職員室と廊下を隔てる引き戸をくぐる。
まだ暦上の初夏も跨がないというのに冷気を循環させている部屋から出ると、さすがに蒸し暑いように錯覚する。
肌の上で毛穴がささめく程度には暑いと率直に祐は思い浮かべる。実際には冷却に伴い空気が乾燥しているだけの職員室が例外なのであるが基準をどちらに置くとしても、身体を騙すには充分の室温差であったのだ。
朝はまだ冷えを引きずることも多いが、天候によっては昼間にはそれなりの気温を叩きだす。今日なんかは五月中旬か下旬並みに地表は温まっているようだった。
木目の繊維に沿って塗装の剥げている――良く言えば年季ある引き戸をなるべく音を立てないように閉める。
はあ、と口から既に循環を終えた二酸化炭素を吐き出す。ただ、ゆっくりと息を吐くことと滲んだ憂鬱をため息とすることの間のような曖昧な呼気だった。
 特にくすんだような気持ちでもないが、職員室で姿勢よくしている必要もなくなった祐はまるでボタン一つ押し込むだけのようにして意識を切り替えると教室に戻るために身体を廊下に向ける。
すぐそこに向けられた視線の先には春の土に似た髪の色があった。その色を認めて祐はすぐに理解をする。
それもそうだ。こんな片田舎の学校のくせに規則はそれなりに在るのだ。
己にとってのそれは多ければ多いほど求められる模範においてどこへアプローチすればよいかわかりやすくなるために悪くはないと祐は考えている。
今現在もそうだ。規則の恩恵によって目の前の人間が等身大の輪郭をなぞらずとしても茅間伊三路であると理解できる。
派手な染髪を認めない時点で殆どの人間はふるいに掛けられるし、時たまにいる明るい髪の生徒でも茅間伊三路の黄土に近い色の髪色には及ばないのだ。
 無意識のうちに眉根が低くなり、間を狭めていた。顰める表情につられて圧迫された視界が微かに暗がりを帯びる。
職員室前の廊下に立ってはいるが随分とリラックスした様子で窓枠に身体を預けている伊三路は、祐の姿を見て大袈裟に表情を明るくしていたのだ。
しかしすぐに相手の表情があまり自分を歓迎してはおらず、眼窩の奥を彩る碧の滲む氷色にじっとりとした暗がりを落としていることに気付くと、きょとんと小動物のように締まりのない顔のままで首を傾げる。
伊三路の一挙一動は極めて表情豊かであり、手に握られていた無地のビニール袋が開け放たれた窓から吹き込む春風でかさかさと耳障りな音を立てていた。
先回って何かを言いかけては身を乗り出そうとしたが、少しばかりの恥を浮かべて口を閉じると言葉を待ってしっかりと祐を見ていた。
その動作がまるで何かを期待されているかのように感じられて、居心地が悪くなった祐は逃がすように視線を逸らす。
"ともだち"という言葉が重くのしかかっていたからだ。
慣れ合いはしないと宣言しているのだから問題はない。だが、そういった言葉で自己が認識されるのはどうにも嫌悪がある。言葉の浪費を強要されているみたいだ。じっとしているのが堪え難い気持ちの悪さがある。
持て余した手の行方を求めるようにしてジャージの襟を整え、首元に触れると、ついにやるようなこともなくなってしまった。
自意識の過剰ではない。明らかに視線を合わせてヘラヘラとするのならさっさと用件を口にしろよ。
そう言いたげな疎ましさを滲ませた横目で伊三路を舐めるように見やる。
視線の先で飼い主に『待て』を求められた従順な犬よろしく佇むだけの姿を訝っているのだ。
「そういった視線など痛くも痒くもありませんよ」と堂々と主人を前に口を開けたままハカハカと笑っている様が従順な犬のようなのだ。子供が絵に描いた太陽に顔が描かれていて、さんさんとした様子を放射状の線で表すことにも似ている。
 明るい表情を嫌悪したり否定したりするわけでもないが、いかにもお気楽そうで鬱陶しい表情ばかりだ。
一瞬そう思うも、伊三路とていつでもお気楽ではないことを先ほどの教室で知ったことを思い出す。
上辺ばかりの解釈でひととなりを決めつけるのは、「お前はいいよな」と自分を低く見せかけて精神的な快楽を生み出し、脳の興奮を促して得る虚構の独りよがりと変わらない。
そのマウント自体が自己の正当化として健全でも、口から出ればただの軋轢だ。
言わぬが花、どころか秘すれば花だ。正確には秘するべく花だ。
劣等感の類は感付かれずにあるべきである。それでこそ快楽とせねば意味もない。誰かとの軋轢を特別望む者もいない。
誰が望んで暗がりに行くだろうか? 行きたい者が居るだろうか?
わざわざ選び取る選択には明確な理由があるに決まっている。
目の前の男が明るい場所に身を置きながらも暗がりの方向を向いているのだって、何か理由があるのではないか。
じと、と睨めつける視線が低くなって肩が竦む。
変わらず伊三路は小首を傾げ、ついぞ絵に描いた稚拙な疑問符がオノマトペと共に見えてくるのではないかというほどの表情をしている。
ただ、よく変わる表情をこの二日間でよく見せつけられてきた祐は理解のための解釈をより鮮明に、透明度を高くして深めていた。手に取るようにまでとはいかないが、ぼやけつつも輪郭を確かに描く想像はつく。
今、この瞬間、目の前にいる茅間伊三路はいかにも何も考えていない。純粋に言葉を待っているだけだ。
考え得る時点での茅間伊三路という人間のこの瞬間の表情の正解に限りなく近づいた祐は大体の答えを想像しながらも、職員室と廊下を隔てる引き戸式のドアの前から左にずれると親指で後ろの戸を示した。
「……職員室に用事があるのならばさっさと行けばいいだろう。避けろとも言えばいい。じいと見つめられてばかりで気分が悪い。その口は飾りか」
「うん? その部屋に用事はないけれど。祐の背中が見えたから待っていたんだ! わーい、助かったあってね。それはもう、大手を振って喜んださ!」
職員室に用事があるかないかという事柄で考えたときの祐の想像通り、用事ひとつないらしい伊三路の声は生徒たちが往来する廊下によく通る。
そして人目も憚らず手を肩より上の高さにあげては"大手を振って喜んだ"という言葉を表現した。こそこそもしなければ堂々と喜び、それを身体で表現せずにはいられなかったのだと続けながら小さく飛び跳ねる伊三路に呆れる。
その身体に働く力が逃げていく末端で、重力の働きが弱く、よく跳ねている髪の毛先がひょこひょこと忙しく揺れていた。
有り余った気力を外側に発散しないと死ぬとでもいうのか? こいつは。
頭痛がしそうだ。考えただけで架空の痛みが本物になりそうだ。
あまりについていけない、と祐は左手で顔を覆うとゆるゆると頭を振った。
「本当だよ。皆が同じ服を着ているとさ、まだ正確な見分けがつかないんだ。それにこの建物はどこもかしこも同じ見た目で迷路みたいだしね。何が言いたいかというと、おれたちの所属する二年しい組がどこかわからなくなってしまったんだ」
困ったように眉を下げていた伊三路は「本当に困っているんだよ。さてはて、どっちの方向だったかな。ね、ついて行ってもいい?」とねだるように目を丸くし、ただでさえ大きい瞳にきゅるんと光を反射させるといかにも無害を装って媚びた。
渾身の演技を見送ることもなく祐は踵を返す。「お前の迷子など知るものか。昇降口へ戻って校内の見取り配置図でも見ればいい」
 さっさと歩きだすと、伊三路が置いて行かれはしないと絡まって続く。
簡単な言葉のやりとりで行き先が同じであることを忘れるほど単純ではない伊三路の足音がついてきていた。
行く先が同じであるだけに後をつけられているわけでもないし、急に道順を思い出したとでも言われれば狂人だと思われるのは自分だ。
とうとう面倒くさくなった祐は、職員室前で視線があったことは気のせいだと無視でもして置き去りにすればよかった、と片隅で考えている。
「ねえ、祐は? 祐は先の部屋で何をしていたの?」
「美術のレポート課題提出だ」
苛立ちを浮かべた祐は少し後ろをついてくる足音に振り返らないまま、無意識のうちで人工皮革の手袋の下で手を握り込む。
すこし後ろを悠々と大きい歩幅でついて歩く伊三路は購買部で購入した昼食の入っているビニール袋を両手で開いて覗いていた。おにぎりと書かれたシールを眺め、味を想像すると口腔内に唾液が滲む。
ぺろりと唇のふちを舐めていたが、祐の言葉に、は、と視線を上げる。
肩を揺らしてあげた視線と連動するかのように乳白色のビニールが一際大きく鳴く。
先ほどまでわくわくとしていた唇はビー玉をころりと手放すような心細い言葉を零した。
「ええ! それは……それはもしかしなくともおれのせい、だね……」
コロコロと転がっていたビー玉が嫌悪の底に転がり落ちていた。どろどろとした粘度ある泥濘があっという間に硝子の体積にたかり、不穏さが覆った。
問いかけてくる言葉を背に、ちょうど廊下の角を曲がった祐は視線を僅かに後ろへ向けた。
殆ど真後ろを付いてくるすっかり萎えた姿を視界に入れることなく前を向き直した。「それ以外に何の理由があると思っている」
 異なる歩幅の二人に距離が開いていく。後ろに控える存在を早く振り払いたい祐が次第に早足になればなるほど、伊三路が大袈裟に上履きを鳴らした。
動きに追従するビニール袋の耳障りがずっと大きくなっている。小走りになって、距離を保とうとするためだった。
「祐、聞いて」覆った不穏に言葉が挟まっている。
上履きがキュッと詰まった音を鳴らす廊下は清涼な風が足元を吹き抜け、暖かい色をしている。甲高い摩擦音は窓の外で囀る鳥の声にも似ていた。
それらを心地よいと感じる間も余裕もなくすべて置き去りにして進む祐は、自身の中でふつふつと湧き出る苛立ちと嫌悪、焦燥に駆られていた。「ねえ、話を聞いてほしいよ」
 本当に誰のせいでこうなったと思っているのだ。
授業へ戻れば設問のひとつひとつで質問攻めをしてくることに対して彼の納得のするような返答をし、課題に解答を記すための面倒を見れば提示される疑問は倍に膨れ上がる。当然自分のための時間は減るのだ。
転記の多い内容であるとはいえどの課題が出されるかの予想がつくほどのデータはないし、美術関連分野に進学する気のさらさらない自分にとっては特別予習の必要ないものだ。
五分でも出席扱いであると己が口にした通り、絶え間ない疑問に応えて導く必要がなければ記述の時間を見積もってしても十五分はいらない。
そう思っていたし、実際のところ美術の教科担当教師の欠勤が始まってから前回の授業まではそうだった。
この男がここまで図々しい人間だと想像しなかった自分にも苛立つ。
ホームルームの一件もあり、茅間が自分を頼る間は誰かが口を挟んでくることもない。周囲はみな都合のいい時だけ"地元の話がよくわかる親しみやすい編入生"を構うだけの気楽さだけ摘まんでいくのだ。
いい加減にしてほしい。
昨日の今日で何なのだ。
圧迫された人工皮革の生地がぎゅうぎゅうと鳴っている。
言葉ばかり空回っている。日常を蝕むそれに一種の焦りばかりがずっとずっと先を往く。
神経質が眉間に深々としたしわを刻んでは、目元にぼんやりとした影を作っている。
 わかっている。
己の推測が甘かった。誰かのせいに出来るわけがない。
茅間がそういう人間だとして、十分に課題を行うべく準備をすればよかったのではないか。
朝のホームルームの一件で彼のそういった一面を知ったはずだ。
集中力が足りない。努力が足りないのだ。いつも。
いつもそうだ。いつも、他人の行動を支配できないが故に詰めが甘い。
自分のことは自分で完遂できる。
効率を考えればそれ以外の考えなどないという状況でさえ、他人は自分と同じ考えとは限らないのだ。
思考を引っ張り出し、並ばせて比べど全てにおいて一◯◯という数字で一致することはない。
故に。他人がどう動くかなど己の決められたことではないが、"そうさせる"ように誘導することであったのならまだ努めるべきことが、やりようの余地があったのではないか。
圧倒的に未熟な己が、誰かに原因を押し付けたいだけだ。
誰かにこの責任を押し付けたって何も変わらないのに。
この世界は数字が価値を左右する。
最後に帳尻合わせの出来ない人間は己の不出来を憎みながら日々に励むだけだ。それしかない。
結果が伴わなければこの生の全てに意味がないのだから。
すぐ後ろで声が聞こえる。うるさいだけの声たちだ。
必要ない。俺には必要ないものばかりだ。
これ以上は要らない。欲しくはないのだ。
早足で歩を進める祐の表情を見た生徒たちが廊下の端へ避けていく。言葉を聞かない祐の様子を訝り、横に立ちたがった伊三路もまた歩を速めていたために、廊下には遠巻きな不穏がすっかり伝播している。
突きあたりの暗がりが爛々とした目で待ち侘びていた。
「っ、うるさい!」
「……ごめん。聞きたくはないかもしれないけれども、おれはさ……ねえ、おれはきみと話ができるのが本当に楽しかったんだよ。言葉をちゃんと返してくれることが嬉しかった。けれどはしゃぎすぎたみたいだ。よく考えれば邪魔なのは明確だよ。反省している。ごめんなさい」
 は、とした。
伊三路の絞り出した声色で我に返った祐は、思わず雑に伸びている黒い前髪を揺らして後ろを向く。
いつまでも着いてくる伊三路に対して早足になっていた身体が大きく息を乱していることに対し、彼は息の一つ乱さずにいた。
一つ違うとすればそこに悠々とした表情はなく、意外にも塩を振ったように委縮してはショックを受けて顔を俯けていることだ。
あまりに覇気のない様相に対して信じられないものを見るように絶句する。
口を噤んでいた伊三路の伏せていた松葉色が目の前で言葉に詰まっている気配を察し、そうっと静かに、そして窺うように視線を上げた。
そして目の前で顔を白くする祐を見ると、驚き、ふたりで似たような表情を浮かべていた。
「……祐、下唇に血が滲んでいるよ。気分も良くなさそうだ。大丈夫?」
祐は反射的に手の甲で唇を拭いかけたが、手袋をしていることを思い出してやめる。次に伊三路に指摘された通り、額に浮いていたらしい嫌な汗はハンカチで静かに拭った。
通気性の良いはずであるジャージのうちでうっすらと汗をかいていることを自覚している。熱いだとか、運動とまでいかずとも動いたからだとかいう行動が由来しない汗が身体を冷やしていた。
「構うな。確かにお前は騒がしいが先の言葉は……いや。いや、いい。お前は煩いし、そもそもそういった期待は求めていない。興味がない。響くこともない。放っておいてくれ」
「それは嫌だ! おれがそうはしたくない」
 落ち込んで影を落としていた伊三路はその言葉に反射だけして声を大きくした。身を前のめりにして、手に握っていたビニール袋が勢いよく揺れる。
言葉の勢いに祐は向かい合っていた姿勢から思わず背を逸らした。
しかし怯むことを先回ってすぐに嫌悪を針のように鋭く尖らせる。そなお磨くようにずっとしんとしてから視線で伊三路を深々と刺した。
揺れもしない水面の底を長らく見つめ続けるような仄暗い不安を孕んだ酸素は重い。
それらを肺に循環させていた祐は鉛くずの塊のようになった唇に言葉を並べている。
分厚い氷の色がすっかり冷たく瞳を覆って、その最奥に存在している柔らかくて仄暗く、気の遠くなるようで些細な欲や孤独は見えなくなっている。
空気中の水分を触れた先からたちまち氷に変えてしまうその感情の断面はざらざらとしている。簡単に怪我をさせてしまう鋭いものだ。
祐の呆れたような深いため息だけが二人の間を満たしている。
「易しく言われないと理解できないか? ならそうしてやる。他人の立場を想像して思い遣れる感情があると仮定するならば、俺の言う言葉を尊重した態度を示したらどうだ。どちらを優先させるつもりだ? 後者なら先の謝罪はただのパフォーマンスとしても笑いの一つとれないものでしかない」
祐は静かに続ける。
言い淀んだ回答が返ってくる前に追い打ちをかけて、自分の思う通りの答えへと誘導したがっている。
「最低限より踏み込んで関わりたくない。"ともだち"とて必要以上に近くある理由もないだろう。雛鳥のように着いてくるな。俺はお前の親鳥ではない」
今度はゆっくり、きっちりと一文を短くし、一つ一つを明確にした。言い聞かせるような口調で言い聞かせる。
 瞳の上でゆらゆらと不安定な光を揺らす伊三路の足元に雨粒のような言葉が落ちる。
言葉はすっかり淀んでしまって、乾いた大地ばかりに落ちた一滴の水の痕跡だけが浮き上がったようにそこに在るだけだ。
それに対して祐は罪悪感の一つも知ることなく、むしろ自身の感情を言葉にすることで重たい煙を吐き出したような気持ちになってようやく新鮮な空気を取り込むことができていた。
贔屓にするつもりはないと告げているのだから、これを言われることは覚悟するべきだ。
誰に対して贔屓にするつもりもない。仮にそれが非効率の象徴であれど、ひとりでいた方がずっと幸福を得られる。楽に決まっている。
思考をする間にも、廊下という空間を疎らに埋めていた生徒たちが不自然に立ち止まる二人を見送っては「喧嘩?」と囁く。
構わず祐は向かい合った伊三路が口に出すであろう次の言葉を待っていた。
事実、祐は伊三路の親鳥でも何でもないのだ。
返す言葉もなく了承をする言葉を、静かに待てばこの騒がしさもなくなる。
この日々は、静かで、退屈で、あまりにも変化に富まない毎日でなくてはならないのだ。
「……わかった。じゃあ、今の言葉は撤回させてくれないかな」
「は?」
 返ってきた言葉は、乾いた地に黒く浮かんだ水の痕跡にバケツいっぱいの水をかけて打ち消すものだった。
辺りにまき散らした水であたりを濡らしきってはまるで元より白紙である、こういうものだったのである、と一層のこと清々しい様相をした言葉をのうのうと放った伊三路は、小さく笑ったのだ。
鳩が豆鉄砲を食った表情で、意味が理解できないと身を固めている祐に対して伊三路は説明をするように立てた人差し指を揺り動かす。得意げに小鼻を膨らませて、大袈裟に口角を持ち上げていた。
「おれがごめんと言えば、祐は他人に配慮する気持ちがあるのならば関わるなと言うでしょう? でも感謝すれば今更聞こえばかりの言葉にまた嫌悪する。そしたら撤回だけしたほうがよほどよくないかな。駄目? ずるいかな、おれは」
訝った表情のまま祐を追い越して、伊三路は振り返る。松葉色の瞳が得意げに弓なりに細められていた。
今まで感情を大げさに演出していた太い眉が平衡を描いて、感情が生み出す凹凸の上から覆っていく。
この男はよくわからなくて、角度を変えると全く異なる姿を見せる万華鏡に似ていた。
 祐にとって茅間伊三路という存在は子供のような印象でありながら、達観している面を持ち合わせていると思えた。
それらは互いを一番遠いところへ置きながらも背中合わせにぴったりと身を寄せ、茅間伊三路という器のためにあるように存在している。不足の虚ろも足の出る残酷もなく、均衡を保っていた。
彼のいう人間の見ている世界と、蝕という生き物が蔓延る裏側の世界が背中合わせにある事実と全く同じだ。理の縮図だ。
どちらが正しいかなどという答えは最初から存在しないように、朝と夜において一番遠いところに在る太陽と月が互いを追いかけるように、どこまでも、そのどちらもが、茅間伊三路であった。
は、とするまでもなく、次に見た伊三路は欠けた月が再び満ちるように先ほどまで細められてきた瞳がぱっちりと開かれていた。
「おれはね、少しくらいあくどくてもいいと思っているんだ。きみと良好な関係を築きたいからね。そのためには少し賢くならないといけないし、抜け道をいかにもそうだと見せるためのずるい言葉を捏ねないと駄目かなあっていま思っていたところ。訝られてばかりなのはいやだけれどね」
「……お前は、獰猛な肉食獣を前にした際に恐ろしいと思わないのか?」
「……うん?」
 ぽかん、と唇が開いていた。やや遅咲きのはずの桜の花びらが風に乗せられ、早々に散り始めている。
喧嘩を疑っていた生徒たちはすっかり廊下を往き、静けさを取り戻していた。冷たい廊下には沈黙と春が滴っていた。
「他と意思を通わせることもなく、術もなく。飢餓の衝動のままに鋭い爪で肉を抉り、屠り、柔らかな腹の肉を裂き、血で濡れた牙で内臓から食む。その行動が恐ろしいと思うかと聞いた」
「ええ、急だね。……生き物である以上は当然起こりうるの瞬間のひとつで、それが摂理と思うけれど。同時にその衝動を満たす相手としておれが選ばれたのならばいやだあ、とは思うね。怖いかも」
うーん、と唇を尖らせる伊三路は深く考え込むように親指と人差し指で顎をなぞる。
二人はまだ歩き出すことを再開しないでいた。
柔らかな風をようやく心地の良いものとしていたが、祐は小さく肩を竦める。
自身の左手首につけた飾りけのない四角型のケースをした腕時計の時間を一瞥し、ようやく踵を返した。
自分の意思に伊三路を重ねることに幾分の諦めがつくと、足取りは緩いスピードを保つことができる。軽く踏み込むと、騒動したよりも身体は距離を進めてていた。
促されてもいないというのに言葉の先を聞きたがって伊三路もまた、足を踏み出した。
「……例えの相性が悪すぎたか。そこに在る死を恐れる以外のものがあれば、意思が疎通できないということがその一つだという話だ。獣とて常に飢えているわけではない。食らうための牙も、機嫌を損ねうる爪も、意思の疎通が出来れば回避しうる。求めている時分に求めているものを与えればいい。意思の疎通、理解できないが故の恐怖は絶対的に存在する。わかるか。理解できないものへ生じる嫌悪をいくつかの感情に分解して拡大解釈を続けた際、行きつく簡単な例の中で最も共感の得られる一つだ」
「ふうん。確かに、急に喉笛を噛みちぎられたら不運だったなあ、では死にきれはしないさね。なんだか幽霊より生身の人間が怖いこととも通ずるような話だねえ。あれは触れ合う肉の有無の意味合いが強いけれど、怨念と意思の疎通は出来ないとおれは思うよ」
「随分と適当な返事だな。お前の話だぞ。想像しうる範疇のどれにも当てはまりはしない言動をする茅間伊三路という人間を俺は同じ生き物と認識はできない。此処には好意も好感もない。恐怖すらある。"そういう話"だ。それでも先と同じ言葉を言えるか?」
階段を上っていく。祐がしっかりと踏面に靴底をつける音に反して、伊三路のそれは随分と軽快でスキップをするように頭の高さが上下している。
ビニールのささやきは既に普遍と化して、もはやここには二人とビニール袋の一枚が同居した空間が一つとして確立してあったといっても過言ではない。
少なくとも、祐がその軽い音で鼓膜の上辺を撫でるビニールの雑音に片眉を吊り上げることは無くなっていた。
「大丈夫だよ。おれには返しのついた針みたいに反った牙はないし、爪はちゃあんと丸く切りそろえているもの。だれの肉を抉ることもない。みて! だれも傷つけないよ。おれもきみも、こんなにも等しく人間だ。なによりも幸いに、おれたちは同じ言葉を知っているじゃない」
機嫌のよさそうな伊三路の声が後ろから飛んでくる。
「見た目は結構違うけれどね」おどけて笑う声音を背に祐は目を伏せる。
ちょうど今この瞬間こそ、こんなにも違っている。
この男は自分よりももっと他に関心を向けた方がいい。絶対に。
需要と供給の話のほうが適切だったかもしれないな、と祐は鼻から息を吐く。
階段がやけに長かった。
省スペースのためか踊り場を介し、階段はコの字に折り返す。
きゅ、と上履きを鳴らした際に、まだ折り返し地点にたどり着いていない伊三路と目が合った。
真面目な話をする表情ではない、目を細めて懐かしむような目頭のしわもない、ただの、なんでもない茅間伊三路がこちらを見ていた。
「あ! 見た目だけではわからないって、そんな顔をしたね? じゃあ、少しだけ意地悪な話をします。綺麗ごとの事実の話ね。言葉は刃物である、とみなが言うけれど、じゃあ、傷一つでその他の生活で救われたことはすべてなかったことになるの? 怪我をしたら刃物はみな鉄に還すの? どうかな。代替するものが似たような悲劇を生むだけだ。そもそも、その傷はもう二度と手当の効かないものになってしまうのかい? 祐はどう思う?」
「傷の深さを決めるのは医学的根拠と身体の損傷だけではないこともある」
「それはそうだ。こればっかりはまたむつかしいよ。何でもない傷で人間は死ぬし、生き延びても死んだ方が良かったと後悔する日も来るかもしれない。量るためだけにだれかが真中の値を出していいものではない。その人だけの権利だ。ただ、時間が解決するという言葉は偽善だけど事実でもある。裂傷は肉と皮が覆ってやがて塞がるもの。その時間がどれだけ長く必要かはわからないよ。見えない傷は時間がかかるし、深いものはもしかしたら生きているうちには無理かもしれない。悲しいけれど。でも、きみはその刃物と無縁で生きていけるかな? たとえ話の刃物でも、現実の刃物でも無縁ではいられないでしょう?」
伊三路の言葉は正しい。故に口を噤むのは祐の方だった。
「待って! 続き! 続きをさ、言わせてよ」眉を潜める前に注ぎ足された言葉は、階段を上る足を止めさせなかった。
それでも祐はゆっくりと背に掛けられる言葉を待っていたし、伊三路は跳ねるように追いかけてどうにか祐の顔を見て言いたがっていた。
一段ずつをひょこひょこ上がる様はあまりに動作が大きい。
言葉を聞き届けた際に行き着く表情のいくつかを想像して、今は並んで言わなくたって十分な言葉かもしれないという答えにたどり着いた伊三路は、階段の踏面に片足を預けたまま言葉だけは真っ直ぐに続けた。
「ねえ、悲しいけれどおれたちの暮らしはもはや刃物を含む凶器からは離れられないよ。日常の些細な狂気からもね。でも、少なくとも、おれはきみのことをひどくしようだなんて思っていないんだ。これっぽちも! 親指と人差し指をくっつけた間くらいもないんだって! 少しずつ答え合わせをしよう。その答えや価値がたくさんは重ならなくたっていいから、共感は出来なくても理解できるくらいのところを拾っていこうよ。息苦しくならないようにゆっくりでいいんだ。おれたちはさ、きっと仲良くなれるよ」
伊三路の言葉が少しだけ心細く漂っていた。
弱い言葉が、既に放たれては曖昧に漂うそれを追いかける。
「味気ない言葉のやり取りが楽しくなるとは思わないってきみは言ったけれども、おれは今みたいなことを思っているんだ。どうかなあ?」
「……独り善がりなら文字通り一人で完結してくれと言いたいところだが、その好奇心を前に一々と腹を立てて嫌悪することが如何に馬鹿のやることかはよく理解した」
歩は止まないが、祐は方向が同じだからと言って絶えず言葉を続けている伊三路をもう責めることはやめて、一定の距離を保っている。
言葉を交わすことが楽しくて仕方がないといった今この瞬間の伊三路を見ると先の長いことだとは思うが、飽きるまで何を言っても無駄なのだ。
そのうちぱたりと相手をしなくなるか、長くとも二年経てばすべてが元通りになるだけなのだから。
甘い水だけは知りたくないな、と祐は廊下に響く音を静かに聞いている。



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