされた言葉に対して正しい反応をしているだけだ。こちらからは特別抱く感情も興味も、聞きたいこともない」
興味を抱かないというのは些か語弊がある。
無関心ではないのだ。
どちらかというと『嫌い』に近い感情は立派に興味の範疇であったし、その感情を含めても含めなくても茅間伊三路という人間はその他大勢のうちの一人であり構う理由にならなければもっと知りたいという理由にもならなかっただけだ。
それを極めて平坦にして、祐は"興味を抱かない"と表現をした。目の前の男にはどちらの答えでも特に関係はないのであろうが。
 静かに考えていた祐が明確な答えを得る前に、教室の引き戸式のドアが蹴り破られるほどの勢いで開き、レールを設置するために囲われた枠で跳ね返った。
木の扉板の悲鳴が教室を殴りつける。一瞬にして教室が静まり返った。視線が集まる。
破裂音にも似た騒音に祐も思わず視線を向けていた。生徒たちの大半はその先で足を未だ上げている男子生徒を認識すると再び波を寄り返し、教室に言葉を響かせることを再開した。
髪を明るく染め、いかにも声の大きそうなクラスの中心にいるタイプの生徒たちばかりがその生徒に「なんだあ、弥彦かよ! 相変わらず騒がしい登場だなー!」と声を投げかけた。
「うるせ~」と気怠い返事をしたのは弥彦と呼ばれた男子生徒だ。
勢い余って戻ってきた戸を足で扱いながら大口を憚らずあくびをした。短い髪の毛を脱色し、明るい色に染め上げている。
ブレザーもネクタイも身に着けていない様子で、前を開け放ったカッターシャツから色つきのTシャツが色濃く覗いていた。
衣替えもまだであるのに、例年より気温の高い日々を鬱陶しがったのか半袖のシャツである。
やる気のなさそうな重い瞼に小さい黒目がジロリとある様は立ち姿と相まっていかにもな素行の悪さを、聞いてもないというのに自ら語っていた。
肩口に担ぐように持ち上げていた学生鞄は中に教材が入っていないかのように軽くあって、何もかもが薄っぺらいような弥彦はぐるりと教室を見渡した。
前髪をかきあげはしたが、戸の前から進むことも退くこともなく、ドアの枠に掴まっては首を伸ばしたままでいる。
仲良しグループのようなところには一瞥もくれはしなかった。
「おい、日野春どこ行った? ていうか見ねえ顔のやつがいる。目立つ色してっから目に入ったけど、ついでに嫌なモン見ちまったぜ。澄ました顔しやがって、気分わる」
伊三路に興味を示し、まるで新しい玩具を買い与えられた子供のように目を輝かせたが、すぐに小さい黒目の瞳を細く祐を睨めつける。
教室後方からはやや死角になる席に座っていた暦は、弥彦の言葉が伊三路や祐を示していると気付くと慌てて立ち上がる。
目立たない席から勢いよく立ちあがり、横たわる軋轢ときょとんとした伊三路の視線が交わる前に立ちはだかった。
「や、弥彦くん……! おはよう! 火曜日に来るなんて珍しいね。も、もうお昼だけど……。僕、席変わってさ、ここになったんだよ。ごめんね、死角だったよね」
自身の指同士を絡ませは気まずそうに弥彦を見る暦は、いつ大きな声を上げられても構われないように身構えている。緊張で肩がすっかり上がって強張っていた。
身体の後ろ側で汗が滲み始めている。
「火曜に来るが来まいがオメーには関係ねえよ。毎回ビクビクビクビクとしやがってムカつくな。暇なら昼飯でも買って来いよ」
「ご、ごめん。たぶんだけど、コロッケパンはもうない……かなあ。今日、購買が特別混み合ってて……」
既に教室は静けさをどこかに置き去りにして普段通りの顔をしている。伊三路と祐を除き、誰一人として二人のやり取りを見てはいない。この教室の生徒にとってはそれが"普通"になりつつあったためだ。
「そんなことはどうでもいいから早くいけよ。何かしらはあんだろーが。ジメジメと本当に目障りだよなあ! せめて堂々としてみろよ! 馬鹿にしてんのか?」
肩を跳ねさせ、顔を青ざめさせた暦は慌ててロッカーに駆け寄る。
 棘を多く含んだ会話に嫌悪を滲ませた伊三路が半分席から立ちあがった様子であることに気付くと、暦は愛想笑いを浮かべて手を振った。
険しい顔をしまってくれという、動物を宥めるような控えめなジェスチャーだった。
「ご、ごめんね、伊三路くん。びっくりしたよねえ。でも、気にしないで。すぐ日常茶飯事になるから」
ロッカーに向かい、汗を滲ませながら財布を取り出そうとしている暦に伊三路は感情の薄い声を出す。
「……暦はそれでいいの? いやだって言えないなら、おれが言おうか」
その言葉に鞄を探る手が止まる。すでに財布を握り込みながらも、暦はロッカーに向かったまま目を大きくしていた。
一瞬して音が消えるようだ。伊三路と暦だけ、この教室から切り取られて静寂の中に居る。
早く購買に行かないといかないと弥彦の食べるものがなくなることをわかりながら暦はすっかり足元の床を失くしたように立ちすくんでいた。
伊三路の深々と萌ゆる緑をした瞳が暦のことを捉えている。
澄んだ色に動けなくなった暦は本心を言い当てられたように淀んでいたのだ。この関係を続けるのが、馬鹿々々しいこととは理解している。
だけれども、じゃあ、僕は弥彦くんとどうやって向き合ったらいいんだろうか。
全部彼自身が蒔いた種だとしても、"周りに言いたい放題されている弥彦伸司という男子生徒の裏側"を知っている僕は、彼のことをただの会話として笑って、あることないことを肯定して消費できる立場なんだろうか? 昔のこと全部なかったことになるの? できるのかな? 僕はそうしたいの?
逡巡に俯いた暦は唾を呑んだ。イガイガとしたまま、飲み下されていくそれに言葉が出ない。
固まっていた唇がやっと紡ぎ、宙へ放り出された言葉に対して暦は、自身で放っておきながらにがっくりと地に叩きつけられるように落胆した。
「だ、いじょうぶ、だよ。無理してないし、弥彦くんは僕の友達……そう、友達なんだよ。ずっと昔からの」
「そう。友達であるのならばおれは口出しするべきではないね。けど、だけれども暦が辛いのであれば、それは――」
目頭を震わせて笑っている。唇がわなないていた。
その背後に、急かしてして罵る声が刺さった。
「……ぼ、僕、行かなくちゃいけないから。またあとでね」
 上履きを鳴らして逃げるように教室を出て行った背中を見送った弥彦は苛立ちのままに手近にあった机を蹴りつけると声の大きいグループの生徒に声をかけた後に教室を去っていった。
伊三路は弥彦の後姿を見送ると自分がひどい言葉をかけられたわけでもないというのに悲しそうに瞼を伏せ、一生懸命に唇を閉じて言葉を押さえつけている。
「……暦、大丈夫かな」
「俺には全く関係のない事だ。……だが、一つ忠告してやる。正義のままに首を突っ込んで余計な言葉を吐くのは辞めろ。それが必ずしも万人に正しいとは限らない」
言葉をかみ砕き、カッと湧き上がっていた伊三路の脳が冷静を取り戻す。
祐の言葉は理にかなっていることを十分に理解はしている様子であったが、言葉に対して反抗的な態度を示した。
何度も口をはくはくとさせていたが、意を決した様子で緑は机の木目をなぞり、そこから人工皮革の手袋を、ブレザーを纏う腕を視線で這い、真っ直ぐに祐の瞳を見据えた。
「おれには、互いが互いに対して思う"本当"を言えないでいるように思う」
「自分で言った『言葉は刃物である』という言葉を意味をよく考えた方がいい」
納得しないままの伊三路が「でも」と言葉を上げる。
祐の極めて感情を平坦にした上で、叩きあげた鋭さを喉元に突き付けた。シャツの襟から覗く伊三路の喉が上下する。
「他人の事に安易に口を出すな。その人間の全てを知った気になって口を出すのは傲慢に過ぎない」
その言葉を聞いた伊三路は瞼を伏せていた。
頭が垂れる。静かに、表情が見えなくなっていく。
代わりに手に取ったペットポトルが伊三路の両手の中でミシミシと悲鳴を上げていた。
慌てて力を緩めてから先ほどまでの自身に満ち溢れた声音とは異なり、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……確かに、きっとおれはおれのしたいようにしたいだけだ。うん、祐の言う通りかもしれない。それでも、もし今のままでいるのでは嫌だというのならば、おれはそれは暦の口から言えるような手伝いがしたいんだ。……無理には言わせないように努力をするよ」
「……きみのことも」小さくではあるが、そう続いた言葉に対して祐は片眉を吊り上げた。取り繕うように目を伏せる。
一瞬のうちで上がった熱と反対に足元は凍り付いたように温度が下がっていた。
「前者はともかく、後者に何かを感じ取っているつもりならばそれは傲りを通り越して何も見えていないだけだ。己は施す側の立場とでも言いたいのか? それは羞恥すべき勘違いだ」
予鈴が鳴り、沈黙は椅子を引き摺るような音にかき消される。
伊三路はフィルム包装をビニールへ突っ込むと、自然と上目遣いになる形で呟いた。
「最後の言葉は本当に余計だったね。ごめんなさい。……また、一緒に食べようね。次は楽しい時間にしよう」
確かめるような、不安を孕んでいた。
「きみのことも」といった声は震えていたことも祐はきちんと聞き取っている。
何も見せた覚えはないが、この男は何かを知っているのか、知っているつもりなのか。
惑いが薄暗さを掻き立てている。此処で何かを咎める意味がなかっただけだと言い聞かせている。
「……断ったところで無意味な言葉だと証明されたばかりだが」
「ふふ、祐らしい答えだ」
安堵で笑みを浮かべた伊三路は小さく手を振ると椅子を抱えて斜め前の席へ戻っていった。
 祐は伊三路の背中を見送るや否や、これから来る日々の明暗を憂いた。
照らされてはくっきりと浮かびあがる感情に惨めさを認めたくなくて仕方ない。認めたら己は己を保てなくなる。
徐々に膨らんだ感情が、いつか自身を圧し潰すことが目に見えているのだ。
本能は『嫌い』という言葉に内包される複雑な感情の種類をはじき出さないまま、明確に茅間伊三路を嫌っている。
この薄ら氷は、きっと踏み躙られる前に陽光に溶けるだろう。
水の表面だけが冷やされて覆いか被さった薄いだけの氷なのだ。気温が上がれば失われるのは当然だ。
いつまでも舞台に居座るものでもない。それがこの世界におけるこの存在の定義としても、結末が同じであったときに痛みの種類を選べないだとか、無駄な足掻きが禁じられているだとかいうわけではないのだ。
故に。完膚なきまでに踏み躙ってくれるであろう力が訪れるより早くその柔らかな陽光を施しとして落とすというのならば、慈悲を謳うその傲慢の腕にこの惨めさと膨らんだ感情を無理にでも抱かせて失墜させるしかない。生きるか死ぬかではない。生きるか"生きないか"を選ぶというのはそういうことだ。
仮に誰に責められようが己は今日か明日かの間で発生する延命の分岐点の先を想像し、より望む死のための延命を重ねることだけに忙しいだけである。
正にも負にも、選択と価値の秤は上に乗せられた質量だけに傾くのではない。
質量以外の感情という吊るし糸の強度や、暗黙の了解という情状酌量の小細工がなければ、弱者は淘汰されつくしてこの世はとっくに秩序を失っている。
生態系を保つための正しき小賢しさであるのだ。
加えて、他人は己のものでない事象に一〇〇の同情することはできない。
同一の個体ではないが故の当然であり、一定の沿線上に客観視があるが前提に法は成り立つものなのだろうが――
閑話休題。大体にして、優しい毒で長く苦しめられるより、悪意によって一瞬で命を奪われるほうがよほど"マシ"というものだろう。
毒を選ぶのはよほど理由があるものだけで、それこそがこの秤が個の価値に依存することの証明なのである。
 祐は結局のところ意思表示を兼ねて机に並べた文庫本を手に取ることはなかった。
それをしまうための視線はよく暗がりを見下ろして、ついに仄暗い感情の中で目を瞑っていた。
閉じた瞼の向こう側の光でさえもを眩しがるように眉に顰めている。



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